取引事例比較法とウナギの蒲焼きパートⅡ ― 鑑定世界とSTAP細胞現象 ― Vol.2
2021.08.12
VOL.02 比準表なるものの矛盾(百分比計算の限界)
昨今、公的評価において、比準表を作って、それを使用して比準価格を求めよという圧力を感じる。
仄聞するところによれば、実際に強要されたという地域もあったようである。
一体、誰がどのようなデータを使って解析し、その妥当性を証明したのであろうか。
小生は、残念ながらそのような研究発表があったのかどうかは、寡聞にして知らない。
比準表は、基本的に定性的な事情を基準にして格差を求めている。
つまり、良いか悪いかのどちらかを基準にして格差を判定することになる。
その格差が科学的に求められた訳ではないのは、前述のとおりである。
ところで、人間は、ある事情を基準にプラス10%とかマイナス10%とか判定しているが、厳密にいうと、プラス10%とマイナス10%は異なる。
Aを100としてBを110とすると、その格差はAからみると+10であるが、Bからみると90.9となり、約1%の差が生じる。
この程度であれば誤差のうちとホッカムリできるが、その格差が30%になると、誤差として片付けることができない。
つまり、Aを100、Bを130とすると、Bからみた(Bを100とする)Aはマイナス23%と判定しなければ、数学的には整合しない。
ということは、比準作業を分数式で表すこと自体に無理があるということである。
どこを基準にするかによって30の格差は変化するが、頭の中で瞬時に置き換え計算はできない。
測量のように絶対的な基準点があるのならともかく、経済現象である価格を測量のように求めることはできない。
仮に比準表がそれなりに真実らしいと仮定しても、百分比で表した途端に矛盾を生ずることになる。
測量の世界では、A地点から測量して、B・C・D・E地点を経由してA地点に戻ることを閉合するというが、鑑定の世界では、仮にA地点からB・C地点と価格が一定割合で下がっていくものとし、D・E地点からは一定割合で上昇させないとA地点の価格にはならないが、プラスの割合とマイナスの割合は、前述のとおり異なるのである。
悲しいかな、私のような凡人は、プラスもマイナスも同じ割合と考えるのがオチである。
比較する要因及び地点が多いと、その矛盾は倍加する。
昨今、公的評価において、比準表を作って、それを使用して比準価格を求めよという圧力を感じる。
仄聞するところによれば、実際に強要されたという地域もあったようである。
一体、誰がどのようなデータを使って解析し、その妥当性を証明したのであろうか。
小生は、残念ながらそのような研究発表があったのかどうかは、寡聞にして知らない。
比準表は、基本的に定性的な事情を基準にして格差を求めている。
つまり、良いか悪いかのどちらかを基準にして格差を判定することになる。
その格差が科学的に求められた訳ではないのは、前述のとおりである。
ところで、人間は、ある事情を基準にプラス10%とかマイナス10%とか判定しているが、厳密にいうと、プラス10%とマイナス10%は異なる。
Aを100としてBを110とすると、その格差はAからみると+10であるが、Bからみると90.9となり、約1%の差が生じる。
この程度であれば誤差のうちとホッカムリできるが、その格差が30%になると、誤差として片付けることができない。
つまり、Aを100、Bを130とすると、Bからみた(Bを100とする)Aはマイナス23%と判定しなければ、数学的には整合しない。
ということは、比準作業を分数式で表すこと自体に無理があるということである。
どこを基準にするかによって30の格差は変化するが、頭の中で瞬時に置き換え計算はできない。
測量のように絶対的な基準点があるのならともかく、経済現象である価格を測量のように求めることはできない。
仮に比準表がそれなりに真実らしいと仮定しても、百分比で表した途端に矛盾を生ずることになる。
測量の世界では、A地点から測量して、B・C・D・E地点を経由してA地点に戻ることを閉合するというが、鑑定の世界では、仮にA地点からB・C地点と価格が一定割合で下がっていくものとし、D・E地点からは一定割合で上昇させないとA地点の価格にはならないが、プラスの割合とマイナスの割合は、前述のとおり異なるのである。
悲しいかな、私のような凡人は、プラスもマイナスも同じ割合と考えるのがオチである。
比較する要因及び地点が多いと、その矛盾は倍加する。
取引事例比較法とウナギの蒲焼きパートⅡ ― 鑑定世界とSTAP細胞現象 ― Vol.1
2021.08.05
VOL.01 取引事例比較法再考
鑑定評価手法の中でも重要な位置を占めている取引事例比較法であるが、適用上の問題点は多い。
以前、本誌に寄稿したことがあるが、あれから10年経った今も、何ら進歩はしていない。(自分だけか?)
