不動産鑑定評価の今日的課題 ~ Vol.4
2024.06.06
VOL.04 取引事例比較法に内在する技術的課題
取引事例比較法の適用に当っては、大まかに言えば次のプロセスを経ている。
1:事例収集
2:取引事例の選択
3:手法の適用
4:比準価格の決定
鑑定評価制度が始まった当初の事例収集は、まさしく足で稼いでナンボの世界であったから、情報収集能力・技術は必須であった。
つまり、取材技術・能力が試されたのである。
取材を通して、実際の取引の実情を肌で感じることができたのである。
情報の真贋を見極める能力は正に技術といっても過言ではない。
アンケートでは、本当の姿は解らない。
当事者の目を見て、取引の状況を聞き、自分なりの意見をぶつけながら判断の妥当性を確認していくという作業は、貴重なものである。
私も修行時代は1日に50~80軒位の自宅や会社を訪ね、取材したものである。
当初は、何と泥臭い仕事であろうと思ったものだ。
しかし、この貴重な体験のお陰で人との付き合い方や取材技術・能力が身に付いたことは否定できない。
実際の不動産取引の現場は、テキストや試験問題のようにキレイなものではない。
しかし、今は新スキームによる事例を机上でただ整理しているだけで、そこから現場の生の声は読み取れない。
人間、楽をすれば確実に技術・能力は低下するし身にもつかない。
取引データが全て真実で、取引当事者が鑑定評価基準に沿って取引してくれれば良いが、現実はそうではない。
大半の取引当事者は一般人であり、不動産の知識もなければ経済の知識もないのである。
また、大金が動くため、取引金額を誤魔化すことも多い。
アンケートで、いくら取引に事情はありませんと記載していても、それが真実かどうかは解らないのである。
『不動産鑑定士を殺すにゃ刃物はいらぬ、嘘の事例が3つあればいい』とは言いたくはないが、可能性は否定できない。
特に田舎では、1年に数件の取引しかないのである。
取引当事者の取材なくしてデータの信頼性を確認することはできない。
取引データが大量にあれば、確率計算によって真実の姿に近づくことが可能ではあると思うが、データ不足の現状の状態では、道は遠い。
次に、取引事例の選択は、本来事例の真実性が確認できなければ選択できないはずである。
しかし、現実的には取引の真実性を確認することなく事例を選択している。
つまり、集まった事例は全て真実であるとの仮説のもとに、評価者の都合の良いデータを選択して計算しているだけである。
都合の悪いデータしか入手できない時は、データを手に入れることになる。
要因比較が完全ならば、比準された試算値は取引のバラツキに比例してバラツクはずであるが、あまりにもバラツキが大きすぎると比準価格を決められないことになる。
もっともらしく見せるためには、都合の良いデータを揃えるか、さもなくばデータに手を入れる、つまり事情補正を加えることになる。
我々は、今のところデータを客観的(数学的)に取捨選択する技術を持っていない。
個人的には、修行時代からずっと疑問に思ってきたことであるが、未だにその方法はなく、鑑定評価の信頼性に疑念を抱かせる温床となっている。
価格形成要因の比較のプロセスについても同様である。
価格形成要因と格差率との相関関係は証明されていない。
評価者は思い思いの格差率を採用しているため、複数人が同一物件を評価するとなかなか一致した数字は出てこない。
比準作業は価格すり合わせ作業に他ならず、科学的分析とは似て非なるものではないかと思っている。
ところで、比準作業のプロセスを点検してみると、実に面白いことが解る。
まず、事情補正である。
基準では事情補正の必要なケースを記載しているが、取引の当事者は大半が素人である。
何も事情がないと言っても平均価格の半値や倍の取引も見られる。
不動産の取引では売りたい・買ってくれと言ったら買い叩かれるのがオチである。
反対に、売って下さいと言ったらフッかけられるのが現実である。
分譲地でない限り、販売目的で不動産を仕入れ保有している個人はいない。
不動産取引は個別事情の坩堝である。
本来、事情補正を必要とする事例は事例の選択の過程で数学的に処理し、採用しないことに限るが、データが少ないため叶わぬ夢となっている。
次に時点修正について考えてみる。
時点修正は、過去のトレンドから現在ないし近い将来を推測する作業であるが、これを科学的に行なう方法は未だ確立されていない。
