節約は美徳か悪徳か? ― 蜂の萬話と相互律が示唆するもの ― Vol.5
2012.08.08
VOL.05 蜂の萬話 ― 私悪すなわち公益
難波田先生の本も衝撃的であったが、1714年に出版されたバーナード・マンデヴィルの『蜂の萬話』という本も衝撃的である。
この本を読めば、歴史が始まって以来、人間のやることはあまり変わってないことが分かる。
さらに、どんなに美辞麗句で飾ってみても、所詮人間のありようは醜いものであることを知らされた。
アラ還暦を過ぎたのに、知らないことの多さに呆然としている。
人生100年あっても足りないと思ったが、知らない方が幸せなのかもしれない。
難波田哲学ではないが、幸・不幸も相互律であり、そう深刻に考えることもないかと思うが、雑学的好奇心には勝てそうもなく、乱読は止みそうもない。
ところで、バーナード・マンデヴィルは、商業の本質を次のように喝破している。
奢侈は貧者を百万人雇い、いとわしい自負はもう百万人雇った。羨望そのものや虚栄は精励の召使いであった。彼らお気に入りの愚かさはあの奇妙でばかげた悪徳の食べ物や家具や衣服の気まぐれでこれは商売を動かす車輪になった。
(『蜂の萬話・私悪すなわち公益』泉谷治訳、法政大学出版局より抜粋)
読者がマンデヴィルのこの言葉をどう捉えるのか、興味は尽きない。
個人的には、人間の生存に必要なモノ以外は、そのほとんどが人間が後天的に獲得した欲望の産物以外の何物でもないと思うのである。
いくらキレイ事を並べたところで、人間の欲望を煽り、奢侈を推奨し、見栄・ねたみ・虚飾を助長し、それが拡大・増長することが経済発展と賛同し、人種・国家を越えて世界に蔓延した結果が現在の状況であると思わざるを得ない。
資本主義経済といい、自由主義経済といい、近代経済学が教えるところは他社より良くありたいという人間の欲望そのものであることを、心に銘記したいと思うのである。
仮に人間が欲望から解放されたとしたら(もっとも、そんなことはあり得ないが)、もはや人間とは言えない。人間的欲望がなくなれば、神・仏としか言いようがないが、そのような人々がこの世界に溢れたら、この社会は存続できないのであろう。
産業革命時のイギリスで書かれたマンデヴィルのこの本は、資本主義礼賛と宗教団体等から激しく攻撃されたようである。
とかく人間はキレイ事で済ませ、醜い現実から目をそむけようとするが、本当にそれでいいのか、再考する必要がある。
政治世界の権力闘争も、所詮見栄・ねたみ・虚飾以外の何物でもない。
政治家は国民のためと声高に叫んでいるが、政治家の誰一人として命を賭して原発事故の最前線で頑張ろうとはしていない。
大本営本部と同じで、弾の飛んでこない安全な所で、十分な食事と睡眠をとりながら、現場の人間に対しては、過酷な状況を知りながら、特に対策を考えるでもなく放置し、徒に時を稼ぎ、責任を曖昧にして逃げ切ろうとしている。
武士社会から明治維新によって足軽侍が政治の中枢を担ってきたが、明治が遠くなるにつれ、武士道精神は衰退し、国家の品格も人間の品格もどこかに消えてしまったその涯に、バーナード・マンデヴィルが指摘したようにありとあらゆる欲望が跋扈する社会が出現した。
貧しくても豊かな精神社会から、物質的には豊かであるが貧しい精神社会を社会の底辺を支える貧しい人々の犠牲の上に作り上げてきたが、はたしてそれで良かったのであろうか。
専門家ムラは、時の権力に寄り添い、ことの本質や権力にとって都合の悪いことには目をつむってきたのは、紛れもない事実である。
哲学なき政治・哲学なき専門家・哲学なき報道機関等に踊らされていることにも気がつかない一般市民からなるこの国に、明るい未来はあるのであろうか。
もっとも、暗い時代を基準とすれば、未来は何時も明るいということになるのであるが、バーナード・マンデヴィルは、この本の諸言で次のように述べている。
