DCF法はアートな世界? Vol.7
2020.08.13
VOL.07 DCF法と利回り
DCF法による収益価格が恣意的に操作しやすいのは、キャッシュフローばかりではなく利回りの求め方にもよる。
教科書的にいくら力説してみても、立証・検証可能な利回りを求める方法はない。
利回りを少し操作するだけで価格は大きく変動する。
まして、採用した利回りを第三者が批判しようとしても立証できないのであるから、どうにもこうにも止まらない。
個人的には、第三者機関、できれば大学等の研究機関に数年の期間と億単位の費用を投じて本格な研究をしてもらい、その成果を利用させてもらうのが一番と考えている。
鑑定協会は、本来鑑定士個人の手に余るこのようなケースについて外部の研究機関の力を借りてオーソライズすれば自ずと評価は定まり、会員の協会に対する帰属意識の高揚に役立つかもしれない。
現在のように個人個人の鑑定士の力量や鑑定業者の資本力が大きく異なる中で、適正かつ公正な評価を期待することは無理と考える。
一説によれば、Jリート物件の評価は業界大手の上位数社、厳しくいえば3~5社程度が独占し、個人事務所がこれらの評価をする機会はないと思われる。
しかし、同じくDCF法を活用するプライベートファンドの評価においては小さな物件もあるので、個人事務所も依頼を受けることがある。
しかしその場合にはファンド側に思惑があるため、清く正しい評価を貫くことは難しい。
依頼者の意に添わなければ仕事はキャンセルされる。
依頼者に都合の良い鑑定士はいくらでもいるのである。
このような中で孤高を保ち、信念を貫くのは並大抵のことではない。
営業する時間のない個人事務所では特にそうである。
今日、明日の飯の前に良心がぐらつくことを非難することはできない。
またまた話が逸れたが、利回りを求めるのは非常に困難である。
あるプライベートファンドに係る評価で著名な先生の評価書を見たことがある。
利回りに関する著作をものにしている先生なので、さぞかし説得力のある科学的な方法で利回りを求めているのではないかとワクワクしながら評価書を読ませてもらった。
結果は、ガッカリである。
まず評価書本文の約半分が、役所の統計書のコピーである。
そして利回りの決定は著作を引用し、だから適切・妥当としているが、本当かなと首を傾げざるを得なかった。
著作のない人はどうするのかとツッコミたくなったが、利回りを求めるプロセスを抽象的に語ることはできても、それを具体的に、しかも説得力ある方法で求めることは至難の業である。
本当に客観的・科学的に求める方法があるのなら、ノーベル賞ものだと思うのだが。
我が業界は、抽象的な議論は好きだが具体論になるとトント話が進まないのは何故なのであろうか。
個人的には、これらの問題を内部で解決しようとする傾向が強いからではないかと思っている。
もっと外部の研究機関の力を借りて、抽象論ではなく具体的な方法を研究・開発してもらっても良いのではないかと思っている。
DCF法による収益価格が恣意的に操作しやすいのは、キャッシュフローばかりではなく利回りの求め方にもよる。
教科書的にいくら力説してみても、立証・検証可能な利回りを求める方法はない。
利回りを少し操作するだけで価格は大きく変動する。
まして、採用した利回りを第三者が批判しようとしても立証できないのであるから、どうにもこうにも止まらない。
個人的には、第三者機関、できれば大学等の研究機関に数年の期間と億単位の費用を投じて本格な研究をしてもらい、その成果を利用させてもらうのが一番と考えている。
鑑定協会は、本来鑑定士個人の手に余るこのようなケースについて外部の研究機関の力を借りてオーソライズすれば自ずと評価は定まり、会員の協会に対する帰属意識の高揚に役立つかもしれない。
現在のように個人個人の鑑定士の力量や鑑定業者の資本力が大きく異なる中で、適正かつ公正な評価を期待することは無理と考える。
一説によれば、Jリート物件の評価は業界大手の上位数社、厳しくいえば3~5社程度が独占し、個人事務所がこれらの評価をする機会はないと思われる。
しかし、同じくDCF法を活用するプライベートファンドの評価においては小さな物件もあるので、個人事務所も依頼を受けることがある。
しかしその場合にはファンド側に思惑があるため、清く正しい評価を貫くことは難しい。
