疑似科学と反知性主義 ―鑑定評価の不都合な現実― ~ Vol.1
2023.09.07
VOL.01 科学リテラシーと評価の公平性と市場価格
 科学リテラシーとは、科学的な研究方法を理解し、科学とその成果に対して適切な態度をとれる技能のこととされている。

 ところで、鑑定評価における評価計算のプロセスはデータと数字の解釈から構成されているが、評価書の利用者は、数字があたかも科学的粧いをもっているため、試験に合格さえすれば、誰が(年齢・経験の有無に関係なく)評価しても同じ結果になると誤解している。

 利用者は評価の仕組が良く解らないため、誤解するのはやむを得ないとしても、評価者自らがそのことを良く理解していないため、対立関係にある他の評価者との評価結果が異なると、自分の出した結果を盲信し、相手方を非難する。

 評価のプロセスは数字とデータの解釈であり、評価そのものは科学ではなく、評価者の意見にすぎない。

 何故なら、評価結果の再現性はなく、追試・検証のしようがないからである。

 年齢・経験等が様々な多数の評価者の評価結果が一致することなど、あり得ないのである。

 評価結果が倍違うこともあること等日常茶飯事であるが、一般社会にそのことを説明しようともしない。

 尚、公的評価が一見科学的に見え、結果がほぼ一致しているのは、担当者による意見の調整によるものであると考えられるが、取引の観点からはともかく、課税上の観点からみれば、公平性が保たれているのではと思われる。

 しかし、個々の取引の現状をみると、公平性とは無関係にその時々の経済情勢や取引当事者の事情を反映して跛行的であるがため、個別の評価結果が公的評価と乖離することがあるが、どちらがより客観的かは判然としない。

 公的評価の方が客観的だとすると、個々の鑑定士の評価は不用となるが、実際にそのような動きが見られるので紹介する。

 時事通信社の記事によれば、県有地の売却が進まないため、売却予定価格の査定を不動産業者に依頼する動きが広がりつつあり、その理由は、鑑定士の評価格では売れないからということである。

 評価の公平性と市場価格は必ずしも一致しないことが露呈した形となってこのような動きになっていることを、深刻に受け止める必要があると考える。

 いずれにしても、筆者に評価上必要な科学リテラシーがあるかと問われれば、あるとはとても言えないので、反省するしかないと思っている。
2023.09.07 10:54 | 固定リンク | 鑑定雑感
不動産を哲学する?―身の程知らずの哲学的迷走― ~ Vol.5
2023.08.31
VOL.05 不動産のジレンマとグローバリズム

 実体としての不動産は世界中に存在しており、これらに対する認識ギャップは国際的にみても少ないものと思われる。

 これに対して、観念としての不動産は、その国特有の文化・制度・言語等の相異から、相互の認識ギャップは大きくなる可能性がある。

 これまで、自国内における人・モノ・金の往来は、必ずしも自由ではなかったことから、その地方における観念としてのギャップは小さかったと思われる。

 しかし、明治以降中央集権体制が完成し、自国内における移動も自由となったため、都会と地方における観念としての不動産世界の認識ギャップが大きくなり、それにつれて不動産に対する問題が増加したものと考えられる。

 これらの問題を解決するために都市計画法や建築基準法等が作られたが、これらによっても十分に対応できなかったことから、その後も沢山の不動産に関する行政法規が作られてきた。

 その一方、観念としての不動産のギャップを埋めることは容易ではないことから、このギャップを縮小し、問題を少なくさせるため各種の資格制度が創設されたのは周知のとおりである。

 ところで、この資格制度の頂点に君臨するのが司法試験である。

 それ以外は、細分化された分野毎に資格制度が作られている。

 税務・会計分野では、税理士・公認会計士、取引・流通分野では、宅地建物取引士・司法書士・土地家屋調査市等がある。民間資格も似たり寄ったりで、不動産コンサルタント・再開発プランナー・不動産カウンセラー等があり、資格制度は花盛りである。

