ヒラメと徒弟制度と実務修習 Vol.4
2013.12.24
VOL.04 実務修習と徒弟制度 ~「はやぶさ」式思考法 ~
7年をかけ3億キロの旅を終えて奇跡的な帰還を果たした『はやぶさ』に感動したのは、筆者ばかりではないだろう。
途中幾度かのトラブル・通信途絶・行方不明という想像を絶する苦難を乗り越えた川口淳一郎教授以下のプロジェクトチームの皆さんに、心より拍手を送るものである。
そして、いかなるときでも希望を失うなという強いメッセージを受け取れたことに感謝している。
ところで、詳細は川口教授の『「はやぶさ」式思考法ー日本を復活させる24の提言』という著書を良く読んで欲しいと思っているが、筆者はこの本により「はやぶさ」の運行が全て科学的・機械的に行なわれたことではないことを知った。
それまでは、原点主義によって選ばれたエリート達が科学の粋を集めて、極めて冷静かつ客観的に対応しているもので、減点主義におびえる我々凡人には到底及びもつかぬ世界と思っていたのである。
しかし、この著書により初めて減点主義の思考法では「はやぶさ」の奇跡的な帰還は成し得なかったことを知らされたのである。
ところで、新試験制度になってからは、徒弟制度は影を潜めつつある。
実務修習はまさに試験のためだけにあり、経験を積むことは後回しである。
試験に合格したからといって、専門家として十分に経験を積んだとは言えないのに、合格すればそれで良しとする今日この頃の風潮はいかがなものかと思っていたが、宇宙工学の最先端を行く川口教授にして『経験を積むしかない』と言っていることに深い感銘を受けたのである。
科学である宇宙工学に世界でさえ、経験を積むしかないと言わしめているのに、科学とは程遠い鑑定の世界で経験をないがしろにしたら、一体この先どういうことになるであろうか。
テキストをコピペするような実務修習だけで試験に合格し、後は一人で何とかしなさいというのは、いかがなものかと思うのである。
この著書で、川口教授は『教科書には過去しか書いていない』とし、学びのプロは育っても、真の研究者は育たないとしている。
減点主義で育てられた人は、テキストが全てと信じて疑わない。
テキストと違うことを言うと、テキストに書いてないからと反論される。
不動産は生き物である。
取引の実態を自分の目で見て確認することはできないのに、限られた条件下で書かれたテキストに書いていないからと反論されると、お手上げである。
テキストに全ての地域、全ての種別・類型、全ての条件下においてもコピペ可能な参考例を載せることは不可能である。
しかし、経験のない修習生はテキストが全てと盲信する。
その結果は考えるまでもない。
川口教授は、経験を積むための方法として適しているのは『職人的な徒弟制だと思う』としている。
私の親方(先生)も、仕事のやり方は盗め、身体で覚えろと言っていたことを思い出す。
仕事の手順、鑑定のやり方を教えてはくれなかったが、打ち合わせ、事例の聞き込み・収集、現場調査には連れて行ってくれた。
親方のやり方を真似し、失敗・間違いを繰り返しながら経験を積んできた。
鑑定の全てをテキストには書き表すことは、到底できるものではない。
テキストの行間を埋め、自分の血となり肉とするのは自分自身と思っている。
願わくば、実務修習の副読本として『「はやぶさ」式思考法』を採用してもらえたらと思っている。
そして、実務修習もテキストをなぞるのではなく、答えのない課題を与え、加点式で評価することや、登記事項証明書のみでその他の一切の資料を与えずに、各自の対応の仕方をみるということも必要なのではと思うのである。
鑑定の世界は専門家の意見であり、判断である。
満点のない世界であるから、過去に囚われることなく自分の頭で考え、自分で行動できる人が望まれる。
関係各位の一考を、切に希望する。
7年をかけ3億キロの旅を終えて奇跡的な帰還を果たした『はやぶさ』に感動したのは、筆者ばかりではないだろう。
途中幾度かのトラブル・通信途絶・行方不明という想像を絶する苦難を乗り越えた川口淳一郎教授以下のプロジェクトチームの皆さんに、心より拍手を送るものである。
そして、いかなるときでも希望を失うなという強いメッセージを受け取れたことに感謝している。
ところで、詳細は川口教授の『「はやぶさ」式思考法ー日本を復活させる24の提言』という著書を良く読んで欲しいと思っているが、筆者はこの本により「はやぶさ」の運行が全て科学的・機械的に行なわれたことではないことを知った。
それまでは、原点主義によって選ばれたエリート達が科学の粋を集めて、極めて冷静かつ客観的に対応しているもので、減点主義におびえる我々凡人には到底及びもつかぬ世界と思っていたのである。
