正常価格の今そこにある危機と反知性主義 ~ Vol.1
2022.02.24
VOL.01 正常価格について
今更ながらであるが、正常価格について考えてみたい。
不動産鑑定評価基準によれば、
『正常価格とは、市場性を有する不動産について、現実の社会経済情勢の下で合理的と考えられる条件を満たす市場で形成されるであろう市場価値を表示する適正な価格をいう。
この場合において、現実の社会経済情勢の下で合理的と考えられる市場とは、以下の条件を満たす市場をいう。』
として、市場の条件を以下のように定義している。
1.市場参加者が自由意思に基づいて市場に参加し、参入・退出が自由であること。
なお、ここでいう市場参加者は、自己の利益を最大化するために次のような要件を満たすとともに、慎重かつ賢明に予測し行動するものとし、次下の条件を例示している。
1)売り急ぎ、買い進み等をもたらす特別な動機のないこと。
2)対象不動産及び対象不動産が属する市場について取引を成立させるために必要となる通常の知識や情報を得ていること。
3)取引を成立させるために通常必要と認められる労力・費用を費やしていること。
4)対象不動産の最有効使用を前提とした価値判断を行うこと。
5)買主が通常の資金調達能力を有していること。
2.取引形態が、市場参加者が制約されたり、売り急ぎ・買い進み等を誘因したりするような特別なものではないこと。
3.対象不動産が相当の期間市場に公開されていること。
これを素直に解釈すると、正常価格とは売り手にも買手にも片寄らない価格ということになるが、口悪く言えば、売れない・買えない価格とも言えるのではないかと思われる。
現実の市場では、売り手・買手の諸条件や社会的な力関係が拮抗するような取引は少ない。
情報の非対称性を利用して、鎬を削るような条件闘争の涯てに売買が成立することが多いのである。
また、相当の期間市場に公開される、つまり、市場滞留期間が一年もあるような不動産の売買はかなり厳しい状況にあると考えるのが一般的である。
実感としての市場滞留期間はせいぜい3ヶ月から6ヶ月が限度で、それ以上になると水面下における条件闘争が続いているか、マーケットに受け入れられない価格設定だと考えるべきである。
更に、最近はマーケットがグローバルになったため、市場参加者の属性次第ではドメスチックな価格感覚が全く通用しないことがある。
海外の市場参加者の価格のベンチマークは、自国及び投資対象国の状況と市場参加者の懐具合次第ということになる。
事実、1億円程度はポケットマネーというような市場参加者に、日本国内のベンチマークとなるような正常価格の意義を説いたところで、何の足しにもならない。
こういう人は、欲しければ買うし、不要ならば買わないというだけである。
人種・文化・価値観が同じなら、あるいは通用するかもしれないが、世界を股にかけ、自分の好きな不動産を好きな時に好きなだけ買える人に、正常価格の意義を説くだけムダというものである。
個人的にも、ある地域の鑑定を頼まれたが、新築物件にもかかわらず、原価の4倍の価格が売買価格と言われたが、どうしてもそんな高い評価を出すことはできないと断った。
その時に依頼者に言われた言葉が、今も胸に残っている。
『君ね、不動産の価格というのは、売れた価格が適正価格だ。
価格設定は、この手の不動産を買える顧客の懐具合一つだから、マーケットリサーチは十分している。
適正原価・適正利潤なんて、国や人によって異なるので、そんなことを考えていたら、儲けることはできない。』
と、軽くいなされてしまったのである。
地元のオジさん・オバさんに売る訳ではないのであるから、地元感覚で価格を説明したところで、何の意味も持たないし、持ってくれないと痛感したのである。
筆者は所詮ドメスチック鑑定士であるから、彼らに何を言ってもムダと諦めざるを得なかったのである。
今更ながらであるが、正常価格について考えてみたい。
不動産鑑定評価基準によれば、
『正常価格とは、市場性を有する不動産について、現実の社会経済情勢の下で合理的と考えられる条件を満たす市場で形成されるであろう市場価値を表示する適正な価格をいう。
この場合において、現実の社会経済情勢の下で合理的と考えられる市場とは、以下の条件を満たす市場をいう。』
として、市場の条件を以下のように定義している。
1.市場参加者が自由意思に基づいて市場に参加し、参入・退出が自由であること。
なお、ここでいう市場参加者は、自己の利益を最大化するために次のような要件を満たすとともに、慎重かつ賢明に予測し行動するものとし、次下の条件を例示している。
1)売り急ぎ、買い進み等をもたらす特別な動機のないこと。
2)対象不動産及び対象不動産が属する市場について取引を成立させるために必要となる通常の知識や情報を得ていること。
3)取引を成立させるために通常必要と認められる労力・費用を費やしていること。
4)対象不動産の最有効使用を前提とした価値判断を行うこと。
5)買主が通常の資金調達能力を有していること。
2.取引形態が、市場参加者が制約されたり、売り急ぎ・買い進み等を誘因したりするような特別なものではないこと。
3.対象不動産が相当の期間市場に公開されていること。
