取引事例比較法とウナギの蒲焼きパートⅡ ― 鑑定世界とSTAP細胞現象 ― Vol.4
2021.08.26
VOL.04 鑑定評価書の様式主義とSTAP細胞現象(事実と意見の混同) 

 ASA(米国鑑定士協会)の会員となって5年弱になるが、その間に、機械設備評価の養成講座を受講した。

 その中で、ASAのインストラクターから再三言われたのが、評価に正解はないということであった。

 評価者によって結果が異なるのは当然であり、大事なのは評価プロセスにおける評価者その人自身の論理的一貫性と、他の専門分野に属する事項についてはコメントしないということであった。

 確かに評価は一定のルールを適用して計算するものではなく、まさに専門家の意見・判断が問われるものであるから、一定の様式の空欄を埋めれば良いというものではない。
 ASAでは、そのような観点から、レポート様式を示してはいない。

 筆者は、ASAの在米会員のレポートを見た訳ではないが、関係者(日本資産評価士協会)の話によれば、評価者がルールに則して(アメリカはルール主義)それぞれ腕をふるって記述しているということであった。


 ひるがえって我が国の状況をみると、ASAとは対極の状態にある。

 標準的な記載例が示されており、極端なケースでは、実務修習テキストを丸写しというのも見られる。
 体裁・見映えは良いが、主体的な判断が反映されているかどうかは、残念ながら疑わしい。

 更に問題なのは、自分で取引当事者に当たって収集した訳でもない取引事例、それも事例作成割当担当者の個人的判断が加えられて加工されたデータを、そのまま使うよう言われることである。

 データの信憑性を確認する手立てもなく、また、誰が加工したかも分からないデータ(特に担当者が配分法を適用して加工したデータ)をそのまま使うより仕方がないのに、データの取扱いについて何の意見表明もしていないことに、問題はないのであろうか。

 蛇足ながら、担当者の判断によって加工されたデータは事実とはいえず、その人の意見であることに十分留意する必要があると考える。
 (建物価格がゼロとされた建付地の事例にもかかわらず、立派な建物があって使用中というのはザラにある。)

 したがって、ASA流に言えば、データの採用に当たっては、その真実性については確認していないと表明すべきであろうと思われる。

 原データが間違っていたり、ウソの報告であったりする可能性もある他、加工データの意見を鵜呑みにすると、評価の信頼性は揺らぎかねない。

 筆者は実際にそのようなケースに遭遇しているので、取引価格が登記事項にでもならない限り、データの信頼性に不安はつきまとうということになる。

 いずれにしても、標準様式の中に調査やデータの信頼性に対するリスク表明がないか、あっても限定的であるため、テキストをコピペしてそのとおりに書いておけば、誰も文句は言えない。

 ところで、話は戻るが、あるデータを採用して結論を出そうとしても、目標値に近づかなければデータの差し換え・データの再加工等をして比準することになるが、そのこと自体、誰も問題にはしない。

 それは、不動産の取引データが偏在しており、しかもバラツキが非常に大きいからである。言葉を換えれば、要因・格差によって価格が決まるのではなく、需要と供給によって決まるであろう価格を予測し、それに合わせて都合の良いデータを取捨選択・加工をするということである。

 結局のところ、公的評価に合わせてデータを加工・修正の上、比準作業を行うことになるのであるが、『赤信号皆で渡れば恐くない』と言うとおり、科学的に証明できないので、公的評価格に合うようにレポートを作る他はない。
 不当鑑定と認定されたケースは、公的評価格がないか、あっても実情とかけ離れた価格しかないような地域、ないしはデータ不足によるものと思われる。

 そのような状況下では、悪くいえばどのような価格(ストライクゾーンはあると思うが)でも評価可能となるが、後は評価者の良識・常識次第ということになる。

 STAP細胞問題では、レポートのコピペ・データの差換え等が問題にされたが、鑑定評価書はコピペ・データの差換えのオンパレードといったら言い過ぎであろうか。
 幸いにして、評価書を取巻く関係者が少ないので、コピペ・データの差換え等による結論への誘導等は、問題になることは少ない。
 (もっとも、このこと自体、評価者の良識の問題で、第三者には知るよしもない。)


 以上みたように、評価自体は評価者の意見(同じデータを使用しても、評価者が異なれば価格も異なることが多い)であって、事実の検証や証明ではない。

 再現性がないのにあたかも再現性があるかのような誤解を与えたために、専門家の意見を入札で求めるという論評にも値しないことを蔓延させ、反省の動きもないことに、失望の念を禁じ得ない。
 (さすがに裁判所鑑定ではこういう馬鹿なことはしていないが)

