ホモ・エコノミクスとゴルゴ13 Vol.4
2013.05.11
VOL.03 近代経済学とホモ・エコノミクス
近代経済学では、自己の経済的利益を極大化することを唯一の行動基準として行動する人間をホモ・エコノミクスとして定義し、理論的分析を行なっている。
これは、標準的な経済学の理論の前提となっているが、ホモ・エコノミクスの仮想世界の人間である。
ところで、ホモ・エコノミクスの前提条件は一般的に次のような要件を備えているものとされている。
①自らの効用を最大化する行動を選択するため、あらゆる情報を駆使し、利用する能力がある。
②決定した経済行動は不変である。誘惑に負けることは絶対になく、意志は強固である。
③自己の利益のためにのみ行動する非常な人間である。
ボランティアなんぞは論外と考える道徳・倫理とは無縁の世界の存在である。
鑑定理論も、ホモ・エコノミクスを前提に構築されている。
しかし、現実の不動産はある意味で極めて不合理な存在でもある。
たとえば、最近のエコブームに見るように、自然環境は大事だと言いながら、自然環境の良い土地の経済的価値は低い。
自然環境が良いとは、つまるところ都市的便益がないということであり、その意味で経済的価値は低いと考えるのが一般的である。
現実の人間は極めて非合理的な生物である。
都会にいながら自然環境を望み、田舎にいながら都会の便利さを求めたがる。
混んでいる都会の電車も嫌だが、タマにしか来ないガラガラの田舎の電車も嫌というように、その我儘はキリがない。
現実世界の人間は情報を十分に持ち合わせてはいないし、その情報を駆使する能力もない。
経済行動も不変とは程遠く、その日のうちに変化する。
上野の不忍池の矢鴨は可哀想だと大騒ぎする情緒的な側面がある一方、鴨鍋を食べに行こうとする非情な側面もあって、現実世界の人間行動は不可思議である。
近代経済学では、自己の経済的利益を極大化することを唯一の行動基準として行動する人間をホモ・エコノミクスとして定義し、理論的分析を行なっている。
これは、標準的な経済学の理論の前提となっているが、ホモ・エコノミクスの仮想世界の人間である。
ところで、ホモ・エコノミクスの前提条件は一般的に次のような要件を備えているものとされている。
①自らの効用を最大化する行動を選択するため、あらゆる情報を駆使し、利用する能力がある。
②決定した経済行動は不変である。誘惑に負けることは絶対になく、意志は強固である。
③自己の利益のためにのみ行動する非常な人間である。
ボランティアなんぞは論外と考える道徳・倫理とは無縁の世界の存在である。
鑑定理論も、ホモ・エコノミクスを前提に構築されている。
しかし、現実の不動産はある意味で極めて不合理な存在でもある。
たとえば、最近のエコブームに見るように、自然環境は大事だと言いながら、自然環境の良い土地の経済的価値は低い。
自然環境が良いとは、つまるところ都市的便益がないということであり、その意味で経済的価値は低いと考えるのが一般的である。
現実の人間は極めて非合理的な生物である。
都会にいながら自然環境を望み、田舎にいながら都会の便利さを求めたがる。
混んでいる都会の電車も嫌だが、タマにしか来ないガラガラの田舎の電車も嫌というように、その我儘はキリがない。
現実世界の人間は情報を十分に持ち合わせてはいないし、その情報を駆使する能力もない。
経済行動も不変とは程遠く、その日のうちに変化する。
上野の不忍池の矢鴨は可哀想だと大騒ぎする情緒的な側面がある一方、鴨鍋を食べに行こうとする非情な側面もあって、現実世界の人間行動は不可思議である。
ホモ・エコノミクスとゴルゴ13 Vol.3
2013.05.10
VOL.03 現実社会と標準的経済学の世界
現実世界は、経済学が予定している調和点を見つけ出すことが出来ず、大きくダッチロールしている。
金融工学が発展し、金融商品のリスク分析が可能(?)となったため、金融商品市場は大きく拡大した。
リスク分析を基に、リスクヘッヂを行い、確実に安定的にリターンを手に入れることは可能と喧伝され、機関投資家も一般市民も金融商品市場に殺到した。
つまり、プロもアマも金融商品市場は株式市場より安全と錯覚したのである。
不動産の証券化商品も金融商品の一角を占め、DCF法による評価に基づいた証券化不動産であるから絶対安全と言っていた人がいるが、サブプラ イムローン問題の発覚を機に、その影響は世界に拡散した。
日本市場は相対的に安全とされていたが、フタを開 ければ主要大手金融機関だけで1兆5千億円の損失が発生した。
もっとも、いくら損をしても所詮国民の金であり、金融機関にとっては痛くも痒くもないのである。
損をしたのは金融機関だけではなく、金融機関にお金を預 けていた国民であるのに、その自覚は国民にないのであるからお目出度いものである。
話がそれたが、サブプライムローンの問題は、国内不動産市場にも大きな影響を与えている。
不動産鑑定士が社長を勤める大阪のプライベートファンド会社が、今年春に倒産した。
その後、名古屋のファンド会社も倒産した。
つい最近では、グローバンスというファンド会社が倒産している。
いくら理屈を並べてみても、現実世界は必ずしも経済合理性に基づかないようである。