これを素直に解釈すると、正常価格とは売り手にも買手にも片寄らない価格ということになるが、口悪く言えば、売れない・買えない価格とも言えるのではないかと思われる。
現実の市場では、売り手・買手の諸条件や社会的な力関係が拮抗するような取引は少ない。
情報の非対称性を利用して、鎬を削るような条件闘争の涯てに売買が成立することが多いのである。
また、相当の期間市場に公開される、つまり、市場滞留期間が一年もあるような不動産の売買はかなり厳しい状況にあると考えるのが一般的である。
実感としての市場滞留期間はせいぜい3ヶ月から6ヶ月が限度で、それ以上になると水面下における条件闘争が続いているか、マーケットに受け入れられない価格設定だと考えるべきである。
更に、最近はマーケットがグローバルになったため、市場参加者の属性次第ではドメスチックな価格感覚が全く通用しないことがある。
海外の市場参加者の価格のベンチマークは、自国及び投資対象国の状況と市場参加者の懐具合次第ということになる。
事実、1億円程度はポケットマネーというような市場参加者に、日本国内のベンチマークとなるような正常価格の意義を説いたところで、何の足しにもならない。
こういう人は、欲しければ買うし、不要ならば買わないというだけである。
人種・文化・価値観が同じなら、あるいは通用するかもしれないが、世界を股にかけ、自分の好きな不動産を好きな時に好きなだけ買える人に、正常価格の意義を説くだけムダというものである。
個人的にも、ある地域の鑑定を頼まれたが、新築物件にもかかわらず、原価の4倍の価格が売買価格と言われたが、どうしてもそんな高い評価を出すことはできないと断った。
その時に依頼者に言われた言葉が、今も胸に残っている。
『君ね、不動産の価格というのは、売れた価格が適正価格だ。
価格設定は、この手の不動産を買える顧客の懐具合一つだから、マーケットリサーチは十分している。
適正原価・適正利潤なんて、国や人によって異なるので、そんなことを考えていたら、儲けることはできない。』
と、軽くいなされてしまったのである。
地元のオジさん・オバさんに売る訳ではないのであるから、地元感覚で価格を説明したところで、何の意味も持たないし、持ってくれないと痛感したのである。
筆者は所詮ドメスチック鑑定士であるから、彼らに何を言ってもムダと諦めざるを得なかったのである。
デフレ脱却と内需拡大への道 ~ Vol.5
2022.02.17
VOL.05 長期休暇制度とそのメリット
普通、一般成人が3週間も休みをとって、自宅に引きこもったままでいるとは考えられない。
3週間も休みがあると、前後1週間自宅にいても、1週間くらいはどこかへ出かけたくなるのが人情であろう。
現在のように極端に短い休暇制度の下では、安・近・短に象徴される旅行しかできない。
しかし、3週間も休みがあると、長期滞在型の旅行が可能となる他、自己啓発の時間やボランティア活動等、年次計画を立て有意義な休暇を送れるようになるものと考える。
長期休暇制度のメリットとしては、次のようなものが考えられる。
①ピークの減少による混雑の緩和。
②ピーク料金がなくなり、旅行費用がリーズナブルになる。
その結果、海外と競争可能な国内旅行が多くなり、内需は拡大する。
③ピークの減少により、リゾート地や観光地では稼働率が平準化する為、従業員の通年雇用が可能となる。
その結果、地方が活性化し、地域経済が自立可能になる。
④ピークに合わせた道路整備等が不要となり、財政負担が軽くなる。
⑤ピークの減少により、電力消費も平準化する。
⑥交通渋滞の減少により、排ガスの抑制とエネルギーロスの防止ができ、環境負荷の軽減が可能となる。
⑦休暇の充足感により、仕事に対する意欲の増大が期待できる。
⑧休暇のスケジュール調整により、経営効率の向上が期待できる。
思いつくまま例を挙げたが、労使間の問題に止まらず、国民経済にとっても長期休暇によるメリットは計り知れないものと思われる。
そして最大のメリットは、公共事業とは異なり、導入コストがかからないということである。
更に、長期休暇によって人は必ず動き、人が動けば必ずモノは動く(消費される)ということである。
我々は目先のモノが動くことだけを内需拡大と考えているが、やみくもにモノを欲しがっている訳ではなく、必要なものにはちゃんと消費しているのである。
あいも変わらず公共事業により景気のテコ入れを図っているけれども、その効果が上がらないのは借金漬けの財政に危機感を抱いている他、特に欲しいモノがないからともいえるのではないか。
細切れの恩着せがましい現在の休み方から脱却して、充足感のある長期休暇制度は、国民経済にとっても経営者・勤労者双方にとってもそのメリットは非常に大きいものと考える。
また、働き方を考えるということは、休み方を考えることに他ならないので、江戸時代の石門心学が教える勤勉一辺倒から、新しい時代に対応した休暇制度のあり方について議論して欲しいと願うばかりである。
普通、一般成人が3週間も休みをとって、自宅に引きこもったままでいるとは考えられない。
3週間も休みがあると、前後1週間自宅にいても、1週間くらいはどこかへ出かけたくなるのが人情であろう。