蜂の萬話の主意は、富裕で繁栄する国民であることを欲し、そのような国民として享受できるあらゆる恩恵を驚くほど貪りながら、悪徳や不都合に何時もブツブツ言って批難ばかりしている人々は不合理で愚かであることをあばく点にあるからである。そのような悪徳や不都合はこの世のはじめから今日まで、国力や高雅において同時に有名であったあらゆる王国や国家から切り離すことができないものであった。
18世紀初頭に書かれたこの本の内容は、300年を経ても些かも色褪せはしていない。
我々は相反するあらゆる美徳と悪徳と不都合が渾然一体となることによって社会が成り立っていることをよく理解するべきであると思うのである。
部分の理屈を全体にあてはめ、合理性の仮面をかぶって情緒的に行動し、非難と批判の区別もできず、意見の異なる者を排除することは、つまるところ自己否定につながることを肝に銘じなければと反省している。
東日本大震災によって図らずもこの国の混乱を見てしまったが、これを契機にこの国のありさまについて改めて考えてみた。
バーナード・マンデヴィルや難波田先生が示唆するように、我々はもっと事の本質について哲学的に考えることが必要だと痛感した。
最後に、現代の我々にとっても耳の痛いバーナード・マンデヴィルの箴言をご紹介する。
1.敵対者を論破する一番の方法は中傷である。
2.他人のアラ捜しばかりをしている人々は、我が身を見つめることによって自分たちにも多少の覚えのあることに気づき、毒づくのが恥ずかしくなるだろう。
3.安楽や慰安がとても好きで、繁栄する国家がもたらす利益を貪る人々は、その大きな分け前にあずかるには甘んじて不都合をも受け入れなければならないと理解すべきである。
世迷い言が多くなったが、ご容赦願いたい。東日本大震災の被災者に合掌。
難波田先生の本も衝撃的であったが、1714年に出版されたバーナード・マンデヴィルの『蜂の萬話』という本も衝撃的である。
この本を読めば、歴史が始まって以来、人間のやることはあまり変わってないことが分かる。
さらに、どんなに美辞麗句で飾ってみても、所詮人間のありようは醜いものであることを知らされた。
アラ還暦を過ぎたのに、知らないことの多さに呆然としている。
人生100年あっても足りないと思ったが、知らない方が幸せなのかもしれない。
難波田哲学ではないが、幸・不幸も相互律であり、そう深刻に考えることもないかと思うが、雑学的好奇心には勝てそうもなく、乱読は止みそうもない。
ところで、バーナード・マンデヴィルは、商業の本質を次のように喝破している。
奢侈は貧者を百万人雇い、いとわしい自負はもう百万人雇った。羨望そのものや虚栄は精励の召使いであった。彼らお気に入りの愚かさはあの奇妙でばかげた悪徳の食べ物や家具や衣服の気まぐれでこれは商売を動かす車輪になった。
(『蜂の萬話・私悪すなわち公益』泉谷治訳、法政大学出版局より抜粋)
読者がマンデヴィルのこの言葉をどう捉えるのか、興味は尽きない。
個人的には、人間の生存に必要なモノ以外は、そのほとんどが人間が後天的に獲得した欲望の産物以外の何物でもないと思うのである。
いくらキレイ事を並べたところで、人間の欲望を煽り、奢侈を推奨し、見栄・ねたみ・虚飾を助長し、それが拡大・増長することが経済発展と賛同し、人種・国家を越えて世界に蔓延した結果が現在の状況であると思わざるを得ない。
資本主義経済といい、自由主義経済といい、近代経済学が教えるところは他社より良くありたいという人間の欲望そのものであることを、心に銘記したいと思うのである。
仮に人間が欲望から解放されたとしたら(もっとも、そんなことはあり得ないが)、もはや人間とは言えない。人間的欲望がなくなれば、神・仏としか言いようがないが、そのような人々がこの世界に溢れたら、この社会は存続できないのであろう。
産業革命時のイギリスで書かれたマンデヴィルのこの本は、資本主義礼賛と宗教団体等から激しく攻撃されたようである。
