不動産鑑定士と神の見えざる手 ― 市場は因果律で動く? ― Vol.1
2021.09.02
VOL.01 市場とは何か
我々は特に意識することなく市場という言葉を使用して市場の解釈を行っているが、市場概念は幅広く、具体的な市場から抽象的な市場まで様々な市場が存在している。
ところで、広辞苑によれば、次のように説明されている。
①狭義には、売手と買手とが特定の商品を規則的に取引する場所をいうとし、具体的には、魚市場・青果市場・証券取引所等を例示している。
言葉をかえれば、特定のモノを取引する特定された場所ということである。
この場合の市場は、リアル世界の市場であるから、誰でも市場に行ってモノの価格を確認したり動きを体感することができる。
これに対して、
②広義の市場概念としては、一定の場所・時間に関係なく相互に競合する無数の需要・供給間に存在する交換関係をいうとしている。
この場合の市場は、バーチャル世界で、誰もその市場に行って確認することはできない。
そうは言っても、同質的なモノが大量に取引されている場合は、何となく体感できるが、不動産のように同質かどうかに関係なく物件そのものが極めて少ない市場では、誰もが簡単に取引の状況を確認することはできない。
それ故に、我々不動産鑑定士がバーチャルな市場に成り代わってリアルな市場(?)を見せることが求められているのではと思うのである。
しかしながら、試験に合格しただけで、バーチャルな市場をリアルな市場に見せかける能力が身につくのであろうか。
前述のとおり、不動産市場は広義の市場概念に包含されるが、そうであるとすれば、一定の場所・時間に関係なく相互に競合する無数の需要と供給の間に存在する交換関係を、年齢・経験の有無・業務地(全国どこでも)に関係なく体現できると仮定すること自体に違和感を覚えるのである。
我々に本当にそのような能力があるのかと・・・・・・。
我々は特に意識することなく市場という言葉を使用して市場の解釈を行っているが、市場概念は幅広く、具体的な市場から抽象的な市場まで様々な市場が存在している。
ところで、広辞苑によれば、次のように説明されている。
①狭義には、売手と買手とが特定の商品を規則的に取引する場所をいうとし、具体的には、魚市場・青果市場・証券取引所等を例示している。
言葉をかえれば、特定のモノを取引する特定された場所ということである。
この場合の市場は、リアル世界の市場であるから、誰でも市場に行ってモノの価格を確認したり動きを体感することができる。
これに対して、
②広義の市場概念としては、一定の場所・時間に関係なく相互に競合する無数の需要・供給間に存在する交換関係をいうとしている。
この場合の市場は、バーチャル世界で、誰もその市場に行って確認することはできない。
そうは言っても、同質的なモノが大量に取引されている場合は、何となく体感できるが、不動産のように同質かどうかに関係なく物件そのものが極めて少ない市場では、誰もが簡単に取引の状況を確認することはできない。
それ故に、我々不動産鑑定士がバーチャルな市場に成り代わってリアルな市場(?)を見せることが求められているのではと思うのである。
しかしながら、試験に合格しただけで、バーチャルな市場をリアルな市場に見せかける能力が身につくのであろうか。
前述のとおり、不動産市場は広義の市場概念に包含されるが、そうであるとすれば、一定の場所・時間に関係なく相互に競合する無数の需要と供給の間に存在する交換関係を、年齢・経験の有無・業務地(全国どこでも)に関係なく体現できると仮定すること自体に違和感を覚えるのである。
我々に本当にそのような能力があるのかと・・・・・・。
取引事例比較法とウナギの蒲焼きパートⅡ ― 鑑定世界とSTAP細胞現象 ― Vol.4
2021.08.26
VOL.04 鑑定評価書の様式主義とSTAP細胞現象(事実と意見の混同)
ASA(米国鑑定士協会)の会員となって5年弱になるが、その間に、機械設備評価の養成講座を受講した。
その中で、ASAのインストラクターから再三言われたのが、評価に正解はないということであった。
評価者によって結果が異なるのは当然であり、大事なのは評価プロセスにおける評価者その人自身の論理的一貫性と、他の専門分野に属する事項についてはコメントしないということであった。
