取引事例比較法とウナギの蒲焼きパートⅡ ― 鑑定世界とSTAP細胞現象 ― Vol.3
2021.08.19
VOL.03 データの測定基準と誤差
比準作業に当たって特に問題なのは、データの測定とその取扱いである。
例えば、幅員データ(誰が測定しても同じと証明できると仮定)を基準とした場合、幅員ランクに応じて格差をつけているが、仮に幅員8mを基準に幅員10mの場合は+2%とすると、9.9mの幅員の場合は±0なのか、限りなく10mに近いのであるから+2%とするかは、結局のところ評価者の考え方次第となる。
しかし、これが9.5mならばどうするのか、9mならどうするのか等と考えると、どうにもならないのである。
もし、幅員の測定自体に誤差があれば、そもそも比準自体が間違いということになる。
更に、距離による優劣の判断をする場合に、直線距離にすべきか、道路距離にすべきかも科学的な結着はついていない。
道路距離の場合、車が通れる道路にするのか、歩行者しか通れない道路も含めるのか、それともタダ単に公道・私道構わず通れる道路全てを使って最短距離を計測するのかすら議論されていない。
また、距離計測上の誤差は幅員計測の誤差より大きいが、誤差処理の概念すら存在しないのは摩訶不思議である。
昨今、GISの発展から、固定資産税における路線価付設に当たって、距離計測をコンピューターを利用してネットワーク計測を行っているが、軒下道路を通ったり、一方通行道路を逆走したり、あるいは右折左折禁止を無視したりと、社会通念上の距離感と相容れない計測結果を使用して路線価を付設しているケースが多い。
もっとも、接近条件とは歩行時間の長短、という証明があれば話は別だが・・・。
更に問題なのは、測定誤差もさることながら、測点の起終点がハッキリしないことである。
例えば、駅接近といっても、起点を駅舎の入口にするのか、改札口にするのか、それともホームの中央にするのかも判然としない。
小学校も同じで、正門にするのか、通用門にするのか、それとも校舎玄関にするのか。
敷地が広いので、数百メートルの差異は普通である。
それぞれの評価者が適当に起点を決めて測定しているといったら、語弊があるのであろうか。
バス停にしても同じである。
上り・下りのバス停が向かい合わせにあるのならともかく、一街区ずれていたり、降車専用・乗用専用のバス停はどうするのか等、悩みは尽きない。
比準表による比準作業以前のデータそのものの起終点の判定基準の作成すらままならないのである。
地価公示地においても、距離の捉え方が評価者によって異なり、6年前は駅まで1㎞と表示してあったのに、平成26年公示では、近道ができたわけでもないのに800mと、200mも短くなっている。(どのルートを通るかで、距離は変わる)10年間位のスパンでみれば、幅員や距離が変化(?)しているのが良く分かるのである。
このことは、とりもなおさず幅員・距離等の比較的確認しやすいデータでさえ測定の仕方によって変化するのであるから、環境要因のようにある意味主観的な要因は、評価者によって変わるのは当然というべきである。
それでも評価格がある一定の水準に収まっているのは、結論が先にあって、それに合わせて要因を調整しているからに他ならない。
言葉を換えれば、鑑定評価とは科学を粧って、データを使って結論を後付けする作業ということになる。(反省!!)
つまり、取引事例比較法による比準価格は、想定ないし予想される、あるべき価格に見合うデータを採用するからこそ各データから得られる結果は見事に結論に見合う形で収斂する(させているというべきか、お見事!!)。
以上のように、比準作業は結論から仮説を立てて演繹的に推論しているだけで、たとえて言えば、ウナギの蒲焼きを作ることに似ている。
ウナギの蒲焼きを作るときは、まずウナギの頭を千枚通しで固定し(結論)、その上で尻尾(データ)に向かって腹ないし背中から包丁を入れてさきおろす。
この反対に、もしウナギの尻尾を固定すると、ウナギは逃げようとして身をかわすため、うまくさばくことはできない。
つまり、結論にうまく到達できない。
取引事例比較法の適用における比準作業は、まさにウナギの蒲焼きを作る作業そのものではないか。
上手にできるかどうかは、ウナギ(データ)と料理人(不動産鑑定士)次第ということになる。
我々は名料理人たるべきなのか、科学者(もどき)たるべきなのか、はたまた料理の鉄人たる科学者であるべきなのか。
あれこれ考えると、いつまでたっても寝不足の日々は解消されそうにもないが、気がついたら終活の日々が近づいてしまった。
比準作業に当たって特に問題なのは、データの測定とその取扱いである。
例えば、幅員データ(誰が測定しても同じと証明できると仮定)を基準とした場合、幅員ランクに応じて格差をつけているが、仮に幅員8mを基準に幅員10mの場合は+2%とすると、9.9mの幅員の場合は±0なのか、限りなく10mに近いのであるから+2%とするかは、結局のところ評価者の考え方次第となる。
