疑似科学と反知性主義 ―鑑定評価の不都合な現実― ~ Vol.2
2023.09.14
VOL.02 相関関係と因果関係

 鑑定評価のプロセスでは、相関関係と因果関係を区別することなく取り扱うことが多い。

 ところで、鑑定評価の科学性を問うため、しばしば統計学的分析手法であるヘドニック関数を利用した研究が見られるが、個人的には過去の価格を分析しているだけで、現在・将来の価格の測定は出来ないし、更に問題なのは、生データを使った分析ではないことにあると思っている。

 数学者でもない筆者がとやかく批判できる能力も立場にもないが、取引データを収集・整理させられている(?)一現場担当者としては、バラツキが多く、取引件数が極めて少ないのに、どうやったら分析できるのか、さっぱり理解できないのである。

 データを都合良く取捨選択して分析する態度は、少なくとも科学的態度とは言えず、ある意味でスタップ細胞問題そのものと同根といえるのではないかと思うのである。

 不動産市場も他の市場と同様に相当激しく乱高下することを身をもって体験した者としては、市場変動を数学的に分析・立証が可能なら、均質なデータが山ほどある為替市場や株式市場は、不動産市場よりもっと簡単に分析・立証できるのではないかと思っている。

 ヘドニック関数で不動産市場の全てを分析・立証可能なら、市場の透明性が極めて高い為替市場や株式市場の分析・立証ができないのは何故か、説明して欲しいと願うばかりである。

 出来ないというなら、為替市場や株式市場と不動産市場は全く別の理屈で動いているとでもいうのであろうか。

 もし、不動産市場が全く別の理屈で形成されているというのなら、そのことも説明して欲しいと思っている。

 30年以上鑑定評価業務を経験してきたが、今もって良く解らない。

 結論に合わせて都合良くデータを取捨選択の上解釈しているのに、データを分析したら答えが出ると錯覚させているため、誰が評価しても同じと利用者を誤解させ、そのことが入札を助長させている。

 試験に合格したら、全員が同じことができるのなら、医者も弁護士も入札で決めれば良いのである。
 
 ヤブ医者であろうがゴッドハンドといわれる名医であろうが、安ければ良いというのなら、その結果を黙って受け容れて欲しいと思うのである。

 愚痴が多くなったがご容赦願うとして、「なぜ疑似科学が社会を動かすのか/PHP新書・石川幹人著」によれば、『相関関係とは、あるデータの変化と別のデータの変化に単に関連が見られるということであり、ここでは何が原因であるかは問われず、両方のデータが連動して変化していることが問題となる。一方、因果関係とは、ある原因によって他の結果が引き出されることをいう』としている。(詳しくは同書参照)

 これを鑑定評価のプロセスで見ると、多数の取引事例の価格と、各々の事例の位置・接道関係・画地条件等の価格形成要因と称するモノとの間に因果関係があるから、価格形成要因が決まれば価格が決まると考えることである。

 経済学的にいえば、価格は需要と供給で決まるのであり、不動産だけが価格形成要因と称する要因で価格が決まると仮定することは、無理があるとしか考えられない。

 地方の不動産を評価しようと思っても、同種同類型の取引事例がほとんどなく、やむなく2・3年前の事例を使って誤魔化すようなことをしているが、取引の変動状況を確認するデータがないのであるから、評価とは言いつつも、結局のところどう思うか(専門家?としての個人的意見)で決めざるを得ないのである。

 このような地域では、評価結果が評価者によって倍・半分程も異なることがしばしば見られるが、どちらが正しいかは誰も解らないのである。

 仮に、価格形成要因と称する要因の良し悪しと取引価格の間には相関関係があるとしても、因果関係はなく、また、定性的要因を定量的に計測する技術は未だに確立されていないのである。

 一例を挙げると、固定資産評価基準においては、普通住宅地域の角地は3%の加算としているのに、併用住宅地域になると8%の加算とハネ上がるが、この5%の開差に対する科学的証明はないのである。

 尚、土地価格比準表では、標準住宅地域で角地加算が3%~10%と4段階、混在住宅地域で3%~12%の4段階に区分しているが、その基準は快適性・利便性という定性的なものであるから、加算の割合は評価者の感じ方次第ということになる。

 いずれにしても、評価者の判断で角地加算が2%になったり7%になったり、あるいは3%から10%になったりするが、はたしてそれ程の効用差があるのか、個人的には今もって全く解らない。

 相関関係があるのかどうかさえ判然としないのに、因果関係的に説明する態度はいかがなものかと思っている。

 蛇足ながら、実際の取引を見ると、角地の方が安かったりする例が見られるが、評価上このデータを採用する場合は、角地の方が高いという科学的に証明されていない根拠を基に売り急ぎと判定してデータを補正するが、まさにこのこと自体が疑似科学的行為ということになるのではと思われる。
2023.09.14 10:43 | 固定リンク | 鑑定雑感
疑似科学と反知性主義 ―鑑定評価の不都合な現実― ~ Vol.1
2023.09.07
VOL.01 科学リテラシーと評価の公平性と市場価格
 科学リテラシーとは、科学的な研究方法を理解し、科学とその成果に対して適切な態度をとれる技能のこととされている。

 ところで、鑑定評価における評価計算のプロセスはデータと数字の解釈から構成されているが、評価書の利用者は、数字があたかも科学的粧いをもっているため、試験に合格さえすれば、誰が(年齢・経験の有無に関係なく)評価しても同じ結果になると誤解している。

