節約は美徳か悪徳か? ― 蜂の萬話と相互律が示唆するもの ― Vol.2
2012.05.12
VOL.2 鑑定世界の「タラ・レバ」
鑑定評価の世界は、稀に見るタラ・レバ(仮定条件)の世界である。
筆者もコンマ以下(1mm以下)の精度・誤差の世界から、誤差概念のないタラ・レバの世界に入って早30年近くになろうとしている。
この世界には、誤差概念も情報の確実性や評価手法の科学性に対する疑念も入り込む余地は少ない。
鑑定世界をのぞくと、そこには常に第三者の批判(ときには批難となることも少なくない)が存在することから、独りよがりのタラ・レバにも限度がある。
しかし、訴訟鑑定をのぞくと、第三者からの批判がほとんどない鑑定世界では、タラ・レバに対する自己検証がなされることはほとんどない。
というより、できないというのが本音である。
鑑定世界に幸いというべきか、約30年も居座っているが、この間に進歩したのは、鑑定書という書類を作成する道具だけである。
もっとも、カゴ・馬車の世界から車社会に大きく変貌したが、かといって人間が進歩したとも言えないのであるから、それもまたやむを得ないのであろう。
しかし、そうは言っても、鑑定評価が社会に対して一定の役割を果たしているのは紛れもない事実である。
それ故に鑑定世界も原子力ムラの教訓を十分に受け止め、真に社会に役立つためにはどうすれば良いのか、タラ・レバの真実をも含めてトコトン考える必要があるのではないかと思っている。
鑑定評価の世界は、稀に見るタラ・レバ(仮定条件)の世界である。
筆者もコンマ以下(1mm以下)の精度・誤差の世界から、誤差概念のないタラ・レバの世界に入って早30年近くになろうとしている。
この世界には、誤差概念も情報の確実性や評価手法の科学性に対する疑念も入り込む余地は少ない。
鑑定世界をのぞくと、そこには常に第三者の批判(ときには批難となることも少なくない)が存在することから、独りよがりのタラ・レバにも限度がある。
しかし、訴訟鑑定をのぞくと、第三者からの批判がほとんどない鑑定世界では、タラ・レバに対する自己検証がなされることはほとんどない。
というより、できないというのが本音である。
鑑定世界に幸いというべきか、約30年も居座っているが、この間に進歩したのは、鑑定書という書類を作成する道具だけである。
もっとも、カゴ・馬車の世界から車社会に大きく変貌したが、かといって人間が進歩したとも言えないのであるから、それもまたやむを得ないのであろう。
しかし、そうは言っても、鑑定評価が社会に対して一定の役割を果たしているのは紛れもない事実である。
それ故に鑑定世界も原子力ムラの教訓を十分に受け止め、真に社会に役立つためにはどうすれば良いのか、タラ・レバの真実をも含めてトコトン考える必要があるのではないかと思っている。
節約は美徳か悪徳か? ― 蜂の萬話と相互律が示唆するもの ― Vol.1
2012.05.11
VOL.01 絶対的なるもの
鑑定評価の世界も含めて、我々は絶対無二なるものを求めすぎてるのではないだろうか。
数学・物理・化学などの世界は、一定条件の下では絶対無二の世界が存在すると思われるが、一定の条件が想定外であれば、今回の福島原発事故の二の舞になる。
社会科学の世界では、数学・物理・化学などの世界のように一定条件を厳密に定義しないで、三段論法的にタラ・レバが異なればまた違った世界が展開する。
特に鑑定評価の世界では、事例収集・その内容・確認から始まり、評価手法・調整・決定の各段階において数多くのタラ・レバが存在する。
鑑定ムラ社会でこの数多くのタラ・レバを議論しようとすれば、原子力ムラと同じように無視または村八分になる。
専門家と称する人間が良く分からないことに目をつぶり、分からないことを分からないとハッキリ言わないのは、専門家の沽券にかかわるとでも思っているのであろうか。
世の中に数多くの専門家と称する人間がいるが、はたしてどれだけの専門家が分からないことに対し、分からないと言えるのだろうか。
鑑定評価の世界も含めて、我々は絶対無二なるものを求めすぎてるのではないだろうか。
数学・物理・化学などの世界は、一定条件の下では絶対無二の世界が存在すると思われるが、一定の条件が想定外であれば、今回の福島原発事故の二の舞になる。
社会科学の世界では、数学・物理・化学などの世界のように一定条件を厳密に定義しないで、三段論法的にタラ・レバが異なればまた違った世界が展開する。
特に鑑定評価の世界では、事例収集・その内容・確認から始まり、評価手法・調整・決定の各段階において数多くのタラ・レバが存在する。
鑑定ムラ社会でこの数多くのタラ・レバを議論しようとすれば、原子力ムラと同じように無視または村八分になる。
専門家と称する人間が良く分からないことに目をつぶり、分からないことを分からないとハッキリ言わないのは、専門家の沽券にかかわるとでも思っているのであろうか。
世の中に数多くの専門家と称する人間がいるが、はたしてどれだけの専門家が分からないことに対し、分からないと言えるのだろうか。
七面鳥と不動産鑑定士 ― ガリレオとブラックスワンの世界 ― Vol.5
2012.04.04
VOL.05 千と一日目の七面鳥
この見出しは、ブラックスワンの著者より拝借した。
この本の著者のような数理学者に、我々はわかってないと言われたら、筆者なんぞは未開の原始人よりまだわかっていないと思わざるを得ない。
この本の引用がしばらく続くがご容赦願いたい。
ブラックスワンの第4章では、七面鳥を例に、次のとおり述べている。
『七面鳥がいて、毎日エサをもらっている。エサをもらうたび、七面鳥は、人類の中でも親切な人たちがエサをくれるのだ、それが一般的に成り立つ日々の法則なのだと信じこんでいく。……感謝祭の前の水曜日の午後、思いもしなかったことが七面鳥に降りかかる。七面鳥の信念は覆されるだろう。』
そう、予測可能と予測するのは不可能なのである。
筆者も含めて、我々は予測という言葉を安易に使用しているが、それは今日という日が特に変わりなく明日も続くという暗黙の前提があってはじめて予測可能ということにすぎないと考える他はない。
筆者の疑問は、鋭く胸を刻む。
曰く、過去についてわかっていることから、どうすれば将来についてわかるだろう?