確かに評価は一定のルールを適用して計算するものではなく、まさに専門家の意見・判断が問われるものであるから、一定の様式の空欄を埋めれば良いというものではない。
ASAでは、そのような観点から、レポート様式を示してはいない。
筆者は、ASAの在米会員のレポートを見た訳ではないが、関係者(日本資産評価士協会)の話によれば、評価者がルールに則して(アメリカはルール主義)それぞれ腕をふるって記述しているということであった。
ひるがえって我が国の状況をみると、ASAとは対極の状態にある。
標準的な記載例が示されており、極端なケースでは、実務修習テキストを丸写しというのも見られる。
体裁・見映えは良いが、主体的な判断が反映されているかどうかは、残念ながら疑わしい。
更に問題なのは、自分で取引当事者に当たって収集した訳でもない取引事例、それも事例作成割当担当者の個人的判断が加えられて加工されたデータを、そのまま使うよう言われることである。
データの信憑性を確認する手立てもなく、また、誰が加工したかも分からないデータ(特に担当者が配分法を適用して加工したデータ)をそのまま使うより仕方がないのに、データの取扱いについて何の意見表明もしていないことに、問題はないのであろうか。
蛇足ながら、担当者の判断によって加工されたデータは事実とはいえず、その人の意見であることに十分留意する必要があると考える。
(建物価格がゼロとされた建付地の事例にもかかわらず、立派な建物があって使用中というのはザラにある。)
したがって、ASA流に言えば、データの採用に当たっては、その真実性については確認していないと表明すべきであろうと思われる。
原データが間違っていたり、ウソの報告であったりする可能性もある他、加工データの意見を鵜呑みにすると、評価の信頼性は揺らぎかねない。
筆者は実際にそのようなケースに遭遇しているので、取引価格が登記事項にでもならない限り、データの信頼性に不安はつきまとうということになる。
いずれにしても、標準様式の中に調査やデータの信頼性に対するリスク表明がないか、あっても限定的であるため、テキストをコピペしてそのとおりに書いておけば、誰も文句は言えない。
ところで、話は戻るが、あるデータを採用して結論を出そうとしても、目標値に近づかなければデータの差し換え・データの再加工等をして比準することになるが、そのこと自体、誰も問題にはしない。
それは、不動産の取引データが偏在しており、しかもバラツキが非常に大きいからである。言葉を換えれば、要因・格差によって価格が決まるのではなく、需要と供給によって決まるであろう価格を予測し、それに合わせて都合の良いデータを取捨選択・加工をするということである。
結局のところ、公的評価に合わせてデータを加工・修正の上、比準作業を行うことになるのであるが、『赤信号皆で渡れば恐くない』と言うとおり、科学的に証明できないので、公的評価格に合うようにレポートを作る他はない。
不当鑑定と認定されたケースは、公的評価格がないか、あっても実情とかけ離れた価格しかないような地域、ないしはデータ不足によるものと思われる。
そのような状況下では、悪くいえばどのような価格(ストライクゾーンはあると思うが)でも評価可能となるが、後は評価者の良識・常識次第ということになる。
STAP細胞問題では、レポートのコピペ・データの差換え等が問題にされたが、鑑定評価書はコピペ・データの差換えのオンパレードといったら言い過ぎであろうか。
幸いにして、評価書を取巻く関係者が少ないので、コピペ・データの差換え等による結論への誘導等は、問題になることは少ない。
(もっとも、このこと自体、評価者の良識の問題で、第三者には知るよしもない。)
以上みたように、評価自体は評価者の意見(同じデータを使用しても、評価者が異なれば価格も異なることが多い)であって、事実の検証や証明ではない。
再現性がないのにあたかも再現性があるかのような誤解を与えたために、専門家の意見を入札で求めるという論評にも値しないことを蔓延させ、反省の動きもないことに、失望の念を禁じ得ない。
(さすがに裁判所鑑定ではこういう馬鹿なことはしていないが)
TPP加盟によって知的サービス分野の開放も迫られると思うが、我が国の評価書の作成方法や評価プロセスのあり方等について、再検討を迫られるかもしれないと思っている。
