鑑定評価は100%が仮説? Vol.4
2020.03.18
VOL.04 鑑定評価と仮説

 個人的には、鑑定評価という行為は芸術競技のように測定するモノサシがないので、数学的に証明できるような時代は、少なくとも21世紀前半には来ないと思っている。
 したがって、当面不動産鑑定士の大量失業時代を見ることはないものと期待しているが、だからといってこのままで良いとも考えられない。

 ところで、科学的と言われている物理・化学の世界でも、その99.9%が仮説であるという本には些か驚いた。
 ここでこの本の詳細な紹介はできないが、概要は次のとおりである。
 
 本の題名は『99.9%は仮説』(竹内薫著・光文社新書)、副題として「思い込みで判断しないための考え方」としている。
 主要な目次をみると、第1章~世界は仮説でできている、第2章~自分の頭の中の仮説に気づく、第3章~仮説は180度くつがえる等である。
 そして、プロローグに、飛行機はなぜ飛ぶのか?実はよくわかっていないとし、これに対する疑問は最先端の科学(航空力学)でも完全には説明できない「難問」であるとしている。
 鉄のかたまりが飛ぶ仕組みはとうの昔に解決済みと思っていたが、この本によると現在のアメリカではこれまでの飛行機が飛ぶ仕組みの説明はデタラメと批判され、真面目に論争されているらしい。

 ひるがえって、鑑定評価の世界をみると、仮説のオンパレードとしか思えない。

 例えば、取引事例比較法適用の取引事例について検討してみる。

 取引事例の収集は、現在アンケート調査が主流であるが、以前は聞き込み取材が中心であった。
 筆者の乏しい経験であるから、取引のどこまでが真実かわからないが、ある取引で買主に取材に行った時である。
 雑談を交えながら取引の状況をたずねると、どの価格が知りたいのかと逆に聞かれた。
 それはどういうことですかと聞くと、取引する場合、本当の売買契約書の他に、融資を受ける為に実際の取引価格より高い契約書(これは買主の要請)や逆に低い価格の契約書(これは税金の申告を誤魔化すため売主が要請)を作ることがあるとのことであった。
 個人的には本当の価格が知りたかったが、表に出るとまずいということで、結局税務署用の契約価格を教えてもらったが、不動産取引の複雑な事情を垣間見たトラウマは、現在も引きずっている。

 アンケート調査の限界は、相手方の顔が見えず、取材により取引の事情にさぐりを入れるということができないため、回答があってもそれが真実かどうか確認できないことである。
 また、時点修正率についても、事前にどの位変動したのか解るのであれば評価不用ということになる。
 更に、価格形成要因にしてもそれが本当に価格形成の要因なのかどうか解らないし、その実証的研究を踏まえた実務指針もない。

 身近な例を挙げると、角地の加算率や方位の格差率でさえ、何故そうなのかの研究もない。

 角地加算率を仮に5%と判定しても、それが4%や6%にならないという証明はできない。
 取引事例比較法適用のプロセスをみると、取引事例の価格そのものから事情補正・時点修正・標準化補正・地域要因の比較・個別的要因の比較全てにわたって仮説の域を出ていないことになる。

 つまり、もっと具体的に言えば、取引価格が真実であると仮定し、時点修正率は年間○○%と仮定し、標準化補正率○○%と仮定し、地域要因の格差率が○○%と仮定し、個別的要因の格差率が○○%と仮定すると○○であると仮定しているにすぎない。

 モノサシがない以上、要因の判定は測定ではなく、評価そのものと言わざるを得ないが、そのプロセスで使用している数字は、そのほとんどが評価者の仮説に基づく数字である。
 そして仮説のかたまりである評価額を第三者が証明・追試することはできない。
 収益還元法や原価法適用の際の各数値も、仮説の域を出ないものが多いのは、取引事例比較法と同様である。

 科学的といわれている分野でさえ99.9%が仮説にすぎないということであれば、鑑定評価は100%が仮説と言わざるを得ない。

 客観的という字句をいくら並べても、自己満足の域を出ず、客観性を装うだけである。
 また、第三者がこれに対していくら文句を言っても、せいぜい"らしさ"を競うだけで、相互に立証・反証することはできない。

 我々は、仮説世界の甘い砂上の楼閣に巣喰う蟻なのか?もう一度評価の本質に戻って考え直すことが必要なのかもしれない。

(2007年5月 Evaluation no.25掲載)

2020.03.18 10:46 | 固定リンク | 鑑定雑感
鑑定評価は100%が仮説? Vol.3
2020.03.05
VOL.03 評価と数学

 鑑定評価にあたって採点基準が全国的に統一されていれば、評価のブレは少なくなるものと思われる。

 しかし、ダイナミックに変動する経済現象の一つである不動産取引について、評価のための統一基準(具体的な数値の取り決め)を作るのは大変なことである。
 統一基準が仮に出来たとしても、刻一刻と変化する経済現象をうまく説明できるかどうかはわからない。

 昭和50年代前半に、数学的に評価ができないかということで重回帰分析による土地評価の研究が国の予算で行われたと記憶しているが、その結果はどうなったのであろうか。

 昨今は、ヘドニック関数によって評価が可能であるという論者もいるが、もしそうなら公的評価を担う不動産鑑定士が失業もしないで相も変わらず昔の評価の仕方から一歩も出られないことをどう説明したら良いのであろうか。
 もしヘドニック関数で全国津々浦々の土地の評価が可能なら、国家にとってこれほど喜ばしいことはない。

