戦略なき義務研修問題を憂う ~ Vol.3
2022.06.09
VOL.03 国家資格と研修制度

これまで徒弟制度の中でじっくり育てられてきた国家試験合格者は、規制改革により、経験不十分な合格者をそのまま一人前の専門職業家として世に送り出してしまった。

その結果、レベルの相対的低下に危機感を抱いた国や資格者団体は、研修に力を入れるようになってきたのも事実である。

しかし、座学は所詮座学で、机上の訓練でしかなく、それで立派な専門職業家が育つなら、こんな楽なことはないものと考えるが、もっと問題なのは研修そのものではなく、研修の内容が場当たり的で、研修制度そのものの理念や計画性、さらには研修の系統性がないことである。

本部はともかく、地域にとって研修テーマをどうするのかだけでも大きな負担となる。

 研修内容・時間配分・講師の選定・研修単位の認定等、経済的余裕も時間もない中で、これまで良く研修を続けてきたものであると敬意を表するしかないが、個人的感想を言えば、これまでどうしても受講してみたいと思う研修は、残念ながら極めて少なかったと思っている。

 研修内容に、興味あるいは魅力がなかったので大多数の人が研修に時間を割かなかったと思わざるを得ないが、研修内容よりも参加者が少ないのが問題と考えたからこそ強制的に受講させようと考え、それが研修の義務化という発想になったものと思われる。

受講する側からみれば、低報酬・長時間労働が常態化する中で、魅力のない研修を受講しようとすることは、零細業者に属する資格者にとっては、負担になっても利益になることは少ない。

また、零細業者にとって、平日の研修のしわ寄せは、土日祝祭日の労働に振り替えることになるだけで、一体誰のための研修なのかと考えさせられるのである。

現在の研修は、上から目線の研修で、研修そのものが受講する側にとって利益になるかどうかより、管理・監督する立場だけで議論しているような気がするのである。

事実、これまでの義務的な研修、つまり、この研修を受けなければ仕事をさせないというプレッシャーで強制的に受講させているが、その研修ではただ単にテキストを朗読するだけで、おまけに質問も許さないという上意下達式で、とても研修とは言えず、一体誰のために研修をしているのか、疑念を抱かざるを得ない。
2022.06.09 09:05 | 固定リンク | 鑑定雑感
戦略なき義務研修問題を憂う ~ Vol.1・2
2022.06.02
戦略なき義務研修問題を憂う ~ Vol.1・2

VOL.01 はじめに


今回、国交省のアンケート調査で、義務研修に賛成か否かの設問があったが、研修が必要かと聞かれれば当たり前すぎて必要と答えざるを得ない。

しかし、研修を義務化すると言われると、違和感を覚えざるを得ないのである。

これまで、仲間内ではいろいろな批判があったが、これについて表立った議論はなかったように記憶している。

 今回のアンケート調査で研修義務化の問題が提起されたので、その社会的背景や研修制度のあり方について考えてみたい。







VOL.02 専門職業家と修行
 
専門職業家のあり方を職人世界からみると、一人前の職人になるためには、経験豊富で技術のしっかりした親方のもとで、短くても10年位、高度の職人芸が要求される伝統工芸の世界では30年から50年位の修行が必要とされている。

無形文化財に指定される程の高度の技能を有している職人でさえ一生の修行と精進が必要で、これで良いという境地にはなかなか到達できないという言葉には、身が引き締まる思いがする。

一方、試験制度の規制改革で、ペーパーテストだけで専門職業家と名乗る資格者を多数輩出しているが、経験豊富な親方の元で修行することもなく、合格即独立という資格者をみると、これで本当の専門家といって良いのか、疑問を感じざるを得ない。

試験合格は、長い専門職業家としての人生を歩むための第一歩、つまりスタート地点に立ったということであり、ゴールではないはずである。

 日本古来の徒弟制度は前近代的な面もあるが、どんな職業であれ、一般社会から専門職業家と認められるためには、長い修行と自己鍛錬が必要であることは論を待たない。
2022.06.02 10:43 | 固定リンク | 鑑定雑感
評価基準の罪と罰 ~ Vol.7
2022.05.26
VOL.07 評価基準の罪と罰

以上のように、適正時価を求める基準が三つもあり、それぞれが各省の意向を反映して少なからず相異があるため、適正時価を巡って争うことになる。

 土地基本法第16条では、公的評価の均衡化・適正化を図るとされているが、現在のような状況の中で、評価の均衡化・適正化が達成されていると断言することは、無理なのかもしれない。


ところで、何故に土地の適正な地価を求める基準が三つも必要なのだろうか。


 そのヒントが、百田尚樹氏の「戦争と平和」にあったので、紹介する。

この本によれば、戦前の陸軍と海軍は仲が悪いため、戦略・戦術・武器生産等で相互に研究・協調することは無かったとのことである。

 武器については互換性がないため、相互に融通することができず、ただでさえ補給概念の無い日本軍の兵士が、戦場という極限の現場でどれ程苦労されたのか、考えるだけでも胸が痛む。

 作戦を指揮した参謀の大半は、陸大・海軍大を卒業したキャリアで、現場を知らない指揮官程迷惑なものはないが、試験に秀でた能力を発揮する人達が省益を前提に考えているとすれば、戦前と同じような縦割主義・セクト主義のままとなり、評価を巡る根本的な問題が解決する道筋は見えてこないと思われる。

 路線価の10倍の取引も適正な時価というのなら、不動産の類型毎に適正時価が存在するということになり、公的評価は破綻する。

個人的には、課税上必要な評価を適正時価とするなら、全てを統合する評価基準の作成が必要だと考える。

 それが無理なら、課税上の評価は適正な時価ではなく、課税目的に特化した方が良いと考える。

 不動産市場は目まぐるしく変化している。

他方、地方では、タダでも要らない不動産が増えている。
 取引がないので、時価の判断も困難となっている現在、改めて評価基準の統合を検討すべき時代にあると思う。

 第二次大戦のような結末を迎えないためにも、国家百年の大計を考える必要がある。

 2050年には、国土の20%から50%の地域が無居住化するとの報告もある。

 関係各方面の活発な議論を期待したい。

(2017年11月 月刊「不動産鑑定」傍目八目掲載/「評価基準の罪と罰」)

2022.05.26 13:15 | 固定リンク | 鑑定雑感

- CafeLog -