組織は最大犠牲点に向かう ― 本当は恐い日本人 ― Vol.6
2013.02.15
VOL.06 組織は最大犠牲点へ向かう
他の組織のことをとやかくいう資格はないが、組織の特性を考えると、肥大化した組織はどうやら最大犠牲点に向かって突き進むしかないようである。
もっとも百年以上存続している会社の数は世界一と言われている一方、潰れそうもない大会社があっけなく潰れているのも事実である。
ところで、筆者は北海道拓殖銀行が破綻する前後の事情を多少聞きかじっているが、その間の事情を総合すると、当時は無理な融資は止めて王道を歩むべきと正論を主張する者も相当いたようである。
ところが、当時の経営陣は正論を主張する者を遠ざけ、甚だしい場合には過疎地の支店へ移動させている。
経営のためにと思って正論を主張した上司が左遷されるのを見た部下は、余計なことは言わない方が得策と学習する。
結果として、経営陣の耳に異論が届くことはなくなる。
批判的なものは排除され、イエスマンばかりが集まる反対論者のいない会議は和気藹々とし、居心地はすこぶる良好である。
その結果、経営判断にブレーキをかける者はますますいなくなる。
電力会社のやらせメール事件を見るまでもなく、場合によっては共同体の外側にいる人間さえも排除しようとする。
組織内に経営上のリスクがあっても先送りが続くと、誰もがリスクに向き合おうとしなくなる。
誰かがやるだろう、俺がいる間はきっと何とかなるだろうと楽観論が支配的になる。
そうなると、もはや誰にも止められなくなる。
潰れそうもない大企業がつぶれるプロセスは、ほとんど同じである。
長銀、ミサワホーム、雪印乳業、日本航空等、例を挙げればキリがない。
心のある者はどの企業にもいるはずなのに、上層部や経営陣と意見が合わなければ、その声が届くこともない。
筆者も同じである。
他人のことは言えないが、自分のこととなると、異論を素直に受け入れることができるかどうかは自信がないのである。
個性尊重とか少数意見を大事にとか効果のないスローガンを掲げても、それを受け入れる気持ちを教育されていないのであるから、社会人になってその咎めを受けることになる。
頭の中でわかったつもりでいても、行動に移すことができないのであれば、結局わからないのと同じである。
異論を素直に聞けない組織は、異論を排除しつつ最大犠牲点に向かって突き進むことになる。
最大犠牲点に到達してはじめて事の重大さに気がつくのであるが、もはや手遅れである。
原発事故は最大犠牲点の最たるものであるが、その代償はあまりにも大きく、一組織で対応できる限度を超えている。
一電力会社の内部事情(もっとも国も関与しているのであるから、悪く言えば共同正犯となるが)が全国民に犠牲・負担を強いることになるとは、一体誰が想像し得たのであろうか。
バーナード・マンデヴィルが指摘したように、近代文明の恩恵を貪りながら、それによって引き起こされるかもしれない不都合に目をつぶって来たのは、紛れもない事実である。
難波田春生先生も指摘したように、モア・アンド・モア(もっと、もっと!!)と追い立てられ、過剰消費に酔いしれることが経済発展と考えているようでは、この先も予期し得ない不都合に振り回されるであろうことは、想像に難しくはないが、チェックアンドバランスの取れない組織、異論を排除する組織は、破綻・倒産・消滅という最大犠牲点に向かって突き進む他はないのであろう。
日本人の深層心理に潜在する本当の恐ろしさを自覚しつつ、組織が最大犠牲点に向かわないような社会が来ることを願うものであるが、DNAレベルに根づいた農耕民族としての二面性が解消されるのは、多分無理なのかもしれない。
個人としての日本人の気質を誇りに思う反面、村社会の構成員としての日本人にはある種の恐れを抱かざるを得ない。
そういう自分のいやらしさに恐れつつも、本当の意味で民主的で、少数意見も受け入れてもらえる言論の自由が保障される社会が出現することが望まれる。
反面、共同体意識が高揚し、相互不信を煽り、管理名目の相互監視社会が出現することは願い下げと思っているが、一度動き出した歯車を止めるのは、困難なのかもしれない。
いずれにしても、最大犠牲点に向かわないようにと願ってはいるが、残された人生は短い。
境屋太一氏が言うように、日本が最大犠牲点に向かい第二の敗戦に遭遇するのはご免蒙りたいが、日本人の二面性を考えるとやはり第二の敗戦によってしか新しい時代に立ち向かうのは無理なのかもしれないと思う今日この頃である。
第二の敗戦が国民にどれほどの犠牲を強いるのか想像は出来ないが、多分終戦直後のような混乱状態にはならないと思っている。
したがって、日本人個人としての気質を発揮し、耐え難きを耐え、忍び難きを忍べば、きっと明るい未来が拓けると信じたい。
ガンバロウ!! 日本!!
