建物評価と市場価値 ~ 積算価格は赤札セールの目安? Vol.2
2021.03.25
VOL.02 中古建物の評価とその問題
以上の問題はさておくこととして、現実に評価せざるを得ない中古建物の評価について考える。
中古建物は、新築建物の想定とは異なり、問題となるのは再調達原価の把握と経済的耐用年数の判定である。
設計図や仕様書があれば、建築士の意見を聞いたり、建築時の取得原価を調べたりしてある程度把握が可能である。
これらの資料がなければ外観判定に頼る他はない。
しかし壁の中は見えないし、設備の中も壁の外に出ているもの以外は見ることはできない。
結局類似建物との比較による他はない。
尚、大手ゼネコンでも営業段階における建築費の把握は、類似建物比準とのことである。
それでも実際建築費との誤差は10%~20%程度とのことであった。
経済的耐用年数については、割り切って機械的に判定している。
しかし現実の建物は維持・管理の状態によっては極端に異なり、法的耐用年数に満たないうちにガタガタになっている建物も見られる。
このような建物でも、経済的耐用年数はそれ以外の建物と一緒で、状態が悪いのは観察減価で対応すべきなのか、それともそもそも経済的耐用年数が短いと考えるべきなのか、悩みは尽きない。
設備、特に給排水設備については、長期間空家(2~3年)にしておくと経済的耐用年数の期間内であっても全面更新が必要となることがあるが、外観調査だけではなかなか判別できない。
中古建物には中古建物独自の問題があり、経験を積まないと割り切りに悩むが、いくら経験を積んでも自信は持てそうにもない。
以上の問題はさておくこととして、現実に評価せざるを得ない中古建物の評価について考える。
中古建物は、新築建物の想定とは異なり、問題となるのは再調達原価の把握と経済的耐用年数の判定である。
設計図や仕様書があれば、建築士の意見を聞いたり、建築時の取得原価を調べたりしてある程度把握が可能である。
これらの資料がなければ外観判定に頼る他はない。
しかし壁の中は見えないし、設備の中も壁の外に出ているもの以外は見ることはできない。
結局類似建物との比較による他はない。
尚、大手ゼネコンでも営業段階における建築費の把握は、類似建物比準とのことである。
それでも実際建築費との誤差は10%~20%程度とのことであった。
経済的耐用年数については、割り切って機械的に判定している。
しかし現実の建物は維持・管理の状態によっては極端に異なり、法的耐用年数に満たないうちにガタガタになっている建物も見られる。
このような建物でも、経済的耐用年数はそれ以外の建物と一緒で、状態が悪いのは観察減価で対応すべきなのか、それともそもそも経済的耐用年数が短いと考えるべきなのか、悩みは尽きない。
設備、特に給排水設備については、長期間空家(2~3年)にしておくと経済的耐用年数の期間内であっても全面更新が必要となることがあるが、外観調査だけではなかなか判別できない。
中古建物には中古建物独自の問題があり、経験を積まないと割り切りに悩むが、いくら経験を積んでも自信は持てそうにもない。
建物評価と市場価値 ~ 積算価格は赤札セールの目安? ~ Vol.1
2021.03.18
VOL.01 更地評価と想定建物をめぐる問題
更地の評価を行う場合、当該更地の最有効使用が分譲マンション、賃貸用事務所ビル、共同住宅等の敷地と判定された場合は、当該土地に最有効使用の建物を想定して評価を行うことになる。
この場合、建築士でもない不動産鑑定士は、少なくとも3つの大きな問題に直面する。
1つ目は、都市計画法・建築基準法の制約の中で、どの位の建物が建築可能か(ボリュームチェック)どうかである。
素人的発想でいけば、近隣の建物と同程度と考えておけば大過はない。
しかし、標準的使用と最有効使用が異なると悩みは一挙に拡大する。
昨今はコンピュータによりボリュームチェックが可能となったが、それでもかなりの建築法規の知識が要求される。
各種の斜線制限・日影規制・大都市部では天空率も関係する。
能力不足を理由に白旗を揚げたいが、依頼者によっては断ることもできない。
かといって、建築士に想定建物の概算設計等を外注しようにも、それに見合った時間と鑑定報酬は期待できない。
仕方がないので恐る恐るそれらしきことを真似てみるが、自信は全くない。
当たらずとも遠からずとあきらめて挑戦しているが、どうせ他の不動産鑑定士も良く解っていないのだろうと勝手に憶測し、一人納得させているが、自信のないことこの上ない。
2つ目は、建築費の把握である。
最大ボリュームが把握できたとしても、建物自体の市場競争力の制約の中で、最小費用で最大利益が上げられるようにと考えると、構造・階層・間取・デザイン等について多角的な検討が必要となる。
しかし、一般の不動産鑑定士にはそのような知識も技術もないので、平均的な建物を想定するしかないが、市場が飽和状態の時には平均的な建物を想定しても結局売れもしないし借り手もいない建物を想定することになる。
売れるように、借り手が現れるようにするためには、平均的な建物の現状を分析し、平均的ではない市場競争力のある建物を建てることが必要となるが、残念ながら我々にはそのような能力はない。(ある人には失礼!)