アメリカから移入した評価基準を日本流に焼き直しているが、我が国独特の進化(?)を遂げ、ガラパゴス化しているようにも思われる。
最後に、ドイツ証券が発表した「TPPが不動産セクターに与える影響について」の中で、『日本独自の資格である不動産鑑定士などの有名無実化』という指摘については、真摯に受け止める必要があるのではと考える。
以上、愚にも付かないことをくどくどと書いてしまったが、全てを見通すことができる神様のような期待される鑑定士になり損なった引退間近の年寄りのタワ言として、読者諸兄のご容赦を願うものである。
ASA(米国鑑定士協会)の会員となって5年弱になるが、その間に、機械設備評価の養成講座を受講した。
その中で、ASAのインストラクターから再三言われたのが、評価に正解はないということであった。
評価者によって結果が異なるのは当然であり、大事なのは評価プロセスにおける評価者その人自身の論理的一貫性と、他の専門分野に属する事項についてはコメントしないということであった。
確かに評価は一定のルールを適用して計算するものではなく、まさに専門家の意見・判断が問われるものであるから、一定の様式の空欄を埋めれば良いというものではない。
ASAでは、そのような観点から、レポート様式を示してはいない。
筆者は、ASAの在米会員のレポートを見た訳ではないが、関係者(日本資産評価士協会)の話によれば、評価者がルールに則して(アメリカはルール主義)それぞれ腕をふるって記述しているということであった。
ひるがえって我が国の状況をみると、ASAとは対極の状態にある。
標準的な記載例が示されており、極端なケースでは、実務修習テキストを丸写しというのも見られる。
体裁・見映えは良いが、主体的な判断が反映されているかどうかは、残念ながら疑わしい。
更に問題なのは、自分で取引当事者に当たって収集した訳でもない取引事例、それも事例作成割当担当者の個人的判断が加えられて加工されたデータを、そのまま使うよう言われることである。
データの信憑性を確認する手立てもなく、また、誰が加工したかも分からないデータ(特に担当者が配分法を適用して加工したデータ)をそのまま使うより仕方がないのに、データの取扱いについて何の意見表明もしていないことに、問題はないのであろうか。
蛇足ながら、担当者の判断によって加工されたデータは事実とはいえず、その人の意見であることに十分留意する必要があると考える。
(建物価格がゼロとされた建付地の事例にもかかわらず、立派な建物があって使用中というのはザラにある。)
したがって、ASA流に言えば、データの採用に当たっては、その真実性については確認していないと表明すべきであろうと思われる。
原データが間違っていたり、ウソの報告であったりする可能性もある他、加工データの意見を鵜呑みにすると、評価の信頼性は揺らぎかねない。
筆者は実際にそのようなケースに遭遇しているので、取引価格が登記事項にでもならない限り、データの信頼性に不安はつきまとうということになる。
いずれにしても、標準様式の中に調査やデータの信頼性に対するリスク表明がないか、あっても限定的であるため、テキストをコピペしてそのとおりに書いておけば、誰も文句は言えない。
ところで、話は戻るが、あるデータを採用して結論を出そうとしても、目標値に近づかなければデータの差し換え・データの再加工等をして比準することになるが、そのこと自体、誰も問題にはしない。
それは、不動産の取引データが偏在しており、しかもバラツキが非常に大きいからである。言葉を換えれば、要因・格差によって価格が決まるのではなく、需要と供給によって決まるであろう価格を予測し、それに合わせて都合の良いデータを取捨選択・加工をするということである。
結局のところ、公的評価に合わせてデータを加工・修正の上、比準作業を行うことになるのであるが、『赤信号皆で渡れば恐くない』と言うとおり、科学的に証明できないので、公的評価格に合うようにレポートを作る他はない。
不当鑑定と認定されたケースは、公的評価格がないか、あっても実情とかけ離れた価格しかないような地域、ないしはデータ不足によるものと思われる。
そのような状況下では、悪くいえばどのような価格(ストライクゾーンはあると思うが)でも評価可能となるが、後は評価者の良識・常識次第ということになる。
