疑似科学と反知性主義 ―鑑定評価の不都合な現実― ~ Vol.4
2023.09.28
VOL.04 鑑定評価と反知性主義
これまで、鑑定評価のもつある意味胡散臭さは、科学性を粧った疑似科学性にあるのではと思ってきたが、それ以上に考えさせられたのが、佐藤優著「知性とは何か(祥伝社発行)」である。
佐藤氏によれば、いま日本には「反知性主義」が蔓延しており、政治エリートに反知性主義者がいると、日本の国益を損なう恐れがあると警鐘を鳴らしている。
筆者は、政治エリートでも何でもなく、一介の田舎の資格者にすぎないが、日々の実務を通じて、如何に反知性主義的に業務を行ってきたかを知らされ、愕然とさせられたのである。
佐藤氏の言葉によれば、『反知性主義とは、実証性や客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲するように世界を理解する態度』であるとしている。前述したように、疑似科学的態度に終始している我が業界は、まさしく実証性や客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲するように鑑定業界を理解しているので、その意味においては、鑑定評価のプロセスそのものが反知性主義に染まっていると批判されても、弁解の余地がないように思われる。
我々が普段接しているデータも、実証性があるかと問われれば、自信が無いのである。
鑑定評価の結果にしても、評価者自らが客観的であると主張しても、そもそも客観的であるか否かは第三者の判断によって成立するものであって、評価行為の当事者がいくら客観的と主張しても、誰も信じてはくれない。
舛添東京都知事が、仲間うちの弁護士を第三者として政治資金の検証をしたといっても、都民は納得しないのである。
鑑定評価の結果を利用者が信じてくれたとしても、それは国家試験という国家の権威に寄り添っただけで、社会一般の審判を受けることになれば、どうなるのかは解らないのである。
事実、訴訟鑑定の世界では、原告又は被告側の鑑定評価書は、全くと言っていい程信頼されていない。
裁判所は、原告又は被告側が作成した鑑定評価は、私的鑑定とし、依頼者の意向が反映されているからと考え、採用することはほとんどなく、鑑定評価が必要となれば、裁判所が鑑定人を選任し、その者に鑑定させることが一般的である。
鑑定世界がこういう世界になっているのは、評価そのものが疑似科学的であり、実証性や客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲する形で理解しているのではないかという批判に有効に対応できない、あるいはしないという、まさに反知性主義にドップリ漬かっていることにあるのかもしれないと考えられる。
佐藤氏の言葉を借りれば、筆者は少なくとも反知性主義の一人であったと思わざるを得ないが、今頃気がついても遅いということかと考えさせられたのである。
反知性主義者は、反知性主義であるが故に、実証性・客観性を軽視もしくは無視しているので、事実に基づいた反証を受け入れようとはしない。鑑定業界も、閉ざされた世界観の中で自己充足しているので、外部世界との接触が不十分で、接触があったとしても、特有の世界観で自分の欲する形でしか理解しようとしない。そのこと自体は社会からの認知度が、鑑定制度発足から50年も経つというのに、サッパリ上がっていないという事実で証明されている。
これまで、鑑定評価のもつある意味胡散臭さは、科学性を粧った疑似科学性にあるのではと思ってきたが、それ以上に考えさせられたのが、佐藤優著「知性とは何か(祥伝社発行)」である。
佐藤氏によれば、いま日本には「反知性主義」が蔓延しており、政治エリートに反知性主義者がいると、日本の国益を損なう恐れがあると警鐘を鳴らしている。
筆者は、政治エリートでも何でもなく、一介の田舎の資格者にすぎないが、日々の実務を通じて、如何に反知性主義的に業務を行ってきたかを知らされ、愕然とさせられたのである。
