地方のことは地方へ ― 平均値の落とし穴 ~ Vol.1
2021.12.23
VOL.01 少子高齢化を考える視点

 言い古された少子高齢化問題・空家問題について、再度考えてみたい。

 少子高齢化は都会特有の問題ではなく、また、自治体の規模も関係なく、全国到る所で見られる現象である。
 
 厚生労働省の資料によれば、2014年の合計特殊出生率は全国平均で1.42で、100万人割れ目前ということである。
 2011年調査では1.39となっているので少しは改善されたようではあるが、これでは将来の深刻な状況を回避することはできない。

 一方、高齢化率は2012年10月現在で、前期高齢者が12.2%、後期高齢者が11.9%、計24.1%で、4人に1人が高齢者となっている。
 年少人口は約13%となっているので、昔風に現役世代である20歳以上60歳未満と考えると、2人に一人が高齢者とも言える。

 平均的に考えれば、少子高齢化時代といってもピンと来ないので、これらの数字は平均の魔術というべきものと考えられる。

 しかし、都道府県別・市町村別にみれば相当事情が異なるので 平均的な数字を見て少子高齢化対策を考えても、有効な対策はできないと思われる。


 都道府県別にみると、高齢化率が30%を超えるのは、秋田県と島根県、最低は沖縄県の17.7%で、地域の状況は極端に異なっている。

 平均値に近いのは茨城県と兵庫県で、ともに大都市またはその近辺に所在している。

 高齢化率が26%を超える都道府県は全体の約50%であるから、いわゆる平均値に近い高齢化率は26%ということになるのかもしれない。

 合計特殊出生率は、全国平均で1.42(2014年)と若干増加し、マスコミにも取り上げられたが、東京が1.06と極端に低いため、平均値はなかなか増加しない。

 都道府県別にみれば、沖縄の1.86は別格としても、合計特殊出生率が1.4以上の都道府県の割合は約70%、1.5以上に絞ってみても約30%と、かなり気は楽になる。


 他方、1.4未満も約30%を占めているが、1.3未満は17都道府県と、40%弱となるので、むしろこちらの都道府県の方が問題となる。

 尚、少子化問題は、高齢化が進む地方都市に顕著な問題と思っていたら実はそうでもなく、東京・沖縄は別として、過疎に悩まされる道府県のうち、なんと九州の佐賀県・長崎県・熊本県・大分県・宮崎県・鹿児島県の6県の合計特殊出生率の平均は1.62で、全国平均を大きく超える。

 1.5を超えるのは地方都市に多く、九州を除くと福井・長野・滋賀・鳥取・島根・広島・山口・香川・愛媛と9県ある。


 これらを詳細にみると、少子化問題を全国一律に論じることは無理がありそうである。

 というのは、合計特殊出生率が髙いところは、高齢化率も高いからである。

 ちなみに合計特殊出生率の高い地域の高齢化率は、平均で26.8%と全国平均より高い。

 高齢化率が高いところは、合計特殊出生率も高いということを、少子高齢化問題を考える場合の視点として頭に入れておくことが必要と思われる。
2021.12.23 14:59 | 固定リンク | 鑑定雑感
相互不信社会とコンパクトシティの行方 ~ Vol.4
2021.12.16
VOL.04  マチ作り再考

 人口減少と高齢化・生産人口の減少・空家・老朽家屋の増加等に対する即効性のある処方箋はない。

 マチのあり方を方向づけるのは、地元の住民である。

 中央政府は予算配分等で地方をある程度コントロールができるとしても、言論の自由や移動の自由を制限することはできない。

 地元住民は、自分のマチが気にくわなければ出て行くだけのことである。
 誰かが何とかしてくれるだろうという希望的観測で日々を過ごしている。

 たまにある公共事業で一時しのぎはできるが、その恩恵に与れる人はごく一部に限られる。
 地方もそこに住む地元住民も中央政府にパラサイトしているが、明治政府以降の強力な中央集権がもたらした結果ともいえるのではないかと思われる。

 ところで、民主主義を旨とする今日の大衆社会は、名を名乗らずに相手方を攻撃する。
 自分の個人情報は守られるべきと主張する一方で、攻撃相手はお構いなしである。

 江戸時代であれば、名を名乗らずに攻撃すれば、卑怯者!!と手打ちにされても文句も言えないのに、明治と共に武士道精神は置き去りにされ、卑怯者が蔓延る社会となってしまった。

 近代化と共に相互信頼社会から相互不信社会になり、中央集権の結果としてパラサイト体質に変質してしまったが、それも自業自得ということなのかもしれない。

 いずれにしても、相互不信社会が前提となるのであれば、マチ作りはできない。

 日本の本来の美しさは、世界に比類なき相互信頼社会にあると思うのである。

 近代化とともに相互不信社会に移行してしまったが、地方創成の基本はハード的なマチ作りではなく、相互信頼が醸成されるマチなのではと思うのである。

 個人情報保護法や特定秘密に関する法律等は、相互不信社会の賜と思っている。

 時代の流れといえばそれまでであるが、少なくとも地方だけは相互信頼社会が醸成できるようなマチ作りをして欲しいと願うばかりである。

 そこで試されるのは、まさに民主主義のあり方そのものであり、誰かが何かをではなく、自らが何をすべきかを考え、行動することであると思うのである。

 パラサイト意識を捨て、自立可能なマチ作りを目指したいと願わざるを得ない。

(2016年6月 月刊「不動産鑑定」掲載/「相互不信社会とコンパクトシティの行方」)