STAP細胞問題では、レポートのコピペ・データの差換え等が問題にされたが、鑑定評価書はコピペ・データの差換えのオンパレードといったら言い過ぎであろうか。
幸いにして、評価書を取巻く関係者が少ないので、コピペ・データの差換え等による結論への誘導等は、問題になることは少ない。
(もっとも、このこと自体、評価者の良識の問題で、第三者には知るよしもない。)
以上みたように、評価自体は評価者の意見(同じデータを使用しても、評価者が異なれば価格も異なることが多い)であって、事実の検証や証明ではない。
再現性がないのにあたかも再現性があるかのような誤解を与えたために、専門家の意見を入札で求めるという論評にも値しないことを蔓延させ、反省の動きもないことに、失望の念を禁じ得ない。
(さすがに裁判所鑑定ではこういう馬鹿なことはしていないが)
TPP加盟によって知的サービス分野の開放も迫られると思うが、我が国の評価書の作成方法や評価プロセスのあり方等について、再検討を迫られるかもしれないと思っている。
アメリカから移入した評価基準を日本流に焼き直しているが、我が国独特の進化(?)を遂げ、ガラパゴス化しているようにも思われる。
最後に、ドイツ証券が発表した「TPPが不動産セクターに与える影響について」の中で、『日本独自の資格である不動産鑑定士などの有名無実化』という指摘については、真摯に受け止める必要があるのではと考える。
以上、愚にも付かないことをくどくどと書いてしまったが、全てを見通すことができる神様のような期待される鑑定士になり損なった引退間近の年寄りのタワ言として、読者諸兄のご容赦を願うものである。
(2014年7月 Evaluation no.53掲載/「 取引事例比較法とウナギの蒲焼き ― 鑑定世界とSTAP細胞現象 ―」)
取引事例比較法とウナギの蒲焼きパートⅡ ― 鑑定世界とSTAP細胞現象 ― Vol.4
2021.08.26
VOL.04 鑑定評価書の様式主義とSTAP細胞現象(事実と意見の混同)
ASA(米国鑑定士協会)の会員となって5年弱になるが、その間に、機械設備評価の養成講座を受講した。
その中で、ASAのインストラクターから再三言われたのが、評価に正解はないということであった。
評価者によって結果が異なるのは当然であり、大事なのは評価プロセスにおける評価者その人自身の論理的一貫性と、他の専門分野に属する事項についてはコメントしないということであった。
確かに評価は一定のルールを適用して計算するものではなく、まさに専門家の意見・判断が問われるものであるから、一定の様式の空欄を埋めれば良いというものではない。
ASAでは、そのような観点から、レポート様式を示してはいない。
筆者は、ASAの在米会員のレポートを見た訳ではないが、関係者(日本資産評価士協会)の話によれば、評価者がルールに則して(アメリカはルール主義)それぞれ腕をふるって記述しているということであった。
ひるがえって我が国の状況をみると、ASAとは対極の状態にある。
標準的な記載例が示されており、極端なケースでは、実務修習テキストを丸写しというのも見られる。
体裁・見映えは良いが、主体的な判断が反映されているかどうかは、残念ながら疑わしい。
更に問題なのは、自分で取引当事者に当たって収集した訳でもない取引事例、それも事例作成割当担当者の個人的判断が加えられて加工されたデータを、そのまま使うよう言われることである。
データの信憑性を確認する手立てもなく、また、誰が加工したかも分からないデータ(特に担当者が配分法を適用して加工したデータ)をそのまま使うより仕方がないのに、データの取扱いについて何の意見表明もしていないことに、問題はないのであろうか。
蛇足ながら、担当者の判断によって加工されたデータは事実とはいえず、その人の意見であることに十分留意する必要があると考える。
(建物価格がゼロとされた建付地の事例にもかかわらず、立派な建物があって使用中というのはザラにある。)
したがって、ASA流に言えば、データの採用に当たっては、その真実性については確認していないと表明すべきであろうと思われる。
原データが間違っていたり、ウソの報告であったりする可能性もある他、加工データの意見を鵜呑みにすると、評価の信頼性は揺らぎかねない。