他の組織のことをとやかくいう資格はないが、組織の特性を考えると、肥大化した組織はどうやら最大犠牲点に向かって突き進むしかないようである。
もっとも百年以上存続している会社の数は世界一と言われている一方、潰れそうもない大会社があっけなく潰れているのも事実である。
ところで、筆者は北海道拓殖銀行が破綻する前後の事情を多少聞きかじっているが、その間の事情を総合すると、当時は無理な融資は止めて王道を歩むべきと正論を主張する者も相当いたようである。
ところが、当時の経営陣は正論を主張する者を遠ざけ、甚だしい場合には過疎地の支店へ移動させている。
経営のためにと思って正論を主張した上司が左遷されるのを見た部下は、余計なことは言わない方が得策と学習する。
結果として、経営陣の耳に異論が届くことはなくなる。
批判的なものは排除され、イエスマンばかりが集まる反対論者のいない会議は和気藹々とし、居心地はすこぶる良好である。
その結果、経営判断にブレーキをかける者はますますいなくなる。
電力会社のやらせメール事件を見るまでもなく、場合によっては共同体の外側にいる人間さえも排除しようとする。
組織内に経営上のリスクがあっても先送りが続くと、誰もがリスクに向き合おうとしなくなる。
誰かがやるだろう、俺がいる間はきっと何とかなるだろうと楽観論が支配的になる。
そうなると、もはや誰にも止められなくなる。
潰れそうもない大企業がつぶれるプロセスは、ほとんど同じである。
長銀、ミサワホーム、雪印乳業、日本航空等、例を挙げればキリがない。
心のある者はどの企業にもいるはずなのに、上層部や経営陣と意見が合わなければ、その声が届くこともない。
筆者も同じである。
他人のことは言えないが、自分のこととなると、異論を素直に受け入れることができるかどうかは自信がないのである。
個性尊重とか少数意見を大事にとか効果のないスローガンを掲げても、それを受け入れる気持ちを教育されていないのであるから、社会人になってその咎めを受けることになる。
頭の中でわかったつもりでいても、行動に移すことができないのであれば、結局わからないのと同じである。
異論を素直に聞けない組織は、異論を排除しつつ最大犠牲点に向かって突き進むことになる。
最大犠牲点に到達してはじめて事の重大さに気がつくのであるが、もはや手遅れである。
原発事故は最大犠牲点の最たるものであるが、その代償はあまりにも大きく、一組織で対応できる限度を超えている。
一電力会社の内部事情(もっとも国も関与しているのであるから、悪く言えば共同正犯となるが)が全国民に犠牲・負担を強いることになるとは、一体誰が想像し得たのであろうか。
バーナード・マンデヴィルが指摘したように、近代文明の恩恵を貪りながら、それによって引き起こされるかもしれない不都合に目をつぶって来たのは、紛れもない事実である。
難波田春生先生も指摘したように、モア・アンド・モア(もっと、もっと!!)と追い立てられ、過剰消費に酔いしれることが経済発展と考えているようでは、この先も予期し得ない不都合に振り回されるであろうことは、想像に難しくはないが、チェックアンドバランスの取れない組織、異論を排除する組織は、破綻・倒産・消滅という最大犠牲点に向かって突き進む他はないのであろう。
日本人の深層心理に潜在する本当の恐ろしさを自覚しつつ、組織が最大犠牲点に向かわないような社会が来ることを願うものであるが、DNAレベルに根づいた農耕民族としての二面性が解消されるのは、多分無理なのかもしれない。
個人としての日本人の気質を誇りに思う反面、村社会の構成員としての日本人にはある種の恐れを抱かざるを得ない。
そういう自分のいやらしさに恐れつつも、本当の意味で民主的で、少数意見も受け入れてもらえる言論の自由が保障される社会が出現することが望まれる。
反面、共同体意識が高揚し、相互不信を煽り、管理名目の相互監視社会が出現することは願い下げと思っているが、一度動き出した歯車を止めるのは、困難なのかもしれない。
いずれにしても、最大犠牲点に向かわないようにと願ってはいるが、残された人生は短い。
境屋太一氏が言うように、日本が最大犠牲点に向かい第二の敗戦に遭遇するのはご免蒙りたいが、日本人の二面性を考えるとやはり第二の敗戦によってしか新しい時代に立ち向かうのは無理なのかもしれないと思う今日この頃である。
第二の敗戦が国民にどれほどの犠牲を強いるのか想像は出来ないが、多分終戦直後のような混乱状態にはならないと思っている。
したがって、日本人個人としての気質を発揮し、耐え難きを耐え、忍び難きを忍べば、きっと明るい未来が拓けると信じたい。
ガンバロウ!! 日本!!