本来的には数学を駆使してトレンド分析をするべきだと思うが、現実的にはデータも少なく、時間も費用もくれないという状況下では、30年前と同じ方法、つまり公表データを当てにしてエイヤッとやるしかない。
私も能力がないのでエイヤッ方式である。
個人的にはこれまで時点修正率を技術的に求めた評価書を見たことがない。
時点修正率も月単位でコンマ%で表示したり年単位で表示したりと様々である。
しかし実際には何時から上昇したか下落したかは解らない。
単なる仮説でしかないが、評価者には仮説であるという認識もない。
バブル時には時点修正率が年間+30%、地域格差が1%しかないという評価書を随分見たし、自分も同じことをしたが、冷静に考えれば時点修正で全てが決まっているのだから、地域格差の1%をもっともらしく判定したところで、何の説得力もない。
むしろ+30%の時点修正率を問題にすべきだったと思うのだが、感覚が麻痺していたせいか、私も含めて疑問を持つ人は少なかった。
次に、標準化補正という用語は、評価基準には出てこない。
また、標準的使用という用語は評価基準に二度ばかり出てくるが、標準的使用の定義の記載はない。
これまで鑑定評価で大きく判断が分かれ、評価額が大幅に乖離したケースを思い出すと、そのほとんどが標準的使用と最有効使用の判断が異なるものであった。
地域の平均的利用と現況利用がほぼ同一なら、標準的使用と最有効使用が異なることもない。
問題となるのは、平均的利用状態と現況利用が大きく異なる場合、例えば混在地域における大画地とか平均的利用が住宅地なのに店舗の敷地として利用されている場合等がある。
その他には、戸建住宅地域の中のマンション敷地など平均的利用状態と現況利用が一致しない、或いは一致していても利用目的が異なる場合(郊外型マンションのように一番最初に一般住宅地域の中にマンションを建てたパイオニヤ等)等は、評価者によってその判断が大きく分かれることはしばしば見受けられる。(弱気な人は住宅地向きの宅地見込地と判定し、強気な人はマンション用地と判定)
その結果として評価額に大きな差が出るが、その当・不当を論ずることは難しい。
抽象的に標準的使用とは言えても、現実的に判断しようとすると大変なことである。
平均的土地利用と現況利用が同一なら、標準的使用も最有効使用の判断にも困らない。
他方、日本の都市計画は現況利用を追認した絵にすぎないので、用途規制と現況利用が一致しない地域は多く、最有効使用の判定には尚更困難を伴う。
いずれにしても、標準的使用と標準化補正を具体的に定義する必要があるのではないかと考えざるを得ない。
次に価格形成要因とその格差率を考えてみたい。
個人的には、価格形成要因が本当に価格を決めているのか、今もって解らない。
要因があって価格が決まるのなら、取引事例はいらない。要因の学術的研究を深化させれば良いと考える。
しかし、現実の市場を見ると全くこれらの要因とは関係がないように見受けられる。
例えば、株式市場は不動産市場より単純化つまり同質かつ大量の取引が観測されるのであるから、分析は極めて簡単だと思われる。
しかし、実際の株式市場の動きはダイナミックであり、上場会社の業績が毎日変動している訳でもないのに株価は一日のうちでも乱高下する。
不動産と同様に会社の状態等は価格形成要因と考えられるが、会社の状態におかまいなく株価は上下している。
とすれば、価格形成要因とは結局のところ決定された価格を後智恵で説明するためのツールにしかすぎないということになる。
ところで、価格形成要因を細かく見れば更に矛盾を抱えていることが解る。
価格形成要因は、大きくは街路・交通接近・環境・行政の四つの条件に分けられている。
仮に価格形成要因が後知恵であろうとなかろうと妥当だ仮定としても価格形成要因間のウェイトが同じというのは如何かなと思わざるを得ない。
つまり、都会と田舎ではこれらの要因が等しく機能しているとは思えないのである。
土地区画整理事業における評価基準では、これらのウェイトは都市によって異なると明確に認識している。
しかし、鑑定世界でこのような議論がなされた或いは研究成果があるという話は聞いたことがない。
過疎地の商業地域には商業施設がほとんどなく、平均的利用が住宅地に近いところもある。
このような地域では、行政的条件は何の意味も持たない。
また、街路条件では都会では必ずしも広幅員の道路は歓迎されないが、雪の多い地域では除雪車の出入りができない道路は敬遠される。
