鑑定評価は100%が仮説? Vol.3
2020.03.05
VOL.03 評価と数学
鑑定評価にあたって採点基準が全国的に統一されていれば、評価のブレは少なくなるものと思われる。
しかし、ダイナミックに変動する経済現象の一つである不動産取引について、評価のための統一基準(具体的な数値の取り決め)を作るのは大変なことである。
統一基準が仮に出来たとしても、刻一刻と変化する経済現象をうまく説明できるかどうかはわからない。
昭和50年代前半に、数学的に評価ができないかということで重回帰分析による土地評価の研究が国の予算で行われたと記憶しているが、その結果はどうなったのであろうか。
昨今は、ヘドニック関数によって評価が可能であるという論者もいるが、もしそうなら公的評価を担う不動産鑑定士が失業もしないで相も変わらず昔の評価の仕方から一歩も出られないことをどう説明したら良いのであろうか。
もしヘドニック関数で全国津々浦々の土地の評価が可能なら、国家にとってこれほど喜ばしいことはない。
つまり、数学的に証明可能な評価ができるのなら、土地価格をめぐる争いは一切なくなるものと思われるからである。
また、土地評価に要する費用はほとんどかからないか、或いはかかってもこれまでより極めて少額で済むものと考えられる。
そうだとすれば、国・地方も含めて評価に要する人員は不用となり、鑑定評価の費用も不用となり、国・地方の財政に与える効果は計り知れない。
日本の数学者や経済学者は、是非総力を挙げて数学的に立証・追試が可能な評価システムを開発して欲しいと願わざるを得ない。
その可能性があるのなら、21世紀の国家プロジェクトとして立ち上げても費用対効果は十分に得られるものと考える。
更にうまくいけば、ノーベル賞も狙えるかもしれない。
鑑定評価にあたって採点基準が全国的に統一されていれば、評価のブレは少なくなるものと思われる。
しかし、ダイナミックに変動する経済現象の一つである不動産取引について、評価のための統一基準(具体的な数値の取り決め)を作るのは大変なことである。
統一基準が仮に出来たとしても、刻一刻と変化する経済現象をうまく説明できるかどうかはわからない。
昭和50年代前半に、数学的に評価ができないかということで重回帰分析による土地評価の研究が国の予算で行われたと記憶しているが、その結果はどうなったのであろうか。
昨今は、ヘドニック関数によって評価が可能であるという論者もいるが、もしそうなら公的評価を担う不動産鑑定士が失業もしないで相も変わらず昔の評価の仕方から一歩も出られないことをどう説明したら良いのであろうか。
もしヘドニック関数で全国津々浦々の土地の評価が可能なら、国家にとってこれほど喜ばしいことはない。
つまり、数学的に証明可能な評価ができるのなら、土地価格をめぐる争いは一切なくなるものと思われるからである。
また、土地評価に要する費用はほとんどかからないか、或いはかかってもこれまでより極めて少額で済むものと考えられる。
そうだとすれば、国・地方も含めて評価に要する人員は不用となり、鑑定評価の費用も不用となり、国・地方の財政に与える効果は計り知れない。
日本の数学者や経済学者は、是非総力を挙げて数学的に立証・追試が可能な評価システムを開発して欲しいと願わざるを得ない。
その可能性があるのなら、21世紀の国家プロジェクトとして立ち上げても費用対効果は十分に得られるものと考える。
更にうまくいけば、ノーベル賞も狙えるかもしれない。
鑑定評価は100%が仮説? Vol.2
2019.12.09
VOL.02 測定と評価の相異
シンクロナイズドスイミングや体操競技のような芸術系の競技と鑑定評価とは、一見なんの関係もないようにみえるが、一定の行為ないし事実に対する評価という意味で関係があると考える。
極端な事を言えば、陸上競技とシンクロナイズドスイミングの相異と言えば解り易いであろう。
つまり、前者の競技は全て客観的な物差しによる測定(計測)結果で勝敗が決まるのに対し、後者は演技に対する評価で勝敗が決まるということである。
シンクロナイズドスイミングのような演技種目の評価は芸術点・技術点からなり、表現・手足の動き等細部にわたって採点基準・評点が決められている。
また、審判員は複数人で構成され、演技者の評点は最高点と最低点が切捨され、残りの審判員の評価点の合計点で示される。
何故そうなっているかといえば、採点基準を詳細に規定し、経験豊富な審判員に判定(評価)させたとしても、演技に対する評価者の価値観の相異が反映されるからである。
これに対し、陸上競技のように勝敗が全て測定(計測)結果によるのであれば、そこに評価という概念が入る余地は極めて少ないので、大勢の審判員を用意する必要はないことになる。
筆者が考えてみたいことは、評価の持つ本質的な側面についてである。
昨今、我々の業界を取り巻く環境は厳しく、とりわけ評価者の中味に対する内外の批判は年々と高まってきているように見受けられる。
これはとりもなおさず、それだけ鑑定評価業務に対する期待が高まってきたことの証左であると考えられる。