(2012年8月 Evaluation no.46掲載)
組織は最大犠牲点に向かう ― 本当は恐い日本人 ― Vol.5
2013.01.15
VOL.05 本当は恐い日本人
一人一人の日本人は極めて温厚で、他者への思いやりに溢れている。
これは世界に誇れる日本人の気質である。
しかし、一方で、村社会の構成員としての日本人は、時に冷酷で残忍になる。
このような気質は、第2次世界大戦中によく表れている。
戦争に反対するものを非国民と非難した一般市民やマスコミ。
アメリカ海兵隊と戦うよう女性や子供に竹槍訓練した日本軍・学校教育者。
国民の大半が客観的・合理的思考を停止・放棄していることに気がつかなかった(?)現実。
さらに、日本軍のどうしようもない残忍さ。
どんなに倫理にもとる行為といえども、普通のごく善良な市民が見せた軍人としての残忍な行為。
満州の開拓民を置き去りにしていち早く敵前逃亡した関東軍。
沖縄戦では女・子供まで戦場に駆り立て、多大な犠牲を負わせたのに命令した士官は口を閉ざし、反省の弁を述べるのは下士官・兵隊ばかりである。
運命共同体といいつつ、潔く責任を取らない体質は、戦後66年を経ても変わっていないことは、昨今の出来事で証明されている。
日本人を語る時、個としての日本人と村社会の構成員としての日本人とでは、その行動様式を大きく異にし、同列には論じることができないということ留意する必要がある。
『人間の条件』という大作映画の中でも、個としての日本人と団体構成員としての日本人の相克が描かれている。
訓練と称して死に至らしめるような行動は、今もって部活等の中にも垣間見ることができるのである。
また、大阪地検特捜部の事件を見るまでもなく、相当の教育を受けた能力がある者でも、組織の前では平気で無実の者を貶めることがあるのである。
このような日本人の二面性を見るとき、日本人は本当に恐いと思うのである。
くどいようだが、平穏な生活をしている時の一般市民としての日本人と、村社会あるいは団体構成員としての日本人の行動は、ある場合には極端に異なり、同じ日本人とは到底思えなくなるのである。
私を含めてそこのところをよく自覚すべきと肝に銘じなければと思っている。
繰り返すが、日本人は本当は恐いと思うのである。
一人一人の日本人は極めて温厚で、他者への思いやりに溢れている。
これは世界に誇れる日本人の気質である。
しかし、一方で、村社会の構成員としての日本人は、時に冷酷で残忍になる。
このような気質は、第2次世界大戦中によく表れている。
戦争に反対するものを非国民と非難した一般市民やマスコミ。
アメリカ海兵隊と戦うよう女性や子供に竹槍訓練した日本軍・学校教育者。
国民の大半が客観的・合理的思考を停止・放棄していることに気がつかなかった(?)現実。
さらに、日本軍のどうしようもない残忍さ。
どんなに倫理にもとる行為といえども、普通のごく善良な市民が見せた軍人としての残忍な行為。
満州の開拓民を置き去りにしていち早く敵前逃亡した関東軍。
沖縄戦では女・子供まで戦場に駆り立て、多大な犠牲を負わせたのに命令した士官は口を閉ざし、反省の弁を述べるのは下士官・兵隊ばかりである。
運命共同体といいつつ、潔く責任を取らない体質は、戦後66年を経ても変わっていないことは、昨今の出来事で証明されている。
日本人を語る時、個としての日本人と村社会の構成員としての日本人とでは、その行動様式を大きく異にし、同列には論じることができないということ留意する必要がある。
『人間の条件』という大作映画の中でも、個としての日本人と団体構成員としての日本人の相克が描かれている。
訓練と称して死に至らしめるような行動は、今もって部活等の中にも垣間見ることができるのである。
また、大阪地検特捜部の事件を見るまでもなく、相当の教育を受けた能力がある者でも、組織の前では平気で無実の者を貶めることがあるのである。