依頼者の意に添わなければ仕事はキャンセルされる。
依頼者に都合の良い鑑定士はいくらでもいるのである。
このような中で孤高を保ち、信念を貫くのは並大抵のことではない。
営業する時間のない個人事務所では特にそうである。
今日、明日の飯の前に良心がぐらつくことを非難することはできない。
またまた話が逸れたが、利回りを求めるのは非常に困難である。
あるプライベートファンドに係る評価で著名な先生の評価書を見たことがある。
利回りに関する著作をものにしている先生なので、さぞかし説得力のある科学的な方法で利回りを求めているのではないかとワクワクしながら評価書を読ませてもらった。
結果は、ガッカリである。
まず評価書本文の約半分が、役所の統計書のコピーである。
そして利回りの決定は著作を引用し、だから適切・妥当としているが、本当かなと首を傾げざるを得なかった。
著作のない人はどうするのかとツッコミたくなったが、利回りを求めるプロセスを抽象的に語ることはできても、それを具体的に、しかも説得力ある方法で求めることは至難の業である。
本当に客観的・科学的に求める方法があるのなら、ノーベル賞ものだと思うのだが。
我が業界は、抽象的な議論は好きだが具体論になるとトント話が進まないのは何故なのであろうか。
個人的には、これらの問題を内部で解決しようとする傾向が強いからではないかと思っている。
もっと外部の研究機関の力を借りて、抽象論ではなく具体的な方法を研究・開発してもらっても良いのではないかと思っている。
DCF法はアートな世界? Vol.6
2020.08.06
VOL.06 高値競争鑑定の実情
これからの話は私が現実に体験したことである。
昨年、東京の仕事仲間からファンドの鑑定を受注したので、手伝って欲しいとの要請があった。
物件は全国の主要都市にちらばっているため、動員をかけたとのことであった。
資料が沢山送られてきたが、何しろ時間がない。
しかも、ERもないのである。
どうやって評価するのかと思ったが、キャッシュフローは東京の方で調整するとのことであったが、資料を読み解くのは大変であった。
ところが、作業を進めているうちに、実は評価を依頼した鑑定業者は他にも二社あり、計三社で同一物件を評価することになっていると解った。
昔の公共事業の用地買収の評価は客観性を担保するため二社鑑定が普通で、二社の鑑定結果を基に起業者が買収価格を決定していたが、今回の評価は相鑑ではなく、最も高い評価額を提示した鑑定業者に最終的に鑑定を発注するという仕組みであることが判明した。
当方が行なった評価はあくまでも仮評価で、他の鑑定業者の方の鑑定評価額が高ければ依頼はキャンセルされるということである。
こういう馬鹿げた発注方法が横行すれば、一体どうなるのであろうか。
仮評価も本評価もやることは一緒である。
必死になって評価書をまとめても、それが日の目を見るかどうかは解らないのである。
そこまでやらされるのなら可能な限り高い評価額を提示し、評価作業を無駄にしたくないというのが本音であろう。
個人的にはこんな馬鹿げた仕事を受けて欲しくはなかったが、受けてしまったものは仕方がない。
気乗りはしなかったが、こういう依頼の仕方をする依頼者に迎合する気はないので無理な評価はしなかった。
他の地区を受け持った仲間も同様であったようで、結局正式な鑑定依頼はキャンセルされ(高値鑑定に負けた)、正直ホッとしたものである。
わずかなキャンセル料で我慢するしかないが、二度とこういう仕事には関わりたくないと思ったものである。
しかし、そういえるのは贅沢なことかもしれない。
仕事が無くなれば、そんなことは言っていられない。
完全な公正・妥当な評価なんて誰にも解らないし、第一お金を払ってくれる依頼者に盾突いたところで仕事を失うだけである。
ところで、このような高値を競わされる評価の場合、DCF法は極めて有効である。
土地や建物の価格は様々なデータがあるため誤魔化しは効かない。
しかし、前述したように赤字不動産でもたちどころに黒字化させて高い評価を出せるのであるから、稼働さえしていれば、いや稼働していなくても、どうにでもなると考える他はない。
事実、そういう評価の話や現物の評価書も見てきているが、DCF法による収益価格というのは本当にマジックのようである。
