取引事例比較法を考える Vol.4
2020.10.29
VOL.04 変動率と要因格差 

地価の下落幅は、一頃に比べると随分と小さくなった。

一時期は、20%・30%の下落率は珍しくはなかった。
この時期の評価をみると何時も考えさせられる。
変動率をマイナス20数パーセントと判定しつつ地域格差を3%とか判断していることに奇妙さを感じるからである。

数学的・論理的に考えるなら、地域格差率が3%しかないということは時点修正だけで価格のほとんどが決まり、あえて地域格差の判定をしなければならない程の数学的意味はないと思えるからである。
取引データは何がホントか解らないものが多く、試算値の相互のバラツキは相当大きなものになることがある。
予測される価格との開差は地域の格差なのか、取引事情によるものなのか、時点修正に抱合されるものなのか実は解ってはいない。

ということは、価格形成要因をいくら分解したところで価格は出てこないということになる。

ちなみに地価上昇の原因ないし説明手段として、かつてはインフラ整備や新駅の開設等があげられていた。

しかし、昨今の状況を見ると道路・下水・地下鉄等の社会的基盤整備が進展しつつあるにもかかわらず地価は下落を続けており、かつての説明と矛盾する。

つまり、インフラ整備と価格との間には何の相関関係もないということになりはしないか。

かつての上昇要因は一体何だったのか。

価格形成要因としてのインフラ整備は本当に価格形成要因なのであろうか。

最近は別の言い訳を探している。
2020.10.29 11:28 | 固定リンク | 鑑定雑感
取引事例比較法を考える Vol.3
2020.10.23
VOL.03 誤差について考える 

公共測量には公共測量作業規定があり、こと細かく作業内容が決められており、測量精度によって誤差の取り扱いにも差を設け、その処理の方法について規定している。

ところで、鑑定評価には誤差の入り込む余地はないのであろうか。

鑑定評価作業は判決のように定性的な判断の積み重ねというより、どちらかというと定量的作業の結果導き出された結果に対して定性的観点から判断を加える形となっている。

したがって、評価作業の途中は数字の処理が大半である。

道路条件や接近条件では幅員・距離に測定を伴う作業があり、必然的に測定誤差が入ることになる。

環境条件については、定性的には理解できても、定量的には何も解らないから、誤差概念が成立するかどうか解らない。

また、計算過程では有効数字の取り扱いにより結果が異なる。

評価作業の数字を処理する過程で誤差が入り込む危険性は高い。

にもかかわらず、我々がこれらの比準作業なり収益計算上、誤差について神経質になっていないのは、結果に合わせて作業しいるからに他ならないのではないか。
評価作業のプロセスは結果を形式的に補強しているだけで、化学実験のように誰も結果についての追試はできない。

数学的に考えると、評価作業は矛盾に満ち満ちている。

結果を予測して結論を出している以上、誤差の問題も仮説の実証という作業も意味を持たない。

故に、誰も問題にしない。

鑑定ムラの論理かはたまた独善か。

鑑定に仮説の実証は必要か、誤差論は必要か。

乏しい知識ではどうにもならない。

どうにもならないが鑑定をしなければメシが食えない。

一体私は何なのか?眠れぬ日々が続きそうだ。

2020.10.23 17:41 | 固定リンク | 鑑定雑感
取引事例比較法を考える Vol.2
2020.10.15
VOL.02 地域の変化がないのに若干の時間が経過するだけで格差率は変化する 

 ある街の地価公示を例に取り異時点間の格差率の変化を見ると次のとおりである。

番  号H8H9H10H11H12
5-16,3505,0004,1002,9002,430
5-43,7302,9002,4701,8001,400
相対格差100:59100:58100:60100:62100:58


ちなみに、5-1・5-4の地域の状況は、H8とH12を比較しても特に変化が見られない。

少なくとも、街路条件・交通接近条件・行政的条件は変化がない。

つまり、これらは物理的状況と法律によるものであるから、公示地が地殻変動により移動するか法律が変わらない限り変わらない。

そうすると、この格差の変化は環境条件の変化しかないことになる。

さりとて、環境が変化したとも見えない。

少なくとも、1年間で格差が4%も拡大するとは思えない。

もし、仮に地価水準の格差が価格形成要因によって定性・定量的に決まるのなら、東京の1ヵ所の価格が決まれば全国津々浦々の価格が自動的に決まることになる。

しかし、実際には地域の事情により異なった動きとなっており、相対的価格差は刻々と変化している。

我々は、現在の地価水準は推定可能である。

しかし、要因があって価格が決まるという図式は前述のように成り立たないと思うのである。

わずか1年で外形上判別できない環境条件が4%変化するということは、価格形成要因があって価格が決まるのではなく、決定した価格ないし推定された価格相互の格差を説明するための道具であって、それ以上の意味はないのではないかと考えている。

我々は演繹的に推論しているのであって、帰納的に一般法則を導き出しているとはいえない。

なぜ角地加算は5%で4%ないし6%であってはいけないのか?
5%と判断した場合に4%ないし6%ではなく5%だという証明は、本人にもできない。

また、他の不動産鑑定士が5%ではないという立証もできない。

その結果、不動産鑑定士の数だけ判断があり、極論を言えば判定された正常価格は鑑定士の数だけ存在することになる。

より一層客観化する為には、それこそ「不動産鑑定士100人に聞きました」ということをしなければならないことになり、客観化の道は遠く険しい。
2020.10.15 09:45 | 固定リンク | 鑑定雑感
取引事例比較法を考える Vol.1
2020.10.08
VOL.01 価格形成要因の価格決定に寄与する度合いは、すべて同じか?