昨今の議論等を見聞きしても、その本質的な内容よりも、むしろ重箱の隅を突っつくような話ばかりである。
木を見て森を見ないとは、正にこのことである。
我々は、取引事例比較法の適用に際して、ごく普通に百分の1単位で格差を判定しているが、数学的分析なしに百分の1単位で価値判断ができるということが、はたして科学的・客観的態度といえるのであろうか。
再現性のない価値を求める手法としての闇は深い。
鑑定評価手法の中でも重要な位置を占めている取引事例比較法であるが、適用上の問題点は多い。
以前、本誌に寄稿したことがあるが、あれから10年経った今も、何ら進歩はしていない。(自分だけか?)
昨今の議論等を見聞きしても、その本質的な内容よりも、むしろ重箱の隅を突っつくような話ばかりである。
木を見て森を見ないとは、正にこのことである。
我々は、取引事例比較法の適用に際して、ごく普通に百分の1単位で格差を判定しているが、数学的分析なしに百分の1単位で価値判断ができるということが、はたして科学的・客観的態度といえるのであろうか。
再現性のない価値を求める手法としての闇は深い。
トウキョウイズジャパン ― 田舎不動産の独り言 ― Vol.6
2021.07.29
VOL.06 トウキョウイズジャパン
この国の行政・経済の中枢は東京である。
東京をはじめとする大都市では、土地利用の規制や建物の利用規制、更には老朽家屋の建て替え・コンバージョン・リノベーション・シェアハウス・長屋の再発見等とかいろいろと取り沙汰されているが、我輩と違ってご主人様が大勢いるか、来てくれる可能性のある場所でのみ成り立つ議論である。
いくら立派な都市計画図を作っても、工場のない工業地域や店のない商業地域、さては2階建を超える建物がないのに容積率が200%・400%の住居系・商業系の用途地域等、都市計画図に色塗られた用途地域と無関係な町は多い。
今後50%を超える地域が無居住化すれば、立派な都市計画図は昭和レトロのセピア色に褪色するのであろう。
一方、日本の政治・経済の中枢機能は東京にあるため、不動産の利用に関する題言・議論は全て東京中心となる。
東京では、高度利用を促進するため容積率の移転等という便利な方法があるらしいが、我輩は田舎の不動産であり、1センチたりとも動けないので大都市の恩恵を受けることはできない。
できるのは田舎の有り余る容積率を東京に売却すること位で、それができれば田舎の市町村も一時はお金が入り、楽になるのではと期待している。
その一方、北海道の余剰容積率を全て東京に売却すると、東京は今の2倍以上の建物が建てられることになるので地価は下がり、東京の住民は皆喜ぶと思うのである。
しかし、地価が下がると困るご主人様も多いのが真実である。
ご主人様は困ったもので、買うまでは安い方が良いと言い、買ったら高い方が良いと言うのである。
自己矛盾も甚だしいが、それが現実である。
いずれにしても、我が国の土地政策はほとんどが大都市中心の発想である。
我輩のような田舎不動産には何の関係もないのであるが、大都市の理屈を田舎にも同じようにあてはめようとするから困ったものである。
この国は、所詮東京が全てである。
東京の問題が日本の問題であり、その問題を解決することが日本の問題を解決することになると思っているので、田舎はおかまいなしとなる。
田舎の現実が見えないのであるから、それも仕方のないことであるが、末梢神経のその先で起きつつある病変は、やがて全身に回ると知るべきである。
東京だけで日本が成り立つのなら、トウキョウイズジャパンという考え方もあると思うが、原発でさえ都内に立地できない程安全性に問題があるのなら、トウキョウイズジャパンという考え方は改めてもらいたいと思うのである。
もっとも、資本主義のありとあらゆる利益を貪りながら、それによって引き起こされる悪徳や不都合には何時もブツブツ文句ばかりを言っているご主人様は極めて不合理で不健全と思うのであるが、正直もう少し何とかならないものかと気を揉んでいる。
一センチたりとも動けない我輩としては、ご主人様のなされるまま、時の過ぎゆくままに流される他はないものとあきらめるしかないのであろう。
隣の芝生は青いというが、我輩も芝生の青い東京に行ければいいのだが、それもかなわぬ夢である。
北海道開拓の歴史は逆回転し、 100年後は原生林の生い茂る山野に帰すのかもしれない。
世界では人口爆発だというのに、一体どうしたものなのであろう。
大都市と田舎をめぐる矛盾は大きく、その闇は深い。
一体日本は何処に行くのであろうか。
世界に冠たる高齢化・少子化と急速な人口減少という前人未踏の現実に対応する手本はない。
ガンバロウ!!試される日本!!試される北海道!!試される田舎!!