しかし、この著書により初めて減点主義の思考法では「はやぶさ」の奇跡的な帰還は成し得なかったことを知らされたのである。
ところで、新試験制度になってからは、徒弟制度は影を潜めつつある。
実務修習はまさに試験のためだけにあり、経験を積むことは後回しである。
試験に合格したからといって、専門家として十分に経験を積んだとは言えないのに、合格すればそれで良しとする今日この頃の風潮はいかがなものかと思っていたが、宇宙工学の最先端を行く川口教授にして『経験を積むしかない』と言っていることに深い感銘を受けたのである。
科学である宇宙工学に世界でさえ、経験を積むしかないと言わしめているのに、科学とは程遠い鑑定の世界で経験をないがしろにしたら、一体この先どういうことになるであろうか。
テキストをコピペするような実務修習だけで試験に合格し、後は一人で何とかしなさいというのは、いかがなものかと思うのである。
この著書で、川口教授は『教科書には過去しか書いていない』とし、学びのプロは育っても、真の研究者は育たないとしている。
減点主義で育てられた人は、テキストが全てと信じて疑わない。
テキストと違うことを言うと、テキストに書いてないからと反論される。
不動産は生き物である。
取引の実態を自分の目で見て確認することはできないのに、限られた条件下で書かれたテキストに書いていないからと反論されると、お手上げである。
テキストに全ての地域、全ての種別・類型、全ての条件下においてもコピペ可能な参考例を載せることは不可能である。
しかし、経験のない修習生はテキストが全てと盲信する。
その結果は考えるまでもない。
川口教授は、経験を積むための方法として適しているのは『職人的な徒弟制だと思う』としている。
私の親方(先生)も、仕事のやり方は盗め、身体で覚えろと言っていたことを思い出す。
仕事の手順、鑑定のやり方を教えてはくれなかったが、打ち合わせ、事例の聞き込み・収集、現場調査には連れて行ってくれた。
親方のやり方を真似し、失敗・間違いを繰り返しながら経験を積んできた。
鑑定の全てをテキストには書き表すことは、到底できるものではない。
テキストの行間を埋め、自分の血となり肉とするのは自分自身と思っている。
願わくば、実務修習の副読本として『「はやぶさ」式思考法』を採用してもらえたらと思っている。
そして、実務修習もテキストをなぞるのではなく、答えのない課題を与え、加点式で評価することや、登記事項証明書のみでその他の一切の資料を与えずに、各自の対応の仕方をみるということも必要なのではと思うのである。
鑑定の世界は専門家の意見であり、判断である。
満点のない世界であるから、過去に囚われることなく自分の頭で考え、自分で行動できる人が望まれる。
関係各位の一考を、切に希望する。
(2011年5月 Evaluation no.41掲載)
ヒラメと徒弟制度と実務修習 Vol.3
2013.11.29
VOL.03 ヒラメと法令遵守
法令遵守と業務マニュアル化は、日本国内に大量のヒラメ型人間を増殖させたが、これは近代化の副作用なのかもしれない。
法令遵守とマニュアル化は、業務の標準化という意味ではある程度は避けられない。
しかし、結果として法令遵守という形で上位下達が深く広く浸透し、ヒラメ型人間を増殖させてしまった。
ヒラメ型の人間は、上ばかりしか見ない。
下級機関・部下・市民は上級機関・上司・権力者の顔色を窺い、貧乏人は金持ちにへつらい、強者は弱者をいじめる等、その弊害は目を覆うばかりである。
日本人の品格は一体どこへ行ったのやら……。
ところで、このような時代にこのことを憂い、『法令遵守が日本を滅ぼす』という本を書いた元検事の郷原信郎教授は、法律家として法令遵守の意味を説き警鐘を鳴らしているが、社会に大きく響いていないのは残念というほかはない。
ヒラメ型人間の多い社会では、聞く耳を持っていないということであろうか。
自分の頭で考えないヒラメが多いということは、権力者・上級機関にとっては都合がいいのであろうが、少子高齢化・人口減少等を考えると、ヒラメは食い尽くされ、やがて日本は大きく衰退するほかはないのであろう。
日本脱出の気運が広がることのないよう、祈るばかりである。
法令遵守と業務マニュアル化は、日本国内に大量のヒラメ型人間を増殖させたが、これは近代化の副作用なのかもしれない。
法令遵守とマニュアル化は、業務の標準化という意味ではある程度は避けられない。
しかし、結果として法令遵守という形で上位下達が深く広く浸透し、ヒラメ型人間を増殖させてしまった。
