不動産鑑定士と神の見えざる手 ― 市場は因果律で動く? ― Vol.4
2021.09.24
VOL.04 後から講釈の不都合な真実と健忘症国家
狭義の市場にしろ、広義の市場にしろ、市場において成立する価格は、需給動向を反映して日々変動している。
少なくとも、市場が見える狭義の市場においては、間違いなくそういえる。
ところで、現物が取引される市場、つまりリアルな市場において、短時間に急激な価格変動が起きることは少ない。
仮にそういう状態になったら、国民経済は大混乱に陥ることになる。
他方、株式市場や為替市場においては、1秒間に1,000回の売買がされるともいわれ、急激な価格変動も良く見受けられる。
こういう市場では、神の手をもってしても、どうにもならないのではと思うのである。
予めプログラムされた方法により、世界中で秒速で取引されているが、その結果は誰にも予測はできない。
そうであるのに、評論家・有識者等の専門家は、あたかも一定の法則に従って市場価格が変動しているかのような解説をしている。
仮に一定の法則で市場価格が変動するのであれば、全ての会社の売り上げ・利益は、ともに増加しても減少することはないはずである。
しかし、現実的にはそうなっていないことは、会社の決算書を見れば一目瞭然である。
にもかかわらず、価格変動がどうして起きたのか、はたまたこれからどうなるのか、もっともらしく解説する評論家等は後を絶たない。
(レースが終わった後の競馬の解説と同じで誰も気にしていない?)
評論家ないしその道の専門家と自称する人達の解説と、せめて一年間の市場の変化の実際がどうであったのかをトレースする評論家等が出現してもいいのではと思うのであるが、残念なことに、過去は終わったことにして、自らの意見・解説を事後的に検証する動きも意思も見られない。
故に、数多の専門家の過去の発言と実際の現象が相互に検証されることはないが、有り難いことに世間も忘れやすく、過去の発言を根掘り葉掘り蒸し返されることは少ない。
仮にあっても、人の噂も75日という通り、3ヶ月もすれば、誰も興味を示さなくなる。
かくて、余程のことがない限り、化けの皮が剥がれることはない。実に有り難い国である。
そういう意味で、筆者も健忘症の多い国民性に感謝しなければならないのかもしれない。
そもそも神の手になれるかもしれないと思ったこと自体が恐れ多いことなのに、そのことに気がつくこともなく、また、大過なく30年余を鑑定世界で過ごしてこれたのは、奇跡なのかもしれないと思う今日この頃である。
尚、蛇足ながら、アメリカの著名な経営コンサルタントが「申し訳ない御社をつぶしたのは私です」(カレン・フェラン著、神崎朗子訳、大和書房)という著作の中で、さまざまなモデルや理論を駆使してコンサル業務を行なってきたが、約30年のキャリアのなかで、これまで適用していた経営理論の多くが間違っていることに気づいたと痛烈に自己批判している。
その経験や実例は同書に詳しく解説されているが、その前書きの中で一流といわれている経営コンサルタントに最も欠けていたのは、実社会での経験であると指摘していることは傾聴に値する。
一読をおすすめしたい。
狭義の市場にしろ、広義の市場にしろ、市場において成立する価格は、需給動向を反映して日々変動している。
少なくとも、市場が見える狭義の市場においては、間違いなくそういえる。
ところで、現物が取引される市場、つまりリアルな市場において、短時間に急激な価格変動が起きることは少ない。
仮にそういう状態になったら、国民経済は大混乱に陥ることになる。
他方、株式市場や為替市場においては、1秒間に1,000回の売買がされるともいわれ、急激な価格変動も良く見受けられる。
こういう市場では、神の手をもってしても、どうにもならないのではと思うのである。
予めプログラムされた方法により、世界中で秒速で取引されているが、その結果は誰にも予測はできない。
そうであるのに、評論家・有識者等の専門家は、あたかも一定の法則に従って市場価格が変動しているかのような解説をしている。
仮に一定の法則で市場価格が変動するのであれば、全ての会社の売り上げ・利益は、ともに増加しても減少することはないはずである。
しかし、現実的にはそうなっていないことは、会社の決算書を見れば一目瞭然である。
にもかかわらず、価格変動がどうして起きたのか、はたまたこれからどうなるのか、もっともらしく解説する評論家等は後を絶たない。
(レースが終わった後の競馬の解説と同じで誰も気にしていない?)
