戦略なき義務研修問題を憂う ~ Vol.6
2022.06.30
VOL.06 インストラクターの養成と評価制度
教育プログラムが出来ても、これを担当する講師の能力にバラツキがあると、研修にも支障が出ることが予想される。
したがって、教育プログラムと同様に重要なのは、講師養成講座であると考える。
現状は、実地演習も含めて、講師を何時・誰が・どのように選定したのか、全くもって分からない状態にある。
受講生の話を聞くと、ただテキストを朗読するだけで、質問も一切受け付けない講師がいるということである。
このような演習や研修の延長線上に義務研修があるというのでは、受講生は浮かばれない。
現在の制度下では、ありとあらゆる不動産等の評価ができることになっているが、実際問題として、できることは限られるし、無理でもある。
不動産鑑定士は何でもお見通しの神様ではないと思うのである。
多芸は無芸に通ずるという言葉にもある通り、インストラクターも各評価分野毎に養成すべきであると考える。
教育プログラムとインストラクター養成講座を修了し、試験に合格した講師を用意できたとしても、受講生が十分に興味を持ち、理解を手助けすることが出来なければ、研修制度は機能しない。
ASAでは受講生による講師の評価が行なわれ、合格しなければ次回の講師になることはできない。
したがって、受講生による講師の評価は、欠くことのできない教育プログラムの要と考える。
そうすることによって、上から目線の研修ではなく、講師と受講生との適度な緊張関係が生まれ、講師も受講生も相互に切磋琢磨され、能力の向上が図れると思うのである。
現行の研修制度の問題点を点検し、方向性を検討し、その上で研修の義務化を議論することは有益と思えるが、このプロセスを省いた研修の義務化は、問題が多いと考える。
これを機会に、先進地にならって、教育プログラムの開発や、講師養成講座による講師の育成及び受講生による講師の評価について、大いに議論してもらえるよう期待したい。
教育プログラムが出来ても、これを担当する講師の能力にバラツキがあると、研修にも支障が出ることが予想される。
したがって、教育プログラムと同様に重要なのは、講師養成講座であると考える。
現状は、実地演習も含めて、講師を何時・誰が・どのように選定したのか、全くもって分からない状態にある。
受講生の話を聞くと、ただテキストを朗読するだけで、質問も一切受け付けない講師がいるということである。
このような演習や研修の延長線上に義務研修があるというのでは、受講生は浮かばれない。
現在の制度下では、ありとあらゆる不動産等の評価ができることになっているが、実際問題として、できることは限られるし、無理でもある。
不動産鑑定士は何でもお見通しの神様ではないと思うのである。
多芸は無芸に通ずるという言葉にもある通り、インストラクターも各評価分野毎に養成すべきであると考える。
教育プログラムとインストラクター養成講座を修了し、試験に合格した講師を用意できたとしても、受講生が十分に興味を持ち、理解を手助けすることが出来なければ、研修制度は機能しない。
ASAでは受講生による講師の評価が行なわれ、合格しなければ次回の講師になることはできない。
したがって、受講生による講師の評価は、欠くことのできない教育プログラムの要と考える。
そうすることによって、上から目線の研修ではなく、講師と受講生との適度な緊張関係が生まれ、講師も受講生も相互に切磋琢磨され、能力の向上が図れると思うのである。
現行の研修制度の問題点を点検し、方向性を検討し、その上で研修の義務化を議論することは有益と思えるが、このプロセスを省いた研修の義務化は、問題が多いと考える。
これを機会に、先進地にならって、教育プログラムの開発や、講師養成講座による講師の育成及び受講生による講師の評価について、大いに議論してもらえるよう期待したい。
(2018年2月 傍目八目掲載/「戦略なき義務研修問題を憂う」)
戦略なき義務研修問題を憂う ~ Vol.5
2022.06.23
VOL.05 研修制度を考える
話が横道に逸れてしまったが、何故戦前の話を例にしたかというと、ある問題が生じたときに、これに対する合理的思考ができないということを認識することが必要と考えたからである。
つまり、研修制度の問題が、社会の信頼に耐えうる資格者を育てるということにあるならば、研修の義務化云々の問題ではないと気づくはずであるからと考えるからである。
試験合格即独立という資格者が増えても、社会は資格者の質を弁別することはできない。
行き過ぎた規制改革は、社会のためにもならないが、その解決策が研修の義務化というのであれば、お寒い限りとしか言いようがない。
研修の目的が社会の信頼に応えるためというのであれば、研修の合理性について徹底的に議論し、そのあり方等も含めて検討する必要があると考える。
ところで、ASAでは、評価対象や評価目的に沿った多様な教育プログラムを用意していると聞いている。
そして、この教育プログラムを実施するためには、能力のある講師(インストラクター)が必要であるからとし、講師養成講座を用意している。