このような日本人の二面性を見るとき、日本人は本当に恐いと思うのである。
くどいようだが、平穏な生活をしている時の一般市民としての日本人と、村社会あるいは団体構成員としての日本人の行動は、ある場合には極端に異なり、同じ日本人とは到底思えなくなるのである。
私を含めてそこのところをよく自覚すべきと肝に銘じなければと思っている。
繰り返すが、日本人は本当は恐いと思うのである。
組織は最大犠牲点に向かう ― 本当は恐い日本人 ― Vol.4
2012.12.17
VOL.04 日本における村社会
日本人全体にいえる農耕民族としての共同体意識と、そこから派生する共同体行為に反するものへの陰湿な制裁は、時代を超え、形を変え、姿を変えて今なお我々の心の奥底に巣食っている。
原発事故をめぐる批判・非難が雨霰の如く飛び交っているが、事故前は一体どうであったのであろうか。
筆者の知る限り、原発事故の危険性やその対応について、今ほど自由闊達に議論されていたとは到底思えないのである。
震災前は、原発問題の危険性に対する議論や論文はほとんど無視または排除されていたことが明らかになりつつあることから、東京電力を有力者とする強力な原子力村が形成されていたのはほぼ間違いないことと思われる。
このような中で、原発事故を契機に一度村社会の掟破りが容認されると、堰を切ったように原発リスクに対する批判・非難が巷に溢れてきたが、一体何が本当で何が嘘なのか、誰にも分からない。
まして、我々のような一般市民が原発に対する十分な知識もなく非難しているのならともかく、いずれも一流大学の専門家と称する人たちの批判である。
原発のような科学の領域に属する分野で、専門家同士の見解がこれほど分かれるとは一体どういうことなのであろうか。
科学を振り回す人間の胡散臭さを感じる今日この頃である。
ところで、日本特有?の村社会は、何も原子力村に限ったことではない。
日本中のあらゆる所で、いろいろな村社会が形成されていることを自覚する必要がある。
前述したように、日本特有の村社会は、ある意味、運命共同体である。
したがって、運命を共同できない人間は排斥される。
日本において一番の問題は、マスコミ界の村社会である記者クラブであろうと思っている。
記者は言論の自由を標榜しつつ、記者クラブ内に異質の人間が入り込むことを許さない。
世界に例を見ない記者クラブという存在が、図らずも日本社会における村体質を最もよく表していると思わざるを得ない。
原発問題にしても、電力会社から多額の広告費をもらっていれば、真正面から原発の危険性を論じることはできない。
仮に危険性があっても、危険は低いとか、重大事故につながることはないとか等、電力会社を擁護するような記事しか書けないのは当たり前のことである。
何を今更と思うが、それが現実である。
18世紀初頭のバーナード・マンデヴィルの「蜂の萬話」ではないが、この世の利益を貪る人々は、その裏側に潜む不都合をも受け入れなければならないと思わざるを得ない。
つくづく人間とは実に摩訶不思議な生き物であると考え込んでしまうほかはない。
ところで、この村社会は残念ながらと言うべきか、やっぱりと言うべきか、ほとんど全ての業界にも形成されており、業務の根幹に関する問題について、公にはあからさまな議論はできない。
議論するなら組織のしがらみから脱出しなければならないということである。
つまり、異論を差し控えなければ組織の恩恵は受けられないので、異論をとなえることは難しいということである。
そういう意味でも、原子力村と同じ構図が多かれ少なかれどの業界にも厳然としてあると思わざるを得ない。
どうして原子力村だけの批判・非難ができようか。
日本人は全てどこかの村社会に帰属している。
それ故に村社会内部においては相互の批判・非難はできない。
運命共同体である以上、運命を共にできない人間を構成員として認めることはできないからである。
