ホモ・エコノミクスとゴルゴ13 Vol.1
2013.04.04
VOL.01 鑑定理論と不動産取引の現場

 鑑定理論の基本的な考え方は、標準的な経済学を基礎としている。
 不動産は経済財であるから、その価格形成は市場原理に委ねられていることになる。
 市場における経済の動向を分析し、市場における行動心理を理論化したのが経済学であると私は理解している。

 標準的な経済学では、市場における人間の行動は完全に合理的であると仮定した上で複雑に絡み合う経済行動を抽象化して理論が組み立てられている。

 また、一般的に一定の条件の制約下における経済行動の分析が静態的分析、一定の条件が変動することを前提にした分析が動態的分析である。

 鑑定理論はどちらかというと、完全市場における市場条件が一定、つまりある条件下における経済合理性に基づく経済人の行動を前提に理論が構築されているものと理解される。
 つまり、静態的分析の上に理論が構築されているため、現実の市場に立ち向かうと違和感を覚えることになる。

 不動産取引の現場は極めて不完全でダイナミックに変動する市場であり、取引情報の非開示性や経済合理性に基づかない、すなわち主観的な事情に基づく取引が多く、静態論的経済学を基礎とする鑑定理論をもって現実の不動産市場を説明することは相当困難な作業となる。

 我々は不動産の完全市場を現実に見たことはない。
 したがって、現実の不完全市場が完全市場とどの程度遊離してるかということを身をもって感知することはできない。

 何時の日か仮想世界でもいいから不動産の完全市場がどういうものかを見たいものである。
2013.04.04 09:24 | 固定リンク | 鑑定雑感
組織は最大犠牲点に向かう ― 本当は恐い日本人 ― Vol.6
2013.02.15
VOL.06 組織は最大犠牲点へ向かう

 他の組織のことをとやかくいう資格はないが、組織の特性を考えると、肥大化した組織はどうやら最大犠牲点に向かって突き進むしかないようである。
 もっとも百年以上存続している会社の数は世界一と言われている一方、潰れそうもない大会社があっけなく潰れているのも事実である。

 ところで、筆者は北海道拓殖銀行が破綻する前後の事情を多少聞きかじっているが、その間の事情を総合すると、当時は無理な融資は止めて王道を歩むべきと正論を主張する者も相当いたようである。
 ところが、当時の経営陣は正論を主張する者を遠ざけ、甚だしい場合には過疎地の支店へ移動させている。
 経営のためにと思って正論を主張した上司が左遷されるのを見た部下は、余計なことは言わない方が得策と学習する。
 結果として、経営陣の耳に異論が届くことはなくなる。
 批判的なものは排除され、イエスマンばかりが集まる反対論者のいない会議は和気藹々とし、居心地はすこぶる良好である。
 その結果、経営判断にブレーキをかける者はますますいなくなる。
 電力会社のやらせメール事件を見るまでもなく、場合によっては共同体の外側にいる人間さえも排除しようとする。

 組織内に経営上のリスクがあっても先送りが続くと、誰もがリスクに向き合おうとしなくなる。
 誰かがやるだろう、俺がいる間はきっと何とかなるだろうと楽観論が支配的になる。
 そうなると、もはや誰にも止められなくなる。

 潰れそうもない大企業がつぶれるプロセスは、ほとんど同じである。
 長銀、ミサワホーム、雪印乳業、日本航空等、例を挙げればキリがない。
 心のある者はどの企業にもいるはずなのに、上層部や経営陣と意見が合わなければ、その声が届くこともない。
 
 筆者も同じである。

 他人のことは言えないが、自分のこととなると、異論を素直に受け入れることができるかどうかは自信がないのである。
 個性尊重とか少数意見を大事にとか効果のないスローガンを掲げても、それを受け入れる気持ちを教育されていないのであるから、社会人になってその咎めを受けることになる。
 頭の中でわかったつもりでいても、行動に移すことができないのであれば、結局わからないのと同じである。
 異論を素直に聞けない組織は、異論を排除しつつ最大犠牲点に向かって突き進むことになる。
 最大犠牲点に到達してはじめて事の重大さに気がつくのであるが、もはや手遅れである。

 原発事故は最大犠牲点の最たるものであるが、その代償はあまりにも大きく、一組織で対応できる限度を超えている。
 一電力会社の内部事情(もっとも国も関与しているのであるから、悪く言えば共同正犯となるが)が全国民に犠牲・負担を強いることになるとは、一体誰が想像し得たのであろうか。