ところで、評価に対する批判の多くは客観性に対するものである。
それでは評価の客観性を高めるということはどういうことなのか、また、果たして完全な客観性が達成される可能性があるのかどうかについて考えてみたい。
まず一番解りやすい、ほぼ完全な客観性が達成される事例についてみるものとする。
完全な客観性とは、理論的にも現実的にも実証可能であること、つまり一定の条件下であれば誰が行なっても同じ結果に達することである。
言葉を替えれば追試・立証の可能性である。
その例として陸上競技をあげた。
陸上競技は審判員の評価という行為は介在しない。
そこにあるのは、早さ・距離等に対する測定(計測)という行為であって、時間や距離の概念に第三者の評価が入る余地はない。
そうはいっても、誰が測っても同じ結果になる為には、測定ルール・測定単位・測定する機械を先に用意しなければならないことになる。
他方、シンクロナイズドスイミングのような芸術競技の勝敗は、時間や距離を図るものではない。
したがって、いくら基準を細かく決めても測定する物差しや機械がないため、評価結果の客観性を立証することも追試をすることもできない。
だからこそ経験豊富な審判員を多勢用意し、その上で最高点と最低点を切捨して、残りの審判員の評点で勝敗を決定しているものと思われる。
つまり、客観性を擬制しているだけで証明はないのである。
したがって、鑑定評価業務は本質的にはシンクロナイズドスイミングのような芸術競技の審判とほぼ同じと考えられる。
鑑定評価理論は観念的であり、評価に必要な数値は決められていない。
ということは、価値判断の物差しが統一されていないということである。
いくら試験に合格したからといって、神になれる訳ではない。生まれも経験も価値観も異なる多数の鑑定士がいくら手順をつくしたとしても、同じ結論に達すると擬制することには無理があるものと考える。
つまり、我々は比準価格や収益価格を算出する場合に行なっているのは価格形成要因を測定している訳ではなく、これらのデータに対する鑑定士としての評価(価値判断)を行なっているにすぎないと考えられる。
評価である以上、そこに経験の差異や価値観の相異が反映されるのは想像に難くない。
芸術競技のような演技種目は、採点基準や評点を細かく決めていても演技を測定することは出来ないので、演技内容を採点基準に従って評価する他はないのである。
評価である以上、アテネオリンピックに見るまでもなく、審判員の評価・評点が一致することはほとんどないのである。
これが評価という行為の現実の姿である。
つまり、評価という行為の結果は必ずしも一致しないのが常態であることを、我々は認識しなければならないのではないだろうか。
シンクロナイズドスイミングや体操競技のような芸術系の競技と鑑定評価とは、一見なんの関係もないようにみえるが、一定の行為ないし事実に対する評価という意味で関係があると考える。
極端な事を言えば、陸上競技とシンクロナイズドスイミングの相異と言えば解り易いであろう。
つまり、前者の競技は全て客観的な物差しによる測定(計測)結果で勝敗が決まるのに対し、後者は演技に対する評価で勝敗が決まるということである。
シンクロナイズドスイミングのような演技種目の評価は芸術点・技術点からなり、表現・手足の動き等細部にわたって採点基準・評点が決められている。
また、審判員は複数人で構成され、演技者の評点は最高点と最低点が切捨され、残りの審判員の評価点の合計点で示される。
何故そうなっているかといえば、採点基準を詳細に規定し、経験豊富な審判員に判定(評価)させたとしても、演技に対する評価者の価値観の相異が反映されるからである。
これに対し、陸上競技のように勝敗が全て測定(計測)結果によるのであれば、そこに評価という概念が入る余地は極めて少ないので、大勢の審判員を用意する必要はないことになる。
筆者が考えてみたいことは、評価の持つ本質的な側面についてである。
昨今、我々の業界を取り巻く環境は厳しく、とりわけ評価者の中味に対する内外の批判は年々と高まってきているように見受けられる。
これはとりもなおさず、それだけ鑑定評価業務に対する期待が高まってきたことの証左であると考えられる。
ところで、評価に対する批判の多くは客観性に対するものである。
それでは評価の客観性を高めるということはどういうことなのか、また、果たして完全な客観性が達成される可能性があるのかどうかについて考えてみたい。
まず一番解りやすい、ほぼ完全な客観性が達成される事例についてみるものとする。
完全な客観性とは、理論的にも現実的にも実証可能であること、つまり一定の条件下であれば誰が行なっても同じ結果に達することである。
言葉を替えれば追試・立証の可能性である。
その例として陸上競技をあげた。
陸上競技は審判員の評価という行為は介在しない。
そこにあるのは、早さ・距離等に対する測定(計測)という行為であって、時間や距離の概念に第三者の評価が入る余地はない。