評論家ないしその道の専門家と自称する人達の解説と、せめて一年間の市場の変化の実際がどうであったのかをトレースする評論家等が出現してもいいのではと思うのであるが、残念なことに、過去は終わったことにして、自らの意見・解説を事後的に検証する動きも意思も見られない。
故に、数多の専門家の過去の発言と実際の現象が相互に検証されることはないが、有り難いことに世間も忘れやすく、過去の発言を根掘り葉掘り蒸し返されることは少ない。
仮にあっても、人の噂も75日という通り、3ヶ月もすれば、誰も興味を示さなくなる。
かくて、余程のことがない限り、化けの皮が剥がれることはない。実に有り難い国である。
そういう意味で、筆者も健忘症の多い国民性に感謝しなければならないのかもしれない。
そもそも神の手になれるかもしれないと思ったこと自体が恐れ多いことなのに、そのことに気がつくこともなく、また、大過なく30年余を鑑定世界で過ごしてこれたのは、奇跡なのかもしれないと思う今日この頃である。
尚、蛇足ながら、アメリカの著名な経営コンサルタントが「申し訳ない御社をつぶしたのは私です」(カレン・フェラン著、神崎朗子訳、大和書房)という著作の中で、さまざまなモデルや理論を駆使してコンサル業務を行なってきたが、約30年のキャリアのなかで、これまで適用していた経営理論の多くが間違っていることに気づいたと痛烈に自己批判している。
その経験や実例は同書に詳しく解説されているが、その前書きの中で一流といわれている経営コンサルタントに最も欠けていたのは、実社会での経験であると指摘していることは傾聴に値する。
一読をおすすめしたい。
不動産鑑定士と神の見えざる手 ― 市場は因果律で動く? ― Vol.3
2021.09.16
VOL.03 不動産鑑定士は神の見えざる手
話が少しずれてしまったが、あらためて不動産の鑑定評価に関する基本的考察を数10年ぶりに読み返してみた。
今更ながら理念の高さに驚く他はないが、その理念の高さ故に実行不可能かなと思わざるを得ないこともある。(筆者の単なる能力不足のせいか)
ところで、基本的考察では、不動産の適正な価格は、他の一般財と異なり、何人にも識別され得るかたちで市場に存在してはいない。
したがって、不動産の適正な価格を求めるためには、鑑定評価の活動に依存せざるを得ないことは当然であり、これが鑑定評価活動の必要性が生じている所以であるとしている。
そして、鑑定評価によって適正な価格に到達するためには、形式的要件(対象の適確な認識・資料の収集・整理・分析・解釈・判断等)を満たした上で、実質的要件を満たさなければならないとしている。
つまり、判断の当否は、これらの各段階のそれぞれについての鑑定評価の主体の能力いかん及びその能力の行使の誠実さのいかんにかかわるものであり、また、必要な関連諸資料の収集整理の適否及びこれらの諸資料の分析解釈の練達の程度 に依存するものであるとしている。
続いて、鑑定評価は、何人でもこれを行いうるというものではなくて、「精密な知識と豊富な経験 及び適確な判断力をもち、さらにこれが有機的かつ総合的に発揮できる練達堪能 な専門家によってなされるときに、はじめて十分に合理的であって、客観的に論証できるものとなる」としている。
知らないということはいいことで、受験勉強当時の筆者も、何の懸念も抱かず、そうかと思ったのである。
あれから30年余り、今更ながら思うのである。
経験はあると思うが、果たして精密な知識はあるといえるか?適確な判断力はあるか?(自分はともかく他人は認めているか?)、これらを有機的かつ総合的に発揮できる練達堪能な専門家といえるか?
これらの能力の一つでも欠けていれば、鑑定評価の主体となることに疑問符がつくことになる。
基本的考察に値するような鑑定評価の主体となる資質に欠けている点は無いのかと自問すれば、当然そのような境地には到っていないと断言できるのである。
とすれば、自分が日々行なっている鑑定評価は、とても「十分に合理的であって客観的に論証のできるものとなる」とはいえないことになる。
それでも日々の糧を得るがために、練達堪能な専門家のフリをして、ある意味世間を誤魔化してというか、世間の誤解を良いことに、業務を行なっていることに忸怩たるものを感じざるを得ない。
いずれにしても、基本的考察の言わんとすることは、鑑定評価とは即ち神の手になり代わって市場を明らかにすることにほかならないのでは、と思うのである。
その意味において、筆者個人としては神の見えざる手になり損なった(というより、そんな能力はないというべきか)というほかはない。
神の手への道は険しく遠いと実感している。
話が少しずれてしまったが、あらためて不動産の鑑定評価に関する基本的考察を数10年ぶりに読み返してみた。
今更ながら理念の高さに驚く他はないが、その理念の高さ故に実行不可能かなと思わざるを得ないこともある。(筆者の単なる能力不足のせいか)
ところで、基本的考察では、不動産の適正な価格は、他の一般財と異なり、何人にも識別され得るかたちで市場に存在してはいない。
したがって、不動産の適正な価格を求めるためには、鑑定評価の活動に依存せざるを得ないことは当然であり、これが鑑定評価活動の必要性が生じている所以であるとしている。
そして、鑑定評価によって適正な価格に到達するためには、形式的要件(対象の適確な認識・資料の収集・整理・分析・解釈・判断等)を満たした上で、実質的要件を満たさなければならないとしている。
つまり、判断の当否は、これらの各段階のそれぞれについての鑑定評価の主体の能力いかん及びその能力の行使の誠実さのいかんにかかわるものであり、また、必要な関連諸資料の収集整理の適否及びこれらの諸資料の分析解釈の
続いて、鑑定評価は、何人でもこれを行いうるというものではなくて、「精密な知識と
知らないということはいいことで、受験勉強当時の筆者も、何の懸念も抱かず、そうかと思ったのである。
あれから30年余り、今更ながら思うのである。
経験はあると思うが、果たして精密な知識はあるといえるか?適確な判断力はあるか?(自分はともかく他人は認めているか?)、これらを有機的かつ総合的に発揮できる練達堪能な専門家といえるか?