佐藤氏の言葉によれば、『反知性主義とは、実証性や客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲するように世界を理解する態度』であるとしている。前述したように、疑似科学的態度に終始している我が業界は、まさしく実証性や客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲するように鑑定業界を理解しているので、その意味においては、鑑定評価のプロセスそのものが反知性主義に染まっていると批判されても、弁解の余地がないように思われる。
我々が普段接しているデータも、実証性があるかと問われれば、自信が無いのである。
鑑定評価の結果にしても、評価者自らが客観的であると主張しても、そもそも客観的であるか否かは第三者の判断によって成立するものであって、評価行為の当事者がいくら客観的と主張しても、誰も信じてはくれない。
舛添東京都知事が、仲間うちの弁護士を第三者として政治資金の検証をしたといっても、都民は納得しないのである。
鑑定評価の結果を利用者が信じてくれたとしても、それは国家試験という国家の権威に寄り添っただけで、社会一般の審判を受けることになれば、どうなるのかは解らないのである。
事実、訴訟鑑定の世界では、原告又は被告側の鑑定評価書は、全くと言っていい程信頼されていない。
裁判所は、原告又は被告側が作成した鑑定評価は、私的鑑定とし、依頼者の意向が反映されているからと考え、採用することはほとんどなく、鑑定評価が必要となれば、裁判所が鑑定人を選任し、その者に鑑定させることが一般的である。
鑑定世界がこういう世界になっているのは、評価そのものが疑似科学的であり、実証性や客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲する形で理解しているのではないかという批判に有効に対応できない、あるいはしないという、まさに反知性主義にドップリ漬かっていることにあるのかもしれないと考えられる。
佐藤氏の言葉を借りれば、筆者は少なくとも反知性主義の一人であったと思わざるを得ないが、今頃気がついても遅いということかと考えさせられたのである。
反知性主義者は、反知性主義であるが故に、実証性・客観性を軽視もしくは無視しているので、事実に基づいた反証を受け入れようとはしない。鑑定業界も、閉ざされた世界観の中で自己充足しているので、外部世界との接触が不十分で、接触があったとしても、特有の世界観で自分の欲する形でしか理解しようとしない。そのこと自体は社会からの認知度が、鑑定制度発足から50年も経つというのに、サッパリ上がっていないという事実で証明されている。
疑似科学と反知性主義 ―鑑定評価の不都合な現実― ~ Vol.3
2023.09.21
VOL.03 疑似科学とは
『科学的方法とは、経験される規則的なパターンから法則を見出して、社会で活用することである。
不確実なパターンがデータの収集・分析によって確実な法則になり、それらが組み合わさって理論になる。』(前書138頁より引用)としている。
鑑定評価理論もそうであって欲しいと願っているが、行動経済学的にいえば、人間の主観的感情が大きく反映されやすい不動産市場においては、更に遠い道のりということになるのではと思っている。
大半の不動産は商品として仕入れている訳ではないし、年代・経済力・地域・利用目的・法人か個人かによっても不動産に対する考え方が変化する。
更に厄介なのは、不動産を売買する動機が多種多様であって、法則性を見出すことは困難と考える。
実際の取引データを見ても、隣同士・向かい同士で倍違う取引もあり、取引当事者の影の事情も垣間見えたりして、一筋縄ではいかないのである。
この生データに評価者が手を入れ、自分の都合の良いストーリーに仕立てあげるのが評価の腕の見せ所となっているが、生データ一つ一つの信憑性を検証していたら、いくら時間があっても足りない。
評価報酬は入札により、派遣労働者並になっているご時世に、膨大な時間と費用をかけて分析する時間的・経済的余裕なんかどこにもありはしないのに、あたかも科学的に分析・検証をしたかのような体裁を整えるため、世間はますます誤解するが、そのうち公表された公的評価と大差がないと解ると、鑑定評価の有難みは薄れ、仕事は消滅する。
事実、低料金で一世を風靡した簡易鑑定と称する低料金鑑定も減少し、生活に苦労する鑑定士も増加しつつある。
それでも何とか制度が保たれているのは、税金にパラサイトした公的評価という棚ボタ仕事があるからである。