現在のように極端に短い休暇制度の下では、安・近・短に象徴される旅行しかできない。
しかし、3週間も休みがあると、長期滞在型の旅行が可能となる他、自己啓発の時間やボランティア活動等、年次計画を立て有意義な休暇を送れるようになるものと考える。
長期休暇制度のメリットとしては、次のようなものが考えられる。
①ピークの減少による混雑の緩和。
②ピーク料金がなくなり、旅行費用がリーズナブルになる。
その結果、海外と競争可能な国内旅行が多くなり、内需は拡大する。
③ピークの減少により、リゾート地や観光地では稼働率が平準化する為、従業員の通年雇用が可能となる。
その結果、地方が活性化し、地域経済が自立可能になる。
④ピークに合わせた道路整備等が不要となり、財政負担が軽くなる。
⑤ピークの減少により、電力消費も平準化する。
⑥交通渋滞の減少により、排ガスの抑制とエネルギーロスの防止ができ、環境負荷の軽減が可能となる。
⑦休暇の充足感により、仕事に対する意欲の増大が期待できる。
⑧休暇のスケジュール調整により、経営効率の向上が期待できる。
思いつくまま例を挙げたが、労使間の問題に止まらず、国民経済にとっても長期休暇によるメリットは計り知れないものと思われる。
そして最大のメリットは、公共事業とは異なり、導入コストがかからないということである。
更に、長期休暇によって人は必ず動き、人が動けば必ずモノは動く(消費される)ということである。
我々は目先のモノが動くことだけを内需拡大と考えているが、やみくもにモノを欲しがっている訳ではなく、必要なものにはちゃんと消費しているのである。
あいも変わらず公共事業により景気のテコ入れを図っているけれども、その効果が上がらないのは借金漬けの財政に危機感を抱いている他、特に欲しいモノがないからともいえるのではないか。
細切れの恩着せがましい現在の休み方から脱却して、充足感のある長期休暇制度は、国民経済にとっても経営者・勤労者双方にとってもそのメリットは非常に大きいものと考える。
また、働き方を考えるということは、休み方を考えることに他ならないので、江戸時代の石門心学が教える勤勉一辺倒から、新しい時代に対応した休暇制度のあり方について議論して欲しいと願うばかりである。
(2016年12月 傍目八目掲載/「デフレ脱却と内需拡大への道」)
デフレ脱却と内需拡大への道 ~ Vol.4
2022.02.10
VOL.04 内需拡大策としての休暇のあり方を考える
現在の日本においては、年間休日数は既に欧米を凌駕している。
それにもかかわらず充足感が得られないのは、休み方が悪いからである。
毎日 500円の小遣いでは何もできないが、毎月まとめて15,000円の小遣いをもらえば、誰でもその使い方を考えるようになる。
休暇もこれと同じで、日本人特有の何でも小出し(政府は特にそうだが)、司馬遼太郎のいうところの逐次投入というやり方では、現在の閉塞感から逃れる事はできない。
小出しや逐次投入によって、結果的に膨大な労力やコストをつぎ込みながらほとんど効果が得られなかったことは、歴史の証明するところである。
ところで、現在でも勤続年数に応じて有給休暇がとれるようにはなっているが、公務員はいざ知らず、民間においては100%消化できたというような話は極めて少ない。
労働者の権利として実行するには企業内の抵抗が大きく、なかなか休めないのが実情である。
現在の有給休暇制度は、事実上有名無実化していると言わざるを得ない。
現在の休み方の弊害を取り除き、国民経済にとっても勤労者にとってもプラスになる休み方を考える必要がある。
そこで、国家管理型の現在の祝祭日の設定を必要最小限に止め、その一方で、これに見合う形で勤労者の休暇を確保するために労働基準法を改正し、最低でも連続3週間の有給休暇を年に一度必ず与えなければならないことにすべきである。
現在の日本においては、年間休日数は既に欧米を凌駕している。
それにもかかわらず充足感が得られないのは、休み方が悪いからである。
毎日 500円の小遣いでは何もできないが、毎月まとめて15,000円の小遣いをもらえば、誰でもその使い方を考えるようになる。
休暇もこれと同じで、日本人特有の何でも小出し(政府は特にそうだが)、司馬遼太郎のいうところの逐次投入というやり方では、現在の閉塞感から逃れる事はできない。
小出しや逐次投入によって、結果的に膨大な労力やコストをつぎ込みながらほとんど効果が得られなかったことは、歴史の証明するところである。
ところで、現在でも勤続年数に応じて有給休暇がとれるようにはなっているが、公務員はいざ知らず、民間においては100%消化できたというような話は極めて少ない。
労働者の権利として実行するには企業内の抵抗が大きく、なかなか休めないのが実情である。
現在の有給休暇制度は、事実上有名無実化していると言わざるを得ない。
現在の休み方の弊害を取り除き、国民経済にとっても勤労者にとってもプラスになる休み方を考える必要がある。
そこで、国家管理型の現在の祝祭日の設定を必要最小限に止め、その一方で、これに見合う形で勤労者の休暇を確保するために労働基準法を改正し、最低でも連続3週間の有給休暇を年に一度必ず与えなければならないことにすべきである。