しかし、これが9.5mならばどうするのか、9mならどうするのか等と考えると、どうにもならないのである。
もし、幅員の測定自体に誤差があれば、そもそも比準自体が間違いということになる。
更に、距離による優劣の判断をする場合に、直線距離にすべきか、道路距離にすべきかも科学的な結着はついていない。
道路距離の場合、車が通れる道路にするのか、歩行者しか通れない道路も含めるのか、それともタダ単に公道・私道構わず通れる道路全てを使って最短距離を計測するのかすら議論されていない。
また、距離計測上の誤差は幅員計測の誤差より大きいが、誤差処理の概念すら存在しないのは摩訶不思議である。
昨今、GISの発展から、固定資産税における路線価付設に当たって、距離計測をコンピューターを利用してネットワーク計測を行っているが、軒下道路を通ったり、一方通行道路を逆走したり、あるいは右折左折禁止を無視したりと、社会通念上の距離感と相容れない計測結果を使用して路線価を付設しているケースが多い。
もっとも、接近条件とは歩行時間の長短、という証明があれば話は別だが・・・。
更に問題なのは、測定誤差もさることながら、測点の起終点がハッキリしないことである。
例えば、駅接近といっても、起点を駅舎の入口にするのか、改札口にするのか、それともホームの中央にするのかも判然としない。
小学校も同じで、正門にするのか、通用門にするのか、それとも校舎玄関にするのか。
敷地が広いので、数百メートルの差異は普通である。
それぞれの評価者が適当に起点を決めて測定しているといったら、語弊があるのであろうか。
バス停にしても同じである。
上り・下りのバス停が向かい合わせにあるのならともかく、一街区ずれていたり、降車専用・乗用専用のバス停はどうするのか等、悩みは尽きない。
比準表による比準作業以前のデータそのものの起終点の判定基準の作成すらままならないのである。
地価公示地においても、距離の捉え方が評価者によって異なり、6年前は駅まで1㎞と表示してあったのに、平成26年公示では、近道ができたわけでもないのに800mと、200mも短くなっている。(どのルートを通るかで、距離は変わる)10年間位のスパンでみれば、幅員や距離が変化(?)しているのが良く分かるのである。
このことは、とりもなおさず幅員・距離等の比較的確認しやすいデータでさえ測定の仕方によって変化するのであるから、環境要因のようにある意味主観的な要因は、評価者によって変わるのは当然というべきである。
それでも評価格がある一定の水準に収まっているのは、結論が先にあって、それに合わせて要因を調整しているからに他ならない。
言葉を換えれば、鑑定評価とは科学を粧って、データを使って結論を後付けする作業ということになる。(反省!!)
つまり、取引事例比較法による比準価格は、想定ないし予想される、あるべき価格に見合うデータを採用するからこそ各データから得られる結果は見事に結論に見合う形で収斂する(させているというべきか、お見事!!)。
以上のように、比準作業は結論から仮説を立てて演繹的に推論しているだけで、たとえて言えば、ウナギの蒲焼きを作ることに似ている。
ウナギの蒲焼きを作るときは、まずウナギの頭を千枚通しで固定し(結論)、その上で尻尾(データ)に向かって腹ないし背中から包丁を入れてさきおろす。
この反対に、もしウナギの尻尾を固定すると、ウナギは逃げようとして身をかわすため、うまくさばくことはできない。
つまり、結論にうまく到達できない。
取引事例比較法の適用における比準作業は、まさにウナギの蒲焼きを作る作業そのものではないか。
上手にできるかどうかは、ウナギ(データ)と料理人(不動産鑑定士)次第ということになる。
我々は名料理人たるべきなのか、科学者(もどき)たるべきなのか、はたまた料理の鉄人たる科学者であるべきなのか。
あれこれ考えると、いつまでたっても寝不足の日々は解消されそうにもないが、気がついたら終活の日々が近づいてしまった。
取引事例比較法とウナギの蒲焼きパートⅡ ― 鑑定世界とSTAP細胞現象 ― Vol.2
2021.08.12
VOL.02 比準表なるものの矛盾(百分比計算の限界)
昨今、公的評価において、比準表を作って、それを使用して比準価格を求めよという圧力を感じる。
仄聞するところによれば、実際に強要されたという地域もあったようである。
一体、誰がどのようなデータを使って解析し、その妥当性を証明したのであろうか。
小生は、残念ながらそのような研究発表があったのかどうかは、寡聞にして知らない。
比準表は、基本的に定性的な事情を基準にして格差を求めている。
つまり、良いか悪いかのどちらかを基準にして格差を判定することになる。
その格差が科学的に求められた訳ではないのは、前述のとおりである。
ところで、人間は、ある事情を基準にプラス10%とかマイナス10%とか判定しているが、厳密にいうと、プラス10%とマイナス10%は異なる。