 利用者は評価の仕組が良く解らないため、誤解するのはやむを得ないとしても、評価者自らがそのことを良く理解していないため、対立関係にある他の評価者との評価結果が異なると、自分の出した結果を盲信し、相手方を非難する。

 評価のプロセスは数字とデータの解釈であり、評価そのものは科学ではなく、評価者の意見にすぎない。

 何故なら、評価結果の再現性はなく、追試・検証のしようがないからである。

 年齢・経験等が様々な多数の評価者の評価結果が一致することなど、あり得ないのである。

 評価結果が倍違うこともあること等日常茶飯事であるが、一般社会にそのことを説明しようともしない。

 尚、公的評価が一見科学的に見え、結果がほぼ一致しているのは、担当者による意見の調整によるものであると考えられるが、取引の観点からはともかく、課税上の観点からみれば、公平性が保たれているのではと思われる。

 しかし、個々の取引の現状をみると、公平性とは無関係にその時々の経済情勢や取引当事者の事情を反映して跛行的であるがため、個別の評価結果が公的評価と乖離することがあるが、どちらがより客観的かは判然としない。

 公的評価の方が客観的だとすると、個々の鑑定士の評価は不用となるが、実際にそのような動きが見られるので紹介する。

 時事通信社の記事によれば、県有地の売却が進まないため、売却予定価格の査定を不動産業者に依頼する動きが広がりつつあり、その理由は、鑑定士の評価格では売れないからということである。

 評価の公平性と市場価格は必ずしも一致しないことが露呈した形となってこのような動きになっていることを、深刻に受け止める必要があると考える。

 いずれにしても、筆者に評価上必要な科学リテラシーがあるかと問われれば、あるとはとても言えないので、反省するしかないと思っている。
2023.09.07 10:54 | 固定リンク | 鑑定雑感
不動産を哲学する?―身の程知らずの哲学的迷走― ~ Vol.5
2023.08.31
VOL.05 不動産のジレンマとグローバリズム

 実体としての不動産は世界中に存在しており、これらに対する認識ギャップは国際的にみても少ないものと思われる。

 これに対して、観念としての不動産は、その国特有の文化・制度・言語等の相異から、相互の認識ギャップは大きくなる可能性がある。

 これまで、自国内における人・モノ・金の往来は、必ずしも自由ではなかったことから、その地方における観念としてのギャップは小さかったと思われる。

 しかし、明治以降中央集権体制が完成し、自国内における移動も自由となったため、都会と地方における観念としての不動産世界の認識ギャップが大きくなり、それにつれて不動産に対する問題が増加したものと考えられる。

 これらの問題を解決するために都市計画法や建築基準法等が作られたが、これらによっても十分に対応できなかったことから、その後も沢山の不動産に関する行政法規が作られてきた。

 その一方、観念としての不動産のギャップを埋めることは容易ではないことから、このギャップを縮小し、問題を少なくさせるため各種の資格制度が創設されたのは周知のとおりである。

 ところで、この資格制度の頂点に君臨するのが司法試験である。

 それ以外は、細分化された分野毎に資格制度が作られている。

 税務・会計分野では、税理士・公認会計士、取引・流通分野では、宅地建物取引士・司法書士・土地家屋調査市等がある。民間資格も似たり寄ったりで、不動産コンサルタント・再開発プランナー・不動産カウンセラー等があり、資格制度は花盛りである。

 それぞれ業務に応じて専門分野を有しているが、各資格制度相互の境界領域に属することも多くみられる。

 各資格者はそれぞれムラ社会を形成しているが、資格者・制度の数に比例して観念としての不動産に対する認識の境界領域も増加し、問題も多くなる。

 とはいっても、これらの問題は自国内に限られるため、ある意味解決は可能である。


 ところがTPPのように、加盟各国の固有の事情を飛ばして各国の企業の思惑に振り回されるとなると、更にヤッカイなことが多くなるのではと危惧している。


 観念として認識される不動産は、その国特有の制度・文化・言語等が反映されているが、観念としての不動産を説明し、認識させるためには、各国におけるこれらの相異を克服しなければならないことになる。

 このことがどれ程大変なことかは想像に難くないが、普段何気なく分かったつもりで話題にしていた不動産という概念に、これ程深い領域があったということを露ほども知らずに今日まで過ごしてきてしまった。

 これまでは、不動産と土地・建物の相異は、人との関わりの有無にあると漠然と考えていたが、「観念論の教室」(冨田恭彦著・ちくま新書)という著書に出会って、はじめて自分なりに整理できたのではと考えている。

 もっとも、このこと自体観念であるから、第三者が知覚・認識することはできない。

 一国内でさえこうなのであるから、これがグローバルな世界になると、一体どうなるのかは分からない。

 TPPによる不動産分野にわたる影響がどの程度のものかは予測できないが、不動産というものの本質を考えるツールとしての観念論も大事なのではと思っている。
 浅学非才にもかかわらず観念論をつまみ喰いして考えてみたが、身の程知らずがと言われれば、誠にごもっともとしか言いようがないので、この辺でそろそろ観念しようと思っている。


(2015年12月 Evaluation No.59掲載/「不動産を哲学する?―身の程知らずの哲学的迷走」)

2023.08.31 14:30 | 固定リンク | 鑑定雑感

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