民・百姓おかまいなし ~ Vol.5
2025.05.16
VOL.05 財政改革の先達に学ぶ

 小泉首相は繰り返し国民に対して構造改革に伴う痛みを訴えている。
 痛みなくして構造改革なしである。

 しかし、ちょっと待っていただきたい。

 時代・経済規模の差こそあれ、我々日本人の先達は現在と同様の国難に立ち向かい、財政再建をなしとげているが、その基本精神のありようには雲泥の差が認められる。

 米百俵の精神でないが当事者であった長岡藩や、上杉鷹山で有名な米沢藩等の藩政改革をみると、痛みの意味の違いが解ろうと思うのである。

 江戸初期には既に経済構造の変化や低成長時代の中で日本各地の藩の財政は現在の比ではない位に悪化しつつあった。
 この時代、藩政改革に成功した藩主や財政改革の企画立案、実行した支配階級である武士達(官僚達)の基本精神を米百俵の精神を説く前に体得して欲しいものである。
 米沢藩の藩主となった上杉鷹山は萩原裕雄著「米百俵」によれば、自らの生活費を約10分の1に減額している。
 また、同著によれば松代藩の改革を担った恩田杢の財政改革の基本は「嘘をつかないこと」にあるとしている。 
 更に、姫路藩の財政改革の特命を受けた河合寸翁は財政の現状を正しく伝え、改革の必要性を領民に期待してもらうよう努めている。

 このように、江戸期の藩政改革に成功した各藩に共通しているのは財政改革の責任者自らが一番厳しい責めを負っていることである。

 ひるがえって現代日本を見ると、唖然とするばかりである。

 江戸時代の支配階級たる武士即ち、倒産・失業の心配がなく暮らしていた人達、現代でいえば官僚がそれに当たると思われるが、その官僚や元官僚の不祥事の多さにはただ気が滅入るだけである。

 倒産・失業の心配がなく、有給休暇を100%消化し、高額の退職金をもらい、あまつさえワークシェアリングと称し、定年延長を企み、安穏とした生活を送っている。
 これに手をつけず、足りない金は民・百姓を絞り上げ、それでも足りない分は民・百姓に痛みを負わせようとしている。
 政府が救済の手を差し伸べるのは倒産すると影響が大きいからという理由で、銀行や大企業ばかり。
 そして経営者は高額の給料と退職金をもらい、破綻すればさっさと辞めて悠々自適の生活を送っている。

 他方、中小零細の経営者は自分の命や家族のお金までも保証として差し出し、何かあれば自殺しなければならないような状況に追い込まれているのが実態である。

 銀行や大企業の経営者が自宅や家族のお金まで担保に差し出したという話は聞いたことが無い。
 中小零細企業の経営者はたかが10数万円のお金を借りるのでさえ担保、担保と厳しく要求される。
 この落差のあまりの大きさ、責任の取らされ方に憤りを通り越し、あきれ返るばかりである。

 我が国の構図は時代劇風に言えばまさに「お代官様と越後屋」を中心に回っていると言って過言ではなかろう。

 ハイリターンを得ている人達がノーリスクないしローリスクの中で生き、ローリターンの人達がハイリスクに取り囲まれているという、市場経済の原則から大きくはずれたこのような状況に手をつけずに構造改革はありえないと思うのである。

 構造改革の基本は藩政改革の先達の言葉を借りるまでもなく、

  正確な情報公開
  嘘をつかない政治・行政
  上に立つ者程自分に厳しく

 が原則と思うのである。

 外務省の裏金や横領問題、厚生省のハンセン氏病やヤコブ病の責任の取り方、農水省の狂牛病問題等を見ると、現代の行政官僚や政治家の行動は先達の理念からはほど遠いと言わなければならない。

 証拠を山ほど積まれてもガンとして認めず、司法の手が入ればあっさり白状する等潔さはひとかけらも見られないし、その上司に至っては担当者個人の責任であって自分には一切関係が無いような態度は腹にすえかねると思うのは私一人であろうか。