この国の行政・経済の中枢は東京である。
東京をはじめとする大都市では、土地利用の規制や建物の利用規制、更には老朽家屋の建て替え・コンバージョン・リノベーション・シェアハウス・長屋の再発見等とかいろいろと取り沙汰されているが、我輩と違ってご主人様が大勢いるか、来てくれる可能性のある場所でのみ成り立つ議論である。
いくら立派な都市計画図を作っても、工場のない工業地域や店のない商業地域、さては2階建を超える建物がないのに容積率が200%・400%の住居系・商業系の用途地域等、都市計画図に色塗られた用途地域と無関係な町は多い。
今後50%を超える地域が無居住化すれば、立派な都市計画図は昭和レトロのセピア色に褪色するのであろう。
一方、日本の政治・経済の中枢機能は東京にあるため、不動産の利用に関する題言・議論は全て東京中心となる。
東京では、高度利用を促進するため容積率の移転等という便利な方法があるらしいが、我輩は田舎の不動産であり、1センチたりとも動けないので大都市の恩恵を受けることはできない。
できるのは田舎の有り余る容積率を東京に売却すること位で、それができれば田舎の市町村も一時はお金が入り、楽になるのではと期待している。
その一方、北海道の余剰容積率を全て東京に売却すると、東京は今の2倍以上の建物が建てられることになるので地価は下がり、東京の住民は皆喜ぶと思うのである。
しかし、地価が下がると困るご主人様も多いのが真実である。
ご主人様は困ったもので、買うまでは安い方が良いと言い、買ったら高い方が良いと言うのである。
自己矛盾も甚だしいが、それが現実である。
いずれにしても、我が国の土地政策はほとんどが大都市中心の発想である。
我輩のような田舎不動産には何の関係もないのであるが、大都市の理屈を田舎にも同じようにあてはめようとするから困ったものである。
この国は、所詮東京が全てである。
東京の問題が日本の問題であり、その問題を解決することが日本の問題を解決することになると思っているので、田舎はおかまいなしとなる。
田舎の現実が見えないのであるから、それも仕方のないことであるが、末梢神経のその先で起きつつある病変は、やがて全身に回ると知るべきである。
東京だけで日本が成り立つのなら、トウキョウイズジャパンという考え方もあると思うが、原発でさえ都内に立地できない程安全性に問題があるのなら、トウキョウイズジャパンという考え方は改めてもらいたいと思うのである。
もっとも、資本主義のありとあらゆる利益を貪りながら、それによって引き起こされる悪徳や不都合には何時もブツブツ文句ばかりを言っているご主人様は極めて不合理で不健全と思うのであるが、正直もう少し何とかならないものかと気を揉んでいる。
一センチたりとも動けない我輩としては、ご主人様のなされるまま、時の過ぎゆくままに流される他はないものとあきらめるしかないのであろう。
隣の芝生は青いというが、我輩も芝生の青い東京に行ければいいのだが、それもかなわぬ夢である。
北海道開拓の歴史は逆回転し、 100年後は原生林の生い茂る山野に帰すのかもしれない。
世界では人口爆発だというのに、一体どうしたものなのであろう。
大都市と田舎をめぐる矛盾は大きく、その闇は深い。
一体日本は何処に行くのであろうか。
世界に冠たる高齢化・少子化と急速な人口減少という前人未踏の現実に対応する手本はない。
ガンバロウ!!試される日本!!試される北海道!!試される田舎!!
(2013年2月 Evaluation no.48掲載/「トウキョウイズジャパン ― 田舎不動産の独り言」)