接近条件は更に複雑である。
交通施設・利便施設相互の影響度合いや影響の有無、これら施設の影響距離・範囲等何一つ科学的データはない。
環境条件に至っては、まさに雲を掴むような話である。
実務上取引価格の差を道路・交通接近・行政的条件で説明できなければ、残りは環境条件による差と片付けるより他はない。
何故なら、環境条件を除くと格差率はともかく、誰が見てもその違いが解る。
つまり前三者は調査・測定すれば誰にでも比較的容易に把握が出来るので、ここであまり無茶をすることはできない。
しかし、環境条件(供給処理施設の有無を除く)は、外見からだけでは解らないから誰も確認できない。
例えば、地価公示の継続地点で年間30%上昇した地点とその周辺の10%上昇した地点の地域格差は環境条件が拡大したと考える他はないことになる。
つまり、道路・交通接近・行政的条件は道路改良や新駅開設・用途変更等がない限りその差は前年と同じはず、と考えられるからである。
そうだとすれば、地域格差は環境条件しか残らないので、やむなく環境条件だと片付けてはいるが、現地を見ると何が変わったのかはさっぱり解らない。
いずれにしても、要因相互の関係・影響度の強弱・何が影響施設となるのか等、解明しなければならない点は多々あると思われるが、このことを議論する人はほとんどいないし、科学的に解明しようとする機運も感じられないので非科学的アプローチは暫く続くのであろう。
地域要因はこの位にして、個別的要因をみることにする。
地域要因と重複する個別的要因は別にして、画地条件に係わるものだけをみることにする。
代表的なのは角地加算率である。角地加算率も評価者によってバラバラである。
何故かといえば、角地加算に関する実務的な研究がないから、各自思い思いに加算しているのである。
ただ、そうは言っても常識はずれの数値を使う訳にもいかないので、お上が決めた数値に準拠してそこから極端に離れないようにしているが、完全に右ならえしている訳でもない。
いずれにしても、角地加算が5%であり、6%にはならないということを証明できる人はいない。
その反対も同じである。
奥行きや規模にしても、同じ問題を抱えている。
我々が自明の理だと思っているこれらの要因や格差率が、取引の現場でも同じだという証明はできていない。
取引事例比較法の適用に当っては、大まかに言えば次のプロセスを経ている。
1:事例収集
2:取引事例の選択
3:手法の適用
4:比準価格の決定
鑑定評価制度が始まった当初の事例収集は、まさしく足で稼いでナンボの世界であったから、情報収集能力・技術は必須であった。
つまり、取材技術・能力が試されたのである。
取材を通して、実際の取引の実情を肌で感じることができたのである。
情報の真贋を見極める能力は正に技術といっても過言ではない。
アンケートでは、本当の姿は解らない。
当事者の目を見て、取引の状況を聞き、自分なりの意見をぶつけながら判断の妥当性を確認していくという作業は、貴重なものである。
私も修行時代は1日に50~80軒位の自宅や会社を訪ね、取材したものである。
当初は、何と泥臭い仕事であろうと思ったものだ。
しかし、この貴重な体験のお陰で人との付き合い方や取材技術・能力が身に付いたことは否定できない。
実際の不動産取引の現場は、テキストや試験問題のようにキレイなものではない。
しかし、今は新スキームによる事例を机上でただ整理しているだけで、そこから現場の生の声は読み取れない。
人間、楽をすれば確実に技術・能力は低下するし身にもつかない。
取引データが全て真実で、取引当事者が鑑定評価基準に沿って取引してくれれば良いが、現実はそうではない。
大半の取引当事者は一般人であり、不動産の知識もなければ経済の知識もないのである。
また、大金が動くため、取引金額を誤魔化すことも多い。
アンケートで、いくら取引に事情はありませんと記載していても、それが真実かどうかは解らないのである。
『不動産鑑定士を殺すにゃ刃物はいらぬ、嘘の事例が3つあればいい』とは言いたくはないが、可能性は否定できない。
特に田舎では、1年に数件の取引しかないのである。
取引当事者の取材なくしてデータの信頼性を確認することはできない。
取引データが大量にあれば、確率計算によって真実の姿に近づくことが可能ではあると思うが、データ不足の現状の状態では、道は遠い。
次に、取引事例の選択は、本来事例の真実性が確認できなければ選択できないはずである。