 日本の法律では使用者責任というのがあり、部下の不祥事は即上司の責任となるのに、官僚社会には使用者責任はないのであろうか。
 外務省人事にみるとおり、担当大臣には人事権もない形だけの使用者であるから、実質使用者は次官である。
 その実質使用者が使用者責任を厳しく問われず、また、仮に形式上責任を取ったとしても、高額の退職金と天下り先を用意し、手厚く生活の保障をしているに至っては何をかいわんやである。

 権力・経済のピラミッドの上部にいる者のみが痛みを感じず、その底辺にいる民・百姓ばかりが痛みを背負わされる時代はまさに江戸時代と同じで「民・百姓おかまいなし」である。

 本当に行政改革や構造改革をやる気なら、先達に見習いまず「隗より始めよ」と言いたい。
 民・百姓が痛みの大部分を背負う構造改革は願い下げである。

(2002年1月 「民・百姓おかまいなし」)
 

2025.05.16 09:50 | 固定リンク | 鑑定雑感
民・百姓おかまいなし ~ Vol.4
2025.05.08
VOL.04 官の無謬性と性悪説

 小泉首相は国民に痛みに耐えてくれと言い続けている。
 また、米百俵の精神を持ち出し、国民に情緒的に訴えている。
 その精神は良しとし、マスコミもこぞって小泉礼賛に傾いている。

 しかし、ちょっと待っていただきたい。

 戦前は無節操に大本営本部の官制情報をたれ流し、神国ニッポン万歳・鬼畜米英といいだけ国民を煽っておいて、ポツダム宣言受諾後は、あたかも昔から民主主義の信奉者のような顔をして民主主義万歳を言い立ててきたマスコミには、今の政府や官僚に対して批判する資格は無い。

 客観的に事実を把握し、批判するというマスコミ本来の仕事を放棄してきており、それは現在においても改められることなく(少なくともそう見える)、自分達だけが社会正義の実現者のような顔をしているのはいかがなものであろうか。

 いずれにしても、日本人は過去の失敗に対しての反省が足りないと思う。

 例えば、第二次大戦中の大本営参謀本部という組織を考えてみたい。

 この組織には、当時の日本の最高知識レベルの軍人が集まっていたのである。
 その彼らが戦争末期に採用した特攻作戦をみると、彼らが正気であったとは思えないのである。
 彼らが全員正気ではなく、心神耗弱状態にあったと言うのなら致し方がない。

 しかし、参謀本部にいた全ての作戦参謀が心神耗弱であったとは言い逃れる事はできないであろう。
 少なくとも、物事の是非を理解する能力はあったはずである。

 戦争遂行に関するあらゆる情報を一手に握っていながら彼我の戦力の差を理解できなかったはずはないのに、全国からかき集めたオンボロ飛行機をやっと修理しつつ、これに年端もいかない子供達に特攻志願させ、片道燃料に爆弾を積ませ死に追いやる作戦の無謀さには今考えても怒りを覚えるが、補給のきかない特攻作戦なんぞ線香花火と同じである。

 この作戦は国民の情緒に訴え国民を真実の姿から目をそらす為、言葉を変えれば参謀本部の無能力を覆い隠す為だけに若者は死に追いやられたと考えるのは穿ちすぎであろうか。
 連合軍の圧倒的な武力と補給能力を見れば特攻作戦以前に戦争継続は困難だと解っていた筈であり、原爆2発を落とされ何十万人も殺される前に戦争を止めることはできたと想うのは私一人ではあるまい。

 それなのに、何故彼らは自ら仕掛けた戦争をこの後に及んで止めると言い出せなかったのか?

 それはただ一点「責任を取りたくないこと」に尽きると思うのである。

 新型爆弾は予想外のことであり、これにより何十万人も死んだことで作戦を回避する口実ができた為、やっと止めることができたのである。

 それは昨今の外務省や厚生省、農水省の対応を見れば一目瞭然である。

 彼らは責任を取りたくない一心でどれほど証拠を積まれようが、判決が出ようが、彼らの責任が問われない事がハッキリしない限り結果責任を認めることはないのである。

 また、仮に責任があるとされれば部下に全ての責任を負わせ、トカゲの尻尾切りのように切り捨ててしまうのは国民皆が十分知るところである。

 このように、戦前も戦後も行政システムに何か問題が起きれば全て個人の問題に帰してしまい、組織上何が問題であったか議論された形跡さえ見当たらない。
 どうも日本人、特に官僚は、性善説に立ちすぎているのではなかろうか。