話がズレてしまったが、時間軸も地理的軸も取引当事者軸も極端に異なる不動産市場で生起する取引は、取引当事者にとって人生1回限りのことが多い。
現場における実感からすると、1回限りの取引が多数あっても、説明が困難な程バラツキが大きく、因果関係の法則性を見出すことはできないと思っている。
法則性があるのなら、我々はとっくに失業しているはずであるが、まだどうにか失業しないでいられるということは、法則性を見出すことができていないという証拠でもある。
いずれにしても、生データに直接手を入れ、都合の良いシナリオに仕立て上げ、結果として説明はできるかもしれないが検証はできないので、評価者の数だけ異なる価格が提示される。
にもかかわらず、安い費用で評価する者を選定する入札方式は、つまるところ発注者側で既に必要とする価格が解っているから、評価をチェックすることができるので、安い費用で評価書という書類を書いてもらえばいいということではないかと考える。
言葉を換えれば、責任逃れのために必要ということであって、価格が解らないから依頼するということではないことになる。
いくらもっともらしく計算してみても、売れない・買えない価格が適正価格ということにはならない。
市場で受け入れられない価格でも適正だというのなら、市場で成立する価格は一体何の価格なのであろうか。
良く考える必要があるのではないかと思っている。
鑑定評価そのものは科学的に見えるかもしれないが、検証可能性がなく、立証・反証ができないので、疑似科学が入りやすく、科学との識別が難しくなっている。
科学は予測と検証のサイクルから成立しているが、鑑定評価そのものは1回限りであることがほとんどであるから、予測と検証のサイクルは確立しているとはいえず、疑似科学に近いということになる。
鑑定評価という疑似科学をもっともらしく見せるための制度、言葉を換えれば権威づけるのが資格制度といったら言い過ぎであろうか。
ところで、同書によれば、疑似科学には次の三つのタイプがあり、このタイプごとに疑似科学への対処方法を考えることができるとしている。
①第一種疑似科学:占いや心霊主義など、精神世界に端を発したものが、物質世界とかかわり科学的装いをまとったもの。
②第二種疑似科学:サプリメントや性格診断のように、根拠のない「科学的効果」をもとにビジネスをするもの。
③第三種疑似科学:異常気象や地震予知、政策の効果や経済変動など、複雑であるがゆえに科学的に究明しにくい現象を、あたかも原因がしっかりしているかのように自説を展開するもの。
以上の分類に従えば、鑑定評価は第三種疑似科学に分類されるものと考えられるが、第三種疑似科学に対応するには、科学の進展段階に応じて「科学的成果」が変わりうるものであると認識するのが良いとしている。
また、科学であることの条件として、次の四つの条件が表示されている。
①理論が満たすべき条件
②データが満たすべき条件
③理論とデータの相互作用や満たすべき条件
④社会的な営みのうえで満たすべき条件
そして、①理論が満たすべき条件として、イ.論理性 ロ.体系性 ハ.普遍性が必要とし、②データが満たすべき条件として、イ.再現性 ロ.客観性が必要としている。
不動産の取引価格は、前述のように再現性がないか、再現性に乏しく、収集された取引価格は、アンケートや聞き取りによるもので、事実かどうか確かめようがないので、データの客観性には疑問符がつく。
特に土地・建物一体としての取引を担当者が配分法によって区分したものは、データではなくその担当者の意見であって、これを客観的データとして取扱うことには、違和感を覚えるのである。
データに他の人が手を入れて作り変えたならば、最早データとはいえないということを肝に銘じるべきであろう。
このようなことについて、きちんと議論をしない鑑定業界の闇は深い。
せめてもう少し地に足の着いた科学的態度がとれないのかと思うのであるが、歯止めが効かない現実に、茫然自失するより他はない。
次に、③として、理論とデータの相互作用の満たすべき条件として、イ.妥当性 ロ.予測性が挙げられているが、鑑定評価における予測性については、予測可能な理論がないので、データによって検証できないため、鑑定評価は科学としての条件を満たしていないことになる。
最後に、④として、社会的な営みのうえで満たすべき条件として、イ.公共性 ロ.歴史性 ハ.応用性が挙げられている。