しかし、現実的には取引の真実性を確認することなく事例を選択している。
つまり、集まった事例は全て真実であるとの仮説のもとに、評価者の都合の良いデータを選択して計算しているだけである。
都合の悪いデータしか入手できない時は、データを手に入れることになる。
要因比較が完全ならば、比準された試算値は取引のバラツキに比例してバラツクはずであるが、あまりにもバラツキが大きすぎると比準価格を決められないことになる。
もっともらしく見せるためには、都合の良いデータを揃えるか、さもなくばデータに手を入れる、つまり事情補正を加えることになる。
我々は、今のところデータを客観的(数学的)に取捨選択する技術を持っていない。
個人的には、修行時代からずっと疑問に思ってきたことであるが、未だにその方法はなく、鑑定評価の信頼性に疑念を抱かせる温床となっている。
価格形成要因の比較のプロセスについても同様である。
価格形成要因と格差率との相関関係は証明されていない。
評価者は思い思いの格差率を採用しているため、複数人が同一物件を評価するとなかなか一致した数字は出てこない。
比準作業は価格すり合わせ作業に他ならず、科学的分析とは似て非なるものではないかと思っている。
ところで、比準作業のプロセスを点検してみると、実に面白いことが解る。
まず、事情補正である。
基準では事情補正の必要なケースを記載しているが、取引の当事者は大半が素人である。
何も事情がないと言っても平均価格の半値や倍の取引も見られる。
不動産の取引では売りたい・買ってくれと言ったら買い叩かれるのがオチである。
反対に、売って下さいと言ったらフッかけられるのが現実である。
分譲地でない限り、販売目的で不動産を仕入れ保有している個人はいない。
不動産取引は個別事情の坩堝である。
本来、事情補正を必要とする事例は事例の選択の過程で数学的に処理し、採用しないことに限るが、データが少ないため叶わぬ夢となっている。
次に時点修正について考えてみる。
時点修正は、過去のトレンドから現在ないし近い将来を推測する作業であるが、これを科学的に行なう方法は未だ確立されていない。
本来的には数学を駆使してトレンド分析をするべきだと思うが、現実的にはデータも少なく、時間も費用もくれないという状況下では、30年前と同じ方法、つまり公表データを当てにしてエイヤッとやるしかない。
私も能力がないのでエイヤッ方式である。
個人的にはこれまで時点修正率を技術的に求めた評価書を見たことがない。
時点修正率も月単位でコンマ%で表示したり年単位で表示したりと様々である。
しかし実際には何時から上昇したか下落したかは解らない。
単なる仮説でしかないが、評価者には仮説であるという認識もない。
バブル時には時点修正率が年間+30%、地域格差が1%しかないという評価書を随分見たし、自分も同じことをしたが、冷静に考えれば時点修正で全てが決まっているのだから、地域格差の1%をもっともらしく判定したところで、何の説得力もない。
むしろ+30%の時点修正率を問題にすべきだったと思うのだが、感覚が麻痺していたせいか、私も含めて疑問を持つ人は少なかった。
次に、標準化補正という用語は、評価基準には出てこない。
また、標準的使用という用語は評価基準に二度ばかり出てくるが、標準的使用の定義の記載はない。
これまで鑑定評価で大きく判断が分かれ、評価額が大幅に乖離したケースを思い出すと、そのほとんどが標準的使用と最有効使用の判断が異なるものであった。
地域の平均的利用と現況利用がほぼ同一なら、標準的使用と最有効使用が異なることもない。
問題となるのは、平均的利用状態と現況利用が大きく異なる場合、例えば混在地域における大画地とか平均的利用が住宅地なのに店舗の敷地として利用されている場合等がある。
その他には、戸建住宅地域の中のマンション敷地など平均的利用状態と現況利用が一致しない、或いは一致していても利用目的が異なる場合(郊外型マンションのように一番最初に一般住宅地域の中にマンションを建てたパイオニヤ等)等は、評価者によってその判断が大きく分かれることはしばしば見受けられる。(弱気な人は住宅地向きの宅地見込地と判定し、強気な人はマンション用地と判定)
その結果として評価額に大きな差が出るが、その当・不当を論ずることは難しい。
抽象的に標準的使用とは言えても、現実的に判断しようとすると大変なことである。