研修を行えるのは、講師養成講座を受講し、試験にパスした者だけである。
ASAのインストラクターは、自国のみならず世界各国で教育プログラムに基づいた研修を行なっている。
他方、我が協会に、多様な教育プログラムがあるという話は聞いたことがない。
本部や地方組織で行なっている研修は、系統性も一貫性もなく、その時々の思いついたテーマで行なっているだけとしか言いようがない。
これでは、資格者の実力を養成することはできない。
残念ながら、我が業界の研修は、一般市民講座的なものや講演会に類似するものも見られ、参加することだけを目的としているとしか思えないのである。
これでは、実効性のある研修とは言えないし、また、研修の意味をなさないと考える。
研修制度を考えるのならば、まず教育プログラムの開発を行ない、資格者に必要な知識や経験をどのようなプロセスで習得させるかという基本方針を定めることが重要だと考える。
話が横道に逸れてしまったが、何故戦前の話を例にしたかというと、ある問題が生じたときに、これに対する合理的思考ができないということを認識することが必要と考えたからである。
つまり、研修制度の問題が、社会の信頼に耐えうる資格者を育てるということにあるならば、研修の義務化云々の問題ではないと気づくはずであるからと考えるからである。
試験合格即独立という資格者が増えても、社会は資格者の質を弁別することはできない。
行き過ぎた規制改革は、社会のためにもならないが、その解決策が研修の義務化というのであれば、お寒い限りとしか言いようがない。
研修の目的が社会の信頼に応えるためというのであれば、研修の合理性について徹底的に議論し、そのあり方等も含めて検討する必要があると考える。
ところで、ASAでは、評価対象や評価目的に沿った多様な教育プログラムを用意していると聞いている。
そして、この教育プログラムを実施するためには、能力のある講師(インストラクター)が必要であるからとし、講師養成講座を用意している。
研修を行えるのは、講師養成講座を受講し、試験にパスした者だけである。
ASAのインストラクターは、自国のみならず世界各国で教育プログラムに基づいた研修を行なっている。
他方、我が協会に、多様な教育プログラムがあるという話は聞いたことがない。
本部や地方組織で行なっている研修は、系統性も一貫性もなく、その時々の思いついたテーマで行なっているだけとしか言いようがない。
これでは、資格者の実力を養成することはできない。
残念ながら、我が業界の研修は、一般市民講座的なものや講演会に類似するものも見られ、参加することだけを目的としているとしか思えないのである。
これでは、実効性のある研修とは言えないし、また、研修の意味をなさないと考える。
研修制度を考えるのならば、まず教育プログラムの開発を行ない、資格者に必要な知識や経験をどのようなプロセスで習得させるかという基本方針を定めることが重要だと考える。
戦略なき義務研修問題を憂う ~ Vol.4
2022.06.16
VOL.04 合理性の視点を欠いた研修制度
百田尚樹氏の「戦争と平和」によれば、戦前の陸軍と海軍の問題を例に、合理性の欠如について指摘しているのでご紹介する。
この本によれば、成程と納得させられることが多いが、日本人のDNAとして元々合理性の視点が欠如しているのではないかと考えさせられたのである。
戦前・戦中を通じて陸軍と海軍の仲の悪さはつとに有名であるが、ただ単に仲が悪かっただけならば、第2次世界大戦であれ程の犠牲者を出すことはなかったのではと思われる。
つまり、陸軍と海軍に合理性の視点があったなら、武器等の仕様・規格が異なるなんてことはなかったと思うのである。
合理性の視点が欠如していたため、セクト主義・縦割主義の中で、自分の立場に固執し、内向き思考をする仲間だけでムラ社会を作り、多様な意見を排除し、目的よりも手段、戦略より戦術にこだわり、陸軍・海軍間で無益な競争を行ない、その優劣が明らかになった後でさえ相互に認め合うことがなかったからこそ、多大の犠牲を払いつつ破滅の道を突き進んだものと思われる。
百田尚樹氏の「戦争と平和」によれば、戦前の陸軍と海軍の問題を例に、合理性の欠如について指摘しているのでご紹介する。
この本によれば、成程と納得させられることが多いが、日本人のDNAとして元々合理性の視点が欠如しているのではないかと考えさせられたのである。
戦前・戦中を通じて陸軍と海軍の仲の悪さはつとに有名であるが、ただ単に仲が悪かっただけならば、第2次世界大戦であれ程の犠牲者を出すことはなかったのではと思われる。
つまり、陸軍と海軍に合理性の視点があったなら、武器等の仕様・規格が異なるなんてことはなかったと思うのである。
合理性の視点が欠如していたため、セクト主義・縦割主義の中で、自分の立場に固執し、内向き思考をする仲間だけでムラ社会を作り、多様な意見を排除し、目的よりも手段、戦略より戦術にこだわり、陸軍・海軍間で無益な競争を行ない、その優劣が明らかになった後でさえ相互に認め合うことがなかったからこそ、多大の犠牲を払いつつ破滅の道を突き進んだものと思われる。