七面鳥と不動産鑑定士 ― ガリレオとブラックスワンの世界 ― Vol.1
2011.12.13
VOL.01 鑑定評価の科学性

 以前にも書いたが、鑑定評価の科学性について未だに疑問を持っている。
地域要因にしても、個別要因にしても、その性格的なものについては心情的に理解できるが、科学的にみて、これらの要因が価格形成要因と断定できるかどうかは、かなり怪しいと思っている。
 価格形成要因で価格が決まるのなら、取引事例は不要である。
 何故なら、要因が先にあって価格が事後的に決まるのなら、要因分析を深化させれば済む話である。
 一般的に、市民が不動産を売買するときに鑑定世界の価格形成要因を認識しているかと聞かれれば、ほとんど認識していないと答える他はない。
 田舎における売買の実態からすると、認識しているどころか、全く知らないといっても過言ではない(角地だろうと中間地だろうと、あまり気にはしていない)。

 仮に要因があって価格が決まると仮定しても、街路・交通接近・環境・行政的条件という区分や、各条件のウエイト(価格形成要因相互の重み)、さらに各条件下における定性的な関係と量的関係、つまり良し悪しとその相互の割合は、今もって科学的には解明されていない。
 我々は鑑定評価の際に価格形成要因を数量的に扱っているが、事後的に価格を説明するために仮定的に使っているだけである。
 結果を後付けで説明しているにすぎず、数量的な積み上げによって価格を説明しているわけではない。
 つまり鑑定評価は仮説に終始しているだけで、仮説の立証を科学的に行うことはできないのである。
 立証できないから、経験・能力の差は鑑定結果に何の関係もないことになる。もっとも、説得力の差はあるかもしれないが…。

 ところで、鑑定評価を依頼する人は、通常、不動産鑑定士ではない。
 しかし、専門的能力を有しないこれらの依頼者、特に役所の場合は、鑑定のための仕様書を作成し、完了したら完了検査と称して鑑定評価書を審査することになっている。
 専門的能力を有しない素人が仕様書を作成したり、審査が可能な鑑定評価という業務は、はたして専門性が高いといえるのだろうか?
 鑑定評価を単純労働と同じく役務の提供と定義し、請負業務として(されているというのが真実か)受注競争に明け暮れている現状は、自らその専門性を否定してると言わざるを得ない。
 時給に換算して、1,000~2,000円程度にしかならない鑑定の現状は、鑑定評価の基本的考察にあるとおり、精密な知識・豊富な経験そして的確な判断力を持ち、これらが有機的・総合的に発揮できる練達堪能な専門家によってなされなければならない仕事とは、どうしても思えないのである。
 鑑定業を取り巻くマーケットは、非情である。
 いくら美しいことを言っても、たかが日雇労働者程度にしか市場は評価していないのである。
 それというのも、鑑定評価に求められているのは科学性ではない。
 単なる第三者証明としての、依頼者にとって都合の良い鑑定評価書という名の書類の作成にすぎず、内容は二の次三の次で、依頼者の意に反した結果は無視または拒絶される。
2011.12.13 14:40 | 固定リンク | 鑑定雑感

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