Aを100としてBを110とすると、その格差はAからみると+10であるが、Bからみると90.9となり、約1%の差が生じる。
この程度であれば誤差のうちとホッカムリできるが、その格差が30%になると、誤差として片付けることができない。
つまり、Aを100、Bを130とすると、Bからみた(Bを100とする)Aはマイナス23%と判定しなければ、数学的には整合しない。
ということは、比準作業を分数式で表すこと自体に無理があるということである。
どこを基準にするかによって30の格差は変化するが、頭の中で瞬時に置き換え計算はできない。
測量のように絶対的な基準点があるのならともかく、経済現象である価格を測量のように求めることはできない。
仮に比準表がそれなりに真実らしいと仮定しても、百分比で表した途端に矛盾を生ずることになる。
測量の世界では、A地点から測量して、B・C・D・E地点を経由してA地点に戻ることを閉合するというが、鑑定の世界では、仮にA地点からB・C地点と価格が一定割合で下がっていくものとし、D・E地点からは一定割合で上昇させないとA地点の価格にはならないが、プラスの割合とマイナスの割合は、前述のとおり異なるのである。
悲しいかな、私のような凡人は、プラスもマイナスも同じ割合と考えるのがオチである。
比較する要因及び地点が多いと、その矛盾は倍加する。
昨今、公的評価において、比準表を作って、それを使用して比準価格を求めよという圧力を感じる。
仄聞するところによれば、実際に強要されたという地域もあったようである。
一体、誰がどのようなデータを使って解析し、その妥当性を証明したのであろうか。
小生は、残念ながらそのような研究発表があったのかどうかは、寡聞にして知らない。
比準表は、基本的に定性的な事情を基準にして格差を求めている。
つまり、良いか悪いかのどちらかを基準にして格差を判定することになる。
その格差が科学的に求められた訳ではないのは、前述のとおりである。
ところで、人間は、ある事情を基準にプラス10%とかマイナス10%とか判定しているが、厳密にいうと、プラス10%とマイナス10%は異なる。
Aを100としてBを110とすると、その格差はAからみると+10であるが、Bからみると90.9となり、約1%の差が生じる。
この程度であれば誤差のうちとホッカムリできるが、その格差が30%になると、誤差として片付けることができない。
つまり、Aを100、Bを130とすると、Bからみた(Bを100とする)Aはマイナス23%と判定しなければ、数学的には整合しない。
ということは、比準作業を分数式で表すこと自体に無理があるということである。
どこを基準にするかによって30の格差は変化するが、頭の中で瞬時に置き換え計算はできない。
測量のように絶対的な基準点があるのならともかく、経済現象である価格を測量のように求めることはできない。
仮に比準表がそれなりに真実らしいと仮定しても、百分比で表した途端に矛盾を生ずることになる。
測量の世界では、A地点から測量して、B・C・D・E地点を経由してA地点に戻ることを閉合するというが、鑑定の世界では、仮にA地点からB・C地点と価格が一定割合で下がっていくものとし、D・E地点からは一定割合で上昇させないとA地点の価格にはならないが、プラスの割合とマイナスの割合は、前述のとおり異なるのである。
悲しいかな、私のような凡人は、プラスもマイナスも同じ割合と考えるのがオチである。
比較する要因及び地点が多いと、その矛盾は倍加する。
取引事例比較法とウナギの蒲焼きパートⅡ ― 鑑定世界とSTAP細胞現象 ― Vol.1
2021.08.05
VOL.01 取引事例比較法再考
鑑定評価手法の中でも重要な位置を占めている取引事例比較法であるが、適用上の問題点は多い。
以前、本誌に寄稿したことがあるが、あれから10年経った今も、何ら進歩はしていない。(自分だけか?)
昨今の議論等を見聞きしても、その本質的な内容よりも、むしろ重箱の隅を突っつくような話ばかりである。
木を見て森を見ないとは、正にこのことである。
我々は、取引事例比較法の適用に際して、ごく普通に百分の1単位で格差を判定しているが、数学的分析なしに百分の1単位で価値判断ができるということが、はたして科学的・客観的態度といえるのであろうか。
再現性のない価値を求める手法としての闇は深い。
鑑定評価手法の中でも重要な位置を占めている取引事例比較法であるが、適用上の問題点は多い。
以前、本誌に寄稿したことがあるが、あれから10年経った今も、何ら進歩はしていない。(自分だけか?)
昨今の議論等を見聞きしても、その本質的な内容よりも、むしろ重箱の隅を突っつくような話ばかりである。
木を見て森を見ないとは、正にこのことである。
我々は、取引事例比較法の適用に際して、ごく普通に百分の1単位で格差を判定しているが、数学的分析なしに百分の1単位で価値判断ができるということが、はたして科学的・客観的態度といえるのであろうか。
再現性のない価値を求める手法としての闇は深い。