民・百姓おかまいなし ~ Vol.4
2025.05.08
VOL.04 官の無謬性と性悪説
小泉首相は国民に痛みに耐えてくれと言い続けている。
また、米百俵の精神を持ち出し、国民に情緒的に訴えている。
その精神は良しとし、マスコミもこぞって小泉礼賛に傾いている。
しかし、ちょっと待っていただきたい。
戦前は無節操に大本営本部の官制情報をたれ流し、神国ニッポン万歳・鬼畜米英といいだけ国民を煽っておいて、ポツダム宣言受諾後は、あたかも昔から民主主義の信奉者のような顔をして民主主義万歳を言い立ててきたマスコミには、今の政府や官僚に対して批判する資格は無い。
客観的に事実を把握し、批判するというマスコミ本来の仕事を放棄してきており、それは現在においても改められることなく(少なくともそう見える)、自分達だけが社会正義の実現者のような顔をしているのはいかがなものであろうか。
いずれにしても、日本人は過去の失敗に対しての反省が足りないと思う。
例えば、第二次大戦中の大本営参謀本部という組織を考えてみたい。
この組織には、当時の日本の最高知識レベルの軍人が集まっていたのである。
その彼らが戦争末期に採用した特攻作戦をみると、彼らが正気であったとは思えないのである。
彼らが全員正気ではなく、心神耗弱状態にあったと言うのなら致し方がない。
しかし、参謀本部にいた全ての作戦参謀が心神耗弱であったとは言い逃れる事はできないであろう。
少なくとも、物事の是非を理解する能力はあったはずである。
戦争遂行に関するあらゆる情報を一手に握っていながら彼我の戦力の差を理解できなかったはずはないのに、全国からかき集めたオンボロ飛行機をやっと修理しつつ、これに年端もいかない子供達に特攻志願させ、片道燃料に爆弾を積ませ死に追いやる作戦の無謀さには今考えても怒りを覚えるが、補給のきかない特攻作戦なんぞ線香花火と同じである。
この作戦は国民の情緒に訴え国民を真実の姿から目をそらす為、言葉を変えれば参謀本部の無能力を覆い隠す為だけに若者は死に追いやられたと考えるのは穿ちすぎであろうか。
連合軍の圧倒的な武力と補給能力を見れば特攻作戦以前に戦争継続は困難だと解っていた筈であり、原爆2発を落とされ何十万人も殺される前に戦争を止めることはできたと想うのは私一人ではあるまい。
それなのに、何故彼らは自ら仕掛けた戦争をこの後に及んで止めると言い出せなかったのか?
それはただ一点「責任を取りたくないこと」に尽きると思うのである。
新型爆弾は予想外のことであり、これにより何十万人も死んだことで作戦を回避する口実ができた為、やっと止めることができたのである。
それは昨今の外務省や厚生省、農水省の対応を見れば一目瞭然である。
彼らは責任を取りたくない一心でどれほど証拠を積まれようが、判決が出ようが、彼らの責任が問われない事がハッキリしない限り結果責任を認めることはないのである。
また、仮に責任があるとされれば部下に全ての責任を負わせ、トカゲの尻尾切りのように切り捨ててしまうのは国民皆が十分知るところである。
このように、戦前も戦後も行政システムに何か問題が起きれば全て個人の問題に帰してしまい、組織上何が問題であったか議論された形跡さえ見当たらない。
どうも日本人、特に官僚は、性善説に立ちすぎているのではなかろうか。
人間は間違うものである。
出来心ということもある。
神や仏の身ではない人間のやる事である。
個人ではどうにも防ぎようのないことを補完するのが組織ではないのか。
組織は人の集まりではあるが、組織の全ての構成員が神・仏でない以上、間違い・失敗・出来心を完全に防ぐのは至難の技である。
明治以来、情報・知識・権力の面で民・百姓の上に君臨し、官の無謬性の神話の上にこれまでやってきたが、行政の無謬性はとうの昔に期待できなくなっている。
それなのに、民・百姓は官に無謬性を求め、マスコミは官の無謬性を前提にして、官の間違いを情緒的にあげつらうのはいかがなものであろうか。
組織というのは少なくとも性悪説の立場に立って間違い・出来心を前提に運営を考えるべきである。
日本型の組織の脆弱さはある意味で性善説の立場に立ったお人よしの面があるのは否定できない。
北海道拓殖銀行を始め、長期信用銀行・日本債券信用銀行・山一證券等々の倒産した大企業でさえごく少数の人間の暴走を止められず、倒産・破綻の憂き目にあっている。
我々は今一度人間は間違うもの、失敗するものということを前提に、組織を再構築する時期にきているのではないかと思うのである。