平均的土地利用と現況利用が同一なら、標準的使用も最有効使用の判断にも困らない。
他方、日本の都市計画は現況利用を追認した絵にすぎないので、用途規制と現況利用が一致しない地域は多く、最有効使用の判定には尚更困難を伴う。
いずれにしても、標準的使用と標準化補正を具体的に定義する必要があるのではないかと考えざるを得ない。
次に価格形成要因とその格差率を考えてみたい。
個人的には、価格形成要因が本当に価格を決めているのか、今もって解らない。
要因があって価格が決まるのなら、取引事例はいらない。要因の学術的研究を深化させれば良いと考える。
しかし、現実の市場を見ると全くこれらの要因とは関係がないように見受けられる。
例えば、株式市場は不動産市場より単純化つまり同質かつ大量の取引が観測されるのであるから、分析は極めて簡単だと思われる。
しかし、実際の株式市場の動きはダイナミックであり、上場会社の業績が毎日変動している訳でもないのに株価は一日のうちでも乱高下する。
不動産と同様に会社の状態等は価格形成要因と考えられるが、会社の状態におかまいなく株価は上下している。
とすれば、価格形成要因とは結局のところ決定された価格を後智恵で説明するためのツールにしかすぎないということになる。
ところで、価格形成要因を細かく見れば更に矛盾を抱えていることが解る。
価格形成要因は、大きくは街路・交通接近・環境・行政の四つの条件に分けられている。
仮に価格形成要因が後知恵であろうとなかろうと妥当だ仮定としても価格形成要因間のウェイトが同じというのは如何かなと思わざるを得ない。
つまり、都会と田舎ではこれらの要因が等しく機能しているとは思えないのである。
土地区画整理事業における評価基準では、これらのウェイトは都市によって異なると明確に認識している。
しかし、鑑定世界でこのような議論がなされた或いは研究成果があるという話は聞いたことがない。
過疎地の商業地域には商業施設がほとんどなく、平均的利用が住宅地に近いところもある。
このような地域では、行政的条件は何の意味も持たない。
また、街路条件では都会では必ずしも広幅員の道路は歓迎されないが、雪の多い地域では除雪車の出入りができない道路は敬遠される。
接近条件は更に複雑である。
交通施設・利便施設相互の影響度合いや影響の有無、これら施設の影響距離・範囲等何一つ科学的データはない。
環境条件に至っては、まさに雲を掴むような話である。
実務上取引価格の差を道路・交通接近・行政的条件で説明できなければ、残りは環境条件による差と片付けるより他はない。
何故なら、環境条件を除くと格差率はともかく、誰が見てもその違いが解る。
つまり前三者は調査・測定すれば誰にでも比較的容易に把握が出来るので、ここであまり無茶をすることはできない。
しかし、環境条件(供給処理施設の有無を除く)は、外見からだけでは解らないから誰も確認できない。
例えば、地価公示の継続地点で年間30%上昇した地点とその周辺の10%上昇した地点の地域格差は環境条件が拡大したと考える他はないことになる。
つまり、道路・交通接近・行政的条件は道路改良や新駅開設・用途変更等がない限りその差は前年と同じはず、と考えられるからである。
そうだとすれば、地域格差は環境条件しか残らないので、やむなく環境条件だと片付けてはいるが、現地を見ると何が変わったのかはさっぱり解らない。
いずれにしても、要因相互の関係・影響度の強弱・何が影響施設となるのか等、解明しなければならない点は多々あると思われるが、このことを議論する人はほとんどいないし、科学的に解明しようとする機運も感じられないので非科学的アプローチは暫く続くのであろう。
地域要因はこの位にして、個別的要因をみることにする。
地域要因と重複する個別的要因は別にして、画地条件に係わるものだけをみることにする。
代表的なのは角地加算率である。角地加算率も評価者によってバラバラである。
何故かといえば、角地加算に関する実務的な研究がないから、各自思い思いに加算しているのである。
ただ、そうは言っても常識はずれの数値を使う訳にもいかないので、お上が決めた数値に準拠してそこから極端に離れないようにしているが、完全に右ならえしている訳でもない。
いずれにしても、角地加算が5%であり、6%にはならないということを証明できる人はいない。
その反対も同じである。
奥行きや規模にしても、同じ問題を抱えている。