公共性については、データの収集や測定方法が明瞭にされているか、理論やデータを評価するための社会的にオープンな仕組みが設けられているか、理論の前提やデータの収集方法を無批判に信じる構図はないか、などで評価されるとしているが、この定義に従えば、我が業界は残念ながら公共性に乏しいと言わざるを得ないことになる。
以上、苦言に満ちた内容になっているが、心ある人は、せめて石川幹人先生の著書である「なぜ疑似科学が社会を動かすのか」を一読して欲しいと願わざるを得ない。
『科学的方法とは、経験される規則的なパターンから法則を見出して、社会で活用することである。
不確実なパターンがデータの収集・分析によって確実な法則になり、それらが組み合わさって理論になる。』(前書138頁より引用)としている。
鑑定評価理論もそうであって欲しいと願っているが、行動経済学的にいえば、人間の主観的感情が大きく反映されやすい不動産市場においては、更に遠い道のりということになるのではと思っている。
大半の不動産は商品として仕入れている訳ではないし、年代・経済力・地域・利用目的・法人か個人かによっても不動産に対する考え方が変化する。
更に厄介なのは、不動産を売買する動機が多種多様であって、法則性を見出すことは困難と考える。
実際の取引データを見ても、隣同士・向かい同士で倍違う取引もあり、取引当事者の影の事情も垣間見えたりして、一筋縄ではいかないのである。
この生データに評価者が手を入れ、自分の都合の良いストーリーに仕立てあげるのが評価の腕の見せ所となっているが、生データ一つ一つの信憑性を検証していたら、いくら時間があっても足りない。
評価報酬は入札により、派遣労働者並になっているご時世に、膨大な時間と費用をかけて分析する時間的・経済的余裕なんかどこにもありはしないのに、あたかも科学的に分析・検証をしたかのような体裁を整えるため、世間はますます誤解するが、そのうち公表された公的評価と大差がないと解ると、鑑定評価の有難みは薄れ、仕事は消滅する。
事実、低料金で一世を風靡した簡易鑑定と称する低料金鑑定も減少し、生活に苦労する鑑定士も増加しつつある。
それでも何とか制度が保たれているのは、税金にパラサイトした公的評価という棚ボタ仕事があるからである。
話がズレてしまったが、時間軸も地理的軸も取引当事者軸も極端に異なる不動産市場で生起する取引は、取引当事者にとって人生1回限りのことが多い。
現場における実感からすると、1回限りの取引が多数あっても、説明が困難な程バラツキが大きく、因果関係の法則性を見出すことはできないと思っている。
法則性があるのなら、我々はとっくに失業しているはずであるが、まだどうにか失業しないでいられるということは、法則性を見出すことができていないという証拠でもある。
いずれにしても、生データに直接手を入れ、都合の良いシナリオに仕立て上げ、結果として説明はできるかもしれないが検証はできないので、評価者の数だけ異なる価格が提示される。
にもかかわらず、安い費用で評価する者を選定する入札方式は、つまるところ発注者側で既に必要とする価格が解っているから、評価をチェックすることができるので、安い費用で評価書という書類を書いてもらえばいいということではないかと考える。
言葉を換えれば、責任逃れのために必要ということであって、価格が解らないから依頼するということではないことになる。
いくらもっともらしく計算してみても、売れない・買えない価格が適正価格ということにはならない。
市場で受け入れられない価格でも適正だというのなら、市場で成立する価格は一体何の価格なのであろうか。
良く考える必要があるのではないかと思っている。
鑑定評価そのものは科学的に見えるかもしれないが、検証可能性がなく、立証・反証ができないので、疑似科学が入りやすく、科学との識別が難しくなっている。
科学は予測と検証のサイクルから成立しているが、鑑定評価そのものは1回限りであることがほとんどであるから、予測と検証のサイクルは確立しているとはいえず、疑似科学に近いということになる。
鑑定評価という疑似科学をもっともらしく見せるための制度、言葉を換えれば権威づけるのが資格制度といったら言い過ぎであろうか。