小泉首相は国民に痛みに耐えてくれと言い続けている。
また、米百俵の精神を持ち出し、国民に情緒的に訴えている。
その精神は良しとし、マスコミもこぞって小泉礼賛に傾いている。
しかし、ちょっと待っていただきたい。
戦前は無節操に大本営本部の官制情報をたれ流し、神国ニッポン万歳・鬼畜米英といいだけ国民を煽っておいて、ポツダム宣言受諾後は、あたかも昔から民主主義の信奉者のような顔をして民主主義万歳を言い立ててきたマスコミには、今の政府や官僚に対して批判する資格は無い。
客観的に事実を把握し、批判するというマスコミ本来の仕事を放棄してきており、それは現在においても改められることなく(少なくともそう見える)、自分達だけが社会正義の実現者のような顔をしているのはいかがなものであろうか。
いずれにしても、日本人は過去の失敗に対しての反省が足りないと思う。
例えば、第二次大戦中の大本営参謀本部という組織を考えてみたい。
この組織には、当時の日本の最高知識レベルの軍人が集まっていたのである。
その彼らが戦争末期に採用した特攻作戦をみると、彼らが正気であったとは思えないのである。
彼らが全員正気ではなく、心神耗弱状態にあったと言うのなら致し方がない。
しかし、参謀本部にいた全ての作戦参謀が心神耗弱であったとは言い逃れる事はできないであろう。
少なくとも、物事の是非を理解する能力はあったはずである。
戦争遂行に関するあらゆる情報を一手に握っていながら彼我の戦力の差を理解できなかったはずはないのに、全国からかき集めたオンボロ飛行機をやっと修理しつつ、これに年端もいかない子供達に特攻志願させ、片道燃料に爆弾を積ませ死に追いやる作戦の無謀さには今考えても怒りを覚えるが、補給のきかない特攻作戦なんぞ線香花火と同じである。
この作戦は国民の情緒に訴え国民を真実の姿から目をそらす為、言葉を変えれば参謀本部の無能力を覆い隠す為だけに若者は死に追いやられたと考えるのは穿ちすぎであろうか。
連合軍の圧倒的な武力と補給能力を見れば特攻作戦以前に戦争継続は困難だと解っていた筈であり、原爆2発を落とされ何十万人も殺される前に戦争を止めることはできたと想うのは私一人ではあるまい。
それなのに、何故彼らは自ら仕掛けた戦争をこの後に及んで止めると言い出せなかったのか?
それはただ一点「責任を取りたくないこと」に尽きると思うのである。
新型爆弾は予想外のことであり、これにより何十万人も死んだことで作戦を回避する口実ができた為、やっと止めることができたのである。
それは昨今の外務省や厚生省、農水省の対応を見れば一目瞭然である。
彼らは責任を取りたくない一心でどれほど証拠を積まれようが、判決が出ようが、彼らの責任が問われない事がハッキリしない限り結果責任を認めることはないのである。
また、仮に責任があるとされれば部下に全ての責任を負わせ、トカゲの尻尾切りのように切り捨ててしまうのは国民皆が十分知るところである。
このように、戦前も戦後も行政システムに何か問題が起きれば全て個人の問題に帰してしまい、組織上何が問題であったか議論された形跡さえ見当たらない。
どうも日本人、特に官僚は、性善説に立ちすぎているのではなかろうか。
人間は間違うものである。
出来心ということもある。
神や仏の身ではない人間のやる事である。
個人ではどうにも防ぎようのないことを補完するのが組織ではないのか。
組織は人の集まりではあるが、組織の全ての構成員が神・仏でない以上、間違い・失敗・出来心を完全に防ぐのは至難の技である。
明治以来、情報・知識・権力の面で民・百姓の上に君臨し、官の無謬性の神話の上にこれまでやってきたが、行政の無謬性はとうの昔に期待できなくなっている。
それなのに、民・百姓は官に無謬性を求め、マスコミは官の無謬性を前提にして、官の間違いを情緒的にあげつらうのはいかがなものであろうか。
組織というのは少なくとも性悪説の立場に立って間違い・出来心を前提に運営を考えるべきである。
日本型の組織の脆弱さはある意味で性善説の立場に立ったお人よしの面があるのは否定できない。
北海道拓殖銀行を始め、長期信用銀行・日本債券信用銀行・山一證券等々の倒産した大企業でさえごく少数の人間の暴走を止められず、倒産・破綻の憂き目にあっている。
我々は今一度人間は間違うもの、失敗するものということを前提に、組織を再構築する時期にきているのではないかと思うのである。