とかく人間はキレイ事で済ませ、醜い現実から目をそむけようとするが、本当にそれでいいのか、再考する必要がある。
政治世界の権力闘争も、所詮見栄・ねたみ・虚飾以外の何物でもない。
政治家は国民のためと声高に叫んでいるが、政治家の誰一人として命を賭して原発事故の最前線で頑張ろうとはしていない。
大本営本部と同じで、弾の飛んでこない安全な所で、十分な食事と睡眠をとりながら、現場の人間に対しては、過酷な状況を知りながら、特に対策を考えるでもなく放置し、徒に時を稼ぎ、責任を曖昧にして逃げ切ろうとしている。
武士社会から明治維新によって足軽侍が政治の中枢を担ってきたが、明治が遠くなるにつれ、武士道精神は衰退し、国家の品格も人間の品格もどこかに消えてしまったその涯に、バーナード・マンデヴィルが指摘したようにありとあらゆる欲望が跋扈する社会が出現した。
貧しくても豊かな精神社会から、物質的には豊かであるが貧しい精神社会を社会の底辺を支える貧しい人々の犠牲の上に作り上げてきたが、はたしてそれで良かったのであろうか。
専門家ムラは、時の権力に寄り添い、ことの本質や権力にとって都合の悪いことには目をつむってきたのは、紛れもない事実である。
哲学なき政治・哲学なき専門家・哲学なき報道機関等に踊らされていることにも気がつかない一般市民からなるこの国に、明るい未来はあるのであろうか。
もっとも、暗い時代を基準とすれば、未来は何時も明るいということになるのであるが、バーナード・マンデヴィルは、この本の諸言で次のように述べている。
蜂の萬話の主意は、富裕で繁栄する国民であることを欲し、そのような国民として享受できるあらゆる恩恵を驚くほど貪りながら、悪徳や不都合に何時もブツブツ言って批難ばかりしている人々は不合理で愚かであることをあばく点にあるからである。そのような悪徳や不都合はこの世のはじめから今日まで、国力や高雅において同時に有名であったあらゆる王国や国家から切り離すことができないものであった。
18世紀初頭に書かれたこの本の内容は、300年を経ても些かも色褪せはしていない。
我々は相反するあらゆる美徳と悪徳と不都合が渾然一体となることによって社会が成り立っていることをよく理解するべきであると思うのである。
部分の理屈を全体にあてはめ、合理性の仮面をかぶって情緒的に行動し、非難と批判の区別もできず、意見の異なる者を排除することは、つまるところ自己否定につながることを肝に銘じなければと反省している。
東日本大震災によって図らずもこの国の混乱を見てしまったが、これを契機にこの国のありさまについて改めて考えてみた。
バーナード・マンデヴィルや難波田先生が示唆するように、我々はもっと事の本質について哲学的に考えることが必要だと痛感した。
最後に、現代の我々にとっても耳の痛いバーナード・マンデヴィルの箴言をご紹介する。
1.敵対者を論破する一番の方法は中傷である。
2.他人のアラ捜しばかりをしている人々は、我が身を見つめることによって自分たちにも多少の覚えのあることに気づき、毒づくのが恥ずかしくなるだろう。
3.安楽や慰安がとても好きで、繁栄する国家がもたらす利益を貪る人々は、その大きな分け前にあずかるには甘んじて不都合をも受け入れなければならないと理解すべきである。
世迷い言が多くなったが、ご容赦願いたい。東日本大震災の被災者に合掌。
(2012年2月 Evaluation no.44掲載)
節約は美徳か悪徳か? ― 蜂の萬話と相互律が示唆するもの ― Vol.4
2012.07.13
VOL.04 節約は美徳か悪徳か
東日本大震災を契機に、節約が叫ばれている。
最近は少しは落ち着いたようであるが、一時は飲み会や花見も自粛ムードであった。
他人の不幸を横目に遊ぼうなんて、心情的にも出来ず、情緒的には誠にごもっともなこととしか言いようがなく、誰も反対は出来ない。
しかし、そのことが経済的行動として合理的であるかどうかは、全く別の次元の問題である。