筆者は実際にそのようなケースに遭遇しているので、取引価格が登記事項にでもならない限り、データの信頼性に不安はつきまとうということになる。
いずれにしても、標準様式の中に調査やデータの信頼性に対するリスク表明がないか、あっても限定的であるため、テキストをコピペしてそのとおりに書いておけば、誰も文句は言えない。
ところで、話は戻るが、あるデータを採用して結論を出そうとしても、目標値に近づかなければデータの差し換え・データの再加工等をして比準することになるが、そのこと自体、誰も問題にはしない。
それは、不動産の取引データが偏在しており、しかもバラツキが非常に大きいからである。言葉を換えれば、要因・格差によって価格が決まるのではなく、需要と供給によって決まるであろう価格を予測し、それに合わせて都合の良いデータを取捨選択・加工をするということである。
結局のところ、公的評価に合わせてデータを加工・修正の上、比準作業を行うことになるのであるが、『赤信号皆で渡れば恐くない』と言うとおり、科学的に証明できないので、公的評価格に合うようにレポートを作る他はない。
不当鑑定と認定されたケースは、公的評価格がないか、あっても実情とかけ離れた価格しかないような地域、ないしはデータ不足によるものと思われる。
そのような状況下では、悪くいえばどのような価格(ストライクゾーンはあると思うが)でも評価可能となるが、後は評価者の良識・常識次第ということになる。
STAP細胞問題では、レポートのコピペ・データの差換え等が問題にされたが、鑑定評価書はコピペ・データの差換えのオンパレードといったら言い過ぎであろうか。
幸いにして、評価書を取巻く関係者が少ないので、コピペ・データの差換え等による結論への誘導等は、問題になることは少ない。
(もっとも、このこと自体、評価者の良識の問題で、第三者には知るよしもない。)
以上みたように、評価自体は評価者の意見(同じデータを使用しても、評価者が異なれば価格も異なることが多い)であって、事実の検証や証明ではない。
再現性がないのにあたかも再現性があるかのような誤解を与えたために、専門家の意見を入札で求めるという論評にも値しないことを蔓延させ、反省の動きもないことに、失望の念を禁じ得ない。
(さすがに裁判所鑑定ではこういう馬鹿なことはしていないが)
TPP加盟によって知的サービス分野の開放も迫られると思うが、我が国の評価書の作成方法や評価プロセスのあり方等について、再検討を迫られるかもしれないと思っている。
アメリカから移入した評価基準を日本流に焼き直しているが、我が国独特の進化(?)を遂げ、ガラパゴス化しているようにも思われる。
最後に、ドイツ証券が発表した「TPPが不動産セクターに与える影響について」の中で、『日本独自の資格である不動産鑑定士などの有名無実化』という指摘については、真摯に受け止める必要があるのではと考える。
以上、愚にも付かないことをくどくどと書いてしまったが、全てを見通すことができる神様のような期待される鑑定士になり損なった引退間近の年寄りのタワ言として、読者諸兄のご容赦を願うものである。
ASA(米国鑑定士協会)の会員となって5年弱になるが、その間に、機械設備評価の養成講座を受講した。
その中で、ASAのインストラクターから再三言われたのが、評価に正解はないということであった。
評価者によって結果が異なるのは当然であり、大事なのは評価プロセスにおける評価者その人自身の論理的一貫性と、他の専門分野に属する事項についてはコメントしないということであった。
確かに評価は一定のルールを適用して計算するものではなく、まさに専門家の意見・判断が問われるものであるから、一定の様式の空欄を埋めれば良いというものではない。
ASAでは、そのような観点から、レポート様式を示してはいない。
筆者は、ASAの在米会員のレポートを見た訳ではないが、関係者(日本資産評価士協会)の話によれば、評価者がルールに則して(アメリカはルール主義)それぞれ腕をふるって記述しているということであった。
ひるがえって我が国の状況をみると、ASAとは対極の状態にある。
標準的な記載例が示されており、極端なケースでは、実務修習テキストを丸写しというのも見られる。
体裁・見映えは良いが、主体的な判断が反映されているかどうかは、残念ながら疑わしい。