我々が自明の理だと思っているこれらの要因や格差率が、取引の現場でも同じだという証明はできていない。
不動産鑑定評価の今日的課題 ~ Vol.3
2024.05.31
VOL.03 3.鑑定評価における技術とは何か
鑑定評価において必要な技術とは、一体どういうものなのであろうか。
鑑定評価に必要なのは判断力であり技術は必要はないのであろうか。
それともある程度の技術がなければ判断力は十全のものにならないのであろうか。
ここで鑑定評価に必要な技術とは一体何なのか考えてみたい。
鑑定評価は建築・土木・測量・化学・農業・林業等に関する技術的な知識の他に、法律解釈・判断という法技術的な側面、更には経済分析・市場分析等という経済分野に関する分析技術能力も必要とされる。
ところが、試験科目はこれらの技術的能力や分析能力を問う構成にはなっていない。
また、鑑定評価基準は般若心経の如く、いくら読んでもこれだけでは実際の鑑定評価はできない。
つまり、基準はあくまでも考え方の基本理念を示したもので、実際の作業に即使用可能なマニュアルとはなっていない。
したがって、各分野の専門的なことは机上で考えるだけである。
一般的な特に文科系出身の不動産鑑定士には実際に設計したり測量したりする能力も経験もない。
また、数学・統計学等を駆使して市場分析や経済分析する能力もない。
但し、ごく一部ではあるが、これらの技術・能力を備えている人も見受けられるが、普通の鑑定事務所でこれらの技術的能力を身につけることは不可能に近い。
私に出来ることはせいぜい講釈を垂れるだけで、実務能力はない。
したがって、表面的には先生といって立ててくれるが、陰ではバカにされるだけである。
まァ、時給千円から二千円程度にしかならない簡易鑑定ばかりやっている状態では、無理からぬことではある。
社会は冷徹なもので、不動産鑑定士の評価は鑑定報酬に具体的に表われている。
日雇い人夫並み、いやそれ以下の報酬で働かされている不動産鑑定士の技術・能力は無きに等しく、評価に値しないということであろうか。
話はそれてしまったが、個人的には評価に必要な技術というものを明確に意識したことはなく、また、これらについて実地に訓練されたこともない。
鑑定評価において必要な技術とは、一体どういうものなのであろうか。
鑑定評価に必要なのは判断力であり技術は必要はないのであろうか。
それともある程度の技術がなければ判断力は十全のものにならないのであろうか。
ここで鑑定評価に必要な技術とは一体何なのか考えてみたい。
鑑定評価は建築・土木・測量・化学・農業・林業等に関する技術的な知識の他に、法律解釈・判断という法技術的な側面、更には経済分析・市場分析等という経済分野に関する分析技術能力も必要とされる。
ところが、試験科目はこれらの技術的能力や分析能力を問う構成にはなっていない。
また、鑑定評価基準は般若心経の如く、いくら読んでもこれだけでは実際の鑑定評価はできない。
つまり、基準はあくまでも考え方の基本理念を示したもので、実際の作業に即使用可能なマニュアルとはなっていない。
したがって、各分野の専門的なことは机上で考えるだけである。
一般的な特に文科系出身の不動産鑑定士には実際に設計したり測量したりする能力も経験もない。
また、数学・統計学等を駆使して市場分析や経済分析する能力もない。
但し、ごく一部ではあるが、これらの技術・能力を備えている人も見受けられるが、普通の鑑定事務所でこれらの技術的能力を身につけることは不可能に近い。
私に出来ることはせいぜい講釈を垂れるだけで、実務能力はない。
したがって、表面的には先生といって立ててくれるが、陰ではバカにされるだけである。
まァ、時給千円から二千円程度にしかならない簡易鑑定ばかりやっている状態では、無理からぬことではある。
社会は冷徹なもので、不動産鑑定士の評価は鑑定報酬に具体的に表われている。
日雇い人夫並み、いやそれ以下の報酬で働かされている不動産鑑定士の技術・能力は無きに等しく、評価に値しないということであろうか。
話はそれてしまったが、個人的には評価に必要な技術というものを明確に意識したことはなく、また、これらについて実地に訓練されたこともない。
不動産鑑定評価の今日的課題 ~ Vol.2
2024.05.23
VOL.02 鑑定評価作業における技術的進歩
鑑定評価作業をサポートする事務機器の進歩は目覚ましいものがある。
30年位前までは、評価書は手書きのものが多かった。