この国のマスコミは、どういうわけか、全体と個の話をゴチャマゼにして、情緒的行動と経済的合理性を混同する傾向が見られる。
経済学的に見れば、情緒的行動が経済的合理的であることは、ほとんどないのである。
にもかかわらず、マスコミはこれを厳密に区別することなく、その場その場で都合の良いように部分をつまみ喰いして報道する。
情報の受け手である一般市民は、マスコミ以上に区別する能力がないので、さらに混迷する。
ところで、「節約は美徳か悪徳か」という命題に対する情緒的な回答は、「節約は常に美徳」である。
しかし、経済学的には、節約は常に美徳とはならない。
インフレ時に消費を拡大すると、物価は上昇し、インフレはさらに拡大する。
物価が恒常的に上昇するインフレ時の経済政策は、金利を上げる等して消費を抑制することである。
つまり、節約によって消費が抑制され、需要が減退し、結果として物価は沈静化し、一般市民は安定した生活を取り戻すことができるのである。
したがって、インフレ時における節約は、情緒的にも経済的にも美徳である。
ただし、国家財政にとってインフレ抑制は必ずしも美徳ではない。
インフレによって借金は目減りするので、借金漬けの国家財政にとって節約によるインフレ抑制は必ずしも賛成できない。
ハイパーインフレーションは経済活動を混乱させ、個人も国家も破滅に導く可能性があるので、コントロール可能なインフレは個人も国家も大賛成である。
反対に、消費が冷え込み、物価が恒常的に下落するデフレ時の節約は、個人にとっては美徳(もっとも、所得が伸びないので節約するほかはない)であるが、社会全体とっては悪徳となる。
消費が低迷しているデフレ時に節約を推奨すると、需要はさらに減少し、モノが売れないので物価はさらに下落する。
このことにより生産は低迷し、工場は生産調整し、それでもダメなら操業停止し、最後は廃業へと追い込まれる。
デフレ時の節約は、個人にとっては美徳であっても、社会全体として見ると節約により消費は減退し、結果として節約に励んだ労働者である個人は失業のリスクにさらされるのであるから、デフレ時の節約は社会全体としては悪徳となる。
「節約は美徳か悪徳か」という命題は、相反する経済行動にも受け取れるが、マクロ経済という前提条件下での節約は、善し悪しの問題ではなく、選択の問題である。
しかし、マスコミは全体と個の問題の都合の良いところだけをつまみ喰いして報道するため、一般市民は混乱し、百家争鳴することになる。
本来的には景気の良い時に増税し、インフレを抑制しなければならないのに、マスコミは税収が増え、財政状態が好転しているのであるから減税しろと主張し、景気が悪くなると税収が落ち込み、財政状況が悪化するから増税しろと主張する。
その結果、景気の山はより高く、景気の底はより深くなり、景気変動の振れ幅は増大する。
マスコミは少なくとも一般市民より知的水準が高いと期待しているのに、現実は全体と個の調和を検討することなく、情緒的な報道となっていることに深い失望を感じる。
マスコミには、一般市民に対し、合成の誤謬をおこさせないよう注意して報道してもらいたいと思っているが、無理なのであろうか。
もっとも、情報の訴求力は情緒なほど高いと言われており、一般市民もそれを望んでいる以上、マスコミの姿勢が変わるとは思えないので、この国の苦難が解消される日は遠いというべきか……。
東日本大震災を契機に、節約が叫ばれている。
最近は少しは落ち着いたようであるが、一時は飲み会や花見も自粛ムードであった。
他人の不幸を横目に遊ぼうなんて、心情的にも出来ず、情緒的には誠にごもっともなこととしか言いようがなく、誰も反対は出来ない。
しかし、そのことが経済的行動として合理的であるかどうかは、全く別の次元の問題である。
この国のマスコミは、どういうわけか、全体と個の話をゴチャマゼにして、情緒的行動と経済的合理性を混同する傾向が見られる。