DCF法による収益価格が精度・信頼性が高いと言った人がいたが、それは前提条件が全て完全であるということであろう。
これからの話は私が現実に体験したことである。
昨年、東京の仕事仲間からファンドの鑑定を受注したので、手伝って欲しいとの要請があった。
物件は全国の主要都市にちらばっているため、動員をかけたとのことであった。
資料が沢山送られてきたが、何しろ時間がない。
しかも、ERもないのである。
どうやって評価するのかと思ったが、キャッシュフローは東京の方で調整するとのことであったが、資料を読み解くのは大変であった。
ところが、作業を進めているうちに、実は評価を依頼した鑑定業者は他にも二社あり、計三社で同一物件を評価することになっていると解った。
昔の公共事業の用地買収の評価は客観性を担保するため二社鑑定が普通で、二社の鑑定結果を基に起業者が買収価格を決定していたが、今回の評価は相鑑ではなく、最も高い評価額を提示した鑑定業者に最終的に鑑定を発注するという仕組みであることが判明した。
当方が行なった評価はあくまでも仮評価で、他の鑑定業者の方の鑑定評価額が高ければ依頼はキャンセルされるということである。
こういう馬鹿げた発注方法が横行すれば、一体どうなるのであろうか。
仮評価も本評価もやることは一緒である。
必死になって評価書をまとめても、それが日の目を見るかどうかは解らないのである。
そこまでやらされるのなら可能な限り高い評価額を提示し、評価作業を無駄にしたくないというのが本音であろう。
個人的にはこんな馬鹿げた仕事を受けて欲しくはなかったが、受けてしまったものは仕方がない。
気乗りはしなかったが、こういう依頼の仕方をする依頼者に迎合する気はないので無理な評価はしなかった。
他の地区を受け持った仲間も同様であったようで、結局正式な鑑定依頼はキャンセルされ(高値鑑定に負けた)、正直ホッとしたものである。
わずかなキャンセル料で我慢するしかないが、二度とこういう仕事には関わりたくないと思ったものである。
しかし、そういえるのは贅沢なことかもしれない。
仕事が無くなれば、そんなことは言っていられない。
完全な公正・妥当な評価なんて誰にも解らないし、第一お金を払ってくれる依頼者に盾突いたところで仕事を失うだけである。
ところで、このような高値を競わされる評価の場合、DCF法は極めて有効である。
土地や建物の価格は様々なデータがあるため誤魔化しは効かない。
しかし、前述したように赤字不動産でもたちどころに黒字化させて高い評価を出せるのであるから、稼働さえしていれば、いや稼働していなくても、どうにでもなると考える他はない。
事実、そういう評価の話や現物の評価書も見てきているが、DCF法による収益価格というのは本当にマジックのようである。
DCF法による収益価格が精度・信頼性が高いと言った人がいたが、それは前提条件が全て完全であるということであろう。
DCF法はアートな世界? Vol.5
2020.07.30
VOL.05 指し値鑑定とストライクゾーン
鑑定という仕事を長年やってつくづく思うことは、不動産の価格が解らないから鑑定を頼むということは非常に少ないということである。
一般的には、価格は解っているがそれを確認したい、あるいは、自分の都合の良い価格を第三者に証明してもらいたい、というのがほとんどである。
例えば、取引当事者が合意している場合にその合意金額と異なる評価をすることは難しい。
何故なら、合意金額で評価しても当事者から評価が不当だという苦情はくることはないし、第一お金を払ってくれるのはその当事者だからである。
依頼者からお金をもらって依頼者の意に添わない評価をすれば、まずお金を払ってくれないであろう。
また、特別なこと(訴訟等)がない限り依頼者に合わせたところで被害者は出ないであろうし、トラブルに巻き込まれる心配もない。
それより何より、金払いの良い依頼者が次何時来るかわからない時に依頼者の意向を無視して仕事を謝絶することは、なかなかに難しいことだからである。
人はパンのみに生くるにあらずといっても、パンがなければ生きられない。
しかし、かといってパンばかりを追いかけると思わぬ落し穴に落ちるかもしれない。
依頼を受ける場合は不動産の調査・評価をする前に、まず依頼者本人を調査・評価しなければならないことになる。