ところで、同書によれば、疑似科学には次の三つのタイプがあり、このタイプごとに疑似科学への対処方法を考えることができるとしている。
①第一種疑似科学:占いや心霊主義など、精神世界に端を発したものが、物質世界とかかわり科学的装いをまとったもの。
②第二種疑似科学:サプリメントや性格診断のように、根拠のない「科学的効果」をもとにビジネスをするもの。
③第三種疑似科学:異常気象や地震予知、政策の効果や経済変動など、複雑であるがゆえに科学的に究明しにくい現象を、あたかも原因がしっかりしているかのように自説を展開するもの。
以上の分類に従えば、鑑定評価は第三種疑似科学に分類されるものと考えられるが、第三種疑似科学に対応するには、科学の進展段階に応じて「科学的成果」が変わりうるものであると認識するのが良いとしている。
また、科学であることの条件として、次の四つの条件が表示されている。
①理論が満たすべき条件
②データが満たすべき条件
③理論とデータの相互作用や満たすべき条件
④社会的な営みのうえで満たすべき条件
そして、①理論が満たすべき条件として、イ.論理性 ロ.体系性 ハ.普遍性が必要とし、②データが満たすべき条件として、イ.再現性 ロ.客観性が必要としている。
不動産の取引価格は、前述のように再現性がないか、再現性に乏しく、収集された取引価格は、アンケートや聞き取りによるもので、事実かどうか確かめようがないので、データの客観性には疑問符がつく。
特に土地・建物一体としての取引を担当者が配分法によって区分したものは、データではなくその担当者の意見であって、これを客観的データとして取扱うことには、違和感を覚えるのである。
データに他の人が手を入れて作り変えたならば、最早データとはいえないということを肝に銘じるべきであろう。
このようなことについて、きちんと議論をしない鑑定業界の闇は深い。
せめてもう少し地に足の着いた科学的態度がとれないのかと思うのであるが、歯止めが効かない現実に、茫然自失するより他はない。
次に、③として、理論とデータの相互作用の満たすべき条件として、イ.妥当性 ロ.予測性が挙げられているが、鑑定評価における予測性については、予測可能な理論がないので、データによって検証できないため、鑑定評価は科学としての条件を満たしていないことになる。
最後に、④として、社会的な営みのうえで満たすべき条件として、イ.公共性 ロ.歴史性 ハ.応用性が挙げられている。
公共性については、データの収集や測定方法が明瞭にされているか、理論やデータを評価するための社会的にオープンな仕組みが設けられているか、理論の前提やデータの収集方法を無批判に信じる構図はないか、などで評価されるとしているが、この定義に従えば、我が業界は残念ながら公共性に乏しいと言わざるを得ないことになる。
以上、苦言に満ちた内容になっているが、心ある人は、せめて石川幹人先生の著書である「なぜ疑似科学が社会を動かすのか」を一読して欲しいと願わざるを得ない。
疑似科学と反知性主義 ―鑑定評価の不都合な現実― ~ Vol.2
2023.09.14
VOL.02 相関関係と因果関係
鑑定評価のプロセスでは、相関関係と因果関係を区別することなく取り扱うことが多い。
ところで、鑑定評価の科学性を問うため、しばしば統計学的分析手法であるヘドニック関数を利用した研究が見られるが、個人的には過去の価格を分析しているだけで、現在・将来の価格の測定は出来ないし、更に問題なのは、生データを使った分析ではないことにあると思っている。
数学者でもない筆者がとやかく批判できる能力も立場にもないが、取引データを収集・整理させられている(?)一現場担当者としては、バラツキが多く、取引件数が極めて少ないのに、どうやったら分析できるのか、さっぱり理解できないのである。
データを都合良く取捨選択して分析する態度は、少なくとも科学的態度とは言えず、ある意味でスタップ細胞問題そのものと同根といえるのではないかと思うのである。
不動産市場も他の市場と同様に相当激しく乱高下することを身をもって体験した者としては、市場変動を数学的に分析・立証が可能なら、均質なデータが山ほどある為替市場や株式市場は、不動産市場よりもっと簡単に分析・立証できるのではないかと思っている。
ヘドニック関数で不動産市場の全てを分析・立証可能なら、市場の透明性が極めて高い為替市場や株式市場の分析・立証ができないのは何故か、説明して欲しいと願うばかりである。