経済学的に見れば、情緒的行動が経済的合理的であることは、ほとんどないのである。
にもかかわらず、マスコミはこれを厳密に区別することなく、その場その場で都合の良いように部分をつまみ喰いして報道する。
情報の受け手である一般市民は、マスコミ以上に区別する能力がないので、さらに混迷する。
ところで、「節約は美徳か悪徳か」という命題に対する情緒的な回答は、「節約は常に美徳」である。
しかし、経済学的には、節約は常に美徳とはならない。
インフレ時に消費を拡大すると、物価は上昇し、インフレはさらに拡大する。
物価が恒常的に上昇するインフレ時の経済政策は、金利を上げる等して消費を抑制することである。
つまり、節約によって消費が抑制され、需要が減退し、結果として物価は沈静化し、一般市民は安定した生活を取り戻すことができるのである。
したがって、インフレ時における節約は、情緒的にも経済的にも美徳である。
ただし、国家財政にとってインフレ抑制は必ずしも美徳ではない。
インフレによって借金は目減りするので、借金漬けの国家財政にとって節約によるインフレ抑制は必ずしも賛成できない。
ハイパーインフレーションは経済活動を混乱させ、個人も国家も破滅に導く可能性があるので、コントロール可能なインフレは個人も国家も大賛成である。
反対に、消費が冷え込み、物価が恒常的に下落するデフレ時の節約は、個人にとっては美徳(もっとも、所得が伸びないので節約するほかはない)であるが、社会全体とっては悪徳となる。
消費が低迷しているデフレ時に節約を推奨すると、需要はさらに減少し、モノが売れないので物価はさらに下落する。
このことにより生産は低迷し、工場は生産調整し、それでもダメなら操業停止し、最後は廃業へと追い込まれる。
デフレ時の節約は、個人にとっては美徳であっても、社会全体として見ると節約により消費は減退し、結果として節約に励んだ労働者である個人は失業のリスクにさらされるのであるから、デフレ時の節約は社会全体としては悪徳となる。
「節約は美徳か悪徳か」という命題は、相反する経済行動にも受け取れるが、マクロ経済という前提条件下での節約は、善し悪しの問題ではなく、選択の問題である。
しかし、マスコミは全体と個の問題の都合の良いところだけをつまみ喰いして報道するため、一般市民は混乱し、百家争鳴することになる。
本来的には景気の良い時に増税し、インフレを抑制しなければならないのに、マスコミは税収が増え、財政状態が好転しているのであるから減税しろと主張し、景気が悪くなると税収が落ち込み、財政状況が悪化するから増税しろと主張する。
その結果、景気の山はより高く、景気の底はより深くなり、景気変動の振れ幅は増大する。
マスコミは少なくとも一般市民より知的水準が高いと期待しているのに、現実は全体と個の調和を検討することなく、情緒的な報道となっていることに深い失望を感じる。
マスコミには、一般市民に対し、合成の誤謬をおこさせないよう注意して報道してもらいたいと思っているが、無理なのであろうか。
もっとも、情報の訴求力は情緒なほど高いと言われており、一般市民もそれを望んでいる以上、マスコミの姿勢が変わるとは思えないので、この国の苦難が解消される日は遠いというべきか……。
節約は美徳か悪徳か? ― 蜂の萬話と相互律が示唆するもの ― Vol.3
2012.06.04
VOL.03 相互律について思うこと
『相互律』という言葉を目にしたのは、約30年以上も前のことである。
当時、この言葉が持つ深い意味を特に意識はしていなかったが、世の中の事象は全て相互律によって考えるべきではないかと思ったものである。
その思いは時が経つにつれ深く、そして鮮明になりつつある。
馬齢を重ねたせいかとつくづく思う今日この頃である。
ところで、相互律という言葉を知っている読者は少ないと思われるので、相互律という言葉を定義した難波田春夫先生について少しふれてみることとする。
