鑑定評価は100%が仮説? Vol.2
2019.12.09
VOL.02 測定と評価の相異

 シンクロナイズドスイミングや体操競技のような芸術系の競技と鑑定評価とは、一見なんの関係もないようにみえるが、一定の行為ないし事実に対する評価という意味で関係があると考える。
 極端な事を言えば、陸上競技とシンクロナイズドスイミングの相異と言えば解り易いであろう。

 つまり、前者の競技は全て客観的な物差しによる測定(計測)結果で勝敗が決まるのに対し、後者は演技に対する評価で勝敗が決まるということである。

 シンクロナイズドスイミングのような演技種目の評価は芸術点・技術点からなり、表現・手足の動き等細部にわたって採点基準・評点が決められている。

 また、審判員は複数人で構成され、演技者の評点は最高点と最低点が切捨され、残りの審判員の評価点の合計点で示される。

 何故そうなっているかといえば、採点基準を詳細に規定し、経験豊富な審判員に判定(評価)させたとしても、演技に対する評価者の価値観の相異が反映されるからである。

 これに対し、陸上競技のように勝敗が全て測定(計測)結果によるのであれば、そこに評価という概念が入る余地は極めて少ないので、大勢の審判員を用意する必要はないことになる。

 筆者が考えてみたいことは、評価の持つ本質的な側面についてである。

 昨今、我々の業界を取り巻く環境は厳しく、とりわけ評価者の中味に対する内外の批判は年々と高まってきているように見受けられる。
 これはとりもなおさず、それだけ鑑定評価業務に対する期待が高まってきたことの証左であると考えられる。

 ところで、評価に対する批判の多くは客観性に対するものである。

 それでは評価の客観性を高めるということはどういうことなのか、また、果たして完全な客観性が達成される可能性があるのかどうかについて考えてみたい。

 まず一番解りやすい、ほぼ完全な客観性が達成される事例についてみるものとする。

 完全な客観性とは、理論的にも現実的にも実証可能であること、つまり一定の条件下であれば誰が行なっても同じ結果に達することである。
 言葉を替えれば追試・立証の可能性である。
 その例として陸上競技をあげた。
 陸上競技は審判員の評価という行為は介在しない。
 そこにあるのは、早さ・距離等に対する測定(計測)という行為であって、時間や距離の概念に第三者の評価が入る余地はない。
 そうはいっても、誰が測っても同じ結果になる為には、測定ルール・測定単位・測定する機械を先に用意しなければならないことになる。

 他方、シンクロナイズドスイミングのような芸術競技の勝敗は、時間や距離を図るものではない。
 したがって、いくら基準を細かく決めても測定する物差しや機械がないため、評価結果の客観性を立証することも追試をすることもできない。
 だからこそ経験豊富な審判員を多勢用意し、その上で最高点と最低点を切捨して、残りの審判員の評点で勝敗を決定しているものと思われる。
 つまり、客観性を擬制しているだけで証明はないのである。

 したがって、鑑定評価業務は本質的にはシンクロナイズドスイミングのような芸術競技の審判とほぼ同じと考えられる。

 鑑定評価理論は観念的であり、評価に必要な数値は決められていない。

 ということは、価値判断の物差しが統一されていないということである。
 いくら試験に合格したからといって、神になれる訳ではない。生まれも経験も価値観も異なる多数の鑑定士がいくら手順をつくしたとしても、同じ結論に達すると擬制することには無理があるものと考える。
 つまり、我々は比準価格や収益価格を算出する場合に行なっているのは価格形成要因を測定している訳ではなく、これらのデータに対する鑑定士としての評価(価値判断)を行なっているにすぎないと考えられる。

 評価である以上、そこに経験の差異や価値観の相異が反映されるのは想像に難くない。
 芸術競技のような演技種目は、採点基準や評点を細かく決めていても演技を測定することは出来ないので、演技内容を採点基準に従って評価する他はないのである。

 評価である以上、アテネオリンピックに見るまでもなく、審判員の評価・評点が一致することはほとんどないのである。

 これが評価という行為の現実の姿である。

 つまり、評価という行為の結果は必ずしも一致しないのが常態であることを、我々は認識しなければならないのではないだろうか。
2019.12.09 10:41 | 固定リンク | 鑑定雑感

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