 TPP加盟によって知的サービス分野の開放も迫られると思うが、我が国の評価書の作成方法や評価プロセスのあり方等について、再検討を迫られるかもしれないと思っている。

 アメリカから移入した評価基準を日本流に焼き直しているが、我が国独特の進化(?)を遂げ、ガラパゴス化しているようにも思われる。

 最後に、ドイツ証券が発表した「TPPが不動産セクターに与える影響について」の中で、『日本独自の資格である不動産鑑定士などの有名無実化』という指摘については、真摯に受け止める必要があるのではと考える。
 以上、愚にも付かないことをくどくどと書いてしまったが、全てを見通すことができる神様のような期待される鑑定士になり損なった引退間近の年寄りのタワ言として、読者諸兄のご容赦を願うものである。

(2014年7月 Evaluation no.53掲載/「 取引事例比較法とウナギの蒲焼き ― 鑑定世界とSTAP細胞現象 ―」)

2021.08.26 10:48 | 固定リンク | 鑑定雑感
取引事例比較法とウナギの蒲焼きパートⅡ ― 鑑定世界とSTAP細胞現象 ― Vol.3
2021.08.19
VOL.03 データの測定基準と誤差 

 比準作業に当たって特に問題なのは、データの測定とその取扱いである。

 例えば、幅員データ(誰が測定しても同じと証明できると仮定)を基準とした場合、幅員ランクに応じて格差をつけているが、仮に幅員8mを基準に幅員10mの場合は+2%とすると、9.9mの幅員の場合は±0なのか、限りなく10mに近いのであるから+2%とするかは、結局のところ評価者の考え方次第となる。

 しかし、これが9.5mならばどうするのか、9mならどうするのか等と考えると、どうにもならないのである。

 もし、幅員の測定自体に誤差があれば、そもそも比準自体が間違いということになる。

 更に、距離による優劣の判断をする場合に、直線距離にすべきか、道路距離にすべきかも科学的な結着はついていない。

 道路距離の場合、車が通れる道路にするのか、歩行者しか通れない道路も含めるのか、それともタダ単に公道・私道構わず通れる道路全てを使って最短距離を計測するのかすら議論されていない。

 また、距離計測上の誤差は幅員計測の誤差より大きいが、誤差処理の概念すら存在しないのは摩訶不思議である。

 昨今、GISの発展から、固定資産税における路線価付設に当たって、距離計測をコンピューターを利用してネットワーク計測を行っているが、軒下道路を通ったり、一方通行道路を逆走したり、あるいは右折左折禁止を無視したりと、社会通念上の距離感と相容れない計測結果を使用して路線価を付設しているケースが多い。

 もっとも、接近条件とは歩行時間の長短、という証明があれば話は別だが・・・。

 更に問題なのは、測定誤差もさることながら、測点の起終点がハッキリしないことである。

 例えば、駅接近といっても、起点を駅舎の入口にするのか、改札口にするのか、それともホームの中央にするのかも判然としない。

 小学校も同じで、正門にするのか、通用門にするのか、それとも校舎玄関にするのか。
 敷地が広いので、数百メートルの差異は普通である。
 それぞれの評価者が適当に起点を決めて測定しているといったら、語弊があるのであろうか。

 バス停にしても同じである。
 上り・下りのバス停が向かい合わせにあるのならともかく、一街区ずれていたり、降車専用・乗用専用のバス停はどうするのか等、悩みは尽きない。

 比準表による比準作業以前のデータそのものの起終点の判定基準の作成すらままならないのである。

 地価公示地においても、距離の捉え方が評価者によって異なり、6年前は駅まで1㎞と表示してあったのに、平成26年公示では、近道ができたわけでもないのに800mと、200mも短くなっている。(どのルートを通るかで、距離は変わる)10年間位のスパンでみれば、幅員や距離が変化(?)しているのが良く分かるのである。

 このことは、とりもなおさず幅員・距離等の比較的確認しやすいデータでさえ測定の仕方によって変化するのであるから、環境要因のようにある意味主観的な要因は、評価者によって変わるのは当然というべきである。

 それでも評価格がある一定の水準に収まっているのは、結論が先にあって、それに合わせて要因を調整しているからに他ならない。

 言葉を換えれば、鑑定評価とは科学を粧って、データを使って結論を後付けする作業ということになる。(反省!!)