 それぞれ業務に応じて専門分野を有しているが、各資格制度相互の境界領域に属することも多くみられる。

 各資格者はそれぞれムラ社会を形成しているが、資格者・制度の数に比例して観念としての不動産に対する認識の境界領域も増加し、問題も多くなる。

 とはいっても、これらの問題は自国内に限られるため、ある意味解決は可能である。


 ところがTPPのように、加盟各国の固有の事情を飛ばして各国の企業の思惑に振り回されるとなると、更にヤッカイなことが多くなるのではと危惧している。


 観念として認識される不動産は、その国特有の制度・文化・言語等が反映されているが、観念としての不動産を説明し、認識させるためには、各国におけるこれらの相異を克服しなければならないことになる。

 このことがどれ程大変なことかは想像に難くないが、普段何気なく分かったつもりで話題にしていた不動産という概念に、これ程深い領域があったということを露ほども知らずに今日まで過ごしてきてしまった。

 これまでは、不動産と土地・建物の相異は、人との関わりの有無にあると漠然と考えていたが、「観念論の教室」(冨田恭彦著・ちくま新書)という著書に出会って、はじめて自分なりに整理できたのではと考えている。

 もっとも、このこと自体観念であるから、第三者が知覚・認識することはできない。

 一国内でさえこうなのであるから、これがグローバルな世界になると、一体どうなるのかは分からない。

 TPPによる不動産分野にわたる影響がどの程度のものかは予測できないが、不動産というものの本質を考えるツールとしての観念論も大事なのではと思っている。
 浅学非才にもかかわらず観念論をつまみ喰いして考えてみたが、身の程知らずがと言われれば、誠にごもっともとしか言いようがないので、この辺でそろそろ観念しようと思っている。


(2015年12月 Evaluation No.59掲載/「不動産を哲学する?―身の程知らずの哲学的迷走」)

2023.08.31 14:30 | 固定リンク | 鑑定雑感
不動産を哲学する?―身の程知らずの哲学的迷走― ~ Vol.4
2023.08.24
VOL.04 不動産と資格制度

 以上のように、不動産は、物体としての知覚可能な領域と、観念としての知覚不可能な領域を含むため、人によってはその認識にズレを生じさせることが多い。

 そのため、可能な限り不動産に対する認識のズレを少なくさせることが社会的に要請されると考える。

 つまり、不動産に関する行政法規が多いのは、土地・建物の利用者相互の利害調整を図ることが必要であることにほかならない。

 人口密度が極めて低かった時代には、利用者相互の利害が発生する可能性は低いので、法的規制の必要性がなかったということができるのである。

 ところで、近代化により、都市化が急速に進み、それにつれて不動産に関するトラブルも急増している。

 そのため、不動産に関する行政法規が数多く作られてきたが、一般市民が数多くのこれらの法規を全て理解することは困難である。
 そのためには、一般市民の観念と行政法規との認識のギャップを埋める必要が生じるが、そのギャップを埋めるための手段の一つが、資格制度と考える。

 しかし、その資格制度も多種多様な行政法規と観念される認識ギャップの多様性から、細分化されている。

 民間資格も含めて、一体どれだけの資格制度があるのか、正確に知る人は少ない。

 不動産にかかわる業務は多種多様であるので、特定の業務に応じて資格制度を細分化することはやむを得ないと考えるが、そのことにより、同一資格者内部や他の資格者との競合領域において観念のズレが生じることも起こりうることになる。

 実体については、科学技術の進歩によってこれまで知覚不可能なものであったものが知覚可能となる可能性は高いが、観念の世界は時代・人種・国・文化・性別・年齢等によっても異なる可能性が高いので、相互の認識ギャップを埋めることは困難と思われる。
2023.08.24 09:15 | 固定リンク | 鑑定雑感

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