早稲田大学田村正勝研究室のホームページによれば、難波田先生は1931年に東京大学を卒業後、早稲田大学等の教授を歴任された後、関東学園大学・酒田短期大学の学長を務められ、1991年9月に85歳でご逝去されている。
前述のホームページに掲載されているレポートによれば、「アレロノミーの探求」と題して相互律について以下のとおり記述されている。
アレロノミーの探求
最近の先生は、仏教の「事理」を援用されて、ご自分の哲学を説かれていた。こと(事)すなわち現象と、事わり(理)すなわち原理とが相依相俟の不可分な関係にあり、とりわけ「理」を我々がどのように捉えるかによって、歴史が決定されると説いておられる。近代以前の人々は、この理をヘテロノミー(他律性)と考えていた。全ての現象や人々の生活は、神や支配者に依存するというのである。しかし、近代になると人々はこの原理をオートノミー(自律性)と捉えるようになった。一切の現象や人間は皆、それぞれ独自の存在根拠に基づいており、自律性をもっていると考えている。このオートノミーゆえに、近代科学と技術が発展して物的繁栄がもたらされた。しかし他方でオートノミーゆえに環境破壊と文化の退廃がすすんだ。なぜなら、オートノミーは人間生活の全ての欲望や領域の自律性を認めるが、こうした解放の下では特に物質的豊かさの追求が支配的なり、これが他との関係を考慮することなく、自律的に追及されるからである、と先生は説かれた。
言うまでもなく、ヘテロノミーもオートノミーも真実在の原理ではない。人類はいまだ真の原理に気づいていない。先生は真実在の原理をアレロノミー(相互律)と命名された。
(詳しくは早稲田大学田村研究室のホームページをご覧下さい。)
以上、少々長くはなったが、ホームページより引用させてもらった。
筆者は難波田先生の専門書を読んだわけではなく、一般市民向けに書かれた新書もので読んだだけであるが、これまで相互律という言葉を忘れたことはない。
哲学的に深く理解したわけではないが(その能力はないが)、個人的には相互律とは、いわばコインの裏・表であり、世の中の事象はそのほとんどが相対立する概念によって成り立っていると理解したのである。
能力があるとは、能力がない人がいて初めて成立する概念である。
この本(『警告! 日本経済の破綻』経済往来社)を読んだ当時は、東京のある零細企業の管理職をしていたが、部下全員が年上のため、常日頃管理職として、あるいは人間の生き方としてどうあるべきか悩んでいた(ホント?)。
出来の良い人間は、出来の悪い人間に向かってお前はダメ人間だなと言うが、そう文句を言っている人間も、それ以上に出来の良い人からはダメ人間と言われる。
筆者は、難波田先生の相互律の概念によって、モノ事の大半は相対立する概念で成り立っていることを思い知らされた。
白は黒があって、表は裏があって、美人は美人でない人がいて、初めて成り立つ相対的概念で、絶対的ではない。
つまり、白がない世界では、黒という概念は成立しない。
したがって、悪のない善もないし、裏がない表ばかりの世界もない。誹謗中傷大いに結構。
しかし、相互律という概念に従えば、他者の排除は結局のところ自己という存在概念の否定につながると難波田哲学は説いている。
相対立する人がいて初めて自分の存在意義があるということを、謙虚に受け入れたいと思うのである。
くどいようだが、自分と異なる人(見かけも年齢も職業も考え方も能力も…)が存在してこそ自分の存在意義があるのであるから、世の中の人々が自分とは相容れない他者を排斥するような考え方から少しは脱却して欲しいと願わざるを得ない。
『相互律』という言葉を目にしたのは、約30年以上も前のことである。
当時、この言葉が持つ深い意味を特に意識はしていなかったが、世の中の事象は全て相互律によって考えるべきではないかと思ったものである。