 人間は間違うものである。
 出来心ということもある。
 神や仏の身ではない人間のやる事である。
 個人ではどうにも防ぎようのないことを補完するのが組織ではないのか。
 組織は人の集まりではあるが、組織の全ての構成員が神・仏でない以上、間違い・失敗・出来心を完全に防ぐのは至難の技である。

 明治以来、情報・知識・権力の面で民・百姓の上に君臨し、官の無謬性の神話の上にこれまでやってきたが、行政の無謬性はとうの昔に期待できなくなっている。
 それなのに、民・百姓は官に無謬性を求め、マスコミは官の無謬性を前提にして、官の間違いを情緒的にあげつらうのはいかがなものであろうか。
 組織というのは少なくとも性悪説の立場に立って間違い・出来心を前提に運営を考えるべきである。
 日本型の組織の脆弱さはある意味で性善説の立場に立ったお人よしの面があるのは否定できない。
 北海道拓殖銀行を始め、長期信用銀行・日本債券信用銀行・山一證券等々の倒産した大企業でさえごく少数の人間の暴走を止められず、倒産・破綻の憂き目にあっている。

 我々は今一度人間は間違うもの、失敗するものということを前提に、組織を再構築する時期にきているのではないかと思うのである。

2025.05.08 09:45 | 固定リンク | 鑑定雑感
民・百姓おかまいなし ~ Vol.3
2025.04.24
VOL.03 3.構造改革の前にまず意識改革を

 入れ物を変えただけで意識が変わると思うのは早計である。

 何故なら、倒産・失業というリスクのない生活を長年続けてきた人にそのリスクを我が身に感じさせることは不可能に近いからである。

 祝祭日・盆暮れの休みに加えて有給休暇を100%消化する生活(驚くなかれ、彼らは年間200日程度しか働いていないのである)に何の疑問も持たずに働いてきた人々に倒産・失業という心配がない以上、コスト意識が芽生えようもなく、民営化・独立行政法人化の意味するところを肌身に感じることは難しい。

 政府や地方公共団体、公社・公団・特殊法人等が膨大な赤字を抱えるようになった背景は、まさに倒産・失業というリスクからかけ離れたところで長年仕事をしてきた人達のコスト意識の無さそのものにあると言っても過言ではないと思われる。

 倒産・失業というリスクのない世界では、お金をどうやって使い切るか、それだけが問題である。

 節約に節約を重ねて執行予算の減額に努めたところで、上から怒られるだけで決して褒められることはない。

 つまり、予算を余したのは予算の立て方に問題があったとみなされ、能力不足を追及されるからである。

 したがって、民・百姓から召し上げた金は全て使い切って宵越しの銭を持たないのが能力のある良い官僚となる。下手に金を残そうものなら、仲間内から総スカンにあうのがオチである。

 外務省の一連の不祥事をみてもわかるとおり、どう考えたって彼らが本当に税金を大事に使っていたとは到底思えないのである。(予算消化の為に高級ワインを大量に買っていた例はその典型である)

 入れ物だけを変えてそれが構造改革というのなら、役人の思うツボである。

 入れ物をどう変えようが、所詮政府の方針で出来た法人であり、倒産・失業というリスクが組み込まれない以上何をやっても無駄というべきである。

 本当に必要なのは形だけではなく、真に国民(民・百姓)のために働く政府であり、行政システムである。

 中小・零細企業には何らの保証も無く、経営につまずけば情け容赦なく青空に放り出されるのが現実である。

 国・地方公共団体・公社・公団・特殊法人に勤務する人達にコスト意識が少しでもあれば、現在のようにはならなかったと思うのは私だけではあるまい。

 いずれにしても、金はいくらでも湧き出るものと考え、湯水の如く使った人達が、倒産・失業という安全回路を持たない法人に鞍替えしたとしても、何も期待できないのは自明の理と言わなければならない。

 今必要なのは構造改革ではなく、彼らの意識改革そのものではないだろうか。
2025.04.24 15:07 | 固定リンク | 鑑定雑感

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