そうはいっても、誰が測っても同じ結果になる為には、測定ルール・測定単位・測定する機械を先に用意しなければならないことになる。
他方、シンクロナイズドスイミングのような芸術競技の勝敗は、時間や距離を図るものではない。
したがって、いくら基準を細かく決めても測定する物差しや機械がないため、評価結果の客観性を立証することも追試をすることもできない。
だからこそ経験豊富な審判員を多勢用意し、その上で最高点と最低点を切捨して、残りの審判員の評点で勝敗を決定しているものと思われる。
つまり、客観性を擬制しているだけで証明はないのである。
したがって、鑑定評価業務は本質的にはシンクロナイズドスイミングのような芸術競技の審判とほぼ同じと考えられる。
鑑定評価理論は観念的であり、評価に必要な数値は決められていない。
ということは、価値判断の物差しが統一されていないということである。
いくら試験に合格したからといって、神になれる訳ではない。生まれも経験も価値観も異なる多数の鑑定士がいくら手順をつくしたとしても、同じ結論に達すると擬制することには無理があるものと考える。
つまり、我々は比準価格や収益価格を算出する場合に行なっているのは価格形成要因を測定している訳ではなく、これらのデータに対する鑑定士としての評価(価値判断)を行なっているにすぎないと考えられる。
評価である以上、そこに経験の差異や価値観の相異が反映されるのは想像に難くない。
芸術競技のような演技種目は、採点基準や評点を細かく決めていても演技を測定することは出来ないので、演技内容を採点基準に従って評価する他はないのである。
評価である以上、アテネオリンピックに見るまでもなく、審判員の評価・評点が一致することはほとんどないのである。
これが評価という行為の現実の姿である。
つまり、評価という行為の結果は必ずしも一致しないのが常態であることを、我々は認識しなければならないのではないだろうか。
鑑定評価は100%が仮説? Vol.1
2019.11.15
VOL.01 鑑定評価の科学性について考える
広辞苑によれば、「科学」とは体系的であり、経験的に実証可能な知識と定義され、その典型例として物理学・化学・生物学等を例示しているが、法学・経済学のような社会科学も科学の例として上げている。
ところで、法学が科学足りうるのであれば、鑑定評価理論も科学としての分野を構成される可能性が残される。
しかしながら、科学が経験的に実証可能な知識と定義されるならば、鑑定評価理論の科学性には疑問符がつくことになる。つまり、実証可能性に問題があるからである。
一方、法学が科学の分野に入るとされていることには、個人的には違和感を覚える。
何故なら、法律の世界が経験的に実証可能となっていないからであり、訴訟が三審制になっているのがその証左である。
訴訟は裁判官が証拠に基づき法律的判断を加えて判決を下している。
多数の証拠・証言や長い時間をかけて裁判されたとしても、一審・二審・最高裁と経るに従って裁判所の判断が異なることを我々は現実に見聞しているが、何故なのであろうか。
つまり、裁判も鑑定評価と同様に証拠・証言というデータに対する裁判官の評価が異なるからと考えられる。
言葉をかえれば、裁判官個々人の価値観が異なるからとも言える。
もし、採点基準が示されており、かつ証拠・証言を判定する物差しがあれば、測定するだけであるから結果がコロコロ変わることはないはずである。
同じ証拠・同じ法律に準拠しても、測定している訳ではないので、見方が変われば結果も変わるということではなかろうか。
広辞苑によれば、「科学」とは体系的であり、経験的に実証可能な知識と定義され、その典型例として物理学・化学・生物学等を例示しているが、法学・経済学のような社会科学も科学の例として上げている。
ところで、法学が科学足りうるのであれば、鑑定評価理論も科学としての分野を構成される可能性が残される。
しかしながら、科学が経験的に実証可能な知識と定義されるならば、鑑定評価理論の科学性には疑問符がつくことになる。つまり、実証可能性に問題があるからである。
一方、法学が科学の分野に入るとされていることには、個人的には違和感を覚える。
何故なら、法律の世界が経験的に実証可能となっていないからであり、訴訟が三審制になっているのがその証左である。
訴訟は裁判官が証拠に基づき法律的判断を加えて判決を下している。
多数の証拠・証言や長い時間をかけて裁判されたとしても、一審・二審・最高裁と経るに従って裁判所の判断が異なることを我々は現実に見聞しているが、何故なのであろうか。
つまり、裁判も鑑定評価と同様に証拠・証言というデータに対する裁判官の評価が異なるからと考えられる。
言葉をかえれば、裁判官個々人の価値観が異なるからとも言える。
もし、採点基準が示されており、かつ証拠・証言を判定する物差しがあれば、測定するだけであるから結果がコロコロ変わることはないはずである。
同じ証拠・同じ法律に準拠しても、測定している訳ではないので、見方が変われば結果も変わるということではなかろうか。