2021.12.16 18:13 | 固定リンク | 鑑定雑感
相互不信社会とコンパクトシティの行方 ~ Vol.3
2021.12.09
VOL.03  大衆社会の住民意識
 戦後拡大均衡を目指し、ガムシャラに頑張り、ジャパンアズナンバーワンとも言われた日本も、昔日の面影はなく、市民社会を潤してきた大手家電メーカーも次々と外資の門に下っている。

 平成以前に、誰がこのような時代が来ると予想し得たであろうか。

 拡大均衡の夢が限界に来ているというのに、相も変わらず拡大均衡の夢から目覚めないでいる。

 大量生産・大量消費と移動の高速化によって、我々は一体何を手にしたのであろうか。

 特に移動の高速化によって、サラリーマンは出張による束の間の休息さえ奪われ、残ったのは疲ればかりである。

 地方市町村にしても、これまであった支店・営業所が日帰り圏となったために廃止された。

 また、日帰りする人が多くなると、地元で消費されるお金も減少し、地元経済は疲弊する。

 これらの複合的効果によって就業機会が減少し、人口は更に減少する。

 人口減少が続けば、インフラや公共施設の維持管理が困難となり、財政は悪化する。

 大衆社会はとりあえず今日・明日のことで精一杯であるから、その先は考えない。

 日本全国茹でガエル状態となり、気がつけば地方消滅となる。

 明治初期には約4000万人といわれた人口が、1億2千万人と約3倍になったが、明治時代のことを思えば、今の人口が半減したところで大したことはないと思えるのである。

 際限なき経済成長と人口増加が大衆社会の希望するところとは思えないが、かといって、これに代わる国のあり方を示せない以上、国土の均衡ある発展と経済成長のトラウマから逃れることはできないということであろうか。
2021.12.09 11:00 | 固定リンク | 鑑定雑感
相互不信社会とコンパクトシティの行方 ~ Vol.2
2021.12.02
VOL.02 地方消滅による無居住化地域の拡大と財政難
 長期人口推計をどう眺めてみても、この先少子高齢化とこれによる人口減少からは逃れる術もないのは明白である。

 極端な移民政策を執らない限り、全国的には無居住化地域が拡大することになる。

 無居住化地域が拡大するということは、空家が爆発的に増加するということであり、空家対策にも限度があるということを自覚する必要がある。

 コンパクトシティとして短期的には中心市街地の活性化を図ることができるとしても、中長期的には持続的に地域社会を維持することは困難と思われる。

 ところで、コンパクトシティ構想とは、本来的には経済成長に伴って沸き起こったマイホームブームにより拡大した市街地を、少子高齢化時代に合わせていかに縮小均衡させるかということではないかと考える。

 つまり、伸びきったライフラインを少子高齢化に伴う人口減少時代に、これまでと同じように維持管理することは困難であるからである。

 実際、夕張市においても財政破綻以後、急激な人口減少に悩まされ、そのことによって水道・下水道料金を倍増させたが、受益者負担の増大により、更に人口減少を加速させたのである。

 住民からすれば、人口減少により行政サービスの質量が低下しているにもかかわらず住民負担が増えるため、生活のためにやむなく転出することになり、実際にもそうなったのである。

 残った住民は、どちらかといえば経済的弱者が中心であり、そのことにより社会福祉関連の負担が多くなり、更に転出圧力が高まることになる。

 一度こうなると最早手の打ちようがなく、負のスパイラルに陥り、抜け出すことが困難となる。

 夕張市は、財政破綻の一番手であったため、全国的にも有名になり、また東京都から派遣された若き職員が市長となって夕張再生に向けて刻苦奮励しているが、このような市町村が何倍にも増加したら、中央政府としても手の打ちようがなくなるのではと思っている。

 財政破綻が珍しかったからこそ政府も東京都も支援することができたが、あくまでも例外として考えるべきと考える。

 つまり、中央政府も恒常的に財政難に悩まされており、赤字国債に頼る財政運営がこれまでと同じように続けていける可能性が少ない以上、夕張市のような例が増えたらお手上げということになるからである。

 そういう意味では、夕張市は幸運であったと思わざるを得ない。

 二番手・三番手の財政破綻市町村が今後出現する可能性を否定できないが、夕張市と同じような対応はできないであろうし、世間の耳目を集めることもないのではと思わざるを得ない。

 大衆社会とは、目先のことには鋭く反応するが、将来のことにはあまり興味を持たない社会であるような気がするのである。

 本質的に物事を考えない大衆社会は、自滅の道を歩むしかないと思うのは、考えすぎなのであろうか。
2021.12.02 10:09 | 固定リンク | 鑑定雑感

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