戦略なき義務研修問題を憂う ~ Vol.1・2
2022.06.02
戦略なき義務研修問題を憂う ~ Vol.1・2
VOL.01 はじめに
今回、国交省のアンケート調査で、義務研修に賛成か否かの設問があったが、研修が必要かと聞かれれば当たり前すぎて必要と答えざるを得ない。
しかし、研修を義務化すると言われると、違和感を覚えざるを得ないのである。
これまで、仲間内ではいろいろな批判があったが、これについて表立った議論はなかったように記憶している。
今回のアンケート調査で研修義務化の問題が提起されたので、その社会的背景や研修制度のあり方について考えてみたい。
VOL.02 専門職業家と修行
専門職業家のあり方を職人世界からみると、一人前の職人になるためには、経験豊富で技術のしっかりした親方のもとで、短くても10年位、高度の職人芸が要求される伝統工芸の世界では30年から50年位の修行が必要とされている。
無形文化財に指定される程の高度の技能を有している職人でさえ一生の修行と精進が必要で、これで良いという境地にはなかなか到達できないという言葉には、身が引き締まる思いがする。
一方、試験制度の規制改革で、ペーパーテストだけで専門職業家と名乗る資格者を多数輩出しているが、経験豊富な親方の元で修行することもなく、合格即独立という資格者をみると、これで本当の専門家といって良いのか、疑問を感じざるを得ない。
試験合格は、長い専門職業家としての人生を歩むための第一歩、つまりスタート地点に立ったということであり、ゴールではないはずである。
日本古来の徒弟制度は前近代的な面もあるが、どんな職業であれ、一般社会から専門職業家と認められるためには、長い修行と自己鍛錬が必要であることは論を待たない。
VOL.01 はじめに
今回、国交省のアンケート調査で、義務研修に賛成か否かの設問があったが、研修が必要かと聞かれれば当たり前すぎて必要と答えざるを得ない。
しかし、研修を義務化すると言われると、違和感を覚えざるを得ないのである。
これまで、仲間内ではいろいろな批判があったが、これについて表立った議論はなかったように記憶している。
今回のアンケート調査で研修義務化の問題が提起されたので、その社会的背景や研修制度のあり方について考えてみたい。
VOL.02 専門職業家と修行
専門職業家のあり方を職人世界からみると、一人前の職人になるためには、経験豊富で技術のしっかりした親方のもとで、短くても10年位、高度の職人芸が要求される伝統工芸の世界では30年から50年位の修行が必要とされている。
無形文化財に指定される程の高度の技能を有している職人でさえ一生の修行と精進が必要で、これで良いという境地にはなかなか到達できないという言葉には、身が引き締まる思いがする。
一方、試験制度の規制改革で、ペーパーテストだけで専門職業家と名乗る資格者を多数輩出しているが、経験豊富な親方の元で修行することもなく、合格即独立という資格者をみると、これで本当の専門家といって良いのか、疑問を感じざるを得ない。
試験合格は、長い専門職業家としての人生を歩むための第一歩、つまりスタート地点に立ったということであり、ゴールではないはずである。
日本古来の徒弟制度は前近代的な面もあるが、どんな職業であれ、一般社会から専門職業家と認められるためには、長い修行と自己鍛錬が必要であることは論を待たない。
評価基準の罪と罰 ~ Vol.7
2022.05.26
VOL.07 評価基準の罪と罰
以上のように、適正時価を求める基準が三つもあり、それぞれが各省の意向を反映して少なからず相異があるため、適正時価を巡って争うことになる。
土地基本法第16条では、公的評価の均衡化・適正化を図るとされているが、現在のような状況の中で、評価の均衡化・適正化が達成されていると断言することは、無理なのかもしれない。
ところで、何故に土地の適正な地価を求める基準が三つも必要なのだろうか。
そのヒントが、百田尚樹氏の「戦争と平和」にあったので、紹介する。
この本によれば、戦前の陸軍と海軍は仲が悪いため、戦略・戦術・武器生産等で相互に研究・協調することは無かったとのことである。
武器については互換性がないため、相互に融通することができず、ただでさえ補給概念の無い日本軍の兵士が、戦場という極限の現場でどれ程苦労されたのか、考えるだけでも胸が痛む。
作戦を指揮した参謀の大半は、陸大・海軍大を卒業したキャリアで、現場を知らない指揮官程迷惑なものはないが、試験に秀でた能力を発揮する人達が省益を前提に考えているとすれば、戦前と同じような縦割主義・セクト主義のままとなり、評価を巡る根本的な問題が解決する道筋は見えてこないと思われる。
路線価の10倍の取引も適正な時価というのなら、不動産の類型毎に適正時価が存在するということになり、公的評価は破綻する。
個人的には、課税上必要な評価を適正時価とするなら、全てを統合する評価基準の作成が必要だと考える。
それが無理なら、課税上の評価は適正な時価ではなく、課税目的に特化した方が良いと考える。
不動産市場は目まぐるしく変化している。
他方、地方では、タダでも要らない不動産が増えている。
取引がないので、時価の判断も困難となっている現在、改めて評価基準の統合を検討すべき時代にあると思う。
第二次大戦のような結末を迎えないためにも、国家百年の大計を考える必要がある。
2050年には、国土の20%から50%の地域が無居住化するとの報告もある。
関係各方面の活発な議論を期待したい。
以上のように、適正時価を求める基準が三つもあり、それぞれが各省の意向を反映して少なからず相異があるため、適正時価を巡って争うことになる。