不動産鑑定評価基準においては価格形成要因の定性的分析はなされているが、その要因が価格決定にどのように関与しているかについては記述がない。
各要因は全て同列に扱われており、どの要因が主要な役割をはたしているかについては触れていない。
通常の鑑定評価作業では各要因の寄与の度合いが解らないため、いずれも同じと推定して比準作業を行っている。

しかし、田舎と都会では接近条件の果たす役割は大きく異なっており、街路条件+10と接近条件+10とは同じ10%でも価格決定に対して寄与する度合いが異なるように思われる。

仮に、価格全体に対する寄与の度合いを街路条件が全体30%、交通接近条件が40%、環境条件その他30%とすれば、街路条件で+10%ということは+3%、接近条件で+10%ということは+4%ということになり、トータルでは+20%ではなく+7%ということになる。

消費者物価指数の算出においては、耐久消費財と食料品その他では物価に対する寄与の度合いが異なるとして、各品目毎にウェイトづけがなされている。

価格形成要因についても同じ事が言えるのではないかと考えているが、いまだに先が見えないでいる。
2020.10.08 10:04 | 固定リンク | 鑑定雑感
愚か者と軋み合わない世の中 Vol.6
2020.10.01
VOL.06 軋み合う社会と谷崎潤一郎 

 谷崎潤一郎の「刺青」という小説の冒頭の一文を紹介する。



 「其れはまだ人々が「愚(おろか)」と云う貴い徳を持って居て、世の中が今のように激しく軋み合わない時分であった。」



 個人的には、不勉強のせいもあって、未だこの小説の全文を読んではいない。

 しかし、この一文の出だしには正直言って衝撃を受けたので、この言葉を机の上に書いて貼ってある。
 時々この文を読んでは、ああ真理とは時代を超えて通用するものだとつくづく感じるのである。
 
 この小説は、明治43年11月の雑誌「新思潮」に掲載された処女作ということらしいが、明治も終わろうとするこの時代にこのような考え方ができた小説家の偉大さに感銘を受けた。

 愚かさを徳と規定し、小賢しく正義を主張するよりも軋み合わない世界は、いわば日本古来の大人の世界である。

 愚かさを徳と考え、一歩譲ることによりお互いに角突き合わせることなく生きることの心地良さ。

 悪く言えば現実逃避と非難されるかもしれないが、社会の中で声高に社会正義を主張しなければならない騒々しい世界にも正直いってウンザリしている。

 昨今は、クレーマーと称する理屈にもならない理屈を並べて社会正義を主張する者が多いが、谷崎潤一郎が今の世を見たら何と言うのだろうか。

 一般市民もマスコミも小賢しい理屈を並べて社会正義を振りかざすことが多いが、谷崎潤一郎が言った言葉を良く噛みしめる必要があるのではないかとつくづく思う今日この頃である。

 ところで、各種の偽装事件や料理の使い回し等はまだまだ沢山あって、報道されたのはホンの氷山の一角と思われる。
 戦後の昭和レトロの時代を過ぎ、平成の時代に入ってから人間の品格は格段に落ちたのではないかと考え込まざるを得ない。
 グローバルスタンダードの名のもとに、実はアメリカの一方的なご都合主義であったのに軽々しくアメリカの言いなりになり、金儲け至上主義が蔓延り、その挙句が各種の偽装事件である。
 お金のあることは良いことだと持ち上げられ、選挙に出た若者もいたが、持ち上げた大人の見識を疑わざるを得ない。

 質素倹約に励み、謙虚さを大事にした古き良き日本人はいったい何処に行ったのであろうか。

 この騒々しい世の中を見るにつけ、ゆとりのあるホットくつろげる時代がはたして来るのか悩まずにはいられない。(年のせいか?)

 個人情報に対する過剰ともいえる反応や、通り魔事件の増加・各種の偽装事件、更には無駄遣いに対する感情的過ぎるともいえる反応等、世の中は軋みに軋んでいる。

 それはあたかも耐用年数が尽きつつある木造家屋のようである。

 風が吹けば軋み、廊下を歩いても軋み、何時壊れてもおかしくない老朽家屋のように今の日本は軋んでいる。

 単に景気の良し悪しで片付けられるような状況ではなく、大袈裟に言えば日本の文化の有り様そのものが問われているような気がするのである。

 杞憂と笑われるかもしれないが、日本の将来を案じるこの頃である。

 最後に、ジャーナリストの徳岡孝夫氏が言っていた言葉が妙に胸にひっかかっているので、ご紹介する。読者の皆様も噛みしめていただければ幸いである。


 「私は愚か者であるから正義が行なわれる世の中より軋み合わない世の中の方が暮しやすい。」



(2008年11月 Evaluation no.31掲載)

2020.10.01 16:27 | 固定リンク | 鑑定雑感

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