これらの能力の一つでも欠けていれば、鑑定評価の主体となることに疑問符がつくことになる。
基本的考察に値するような鑑定評価の主体となる資質に欠けている点は無いのかと自問すれば、当然そのような境地には到っていないと断言できるのである。
とすれば、自分が日々行なっている鑑定評価は、とても「十分に合理的であって客観的に論証のできるものとなる」とはいえないことになる。
それでも日々の糧を得るがために、練達堪能な専門家のフリをして、ある意味世間を誤魔化してというか、世間の誤解を良いことに、業務を行なっていることに忸怩たるものを感じざるを得ない。
いずれにしても、基本的考察の言わんとすることは、鑑定評価とは即ち神の手になり代わって市場を明らかにすることにほかならないのでは、と思うのである。
その意味において、筆者個人としては神の見えざる手になり損なった(というより、そんな能力はないというべきか)というほかはない。
神の手への道は険しく遠いと実感している。
不動産鑑定士と神の見えざる手 ― 市場は因果律で動く? ― Vol.2
2021.09.09
VOL.02 完全市場と市場の失敗
狭義の市場であれ、広義の市場であれ、その市場が完全であるとはいえない。
いやむしろ現実の市場は不完全であるのが常態である。
完全市場とは、一般的に次の条件が満たされている市場をいうとされている。
第一に、市場に参加する者は小規模かつ多数であること。
第二に、提供されるサービスや財が同質であること。
第三に、財やサービスに対する情報は、市場参加者全てが持っていること。
第四に、市場への参入・退出が自由であること。
以上の条件を満たして、初めて市場は完全に機能するとされている。
しかし、現実的には、このような条件を満たした市場は、狭義の市場にしても広義の市場にしても、存在はしていない。
それ故市場は常に不安定である。
安定しているということは、需要・供給が一定で、過不足が生じていないということであるから、市場価格は変動しないということである。
ということは、市場参加者の何人も超過利潤を得られないということである。
ビジネスは競争であるから、誰もが超過利潤を得られないのが常態であれば市場競争は無くなり、経済成長は望むべくもないことになる。
ところで、市場が理想どおりに機能するためには、完全競争・外部性の不存在・情報の完全性等が必要となるが、現実的には
①独占・寡占の発生
②外部経済・外部不経済の存在
③公共財
④情報の非対称性
⑤予想と現実のミスマッチ
⑥流動性選好による不均衡
等があるため、市場は不完全とならざるを得ない。
通信手段が発達し、インターネット時代の今日でさえ、これを全て排除することは困難である。
仮に排除できたら、市場は長期にわたって均衡するので、ゼロ成長社会が到来するが、誰もゼロ成長社会を望んではいない。
昨今、成長が全てに優先するとして市場原理主義が横行しているが、現実の市場が不完全市場である以上、市場競争の結果、所得格差は増大しても、減少することはない。
アメリカのようにやがて日本も1%の勝者と99%の敗者の世界が出現し、社会は大きく不安定化し、文明が崩壊するのかもしれない。
狭義の市場であれ、広義の市場であれ、その市場が完全であるとはいえない。
いやむしろ現実の市場は不完全であるのが常態である。
完全市場とは、一般的に次の条件が満たされている市場をいうとされている。
第一に、市場に参加する者は小規模かつ多数であること。
第二に、提供されるサービスや財が同質であること。
第三に、財やサービスに対する情報は、市場参加者全てが持っていること。
第四に、市場への参入・退出が自由であること。
以上の条件を満たして、初めて市場は完全に機能するとされている。
しかし、現実的には、このような条件を満たした市場は、狭義の市場にしても広義の市場にしても、存在はしていない。
それ故市場は常に不安定である。
安定しているということは、需要・供給が一定で、過不足が生じていないということであるから、市場価格は変動しないということである。
ということは、市場参加者の何人も超過利潤を得られないということである。
ビジネスは競争であるから、誰もが超過利潤を得られないのが常態であれば市場競争は無くなり、経済成長は望むべくもないことになる。
ところで、市場が理想どおりに機能するためには、完全競争・外部性の不存在・情報の完全性等が必要となるが、現実的には
①独占・寡占の発生
②外部経済・外部不経済の存在
③公共財
④情報の非対称性
⑤予想と現実のミスマッチ
⑥流動性選好による不均衡
等があるため、市場は不完全とならざるを得ない。
通信手段が発達し、インターネット時代の今日でさえ、これを全て排除することは困難である。
仮に排除できたら、市場は長期にわたって均衡するので、ゼロ成長社会が到来するが、誰もゼロ成長社会を望んではいない。
昨今、成長が全てに優先するとして市場原理主義が横行しているが、現実の市場が不完全市場である以上、市場競争の結果、所得格差は増大しても、減少することはない。
アメリカのようにやがて日本も1%の勝者と99%の敗者の世界が出現し、社会は大きく不安定化し、文明が崩壊するのかもしれない。