平均的な建物でもドンドン売れた時代はとうに過ぎ去った。
賃貸物件にしても同じである。
同じ地域にある同規模・同時期の建物であっても、デザイン・機能性・賃料等が市場にマッチしていなければ市場性はない。
更地の評価が楽だった時代は終わりつつある。
3つ目は、前記の問題とも関連するが、躯体・設備の割合と経済的耐用年数の把握である。
今回の地価公示では仕上割合も入ったので、想定は更に大変となった。
躯体・仕上・設備の割合は、想定の仕方によっても変化する。
分譲価格の設定や賃料の設定如何によってもこの割合は変化する。
建築ボリューム・建築予算・分譲価格・設定賃料の最適組み合わせを求めてシミュレーションしなければ、前記3つの問題はクリアできない。
しかし時間と費用の大きな制約の中で、我々は一体どこまでやらなければいけないのであろうか?
考えれば考える程解らなくなってしまう。
このようなことを我々に期待する方がどうかしていると思うのであるが、世間の人は不動産鑑定士は何でもできるスーパーマンと思っているようで、期待は大きい。
以前にも書いたことがあるが、これだけ複雑になってくると、鑑定士も部門毎に登録する方がいいのかなと思わざるを得ない。
筆者は精々木造鑑定士が関の山であると思っている。
ところで、経済的耐用年数なるものをどうするべきか、これも問題である。
使い捨て文化からの脱却を目指して 200年住宅なるものも提言されているが、 200年住宅の経済的耐用年数は一体何年になるのであろうか。
筆者が現役の時に 200年住宅を評価することはないので対岸の火事と決め込んで傍観しているが、若い人達は大変だろうと思っている。
話がずれたが、木造建物の耐用年数も千差万別である。
リフォームされた新築そっくり住宅の経済的耐用年数は、新築と同じと考えて良いのだろうか。
鉄骨造・鉄筋コンクリート造の建物の経済的耐用年数は一体どう把握すればいいのだろうか。
現状は誰も解らないから、財務省令による耐用年数を根拠にして把握しているが、それでさえ科学的研究の成果なのかどうかは不明である。
設備の耐用年数は一般的に15年と判定しているが、40年も50年も経過している建物もあり、設備の耐用年数がはたして15年でいいのか、良く解らない。
設備の経済的耐用年数が15年だという科学的根拠はあるのだろうか。
あるのなら、誰か教えて欲しい。
いずれにしても、我々は3つの問題にあえぎながら評価を行っているが、足元を良く見つめると心許ない。
このような状況が改善・解決される時代が来るのか考えていたら、また年が明けてしまった。
更地の評価を行う場合、当該更地の最有効使用が分譲マンション、賃貸用事務所ビル、共同住宅等の敷地と判定された場合は、当該土地に最有効使用の建物を想定して評価を行うことになる。
この場合、建築士でもない不動産鑑定士は、少なくとも3つの大きな問題に直面する。
1つ目は、都市計画法・建築基準法の制約の中で、どの位の建物が建築可能か(ボリュームチェック)どうかである。
素人的発想でいけば、近隣の建物と同程度と考えておけば大過はない。
しかし、標準的使用と最有効使用が異なると悩みは一挙に拡大する。
昨今はコンピュータによりボリュームチェックが可能となったが、それでもかなりの建築法規の知識が要求される。
各種の斜線制限・日影規制・大都市部では天空率も関係する。
能力不足を理由に白旗を揚げたいが、依頼者によっては断ることもできない。
かといって、建築士に想定建物の概算設計等を外注しようにも、それに見合った時間と鑑定報酬は期待できない。
仕方がないので恐る恐るそれらしきことを真似てみるが、自信は全くない。
当たらずとも遠からずとあきらめて挑戦しているが、どうせ他の不動産鑑定士も良く解っていないのだろうと勝手に憶測し、一人納得させているが、自信のないことこの上ない。
2つ目は、建築費の把握である。
最大ボリュームが把握できたとしても、建物自体の市場競争力の制約の中で、最小費用で最大利益が上げられるようにと考えると、構造・階層・間取・デザイン等について多角的な検討が必要となる。
しかし、一般の不動産鑑定士にはそのような知識も技術もないので、平均的な建物を想定するしかないが、市場が飽和状態の時には平均的な建物を想定しても結局売れもしないし借り手もいない建物を想定することになる。
売れるように、借り手が現れるようにするためには、平均的な建物の現状を分析し、平均的ではない市場競争力のある建物を建てることが必要となるが、残念ながら我々にはそのような能力はない。(ある人には失礼!)
