空家とコンパクトシティと試される住民意識 ~ Vol.3
2021.11.18
VOL.03 試されるのは住民意識と民主主義
これまで成長経済の流れに乗ってきた日本人は、口では民主主義と言いつつも、その実は国家の庇護や国家がもたらすであろう利益にぶら下がってきたに過ぎないと思っている。
受益を声高に主張するが、負担については避けようとしている。
上は国会議員から、下は市町村議員まで、選挙の時は住民の負担軽減を公約に掲げるが、負担の増大を公約にすることはない。
問われるべきは、受益かさもなくば負担かではなく、受益と負担のバランスをどう取るかということではないかと考える。
行政サービスを十分に受けたいが、負担は嫌というのは、民主主義的とは言えない。
我がマチの行政サービスの質と量を決めるのは、住民の意識と考える。
負担が嫌なら、行政サービスの質・量を減らすしかないが、選挙の時には何か魔法の杖でもあるかのように錯覚を与え、負担は最小・受益は最大と思わせるが、そんなことはまやかしであると見抜けない住民(国民)にも、責任の一端はあるのではと思うのである。
都市計画は、いわば国家の最小単位である市町村の将来像を図示したものと考えるが、それが絵に描いたモチにすぎなかったことが、50年もかからないうちに明らかとなってしまった。
日本人は、戦術において比較的優れた能力を発揮するようであるが、戦略となると、その能力を発揮できないようである。
都市計画は、まさに都市の長期戦略を図示したものともいえるが、結局50年・100年後にどういう都市にしたいのか、明確な戦略も持たずにここまで来てしまったのではと思うのである。
もっとも、都市計画策定に当たって、住民との十分な合意形成がなされたのかどうかは判然としない。
経験的には、縦覧と称して、都市計画案を見せてやるという上から目線の計画であり、そこには地域住民の十分な合意形成がなされたとは到底思えないのである。
そうでなければ、2階程度の一般住宅しか見当たらない地域を中高層住居専用地域に指定し、中高層建物の建築計画が持ち上がれば日照権だの眺望権だのと後出しジャンケンのように苦情を言うなんてことはないはずであるからである。
地域住民にとっては、中高層住居専用地域に指定されたことの意味なんて、恐らく知る由も無かったからこそ、マンションなんてケシからんと大騒ぎするのである。
もっとも、全て行政に責任がある訳ではなく、責任を自覚しない議員と、そういう人を選んだ住民や民主主義とは何かを十分自覚しないまま大人になった我々の責任も大きいと言わなければならないと思うのである。
コンパクトシティ構想も、都市計画の一つであるとすれば、コンパクトにした後どうなるのか、20年・30年もすれば、マチそのものが消滅しかねない可能性を前提に、持続可能な都市とは何かを住民自らが考える必要があると思うのである。
私はマチを出て行くが、後は残った人間で考えてくれというのは、無責任という他はないが、現実はそうなっているのである。
コンパクトシティ構想も、ある意味重要と考えるが、これまでの思考の延長で計画するのであれば、失敗は目に見えていると思わざるを得ない。
マチ作りで試されているのは、実は行政の手腕ばかりではなく、住民の意識であると考える。
民主主義とは、自らを治める意識という認識がなければ、都市計画はもたないと思うのである。
国民の上から下までパラサイト意識に染まった日本に、本当の民主主義が花開くのか、まさに試されようとしていると自覚すべきであると考える。
鑑定士もそろそろ国家に何をしてくれるのか問うのではなく、自らが何をできるのか、言葉を換えれば国家・国民の負担を最小にするためには何をどうすべきかを自らに問うべき時代にいると認識すべきである。
パラサイト意識・パラサイト体制から決別できる時代が来ることを、念じずにはいられない。
これまで成長経済の流れに乗ってきた日本人は、口では民主主義と言いつつも、その実は国家の庇護や国家がもたらすであろう利益にぶら下がってきたに過ぎないと思っている。
受益を声高に主張するが、負担については避けようとしている。
上は国会議員から、下は市町村議員まで、選挙の時は住民の負担軽減を公約に掲げるが、負担の増大を公約にすることはない。
問われるべきは、受益かさもなくば負担かではなく、受益と負担のバランスをどう取るかということではないかと考える。
行政サービスを十分に受けたいが、負担は嫌というのは、民主主義的とは言えない。
我がマチの行政サービスの質と量を決めるのは、住民の意識と考える。
負担が嫌なら、行政サービスの質・量を減らすしかないが、選挙の時には何か魔法の杖でもあるかのように錯覚を与え、負担は最小・受益は最大と思わせるが、そんなことはまやかしであると見抜けない住民(国民)にも、責任の一端はあるのではと思うのである。
都市計画は、いわば国家の最小単位である市町村の将来像を図示したものと考えるが、それが絵に描いたモチにすぎなかったことが、50年もかからないうちに明らかとなってしまった。
日本人は、戦術において比較的優れた能力を発揮するようであるが、戦略となると、その能力を発揮できないようである。
都市計画は、まさに都市の長期戦略を図示したものともいえるが、結局50年・100年後にどういう都市にしたいのか、明確な戦略も持たずにここまで来てしまったのではと思うのである。
もっとも、都市計画策定に当たって、住民との十分な合意形成がなされたのかどうかは判然としない。
経験的には、縦覧と称して、都市計画案を見せてやるという上から目線の計画であり、そこには地域住民の十分な合意形成がなされたとは到底思えないのである。
そうでなければ、2階程度の一般住宅しか見当たらない地域を中高層住居専用地域に指定し、中高層建物の建築計画が持ち上がれば日照権だの眺望権だのと後出しジャンケンのように苦情を言うなんてことはないはずであるからである。
地域住民にとっては、中高層住居専用地域に指定されたことの意味なんて、恐らく知る由も無かったからこそ、マンションなんてケシからんと大騒ぎするのである。
もっとも、全て行政に責任がある訳ではなく、責任を自覚しない議員と、そういう人を選んだ住民や民主主義とは何かを十分自覚しないまま大人になった我々の責任も大きいと言わなければならないと思うのである。
コンパクトシティ構想も、都市計画の一つであるとすれば、コンパクトにした後どうなるのか、20年・30年もすれば、マチそのものが消滅しかねない可能性を前提に、持続可能な都市とは何かを住民自らが考える必要があると思うのである。
私はマチを出て行くが、後は残った人間で考えてくれというのは、無責任という他はないが、現実はそうなっているのである。
コンパクトシティ構想も、ある意味重要と考えるが、これまでの思考の延長で計画するのであれば、失敗は目に見えていると思わざるを得ない。
マチ作りで試されているのは、実は行政の手腕ばかりではなく、住民の意識であると考える。
民主主義とは、自らを治める意識という認識がなければ、都市計画はもたないと思うのである。
国民の上から下までパラサイト意識に染まった日本に、本当の民主主義が花開くのか、まさに試されようとしていると自覚すべきであると考える。
鑑定士もそろそろ国家に何をしてくれるのか問うのではなく、自らが何をできるのか、言葉を換えれば国家・国民の負担を最小にするためには何をどうすべきかを自らに問うべき時代にいると認識すべきである。
パラサイト意識・パラサイト体制から決別できる時代が来ることを、念じずにはいられない。
(2016年3月 月刊「不動産鑑定」掲載/「空家のコンパクトシティと試される住民意識」)