出来ないというなら、為替市場や株式市場と不動産市場は全く別の理屈で動いているとでもいうのであろうか。
もし、不動産市場が全く別の理屈で形成されているというのなら、そのことも説明して欲しいと思っている。
30年以上鑑定評価業務を経験してきたが、今もって良く解らない。
結論に合わせて都合良くデータを取捨選択の上解釈しているのに、データを分析したら答えが出ると錯覚させているため、誰が評価しても同じと利用者を誤解させ、そのことが入札を助長させている。
試験に合格したら、全員が同じことができるのなら、医者も弁護士も入札で決めれば良いのである。
ヤブ医者であろうがゴッドハンドといわれる名医であろうが、安ければ良いというのなら、その結果を黙って受け容れて欲しいと思うのである。
愚痴が多くなったがご容赦願うとして、「なぜ疑似科学が社会を動かすのか/PHP新書・石川幹人著」によれば、『相関関係とは、あるデータの変化と別のデータの変化に単に関連が見られるということであり、ここでは何が原因であるかは問われず、両方のデータが連動して変化していることが問題となる。一方、因果関係とは、ある原因によって他の結果が引き出されることをいう』としている。(詳しくは同書参照)
これを鑑定評価のプロセスで見ると、多数の取引事例の価格と、各々の事例の位置・接道関係・画地条件等の価格形成要因と称するモノとの間に因果関係があるから、価格形成要因が決まれば価格が決まると考えることである。
経済学的にいえば、価格は需要と供給で決まるのであり、不動産だけが価格形成要因と称する要因で価格が決まると仮定することは、無理があるとしか考えられない。
地方の不動産を評価しようと思っても、同種同類型の取引事例がほとんどなく、やむなく2・3年前の事例を使って誤魔化すようなことをしているが、取引の変動状況を確認するデータがないのであるから、評価とは言いつつも、結局のところどう思うか(専門家?としての個人的意見)で決めざるを得ないのである。
このような地域では、評価結果が評価者によって倍・半分程も異なることがしばしば見られるが、どちらが正しいかは誰も解らないのである。
仮に、価格形成要因と称する要因の良し悪しと取引価格の間には相関関係があるとしても、因果関係はなく、また、定性的要因を定量的に計測する技術は未だに確立されていないのである。
一例を挙げると、固定資産評価基準においては、普通住宅地域の角地は3%の加算としているのに、併用住宅地域になると8%の加算とハネ上がるが、この5%の開差に対する科学的証明はないのである。
尚、土地価格比準表では、標準住宅地域で角地加算が3%~10%と4段階、混在住宅地域で3%~12%の4段階に区分しているが、その基準は快適性・利便性という定性的なものであるから、加算の割合は評価者の感じ方次第ということになる。
いずれにしても、評価者の判断で角地加算が2%になったり7%になったり、あるいは3%から10%になったりするが、はたしてそれ程の効用差があるのか、個人的には今もって全く解らない。
相関関係があるのかどうかさえ判然としないのに、因果関係的に説明する態度はいかがなものかと思っている。
蛇足ながら、実際の取引を見ると、角地の方が安かったりする例が見られるが、評価上このデータを採用する場合は、角地の方が高いという科学的に証明されていない根拠を基に売り急ぎと判定してデータを補正するが、まさにこのこと自体が疑似科学的行為ということになるのではと思われる。
鑑定評価のプロセスでは、相関関係と因果関係を区別することなく取り扱うことが多い。
ところで、鑑定評価の科学性を問うため、しばしば統計学的分析手法であるヘドニック関数を利用した研究が見られるが、個人的には過去の価格を分析しているだけで、現在・将来の価格の測定は出来ないし、更に問題なのは、生データを使った分析ではないことにあると思っている。
数学者でもない筆者がとやかく批判できる能力も立場にもないが、取引データを収集・整理させられている(?)一現場担当者としては、バラツキが多く、取引件数が極めて少ないのに、どうやったら分析できるのか、さっぱり理解できないのである。