批判・非難するのであれば村八分を覚悟するか、村社会から出なければならない。
村社会の有力者からすれば、村を捨てた者の批判等は痛くも痒くもないのある。
村からの脱落者は所詮負け犬であり、マスコミは関心を示さない。
日本人全体にいえる農耕民族としての共同体意識と、そこから派生する共同体行為に反するものへの陰湿な制裁は、時代を超え、形を変え、姿を変えて今なお我々の心の奥底に巣食っている。
原発事故をめぐる批判・非難が雨霰の如く飛び交っているが、事故前は一体どうであったのであろうか。
筆者の知る限り、原発事故の危険性やその対応について、今ほど自由闊達に議論されていたとは到底思えないのである。
震災前は、原発問題の危険性に対する議論や論文はほとんど無視または排除されていたことが明らかになりつつあることから、東京電力を有力者とする強力な原子力村が形成されていたのはほぼ間違いないことと思われる。
このような中で、原発事故を契機に一度村社会の掟破りが容認されると、堰を切ったように原発リスクに対する批判・非難が巷に溢れてきたが、一体何が本当で何が嘘なのか、誰にも分からない。
まして、我々のような一般市民が原発に対する十分な知識もなく非難しているのならともかく、いずれも一流大学の専門家と称する人たちの批判である。
原発のような科学の領域に属する分野で、専門家同士の見解がこれほど分かれるとは一体どういうことなのであろうか。
科学を振り回す人間の胡散臭さを感じる今日この頃である。
ところで、日本特有?の村社会は、何も原子力村に限ったことではない。
日本中のあらゆる所で、いろいろな村社会が形成されていることを自覚する必要がある。
前述したように、日本特有の村社会は、ある意味、運命共同体である。
したがって、運命を共同できない人間は排斥される。
日本において一番の問題は、マスコミ界の村社会である記者クラブであろうと思っている。
記者は言論の自由を標榜しつつ、記者クラブ内に異質の人間が入り込むことを許さない。
世界に例を見ない記者クラブという存在が、図らずも日本社会における村体質を最もよく表していると思わざるを得ない。
原発問題にしても、電力会社から多額の広告費をもらっていれば、真正面から原発の危険性を論じることはできない。
仮に危険性があっても、危険は低いとか、重大事故につながることはないとか等、電力会社を擁護するような記事しか書けないのは当たり前のことである。
何を今更と思うが、それが現実である。
18世紀初頭のバーナード・マンデヴィルの「蜂の萬話」ではないが、この世の利益を貪る人々は、その裏側に潜む不都合をも受け入れなければならないと思わざるを得ない。
つくづく人間とは実に摩訶不思議な生き物であると考え込んでしまうほかはない。
ところで、この村社会は残念ながらと言うべきか、やっぱりと言うべきか、ほとんど全ての業界にも形成されており、業務の根幹に関する問題について、公にはあからさまな議論はできない。
議論するなら組織のしがらみから脱出しなければならないということである。
つまり、異論を差し控えなければ組織の恩恵は受けられないので、異論をとなえることは難しいということである。
そういう意味でも、原子力村と同じ構図が多かれ少なかれどの業界にも厳然としてあると思わざるを得ない。
どうして原子力村だけの批判・非難ができようか。
日本人は全てどこかの村社会に帰属している。
それ故に村社会内部においては相互の批判・非難はできない。
運命共同体である以上、運命を共にできない人間を構成員として認めることはできないからである。
批判・非難するのであれば村八分を覚悟するか、村社会から出なければならない。
村社会の有力者からすれば、村を捨てた者の批判等は痛くも痒くもないのある。
村からの脱落者は所詮負け犬であり、マスコミは関心を示さない。