ワープロが発明されてからはワープロによる評価書が主流となった。
それでも当時は地価公示の評価書がワープロで作成されることに否定的であった。
今考えればお笑いである。
当時の国土庁も鑑定協会もトクトクと地価公示の評価書は手書きでなければダメだと言い張っていたのである。
今はコンピュータである。
早いしチェックもし易いとのことで、当時とは180度回転し、手書き評価書は厳禁である。
当時、誰がこのような時代が来ると予想できたであろうか。
人間とはかくもいい加減な存在であると思わざるを得ない。
鑑定世界でなくとも、身近に例はある。
それは法務局の図面である。
20年位前までは、図面のコピーは厳禁であった。
当時としても、納得のいく合理的説明はなかった。
図面はすべてトレーシングペーパー(懐かしい言葉である)を使用し、定規と鉛筆でなぞるのである。
補助者の重要な仕事である。
私も法務局で要領良く図面をトレースすることに精を出した。
短時間に大量の分筆図や建物図面をトレースするのは大変である。
不器用な人では時間がかかりすぎるし、見落としも多く、何度も法務局に通うことになる。
時代が変わり、今はコピー機で一発であり、技術・経験は不要である。
最近は更に進化し、インターネットにより法務局備付の地図をプリントアウトすることも可能となった。
絶対に図面はコピーさせないと頑張った当時の法務省の役人の思考は、一体何だったのか。
何時の時代でも、合理的な根拠も示さずダメダメと言っていた人間が、何時の間にかコロット前言を翻し、何事も無かったかのように行動していることを見るにつけ腹が立つ。
話が横道にそれたが、反省のないところや失敗のないところに技術の革新はない。
前述のように、鑑定評価作業を取り巻く事務環境は技術の進歩のお陰で様変わりした。
手書きタイプからコンピュータへ、算盤から電卓・コンピュータへ、手紙からFAX、FAXからメールへと変わったが、鑑定評価の本質的な部分で進歩と言える部分があったかと問われれば、疑問を呈せざるを得ない。
もっとも私の能力のなさを棚に上げての話だが、周辺の状況を見ても、本質的な進歩の形跡は見られない。
鑑定評価作業をサポートする事務機器の進歩は目覚ましいものがある。
30年位前までは、評価書は手書きのものが多かった。
ワープロが発明されてからはワープロによる評価書が主流となった。
それでも当時は地価公示の評価書がワープロで作成されることに否定的であった。
今考えればお笑いである。
当時の国土庁も鑑定協会もトクトクと地価公示の評価書は手書きでなければダメだと言い張っていたのである。
今はコンピュータである。
早いしチェックもし易いとのことで、当時とは180度回転し、手書き評価書は厳禁である。
当時、誰がこのような時代が来ると予想できたであろうか。
人間とはかくもいい加減な存在であると思わざるを得ない。
鑑定世界でなくとも、身近に例はある。
それは法務局の図面である。
20年位前までは、図面のコピーは厳禁であった。
当時としても、納得のいく合理的説明はなかった。
図面はすべてトレーシングペーパー(懐かしい言葉である)を使用し、定規と鉛筆でなぞるのである。
補助者の重要な仕事である。
私も法務局で要領良く図面をトレースすることに精を出した。
短時間に大量の分筆図や建物図面をトレースするのは大変である。
不器用な人では時間がかかりすぎるし、見落としも多く、何度も法務局に通うことになる。
時代が変わり、今はコピー機で一発であり、技術・経験は不要である。
最近は更に進化し、インターネットにより法務局備付の地図をプリントアウトすることも可能となった。
絶対に図面はコピーさせないと頑張った当時の法務省の役人の思考は、一体何だったのか。
何時の時代でも、合理的な根拠も示さずダメダメと言っていた人間が、何時の間にかコロット前言を翻し、何事も無かったかのように行動していることを見るにつけ腹が立つ。
話が横道にそれたが、反省のないところや失敗のないところに技術の革新はない。
前述のように、鑑定評価作業を取り巻く事務環境は技術の進歩のお陰で様変わりした。
手書きタイプからコンピュータへ、算盤から電卓・コンピュータへ、手紙からFAX、FAXからメールへと変わったが、鑑定評価の本質的な部分で進歩と言える部分があったかと問われれば、疑問を呈せざるを得ない。
もっとも私の能力のなさを棚に上げての話だが、周辺の状況を見ても、本質的な進歩の形跡は見られない。