ヒラメ型の人間は、上ばかりしか見ない。
下級機関・部下・市民は上級機関・上司・権力者の顔色を窺い、貧乏人は金持ちにへつらい、強者は弱者をいじめる等、その弊害は目を覆うばかりである。
日本人の品格は一体どこへ行ったのやら……。
ところで、このような時代にこのことを憂い、『法令遵守が日本を滅ぼす』という本を書いた元検事の郷原信郎教授は、法律家として法令遵守の意味を説き警鐘を鳴らしているが、社会に大きく響いていないのは残念というほかはない。
ヒラメ型人間の多い社会では、聞く耳を持っていないということであろうか。
自分の頭で考えないヒラメが多いということは、権力者・上級機関にとっては都合がいいのであろうが、少子高齢化・人口減少等を考えると、ヒラメは食い尽くされ、やがて日本は大きく衰退するほかはないのであろう。
日本脱出の気運が広がることのないよう、祈るばかりである。
ヒラメと徒弟制度と実務修習 Vol.2
2013.10.27
VOL.02 法令遵守とマニュアル
減点主義教育の弊害の最たるものが、法令遵守とマニュアルである。
いずれも経済のグローバル化にともなって我が国においても盛んに使用されている。
法令遵守とマニュアルが人の行動規範として強要され、それに従わないと罰せられるか排除される。
法令遵守の目的はどうでもよいのである。
どのような目的で作ったかは問題ではない。遵守することが目的となる。
その結果、どのような不具合が生じても疑問を持ってはいけない。
疑問を持ってよいのは、法令遵守を要求する人に傷がつかないときだけである。
法令を作りその遵守を要求する人にいささかでも傷がつく恐れがある場合は、一切の疑問も批判も排除される。
日本人の大半は、批判と非難の区別ができない。
ある人に、疑問を投げかけたり論理的な検討をせまると、その人は自分の人格が否定されたと思い、感情的に対応する。
その結果、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いということになり、親子・兄弟間でも骨肉の争いへと発展する。
親しい者の間でもこうなのであるから、そうでなければ相手方を徹底的に排除する方向に行ってしまい、甚だしい場合には村八分ということになる。
批判できる人は信念のある人と思うが、減点主義教育を受けた人は試験結果で人間を見るため、自分より上の者にはへつらい、下の者には尊大になる傾向がある。
そのため、社会的弱者は批判もできず、ますます内向きになっていく。
マニュアルについても同様の傾向がみられる。
誰がやっても同じ結果になることが求められる場合に、マニュアルは威力を発揮する。
マニュアルは欧米で発達し、日本に導入された。
当初、家電製品の取扱説明書から始まったようであるが、今や家電製品のみならず、単純作業以外の業務も拡大し、日本はマニュアル大国となった。
単なる作業マニュアルや取扱説明書なら、それに従ったからといって誰に迷惑をかけるわけでもないので、特に問題なることもない。
しかし、他人との関係性が必要な業務がマニュアル化されると、ときに悲劇や喜劇が起こる。
身近な例では、あるドーナツ販売店の店員の対応が思い出される。
一人で店に行き、20個位のドーナツを注文したとき、『店内でお召し上がりですか、それともお持ち帰りですか』と訊かれたのである。
いくら何でも、いい年をしたおじさんが一人で店で20ヶのドーナツを食べると思ったのであろうか。
店員は、客の状態を見た上で質問したわけではないのである。
とにかく、店に客が来たら、『店内でお召し上がりですか、それともお持ち帰りですか』と機械的に言うようにマニュアルで教育されているからにすぎない。
マニュアルには相手を見て、人間愛に溢れた対応をしなさいとは書いていないし、また、書けないのである。
店に来る客は、性別・年齢・職業等様々であるから、相手を見て対応しなさいなんてマニュアルに書くとすると、相手とはどんな人、客を見るということはどういうこと等と、書く内容が際限なく広がるのである。
したがって、マニュアルとは、できる限り無機質で単純な方が良いことになる。
昔聞いた話であるが、ホテルのフロント担当者は玄関付近のホールで人が倒れて危険な状況でも持ち場を離れないとか、荷物が無くなったと言っても相手にしてくれないとかいうとこであった。
マニュアルに対応の仕方が書いていないからということで、一切かまってくれないということであった。
マニュアルを作るのは管理者の仕事であり、それに書いていないことをやると業務違反ということでクビになるということである。