データを都合良く取捨選択して分析する態度は、少なくとも科学的態度とは言えず、ある意味でスタップ細胞問題そのものと同根といえるのではないかと思うのである。
不動産市場も他の市場と同様に相当激しく乱高下することを身をもって体験した者としては、市場変動を数学的に分析・立証が可能なら、均質なデータが山ほどある為替市場や株式市場は、不動産市場よりもっと簡単に分析・立証できるのではないかと思っている。
ヘドニック関数で不動産市場の全てを分析・立証可能なら、市場の透明性が極めて高い為替市場や株式市場の分析・立証ができないのは何故か、説明して欲しいと願うばかりである。
出来ないというなら、為替市場や株式市場と不動産市場は全く別の理屈で動いているとでもいうのであろうか。
もし、不動産市場が全く別の理屈で形成されているというのなら、そのことも説明して欲しいと思っている。
30年以上鑑定評価業務を経験してきたが、今もって良く解らない。
結論に合わせて都合良くデータを取捨選択の上解釈しているのに、データを分析したら答えが出ると錯覚させているため、誰が評価しても同じと利用者を誤解させ、そのことが入札を助長させている。
試験に合格したら、全員が同じことができるのなら、医者も弁護士も入札で決めれば良いのである。
ヤブ医者であろうがゴッドハンドといわれる名医であろうが、安ければ良いというのなら、その結果を黙って受け容れて欲しいと思うのである。
愚痴が多くなったがご容赦願うとして、「なぜ疑似科学が社会を動かすのか/PHP新書・石川幹人著」によれば、『相関関係とは、あるデータの変化と別のデータの変化に単に関連が見られるということであり、ここでは何が原因であるかは問われず、両方のデータが連動して変化していることが問題となる。一方、因果関係とは、ある原因によって他の結果が引き出されることをいう』としている。(詳しくは同書参照)
これを鑑定評価のプロセスで見ると、多数の取引事例の価格と、各々の事例の位置・接道関係・画地条件等の価格形成要因と称するモノとの間に因果関係があるから、価格形成要因が決まれば価格が決まると考えることである。
経済学的にいえば、価格は需要と供給で決まるのであり、不動産だけが価格形成要因と称する要因で価格が決まると仮定することは、無理があるとしか考えられない。
地方の不動産を評価しようと思っても、同種同類型の取引事例がほとんどなく、やむなく2・3年前の事例を使って誤魔化すようなことをしているが、取引の変動状況を確認するデータがないのであるから、評価とは言いつつも、結局のところどう思うか(専門家?としての個人的意見)で決めざるを得ないのである。
このような地域では、評価結果が評価者によって倍・半分程も異なることがしばしば見られるが、どちらが正しいかは誰も解らないのである。
仮に、価格形成要因と称する要因の良し悪しと取引価格の間には相関関係があるとしても、因果関係はなく、また、定性的要因を定量的に計測する技術は未だに確立されていないのである。
一例を挙げると、固定資産評価基準においては、普通住宅地域の角地は3%の加算としているのに、併用住宅地域になると8%の加算とハネ上がるが、この5%の開差に対する科学的証明はないのである。
尚、土地価格比準表では、標準住宅地域で角地加算が3%~10%と4段階、混在住宅地域で3%~12%の4段階に区分しているが、その基準は快適性・利便性という定性的なものであるから、加算の割合は評価者の感じ方次第ということになる。
いずれにしても、評価者の判断で角地加算が2%になったり7%になったり、あるいは3%から10%になったりするが、はたしてそれ程の効用差があるのか、個人的には今もって全く解らない。
相関関係があるのかどうかさえ判然としないのに、因果関係的に説明する態度はいかがなものかと思っている。
蛇足ながら、実際の取引を見ると、角地の方が安かったりする例が見られるが、評価上このデータを採用する場合は、角地の方が高いという科学的に証明されていない根拠を基に売り急ぎと判定してデータを補正するが、まさにこのこと自体が疑似科学的行為ということになるのではと思われる。
疑似科学と反知性主義 ―鑑定評価の不都合な現実― ~ Vol.1
2023.09.07
VOL.01 科学リテラシーと評価の公平性と市場価格
科学リテラシーとは、科学的な研究方法を理解し、科学とその成果に対して適切な態度をとれる技能のこととされている。