その思いは時が経つにつれ深く、そして鮮明になりつつある。
馬齢を重ねたせいかとつくづく思う今日この頃である。
ところで、相互律という言葉を知っている読者は少ないと思われるので、相互律という言葉を定義した難波田春夫先生について少しふれてみることとする。
早稲田大学田村正勝研究室のホームページによれば、難波田先生は1931年に東京大学を卒業後、早稲田大学等の教授を歴任された後、関東学園大学・酒田短期大学の学長を務められ、1991年9月に85歳でご逝去されている。
前述のホームページに掲載されているレポートによれば、「アレロノミーの探求」と題して相互律について以下のとおり記述されている。
アレロノミーの探求
最近の先生は、仏教の「事理」を援用されて、ご自分の哲学を説かれていた。こと(事)すなわち現象と、事わり(理)すなわち原理とが相依相俟の不可分な関係にあり、とりわけ「理」を我々がどのように捉えるかによって、歴史が決定されると説いておられる。近代以前の人々は、この理をヘテロノミー(他律性)と考えていた。全ての現象や人々の生活は、神や支配者に依存するというのである。しかし、近代になると人々はこの原理をオートノミー(自律性)と捉えるようになった。一切の現象や人間は皆、それぞれ独自の存在根拠に基づいており、自律性をもっていると考えている。このオートノミーゆえに、近代科学と技術が発展して物的繁栄がもたらされた。しかし他方でオートノミーゆえに環境破壊と文化の退廃がすすんだ。なぜなら、オートノミーは人間生活の全ての欲望や領域の自律性を認めるが、こうした解放の下では特に物質的豊かさの追求が支配的なり、これが他との関係を考慮することなく、自律的に追及されるからである、と先生は説かれた。
言うまでもなく、ヘテロノミーもオートノミーも真実在の原理ではない。人類はいまだ真の原理に気づいていない。先生は真実在の原理をアレロノミー(相互律)と命名された。
(詳しくは早稲田大学田村研究室のホームページをご覧下さい。)
以上、少々長くはなったが、ホームページより引用させてもらった。
筆者は難波田先生の専門書を読んだわけではなく、一般市民向けに書かれた新書もので読んだだけであるが、これまで相互律という言葉を忘れたことはない。
哲学的に深く理解したわけではないが(その能力はないが)、個人的には相互律とは、いわばコインの裏・表であり、世の中の事象はそのほとんどが相対立する概念によって成り立っていると理解したのである。
能力があるとは、能力がない人がいて初めて成立する概念である。
この本(『警告! 日本経済の破綻』経済往来社)を読んだ当時は、東京のある零細企業の管理職をしていたが、部下全員が年上のため、常日頃管理職として、あるいは人間の生き方としてどうあるべきか悩んでいた(ホント?)。
出来の良い人間は、出来の悪い人間に向かってお前はダメ人間だなと言うが、そう文句を言っている人間も、それ以上に出来の良い人からはダメ人間と言われる。
筆者は、難波田先生の相互律の概念によって、モノ事の大半は相対立する概念で成り立っていることを思い知らされた。
白は黒があって、表は裏があって、美人は美人でない人がいて、初めて成り立つ相対的概念で、絶対的ではない。
つまり、白がない世界では、黒という概念は成立しない。
したがって、悪のない善もないし、裏がない表ばかりの世界もない。誹謗中傷大いに結構。
しかし、相互律という概念に従えば、他者の排除は結局のところ自己という存在概念の否定につながると難波田哲学は説いている。
相対立する人がいて初めて自分の存在意義があるということを、謙虚に受け入れたいと思うのである。
くどいようだが、自分と異なる人(見かけも年齢も職業も考え方も能力も…)が存在してこそ自分の存在意義があるのであるから、世の中の人々が自分とは相容れない他者を排斥するような考え方から少しは脱却して欲しいと願わざるを得ない。