曰く、一般的に有限のわかっていることに基づいて、無限のわからないことの性質がどうすればわかるのだろう?
現実の鑑定評価の世界は、わからないことばかりである。
とりあえず皆と歩調を合わせておけば、非難されることはないであろうと、思考停止に陥っている。
そうしなければ、仕事はできないし、生きていけないからである。
筆者も同じである。
鑑定評価書を書きながら、私に一体何がわかっているのかと悩みつつ、わかったフリをして鑑定評価をしている。
売買が成立した事実はわかっても、取引価格が真実かどうかは確かめようがない。
地価変動についても、毎日変動しているのか、一定時間をかけて変動しているのかは確かめようがない。
我々は(少なくとも筆者は)、七面鳥と同じで、毎日エサがあたると思っている。
大きな変化はないという仮定条件に縋って生きている。
先の著者の言葉を借りれば、『過去は典型的な未来を表現した一番信頼できる予測だなんて安直に思いこむからこそ、私たちには黒い白鳥が解らない。』
そう、まさにそのとおりで、我々には黒い白鳥がわからない。
ほとんどの人間がわからないから、我々は社会的に許容されている。
地動説を唱えたガリレオの時代の、天動説を信じた一般市民のように…。
感謝祭前夜の七面鳥のようにはなりたくはないが、凡庸な筆者には逃れる術もない。
ノーベル経済学賞を受賞した二人の経済学者が経営していた、ロングターム・キャピタル・マネジメントというヘッジファンド会社は、一瞬のうちに破綻してしまった。
天才的数学者ですら予測しえなかったのである。
少なくとも筆者は、これからも感謝祭前夜の七面鳥のままでいるのであろうと思うほかはない。
イヤ、七面鳥ならまだマシかもしれない。
ヒョットしたら、ネギを背負って七輪を持って歩いている鴨なのかもしれない。
専門家としてとてもエラそうなことは言えない。反省!!
暑い夏の真っ最中というのに、ウットウシイ話になってしまった。またまた反省!!
この見出しは、ブラックスワンの著者より拝借した。
この本の著者のような数理学者に、我々はわかってないと言われたら、筆者なんぞは未開の原始人よりまだわかっていないと思わざるを得ない。
この本の引用がしばらく続くがご容赦願いたい。
ブラックスワンの第4章では、七面鳥を例に、次のとおり述べている。
『七面鳥がいて、毎日エサをもらっている。エサをもらうたび、七面鳥は、人類の中でも親切な人たちがエサをくれるのだ、それが一般的に成り立つ日々の法則なのだと信じこんでいく。……感謝祭の前の水曜日の午後、思いもしなかったことが七面鳥に降りかかる。七面鳥の信念は覆されるだろう。』
そう、予測可能と予測するのは不可能なのである。
筆者も含めて、我々は予測という言葉を安易に使用しているが、それは今日という日が特に変わりなく明日も続くという暗黙の前提があってはじめて予測可能ということにすぎないと考える他はない。
筆者の疑問は、鋭く胸を刻む。
曰く、過去についてわかっていることから、どうすれば将来についてわかるだろう?
曰く、一般的に有限のわかっていることに基づいて、無限のわからないことの性質がどうすればわかるのだろう?
現実の鑑定評価の世界は、わからないことばかりである。
とりあえず皆と歩調を合わせておけば、非難されることはないであろうと、思考停止に陥っている。
そうしなければ、仕事はできないし、生きていけないからである。
筆者も同じである。
鑑定評価書を書きながら、私に一体何がわかっているのかと悩みつつ、わかったフリをして鑑定評価をしている。
売買が成立した事実はわかっても、取引価格が真実かどうかは確かめようがない。
地価変動についても、毎日変動しているのか、一定時間をかけて変動しているのかは確かめようがない。
我々は(少なくとも筆者は)、七面鳥と同じで、毎日エサがあたると思っている。
大きな変化はないという仮定条件に縋って生きている。
先の著者の言葉を借りれば、『過去は典型的な未来を表現した一番信頼できる予測だなんて安直に思いこむからこそ、私たちには黒い白鳥が解らない。』
そう、まさにそのとおりで、我々には黒い白鳥がわからない。
ほとんどの人間がわからないから、我々は社会的に許容されている。
地動説を唱えたガリレオの時代の、天動説を信じた一般市民のように…。
感謝祭前夜の七面鳥のようにはなりたくはないが、凡庸な筆者には逃れる術もない。
ノーベル経済学賞を受賞した二人の経済学者が経営していた、ロングターム・キャピタル・マネジメントというヘッジファンド会社は、一瞬のうちに破綻してしまった。
天才的数学者ですら予測しえなかったのである。
少なくとも筆者は、これからも感謝祭前夜の七面鳥のままでいるのであろうと思うほかはない。
イヤ、七面鳥ならまだマシかもしれない。
ヒョットしたら、ネギを背負って七輪を持って歩いている鴨なのかもしれない。
専門家としてとてもエラそうなことは言えない。反省!!
暑い夏の真っ最中というのに、ウットウシイ話になってしまった。またまた反省!!
(2010年8月 Evaluation no.38掲載)