 つまり、数学的に証明可能な評価ができるのなら、土地価格をめぐる争いは一切なくなるものと思われるからである。

 また、土地評価に要する費用はほとんどかからないか、或いはかかってもこれまでより極めて少額で済むものと考えられる。

 そうだとすれば、国・地方も含めて評価に要する人員は不用となり、鑑定評価の費用も不用となり、国・地方の財政に与える効果は計り知れない。
 日本の数学者や経済学者は、是非総力を挙げて数学的に立証・追試が可能な評価システムを開発して欲しいと願わざるを得ない。

 その可能性があるのなら、21世紀の国家プロジェクトとして立ち上げても費用対効果は十分に得られるものと考える。

 更にうまくいけば、ノーベル賞も狙えるかもしれない。
2020.03.05 10:44 | 固定リンク | 鑑定雑感
鑑定評価は100%が仮説? Vol.2
2019.12.09
VOL.02 測定と評価の相異

 シンクロナイズドスイミングや体操競技のような芸術系の競技と鑑定評価とは、一見なんの関係もないようにみえるが、一定の行為ないし事実に対する評価という意味で関係があると考える。
 極端な事を言えば、陸上競技とシンクロナイズドスイミングの相異と言えば解り易いであろう。

 つまり、前者の競技は全て客観的な物差しによる測定(計測)結果で勝敗が決まるのに対し、後者は演技に対する評価で勝敗が決まるということである。

 シンクロナイズドスイミングのような演技種目の評価は芸術点・技術点からなり、表現・手足の動き等細部にわたって採点基準・評点が決められている。

 また、審判員は複数人で構成され、演技者の評点は最高点と最低点が切捨され、残りの審判員の評価点の合計点で示される。

 何故そうなっているかといえば、採点基準を詳細に規定し、経験豊富な審判員に判定(評価)させたとしても、演技に対する評価者の価値観の相異が反映されるからである。

 これに対し、陸上競技のように勝敗が全て測定(計測)結果によるのであれば、そこに評価という概念が入る余地は極めて少ないので、大勢の審判員を用意する必要はないことになる。

 筆者が考えてみたいことは、評価の持つ本質的な側面についてである。

 昨今、我々の業界を取り巻く環境は厳しく、とりわけ評価者の中味に対する内外の批判は年々と高まってきているように見受けられる。
 これはとりもなおさず、それだけ鑑定評価業務に対する期待が高まってきたことの証左であると考えられる。

 ところで、評価に対する批判の多くは客観性に対するものである。

 それでは評価の客観性を高めるということはどういうことなのか、また、果たして完全な客観性が達成される可能性があるのかどうかについて考えてみたい。

 まず一番解りやすい、ほぼ完全な客観性が達成される事例についてみるものとする。

 完全な客観性とは、理論的にも現実的にも実証可能であること、つまり一定の条件下であれば誰が行なっても同じ結果に達することである。
 言葉を替えれば追試・立証の可能性である。
 その例として陸上競技をあげた。
 陸上競技は審判員の評価という行為は介在しない。
 そこにあるのは、早さ・距離等に対する測定(計測)という行為であって、時間や距離の概念に第三者の評価が入る余地はない。
 そうはいっても、誰が測っても同じ結果になる為には、測定ルール・測定単位・測定する機械を先に用意しなければならないことになる。

 他方、シンクロナイズドスイミングのような芸術競技の勝敗は、時間や距離を図るものではない。
 したがって、いくら基準を細かく決めても測定する物差しや機械がないため、評価結果の客観性を立証することも追試をすることもできない。
 だからこそ経験豊富な審判員を多勢用意し、その上で最高点と最低点を切捨して、残りの審判員の評点で勝敗を決定しているものと思われる。
 つまり、客観性を擬制しているだけで証明はないのである。

 したがって、鑑定評価業務は本質的にはシンクロナイズドスイミングのような芸術競技の審判とほぼ同じと考えられる。

 鑑定評価理論は観念的であり、評価に必要な数値は決められていない。

 ということは、価値判断の物差しが統一されていないということである。
 いくら試験に合格したからといって、神になれる訳ではない。生まれも経験も価値観も異なる多数の鑑定士がいくら手順をつくしたとしても、同じ結論に達すると擬制することには無理があるものと考える。
 つまり、我々は比準価格や収益価格を算出する場合に行なっているのは価格形成要因を測定している訳ではなく、これらのデータに対する鑑定士としての評価(価値判断)を行なっているにすぎないと考えられる。

 評価である以上、そこに経験の差異や価値観の相異が反映されるのは想像に難くない。
 芸術競技のような演技種目は、採点基準や評点を細かく決めていても演技を測定することは出来ないので、演技内容を採点基準に従って評価する他はないのである。

 評価である以上、アテネオリンピックに見るまでもなく、審判員の評価・評点が一致することはほとんどないのである。

 これが評価という行為の現実の姿である。

 つまり、評価という行為の結果は必ずしも一致しないのが常態であることを、我々は認識しなければならないのではないだろうか。
2019.12.09 10:41 | 固定リンク | 鑑定雑感

- CafeLog -