 つまり、取引事例比較法による比準価格は、想定ないし予想される、あるべき価格に見合うデータを採用するからこそ各データから得られる結果は見事に結論に見合う形で収斂する(させているというべきか、お見事!!)。

 以上のように、比準作業は結論から仮説を立てて演繹的に推論しているだけで、たとえて言えば、ウナギの蒲焼きを作ることに似ている。
 
 ウナギの蒲焼きを作るときは、まずウナギの頭を千枚通しで固定し(結論)、その上で尻尾(データ)に向かって腹ないし背中から包丁を入れてさきおろす。
 この反対に、もしウナギの尻尾を固定すると、ウナギは逃げようとして身をかわすため、うまくさばくことはできない。
 つまり、結論にうまく到達できない。

 取引事例比較法の適用における比準作業は、まさにウナギの蒲焼きを作る作業そのものではないか。
 上手にできるかどうかは、ウナギ(データ)と料理人(不動産鑑定士)次第ということになる。

 我々は名料理人たるべきなのか、科学者(もどき)たるべきなのか、はたまた料理の鉄人たる科学者であるべきなのか。

 あれこれ考えると、いつまでたっても寝不足の日々は解消されそうにもないが、気がついたら終活の日々が近づいてしまった。
2021.08.19 11:50 | 固定リンク | 鑑定雑感
取引事例比較法とウナギの蒲焼きパートⅡ ― 鑑定世界とSTAP細胞現象 ― Vol.2
2021.08.12
VOL.02 比準表なるものの矛盾(百分比計算の限界) 

 昨今、公的評価において、比準表を作って、それを使用して比準価格を求めよという圧力を感じる。

 仄聞するところによれば、実際に強要されたという地域もあったようである。
 一体、誰がどのようなデータを使って解析し、その妥当性を証明したのであろうか。

 小生は、残念ながらそのような研究発表があったのかどうかは、寡聞にして知らない。

 比準表は、基本的に定性的な事情を基準にして格差を求めている。

 つまり、良いか悪いかのどちらかを基準にして格差を判定することになる。
 その格差が科学的に求められた訳ではないのは、前述のとおりである。

 ところで、人間は、ある事情を基準にプラス10%とかマイナス10%とか判定しているが、厳密にいうと、プラス10%とマイナス10%は異なる。

 Aを100としてBを110とすると、その格差はAからみると+10であるが、Bからみると90.9となり、約1%の差が生じる。
 この程度であれば誤差のうちとホッカムリできるが、その格差が30%になると、誤差として片付けることができない。

 つまり、Aを100、Bを130とすると、Bからみた(Bを100とする)Aはマイナス23%と判定しなければ、数学的には整合しない。

 ということは、比準作業を分数式で表すこと自体に無理があるということである。
 
 どこを基準にするかによって30の格差は変化するが、頭の中で瞬時に置き換え計算はできない。
 測量のように絶対的な基準点があるのならともかく、経済現象である価格を測量のように求めることはできない。

 仮に比準表がそれなりに真実らしいと仮定しても、百分比で表した途端に矛盾を生ずることになる。

 測量の世界では、A地点から測量して、B・C・D・E地点を経由してA地点に戻ることを閉合するというが、鑑定の世界では、仮にA地点からB・C地点と価格が一定割合で下がっていくものとし、D・E地点からは一定割合で上昇させないとA地点の価格にはならないが、プラスの割合とマイナスの割合は、前述のとおり異なるのである。

 悲しいかな、私のような凡人は、プラスもマイナスも同じ割合と考えるのがオチである。

 比較する要因及び地点が多いと、その矛盾は倍加する。
2021.08.12 10:08 | 固定リンク | 鑑定雑感
取引事例比較法とウナギの蒲焼きパートⅡ ― 鑑定世界とSTAP細胞現象 ― Vol.1
2021.08.05
VOL.01 取引事例比較法再考

 鑑定評価手法の中でも重要な位置を占めている取引事例比較法であるが、適用上の問題点は多い。

 以前、本誌に寄稿したことがあるが、あれから10年経った今も、何ら進歩はしていない。(自分だけか?)

 昨今の議論等を見聞きしても、その本質的な内容よりも、むしろ重箱の隅を突っつくような話ばかりである。
 木を見て森を見ないとは、正にこのことである。

 我々は、取引事例比較法の適用に際して、ごく普通に百分の1単位で格差を判定しているが、数学的分析なしに百分の1単位で価値判断ができるということが、はたして科学的・客観的態度といえるのであろうか。

 再現性のない価値を求める手法としての闇は深い。
2021.08.05 11:43 | 固定リンク | 鑑定雑感

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