平均的な建物でもドンドン売れた時代はとうに過ぎ去った。
賃貸物件にしても同じである。
同じ地域にある同規模・同時期の建物であっても、デザイン・機能性・賃料等が市場にマッチしていなければ市場性はない。
更地の評価が楽だった時代は終わりつつある。
3つ目は、前記の問題とも関連するが、躯体・設備の割合と経済的耐用年数の把握である。
今回の地価公示では仕上割合も入ったので、想定は更に大変となった。
躯体・仕上・設備の割合は、想定の仕方によっても変化する。
分譲価格の設定や賃料の設定如何によってもこの割合は変化する。
建築ボリューム・建築予算・分譲価格・設定賃料の最適組み合わせを求めてシミュレーションしなければ、前記3つの問題はクリアできない。
しかし時間と費用の大きな制約の中で、我々は一体どこまでやらなければいけないのであろうか?
考えれば考える程解らなくなってしまう。
このようなことを我々に期待する方がどうかしていると思うのであるが、世間の人は不動産鑑定士は何でもできるスーパーマンと思っているようで、期待は大きい。
以前にも書いたことがあるが、これだけ複雑になってくると、鑑定士も部門毎に登録する方がいいのかなと思わざるを得ない。
筆者は精々木造鑑定士が関の山であると思っている。
ところで、経済的耐用年数なるものをどうするべきか、これも問題である。
使い捨て文化からの脱却を目指して 200年住宅なるものも提言されているが、 200年住宅の経済的耐用年数は一体何年になるのであろうか。
筆者が現役の時に 200年住宅を評価することはないので対岸の火事と決め込んで傍観しているが、若い人達は大変だろうと思っている。
話がずれたが、木造建物の耐用年数も千差万別である。
リフォームされた新築そっくり住宅の経済的耐用年数は、新築と同じと考えて良いのだろうか。
鉄骨造・鉄筋コンクリート造の建物の経済的耐用年数は一体どう把握すればいいのだろうか。
現状は誰も解らないから、財務省令による耐用年数を根拠にして把握しているが、それでさえ科学的研究の成果なのかどうかは不明である。
設備の耐用年数は一般的に15年と判定しているが、40年も50年も経過している建物もあり、設備の耐用年数がはたして15年でいいのか、良く解らない。
設備の経済的耐用年数が15年だという科学的根拠はあるのだろうか。
あるのなら、誰か教えて欲しい。
いずれにしても、我々は3つの問題にあえぎながら評価を行っているが、足元を良く見つめると心許ない。
このような状況が改善・解決される時代が来るのか考えていたら、また年が明けてしまった。
サンタクロースがやって来た ~試される民主主義と地方自治~ Vol.4
2021.03.11
VOL.04 人口減少から見える地域経済の行方
話は少しずれたが、前述のように人口減少は日本経済に大きな影を落とすことになる。
人口減少は財政収入の減少の他、そのこと自体による需要の減少を招く。
一方、人口が減少してもこれまでに整備してきたインフラの維持管理は残る。
その結果、インフラの維持管理の負担は人口減少に反比例して増加する。
事実、財政破綻で一躍脚光を浴びた夕張市でも、水道・下水道・ゴミ料金は倍増に近くなっている。
これに加えて財政難から行政サービスは人手不足もあって、低下の一途を辿ることになる。
また、公民館・図書館等は廃止・休止できても、上・下水道はそれができないので、住民負担は増えても減ることはない。
道路の維持管理や老朽化したトンネルや橋の維持管理はどうするのであろうか。
人口減少は需要の減少を招き、それが不動産価格の下落を招く。
これにより税収は減り、行政サービスは更に低下し、住民負担を増大させる。
その結果、市町村間の格差は拡大し、住民はより暮らしやすい町へ移動し、人口は更に減少する。
残されるのは身寄りのない老人や、資力のない経済弱者ばかりとなり、地域経済は更に疲弊する。
人口減少は地方自治体にとって治療法のないガンのようなものであり、自治体はやがて消滅することになる。
そこに残るのはゴーストタウンである。
読者のうち、都会にいる人はこのようなことを実感することはできないであろうと思われる。