もうこうなると、漫画である。
そのときは、アメリカ人はバカだなと思っていたが、最近の日本もアメリカと同じようになりつつある。
法令遵守とマニュアル化は、個人の思考プロセスから主体的判断や行動を排除しつつある。
『国家の品格』の著書である藤原正彦教授ではないが、日本人から憶測の情を取ったら日本人ではなくなると思うのである。
行き過ぎた法令遵守とマニュアルは、日本文化を破壊し、日本人のアイデンティティーを消滅させかねないと危惧している。
減点主義教育の弊害の最たるものが、法令遵守とマニュアルである。
いずれも経済のグローバル化にともなって我が国においても盛んに使用されている。
法令遵守とマニュアルが人の行動規範として強要され、それに従わないと罰せられるか排除される。
法令遵守の目的はどうでもよいのである。
どのような目的で作ったかは問題ではない。遵守することが目的となる。
その結果、どのような不具合が生じても疑問を持ってはいけない。
疑問を持ってよいのは、法令遵守を要求する人に傷がつかないときだけである。
法令を作りその遵守を要求する人にいささかでも傷がつく恐れがある場合は、一切の疑問も批判も排除される。
日本人の大半は、批判と非難の区別ができない。
ある人に、疑問を投げかけたり論理的な検討をせまると、その人は自分の人格が否定されたと思い、感情的に対応する。
その結果、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いということになり、親子・兄弟間でも骨肉の争いへと発展する。
親しい者の間でもこうなのであるから、そうでなければ相手方を徹底的に排除する方向に行ってしまい、甚だしい場合には村八分ということになる。
批判できる人は信念のある人と思うが、減点主義教育を受けた人は試験結果で人間を見るため、自分より上の者にはへつらい、下の者には尊大になる傾向がある。
そのため、社会的弱者は批判もできず、ますます内向きになっていく。
マニュアルについても同様の傾向がみられる。
誰がやっても同じ結果になることが求められる場合に、マニュアルは威力を発揮する。
マニュアルは欧米で発達し、日本に導入された。
当初、家電製品の取扱説明書から始まったようであるが、今や家電製品のみならず、単純作業以外の業務も拡大し、日本はマニュアル大国となった。
単なる作業マニュアルや取扱説明書なら、それに従ったからといって誰に迷惑をかけるわけでもないので、特に問題なることもない。
しかし、他人との関係性が必要な業務がマニュアル化されると、ときに悲劇や喜劇が起こる。
身近な例では、あるドーナツ販売店の店員の対応が思い出される。
一人で店に行き、20個位のドーナツを注文したとき、『店内でお召し上がりですか、それともお持ち帰りですか』と訊かれたのである。
いくら何でも、いい年をしたおじさんが一人で店で20ヶのドーナツを食べると思ったのであろうか。
店員は、客の状態を見た上で質問したわけではないのである。
とにかく、店に客が来たら、『店内でお召し上がりですか、それともお持ち帰りですか』と機械的に言うようにマニュアルで教育されているからにすぎない。
マニュアルには相手を見て、人間愛に溢れた対応をしなさいとは書いていないし、また、書けないのである。
店に来る客は、性別・年齢・職業等様々であるから、相手を見て対応しなさいなんてマニュアルに書くとすると、相手とはどんな人、客を見るということはどういうこと等と、書く内容が際限なく広がるのである。
したがって、マニュアルとは、できる限り無機質で単純な方が良いことになる。
昔聞いた話であるが、ホテルのフロント担当者は玄関付近のホールで人が倒れて危険な状況でも持ち場を離れないとか、荷物が無くなったと言っても相手にしてくれないとかいうとこであった。
マニュアルに対応の仕方が書いていないからということで、一切かまってくれないということであった。
マニュアルを作るのは管理者の仕事であり、それに書いていないことをやると業務違反ということでクビになるということである。
もうこうなると、漫画である。
そのときは、アメリカ人はバカだなと思っていたが、最近の日本もアメリカと同じようになりつつある。
法令遵守とマニュアル化は、個人の思考プロセスから主体的判断や行動を排除しつつある。
『国家の品格』の著書である藤原正彦教授ではないが、日本人から憶測の情を取ったら日本人ではなくなると思うのである。
行き過ぎた法令遵守とマニュアルは、日本文化を破壊し、日本人のアイデンティティーを消滅させかねないと危惧している。