土地基本法第16条では、公的評価の均衡化・適正化を図るとされているが、現在のような状況の中で、評価の均衡化・適正化が達成されていると断言することは、無理なのかもしれない。
ところで、何故に土地の適正な地価を求める基準が三つも必要なのだろうか。
そのヒントが、百田尚樹氏の「戦争と平和」にあったので、紹介する。
この本によれば、戦前の陸軍と海軍は仲が悪いため、戦略・戦術・武器生産等で相互に研究・協調することは無かったとのことである。
武器については互換性がないため、相互に融通することができず、ただでさえ補給概念の無い日本軍の兵士が、戦場という極限の現場でどれ程苦労されたのか、考えるだけでも胸が痛む。
作戦を指揮した参謀の大半は、陸大・海軍大を卒業したキャリアで、現場を知らない指揮官程迷惑なものはないが、試験に秀でた能力を発揮する人達が省益を前提に考えているとすれば、戦前と同じような縦割主義・セクト主義のままとなり、評価を巡る根本的な問題が解決する道筋は見えてこないと思われる。
路線価の10倍の取引も適正な時価というのなら、不動産の類型毎に適正時価が存在するということになり、公的評価は破綻する。
個人的には、課税上必要な評価を適正時価とするなら、全てを統合する評価基準の作成が必要だと考える。
それが無理なら、課税上の評価は適正な時価ではなく、課税目的に特化した方が良いと考える。
不動産市場は目まぐるしく変化している。
他方、地方では、タダでも要らない不動産が増えている。
取引がないので、時価の判断も困難となっている現在、改めて評価基準の統合を検討すべき時代にあると思う。
第二次大戦のような結末を迎えないためにも、国家百年の大計を考える必要がある。
2050年には、国土の20%から50%の地域が無居住化するとの報告もある。
関係各方面の活発な議論を期待したい。
(2017年11月 月刊「不動産鑑定」傍目八目掲載/「評価基準の罪と罰」)
評価基準の罪と罰 ~ Vol.6
2022.05.19
VOL.06 評価を巡る争い
固評基準にしても基本通達にしても、標準画地の価格を基礎として、後は決められた方法で計算するだけとなっている。
その結果が適切な時価の範囲にあるかどうかは、争わない限り分からない。
鑑定評価は、画地計算をする訳ではなく、最有効使用を前提として評価するが、固評基準も基本通達も、最有効使用が何かは考えていない。
結果として、市場に受け入れてもらえそうにもない評価となることがあるが、計算上の誤りが無い限り、これをヒックリ返すことは無理のようである。
その結果、鑑定士の出番となるが、そもそも固評基準にも基本通達にも最有効使用の概念がないので、訴訟をやっても噛み合うことは少ないように思われる。
裁判所も、何が本当の時価か分からない。
裁判所は、固評路線価は公示価格の3割引、相評路線価は2割引を前提としているので、余程の事情がない限り、誤差の範囲として、納税者側の鑑定を採用することは少ないと聞いている。
最高裁判決によれば、固評基準または基本通達に拠ることができない特別の事情がない限り、基準どおり評価された価額は適法な時価と推認し得るとしているので、鑑定評価では、前二者の基準に拠ることができない特別な理由を指摘することが必要となる。
ただ単に、市場における時価を議論しても、議論は噛み合わず、ムダであるとしか言えない。
その結果、訴訟となると、国・市町村側の鑑定士と納税者側の鑑定士の鑑定評価を巡って激しいバトルとなるが、特別の事情がない限り基準適合説の採用となるため、納税者勝訴となる確率は低いということになる。
納税者にしてみると、市場で売れない価格が適正時価と言われても納得できないので、不当鑑定だと申立てる納税者が出てくることがある。
かくて、争いは裁判所から法廷外の争いとなり、場外乱闘の様相を呈することになる。
固評基準にしても基本通達にしても、標準画地の価格を基礎として、後は決められた方法で計算するだけとなっている。
その結果が適切な時価の範囲にあるかどうかは、争わない限り分からない。
鑑定評価は、画地計算をする訳ではなく、最有効使用を前提として評価するが、固評基準も基本通達も、最有効使用が何かは考えていない。
結果として、市場に受け入れてもらえそうにもない評価となることがあるが、計算上の誤りが無い限り、これをヒックリ返すことは無理のようである。
その結果、鑑定士の出番となるが、そもそも固評基準にも基本通達にも最有効使用の概念がないので、訴訟をやっても噛み合うことは少ないように思われる。
裁判所も、何が本当の時価か分からない。
裁判所は、固評路線価は公示価格の3割引、相評路線価は2割引を前提としているので、余程の事情がない限り、誤差の範囲として、納税者側の鑑定を採用することは少ないと聞いている。
最高裁判決によれば、固評基準または基本通達に拠ることができない特別の事情がない限り、基準どおり評価された価額は適法な時価と推認し得るとしているので、鑑定評価では、前二者の基準に拠ることができない特別な理由を指摘することが必要となる。
ただ単に、市場における時価を議論しても、議論は噛み合わず、ムダであるとしか言えない。
その結果、訴訟となると、国・市町村側の鑑定士と納税者側の鑑定士の鑑定評価を巡って激しいバトルとなるが、特別の事情がない限り基準適合説の採用となるため、納税者勝訴となる確率は低いということになる。
納税者にしてみると、市場で売れない価格が適正時価と言われても納得できないので、不当鑑定だと申立てる納税者が出てくることがある。
かくて、争いは裁判所から法廷外の争いとなり、場外乱闘の様相を呈することになる。