しかし、地方、特に過疎町村を行ったり来たりしている筆者にとっては、切実に感じるのである。
2035年までは生きられないから考えても仕方ないと思う反面、子供達の将来はどうなるのかと、心配は尽きない。
この国の不幸は、指導者がサンタクロースになりたがることである。
もっとも、指導者にサンタクロースを期待する国民の方が問題ではあるが・・・。
話は少しずれたが、前述のように人口減少は日本経済に大きな影を落とすことになる。
人口減少は財政収入の減少の他、そのこと自体による需要の減少を招く。
一方、人口が減少してもこれまでに整備してきたインフラの維持管理は残る。
その結果、インフラの維持管理の負担は人口減少に反比例して増加する。
事実、財政破綻で一躍脚光を浴びた夕張市でも、水道・下水道・ゴミ料金は倍増に近くなっている。
これに加えて財政難から行政サービスは人手不足もあって、低下の一途を辿ることになる。
また、公民館・図書館等は廃止・休止できても、上・下水道はそれができないので、住民負担は増えても減ることはない。
道路の維持管理や老朽化したトンネルや橋の維持管理はどうするのであろうか。
人口減少は需要の減少を招き、それが不動産価格の下落を招く。
これにより税収は減り、行政サービスは更に低下し、住民負担を増大させる。
その結果、市町村間の格差は拡大し、住民はより暮らしやすい町へ移動し、人口は更に減少する。
残されるのは身寄りのない老人や、資力のない経済弱者ばかりとなり、地域経済は更に疲弊する。
人口減少は地方自治体にとって治療法のないガンのようなものであり、自治体はやがて消滅することになる。
そこに残るのはゴーストタウンである。
読者のうち、都会にいる人はこのようなことを実感することはできないであろうと思われる。
しかし、地方、特に過疎町村を行ったり来たりしている筆者にとっては、切実に感じるのである。
2035年までは生きられないから考えても仕方ないと思う反面、子供達の将来はどうなるのかと、心配は尽きない。
この国の不幸は、指導者がサンタクロースになりたがることである。
もっとも、指導者にサンタクロースを期待する国民の方が問題ではあるが・・・。
(2009年11月 Evaluation no.35掲載/「サンタクロースがやって来た!!-試される民主主義と地方自治」)
サンタクロースがやって来た ~試される民主主義と地方自治~ Vol.3
2021.03.04
VOL.03 長期人口推計と日本経済の行方
人口問題研究所の長期人口推計に拠れば、2035年までに約1700万人(2005年比)の人口減少が予測されている。
一人当たりの消費支出を年間 130万円とすると、約22兆円のGDPが消失することになる。
合計特殊出生率は 1.3前後であるから、人口は確実に減る。
2035年には、1805自治体のうち、人口5千人未満の自治体は5分の1以上になると予測されている。
2030年から2035年にかけては約98%の自治体で人口が減少し、人口が20%以上減少する自治体は60%を超えるとされている。
更に、生産年齢人口が40%以上減少する自治体は4割を超え、老年人口が50%以上増加する自治体はほぼ4分の1、老年人口の割合が40%を超える自治体は4割を超えるとされている。
日本の将来を担う年少人口(14歳未満)の割合は10%未満となり、年少人口の割合が10%未満の自治体は約70%と著しく増加する。
これを大雑把にいえば、国民の半分が税金で食べる人、半分が働いて税金を払う人ということになり、生産年齢人口一人が一人を扶養するということになる。
はたしてそんなことが可能なのであろうか。
もっと悲観的にいえば、実際に働けるのは18歳以上になるものと思われる他、公務員の人数を考慮するとおそらく国民4人で6人の国民を養うことになるのではないかと危惧される。
つまり、日本経済はどう楽観的に考えても立ち行かないと結論づけるより他はない。
戦前、大本営はどう考えても勝ち目のない戦争を始め、末期には誰もが戦争継続は無理と思うようになっているにもかかわらず、神国日本は不滅と強弁し、戦争に反対する者は非国民と非難し、それでも足りなくて特高警察を使って国民を追い回し、マスコミも大本営発表をタレ流し続け、国家指導部と一緒に国民を破滅の淵に追いやったのである。