ところで、鑑定評価における評価計算のプロセスはデータと数字の解釈から構成されているが、評価書の利用者は、数字があたかも科学的粧いをもっているため、試験に合格さえすれば、誰が(年齢・経験の有無に関係なく)評価しても同じ結果になると誤解している。
利用者は評価の仕組が良く解らないため、誤解するのはやむを得ないとしても、評価者自らがそのことを良く理解していないため、対立関係にある他の評価者との評価結果が異なると、自分の出した結果を盲信し、相手方を非難する。
評価のプロセスは数字とデータの解釈であり、評価そのものは科学ではなく、評価者の意見にすぎない。
何故なら、評価結果の再現性はなく、追試・検証のしようがないからである。
年齢・経験等が様々な多数の評価者の評価結果が一致することなど、あり得ないのである。
評価結果が倍違うこともあること等日常茶飯事であるが、一般社会にそのことを説明しようともしない。
尚、公的評価が一見科学的に見え、結果がほぼ一致しているのは、担当者による意見の調整によるものであると考えられるが、取引の観点からはともかく、課税上の観点からみれば、公平性が保たれているのではと思われる。
しかし、個々の取引の現状をみると、公平性とは無関係にその時々の経済情勢や取引当事者の事情を反映して跛行的であるがため、個別の評価結果が公的評価と乖離することがあるが、どちらがより客観的かは判然としない。
公的評価の方が客観的だとすると、個々の鑑定士の評価は不用となるが、実際にそのような動きが見られるので紹介する。
時事通信社の記事によれば、県有地の売却が進まないため、売却予定価格の査定を不動産業者に依頼する動きが広がりつつあり、その理由は、鑑定士の評価格では売れないからということである。
評価の公平性と市場価格は必ずしも一致しないことが露呈した形となってこのような動きになっていることを、深刻に受け止める必要があると考える。
いずれにしても、筆者に評価上必要な科学リテラシーがあるかと問われれば、あるとはとても言えないので、反省するしかないと思っている。
科学リテラシーとは、科学的な研究方法を理解し、科学とその成果に対して適切な態度をとれる技能のこととされている。
ところで、鑑定評価における評価計算のプロセスはデータと数字の解釈から構成されているが、評価書の利用者は、数字があたかも科学的粧いをもっているため、試験に合格さえすれば、誰が(年齢・経験の有無に関係なく)評価しても同じ結果になると誤解している。
利用者は評価の仕組が良く解らないため、誤解するのはやむを得ないとしても、評価者自らがそのことを良く理解していないため、対立関係にある他の評価者との評価結果が異なると、自分の出した結果を盲信し、相手方を非難する。
評価のプロセスは数字とデータの解釈であり、評価そのものは科学ではなく、評価者の意見にすぎない。
何故なら、評価結果の再現性はなく、追試・検証のしようがないからである。
年齢・経験等が様々な多数の評価者の評価結果が一致することなど、あり得ないのである。
評価結果が倍違うこともあること等日常茶飯事であるが、一般社会にそのことを説明しようともしない。
尚、公的評価が一見科学的に見え、結果がほぼ一致しているのは、担当者による意見の調整によるものであると考えられるが、取引の観点からはともかく、課税上の観点からみれば、公平性が保たれているのではと思われる。
しかし、個々の取引の現状をみると、公平性とは無関係にその時々の経済情勢や取引当事者の事情を反映して跛行的であるがため、個別の評価結果が公的評価と乖離することがあるが、どちらがより客観的かは判然としない。
公的評価の方が客観的だとすると、個々の鑑定士の評価は不用となるが、実際にそのような動きが見られるので紹介する。
時事通信社の記事によれば、県有地の売却が進まないため、売却予定価格の査定を不動産業者に依頼する動きが広がりつつあり、その理由は、鑑定士の評価格では売れないからということである。
評価の公平性と市場価格は必ずしも一致しないことが露呈した形となってこのような動きになっていることを、深刻に受け止める必要があると考える。
いずれにしても、筆者に評価上必要な科学リテラシーがあるかと問われれば、あるとはとても言えないので、反省するしかないと思っている。