更に問題なのは、自分で取引当事者に当たって収集した訳でもない取引事例、それも事例作成割当担当者の個人的判断が加えられて加工されたデータを、そのまま使うよう言われることである。
データの信憑性を確認する手立てもなく、また、誰が加工したかも分からないデータ(特に担当者が配分法を適用して加工したデータ)をそのまま使うより仕方がないのに、データの取扱いについて何の意見表明もしていないことに、問題はないのであろうか。
蛇足ながら、担当者の判断によって加工されたデータは事実とはいえず、その人の意見であることに十分留意する必要があると考える。
(建物価格がゼロとされた建付地の事例にもかかわらず、立派な建物があって使用中というのはザラにある。)
したがって、ASA流に言えば、データの採用に当たっては、その真実性については確認していないと表明すべきであろうと思われる。
原データが間違っていたり、ウソの報告であったりする可能性もある他、加工データの意見を鵜呑みにすると、評価の信頼性は揺らぎかねない。
筆者は実際にそのようなケースに遭遇しているので、取引価格が登記事項にでもならない限り、データの信頼性に不安はつきまとうということになる。
いずれにしても、標準様式の中に調査やデータの信頼性に対するリスク表明がないか、あっても限定的であるため、テキストをコピペしてそのとおりに書いておけば、誰も文句は言えない。
ところで、話は戻るが、あるデータを採用して結論を出そうとしても、目標値に近づかなければデータの差し換え・データの再加工等をして比準することになるが、そのこと自体、誰も問題にはしない。
それは、不動産の取引データが偏在しており、しかもバラツキが非常に大きいからである。言葉を換えれば、要因・格差によって価格が決まるのではなく、需要と供給によって決まるであろう価格を予測し、それに合わせて都合の良いデータを取捨選択・加工をするということである。
結局のところ、公的評価に合わせてデータを加工・修正の上、比準作業を行うことになるのであるが、『赤信号皆で渡れば恐くない』と言うとおり、科学的に証明できないので、公的評価格に合うようにレポートを作る他はない。
不当鑑定と認定されたケースは、公的評価格がないか、あっても実情とかけ離れた価格しかないような地域、ないしはデータ不足によるものと思われる。
そのような状況下では、悪くいえばどのような価格(ストライクゾーンはあると思うが)でも評価可能となるが、後は評価者の良識・常識次第ということになる。
STAP細胞問題では、レポートのコピペ・データの差換え等が問題にされたが、鑑定評価書はコピペ・データの差換えのオンパレードといったら言い過ぎであろうか。
幸いにして、評価書を取巻く関係者が少ないので、コピペ・データの差換え等による結論への誘導等は、問題になることは少ない。
(もっとも、このこと自体、評価者の良識の問題で、第三者には知るよしもない。)
以上みたように、評価自体は評価者の意見(同じデータを使用しても、評価者が異なれば価格も異なることが多い)であって、事実の検証や証明ではない。
再現性がないのにあたかも再現性があるかのような誤解を与えたために、専門家の意見を入札で求めるという論評にも値しないことを蔓延させ、反省の動きもないことに、失望の念を禁じ得ない。
(さすがに裁判所鑑定ではこういう馬鹿なことはしていないが)
TPP加盟によって知的サービス分野の開放も迫られると思うが、我が国の評価書の作成方法や評価プロセスのあり方等について、再検討を迫られるかもしれないと思っている。
アメリカから移入した評価基準を日本流に焼き直しているが、我が国独特の進化(?)を遂げ、ガラパゴス化しているようにも思われる。
最後に、ドイツ証券が発表した「TPPが不動産セクターに与える影響について」の中で、『日本独自の資格である不動産鑑定士などの有名無実化』という指摘については、真摯に受け止める必要があるのではと考える。
以上、愚にも付かないことをくどくどと書いてしまったが、全てを見通すことができる神様のような期待される鑑定士になり損なった引退間近の年寄りのタワ言として、読者諸兄のご容赦を願うものである。
(2014年7月 Evaluation no.53掲載/「 取引事例比較法とウナギの蒲焼き ― 鑑定世界とSTAP細胞現象 ―」)