日本人は総認知症なのか、それとも忘れたフリをしているのか判らないが、敗戦に至るまでの全てのシステムを検証することなく一部の指導者と運の悪い幹部将校に責任を取らせてそれで良しとしたことを深く憂慮している。
この点については大企業・国・自治体も同様で、問題が発生した時にシステムエラーと考えず、全て個人の責任に帰して終わらせている。
その結果、最大犠牲点に到達するまでシステムが変更されることはない。
最大犠牲点に到達すると、企業は破産・消滅し、国家は破綻する他はなく、同じ過ちを繰り返す。
そう、歴史は繰り返すのである。
我々はもっと歴史に学ばなくてはならない。
歴史といっても、現在の歴史教育は単なる年表を暗記するだけで、さながらクイズの答えを覚えているだけで何の役にも立たない。
歴史を学ぶとは、その時代の人間の生き方と社会のありようを学び、そこから現代の人間の生き方と社会のあり方を考えることであると思っている。
個人的には、江戸時代以降、技術・道具は著しく進歩したが、その反面人間そのものの品格は著しく下落したと思っている。
人口問題研究所の長期人口推計に拠れば、2035年までに約1700万人(2005年比)の人口減少が予測されている。
一人当たりの消費支出を年間 130万円とすると、約22兆円のGDPが消失することになる。
合計特殊出生率は 1.3前後であるから、人口は確実に減る。
2035年には、1805自治体のうち、人口5千人未満の自治体は5分の1以上になると予測されている。
2030年から2035年にかけては約98%の自治体で人口が減少し、人口が20%以上減少する自治体は60%を超えるとされている。
更に、生産年齢人口が40%以上減少する自治体は4割を超え、老年人口が50%以上増加する自治体はほぼ4分の1、老年人口の割合が40%を超える自治体は4割を超えるとされている。
日本の将来を担う年少人口(14歳未満)の割合は10%未満となり、年少人口の割合が10%未満の自治体は約70%と著しく増加する。
これを大雑把にいえば、国民の半分が税金で食べる人、半分が働いて税金を払う人ということになり、生産年齢人口一人が一人を扶養するということになる。
はたしてそんなことが可能なのであろうか。
もっと悲観的にいえば、実際に働けるのは18歳以上になるものと思われる他、公務員の人数を考慮するとおそらく国民4人で6人の国民を養うことになるのではないかと危惧される。
つまり、日本経済はどう楽観的に考えても立ち行かないと結論づけるより他はない。
戦前、大本営はどう考えても勝ち目のない戦争を始め、末期には誰もが戦争継続は無理と思うようになっているにもかかわらず、神国日本は不滅と強弁し、戦争に反対する者は非国民と非難し、それでも足りなくて特高警察を使って国民を追い回し、マスコミも大本営発表をタレ流し続け、国家指導部と一緒に国民を破滅の淵に追いやったのである。
日本人は総認知症なのか、それとも忘れたフリをしているのか判らないが、敗戦に至るまでの全てのシステムを検証することなく一部の指導者と運の悪い幹部将校に責任を取らせてそれで良しとしたことを深く憂慮している。
この点については大企業・国・自治体も同様で、問題が発生した時にシステムエラーと考えず、全て個人の責任に帰して終わらせている。
その結果、最大犠牲点に到達するまでシステムが変更されることはない。
最大犠牲点に到達すると、企業は破産・消滅し、国家は破綻する他はなく、同じ過ちを繰り返す。
そう、歴史は繰り返すのである。
我々はもっと歴史に学ばなくてはならない。
歴史といっても、現在の歴史教育は単なる年表を暗記するだけで、さながらクイズの答えを覚えているだけで何の役にも立たない。
歴史を学ぶとは、その時代の人間の生き方と社会のありようを学び、そこから現代の人間の生き方と社会のあり方を考えることであると思っている。
個人的には、江戸時代以降、技術・道具は著しく進歩したが、その反面人間そのものの品格は著しく下落したと思っている。