その意味で、近代経済学は現実世界と遊離した仮想世界を分析の対象としているのではないかと考える他はない。
鑑定理論も、その意味で限界があるのは否定できない。
現実世界は、経済学が予定している調和点を見つけ出すことが出来ず、大きくダッチロールしている。
金融工学が発展し、金融商品のリスク分析が可能(?)となったため、金融商品市場は大きく拡大した。
リスク分析を基に、リスクヘッヂを行い、確実に安定的にリターンを手に入れることは可能と喧伝され、機関投資家も一般市民も金融商品市場に殺到した。
つまり、プロもアマも金融商品市場は株式市場より安全と錯覚したのである。
不動産の証券化商品も金融商品の一角を占め、DCF法による評価に基づいた証券化不動産であるから絶対安全と言っていた人がいるが、サブプラ イムローン問題の発覚を機に、その影響は世界に拡散した。
日本市場は相対的に安全とされていたが、フタを開 ければ主要大手金融機関だけで1兆5千億円の損失が発生した。
もっとも、いくら損をしても所詮国民の金であり、金融機関にとっては痛くも痒くもないのである。
損をしたのは金融機関だけではなく、金融機関にお金を預 けていた国民であるのに、その自覚は国民にないのであるからお目出度いものである。
話がそれたが、サブプライムローンの問題は、国内不動産市場にも大きな影響を与えている。
不動産鑑定士が社長を勤める大阪のプライベートファンド会社が、今年春に倒産した。
その後、名古屋のファンド会社も倒産した。
つい最近では、グローバンスというファンド会社が倒産している。
いくら理屈を並べてみても、現実世界は必ずしも経済合理性に基づかないようである。
その意味で、近代経済学は現実世界と遊離した仮想世界を分析の対象としているのではないかと考える他はない。
鑑定理論も、その意味で限界があるのは否定できない。
ホモ・エコノミクスとゴルゴ13 Vol.2
2013.04.05
VOL.02 評価手法と経済分析の限界
取引事例比較法・原価法・収益還元法のいずれも刻一刻と変化する市場の動向に対応できていない。
もっとも、市場の変化が要因の変化を伴っているのかどうかさえわかっていないのであるから、結局は市場構造に変化はないという前提で考えるほかはない。
評価基準の改正によって、比較的動的な分析が可能とされるDCF法であっても、結局は過去の延長上で分析する他はないので、静態的分析の域を出ていないことになる。
人間の限られた能力では、刻々と変化する市場条件の無限とも考えられる組み合わせを1秒間に数万回も繰り返し計算し、アルゴリズム的に分析することは不可能である。
一方、経済分析の大半は不動産市場よりはるかに単純な市場を相手にしているが、未だにその分析技術は確立していない。
もっとも、経済分析が完璧であれば経済対策に困ることはないのであるから、市民はとっくに最大多数の最大幸福を実現し、平穏な生活を手に入れていなければならないことになる。
ところが、現実の生活はこれと正反対であり、未だに最大多数の最大幸福を実現するに至っていない。
つまり、比較的単純と思われる市場(株式・債券・為替市場等)でさえ静態論的にも動態論的にも分析はできていないのであるから、不完全極まりない不動産市場を科学的に分析・アプローチする方法がないのは至極当然である。
したがって、鑑定評価論が完成されたものではないことは当然であり、それにしがみつくのはある意味で滑稽でもある。
現実の不完全な不動産市場をダイナミックに分析し、より客観性を高めることは必要ではあるが、現実の状況下では現実不可能と思われるほどハードルは高い。
取引事例比較法・原価法・収益還元法のいずれも刻一刻と変化する市場の動向に対応できていない。
もっとも、市場の変化が要因の変化を伴っているのかどうかさえわかっていないのであるから、結局は市場構造に変化はないという前提で考えるほかはない。
評価基準の改正によって、比較的動的な分析が可能とされるDCF法であっても、結局は過去の延長上で分析する他はないので、静態的分析の域を出ていないことになる。
人間の限られた能力では、刻々と変化する市場条件の無限とも考えられる組み合わせを1秒間に数万回も繰り返し計算し、アルゴリズム的に分析することは不可能である。
一方、経済分析の大半は不動産市場よりはるかに単純な市場を相手にしているが、未だにその分析技術は確立していない。
もっとも、経済分析が完璧であれば経済対策に困ることはないのであるから、市民はとっくに最大多数の最大幸福を実現し、平穏な生活を手に入れていなければならないことになる。
ところが、現実の生活はこれと正反対であり、未だに最大多数の最大幸福を実現するに至っていない。
つまり、比較的単純と思われる市場(株式・債券・為替市場等)でさえ静態論的にも動態論的にも分析はできていないのであるから、不完全極まりない不動産市場を科学的に分析・アプローチする方法がないのは至極当然である。
したがって、鑑定評価論が完成されたものではないことは当然であり、それにしがみつくのはある意味で滑稽でもある。
現実の不完全な不動産市場をダイナミックに分析し、より客観性を高めることは必要ではあるが、現実の状況下では現実不可能と思われるほどハードルは高い。