 バーナード・マンデヴィルが指摘したように、近代文明の恩恵を貪りながら、それによって引き起こされるかもしれない不都合に目をつぶって来たのは、紛れもない事実である。

 難波田春生先生も指摘したように、モア・アンド・モア(もっと、もっと!!)と追い立てられ、過剰消費に酔いしれることが経済発展と考えているようでは、この先も予期し得ない不都合に振り回されるであろうことは、想像に難しくはないが、チェックアンドバランスの取れない組織、異論を排除する組織は、破綻・倒産・消滅という最大犠牲点に向かって突き進む他はないのであろう。

 日本人の深層心理に潜在する本当の恐ろしさを自覚しつつ、組織が最大犠牲点に向かわないような社会が来ることを願うものであるが、DNAレベルに根づいた農耕民族としての二面性が解消されるのは、多分無理なのかもしれない。

 個人としての日本人の気質を誇りに思う反面、村社会の構成員としての日本人にはある種の恐れを抱かざるを得ない。
 そういう自分のいやらしさに恐れつつも、本当の意味で民主的で、少数意見も受け入れてもらえる言論の自由が保障される社会が出現することが望まれる。
 反面、共同体意識が高揚し、相互不信を煽り、管理名目の相互監視社会が出現することは願い下げと思っているが、一度動き出した歯車を止めるのは、困難なのかもしれない。

 いずれにしても、最大犠牲点に向かわないようにと願ってはいるが、残された人生は短い。
 境屋太一氏が言うように、日本が最大犠牲点に向かい第二の敗戦に遭遇するのはご免蒙りたいが、日本人の二面性を考えるとやはり第二の敗戦によってしか新しい時代に立ち向かうのは無理なのかもしれないと思う今日この頃である。
 第二の敗戦が国民にどれほどの犠牲を強いるのか想像は出来ないが、多分終戦直後のような混乱状態にはならないと思っている。
 したがって、日本人個人としての気質を発揮し、耐え難きを耐え、忍び難きを忍べば、きっと明るい未来が拓けると信じたい。

  ガンバロウ!!  日本!!

(2012年8月 Evaluation no.46掲載)

2013.02.15 09:19 | 固定リンク | 鑑定雑感
組織は最大犠牲点に向かう ― 本当は恐い日本人 ― Vol.5
2013.01.15
VOL.05 本当は恐い日本人

 一人一人の日本人は極めて温厚で、他者への思いやりに溢れている。
 これは世界に誇れる日本人の気質である。
 しかし、一方で、村社会の構成員としての日本人は、時に冷酷で残忍になる。

 このような気質は、第2次世界大戦中によく表れている。
 戦争に反対するものを非国民と非難した一般市民やマスコミ。
 アメリカ海兵隊と戦うよう女性や子供に竹槍訓練した日本軍・学校教育者。
 国民の大半が客観的・合理的思考を停止・放棄していることに気がつかなかった(?)現実。
 さらに、日本軍のどうしようもない残忍さ。
 どんなに倫理にもとる行為といえども、普通のごく善良な市民が見せた軍人としての残忍な行為。
 満州の開拓民を置き去りにしていち早く敵前逃亡した関東軍。
 沖縄戦では女・子供まで戦場に駆り立て、多大な犠牲を負わせたのに命令した士官は口を閉ざし、反省の弁を述べるのは下士官・兵隊ばかりである。

 運命共同体といいつつ、潔く責任を取らない体質は、戦後66年を経ても変わっていないことは、昨今の出来事で証明されている。
 日本人を語る時、個としての日本人と村社会の構成員としての日本人とでは、その行動様式を大きく異にし、同列には論じることができないということ留意する必要がある。
 『人間の条件』という大作映画の中でも、個としての日本人と団体構成員としての日本人の相克が描かれている。
 訓練と称して死に至らしめるような行動は、今もって部活等の中にも垣間見ることができるのである。
 また、大阪地検特捜部の事件を見るまでもなく、相当の教育を受けた能力がある者でも、組織の前では平気で無実の者を貶めることがあるのである。

 このような日本人の二面性を見るとき、日本人は本当に恐いと思うのである。

 くどいようだが、平穏な生活をしている時の一般市民としての日本人と、村社会あるいは団体構成員としての日本人の行動は、ある場合には極端に異なり、同じ日本人とは到底思えなくなるのである。
 私を含めてそこのところをよく自覚すべきと肝に銘じなければと思っている。

 繰り返すが、日本人は本当は恐いと思うのである。
2013.01.15 09:14 | 固定リンク | 鑑定雑感

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