ある程度依頼者の意向を汲んでやらないと仕事はまず来ない。
しかし依頼者の氏素性を解らぬまま意向に添うとトンデモない事件に遭遇するかもしれないので、依頼者の意向にどの程度添えるか、あるいは逃げた方が良いのか、依頼者の信頼性を見極める能力が必要となる。
私にはその能力がないので、一見のお客さんには原則として対応しない。
まあ、素っ気なく断れば評判が落ちるかもしれないので、相談には乗ることにしているが、個人の場合はよくよく話を聞くと評価するまでのこともないことが多い。
話が少し横道にそれたが、面識のある依頼者はそのほとんどが鑑定評価の使い方を知っているので、白紙の状態で評価を依頼しに来ることはない。
つまり、評価額の腹積もりが最初からあるので、依頼を受ける立場としては同業者や第三者から苦情がきた時に説明可能な範囲の価格(いわゆるストライクゾーン)であるかどうかを考えることになる。
ストライクゾーンからはずれていると思えば断る理由を捜し、ストライクゾーンの範囲にあれば引受けることになる。
しかしここで問題なのは、ストライクゾーンの判定である。
野球のように厳格なルールがあり歴史もあるゲームでさえストライクゾーンは審判によって微妙に異なるのが現実である。
野球に比較して鑑定評価のストライクゾーンの判定は極めて困難である。
鑑定評価のストライクゾーンは鑑定士によっても時代によっても異なるから、明確なストライクゾーンを示すことは困難である。
ここに鑑定士がつけ込まれるスキがある。
鑑定という仕事を長年やってつくづく思うことは、不動産の価格が解らないから鑑定を頼むということは非常に少ないということである。
一般的には、価格は解っているがそれを確認したい、あるいは、自分の都合の良い価格を第三者に証明してもらいたい、というのがほとんどである。
例えば、取引当事者が合意している場合にその合意金額と異なる評価をすることは難しい。
何故なら、合意金額で評価しても当事者から評価が不当だという苦情はくることはないし、第一お金を払ってくれるのはその当事者だからである。
依頼者からお金をもらって依頼者の意に添わない評価をすれば、まずお金を払ってくれないであろう。
また、特別なこと(訴訟等)がない限り依頼者に合わせたところで被害者は出ないであろうし、トラブルに巻き込まれる心配もない。
それより何より、金払いの良い依頼者が次何時来るかわからない時に依頼者の意向を無視して仕事を謝絶することは、なかなかに難しいことだからである。
人はパンのみに生くるにあらずといっても、パンがなければ生きられない。
しかし、かといってパンばかりを追いかけると思わぬ落し穴に落ちるかもしれない。
依頼を受ける場合は不動産の調査・評価をする前に、まず依頼者本人を調査・評価しなければならないことになる。
ある程度依頼者の意向を汲んでやらないと仕事はまず来ない。
しかし依頼者の氏素性を解らぬまま意向に添うとトンデモない事件に遭遇するかもしれないので、依頼者の意向にどの程度添えるか、あるいは逃げた方が良いのか、依頼者の信頼性を見極める能力が必要となる。
私にはその能力がないので、一見のお客さんには原則として対応しない。
まあ、素っ気なく断れば評判が落ちるかもしれないので、相談には乗ることにしているが、個人の場合はよくよく話を聞くと評価するまでのこともないことが多い。
話が少し横道にそれたが、面識のある依頼者はそのほとんどが鑑定評価の使い方を知っているので、白紙の状態で評価を依頼しに来ることはない。
つまり、評価額の腹積もりが最初からあるので、依頼を受ける立場としては同業者や第三者から苦情がきた時に説明可能な範囲の価格(いわゆるストライクゾーン)であるかどうかを考えることになる。
ストライクゾーンからはずれていると思えば断る理由を捜し、ストライクゾーンの範囲にあれば引受けることになる。
しかしここで問題なのは、ストライクゾーンの判定である。
野球のように厳格なルールがあり歴史もあるゲームでさえストライクゾーンは審判によって微妙に異なるのが現実である。
野球に比較して鑑定評価のストライクゾーンの判定は極めて困難である。
鑑定評価のストライクゾーンは鑑定士によっても時代によっても異なるから、明確なストライクゾーンを示すことは困難である。
ここに鑑定士がつけ込まれるスキがある。