愚か者と軋み合わない世の中 Vol.2
2020.09.03
VOL.02 やがて来る総監視社会 

 自己の確立に乏しい国民は、社会不安は国の責任と転嫁し、自らの努力によって少しでも解決しようとする気持は少なく、体制の中で権力によって守られる心地良さに身を委ねることになる。

 その行き着く先は独裁国家であるが、グローバル化された国際協調の時代にはそこまで行くことはないと思われる。

 しかし、もっと始末が悪いのは、民主主義の名の下に巧妙に国民を監視し、一部の権力者に都合の良いシステムが作り上げられることである。

 幸い、個人情報保護法があるので国家権力にとって都合の悪い情報はトコトン隠そうとする。

 個人情報保護法は、国民のプライバシーを保護することを名目に作られたが、実は国家権力にとって都合の悪い情報を公開しないことを真の目的としているとしか思えないことがある。

 いずれにしても、個人情報保護法の内容を良く理解していないにも拘わらず個人名が記載されていたら全て同法の対象になると断言する役所の人間や市民にはウンザリする。

 一般市民や地方の役所の人間がこの程度のレベルであるから、国家権力にとってこの法律を恣意的に運用するのは朝飯前である。
 
 気がついたら個人情報を全て握られ、国家権力にとって都合の悪いことは一切できなくなる世の中が来るのかもしれない。

 イヤ、国家権力は本当にそうしたいと願っているのかもしれない。
2020.09.03 16:10 | 固定リンク | 鑑定雑感
愚か者と軋み合わない世の中 Vol.1
2020.08.27
VOL.01 事件の多発と社会不安

 昨今、通り魔的な事件がマスメディアを賑わせている。

 私も含めて、一般市民は殺人事件が急増していると思いがちであるが、実際のところ殺人件数は減少していることから、殺人事件に限れば、マスコミが騒ぐほど危険な世の中になってはいないことになる。

 ところで、何故かくも危険な世の中になったかのような錯覚に陥っているかと言えば、それはマスコミの過剰報道と、カーネマンの行動経済学的に言えばそれに帰因するヒューリスティクスのバイアス(代表性・利用可能性等の偏り)による市民の誤解によるものと考えられる。

 特にテレビの威力は絶大であり、大は国家レベルから、小は一般市民レベルまで大きな影響を受けている。
 報道の自由のもとに、時には基本的人権さえ超越する場合も見られ、困ったものである。

 意地悪い見方をすれば、事件報道を煽ることにより、国民の不安を増大させ、それを理由に国家が国民を厳重に監視することを容認させようとしているのではと考え込んでしまう。

 街中に監視カメラが氾濫し、電話もメールも全て監視されつつあるが、そのことが犯罪防止のためにだけ行なわれているという保証はどこにもない。
 国民の不安が増大すれば、ただでさえ自己の確立に乏しい一般市民にとっては、国家権力による監視体制は心地良いものに感じるのであろう。

 その結果どういう国になるのかは、歴史を見れば容易に察しがつこうというものである。
2020.08.27 16:08 | 固定リンク | 鑑定雑感
DCF法はアートな世界? Vol.8
2020.08.20
VOL.08 DCF法はアートかサイエンスか 
 前述したように、DCF法のプロセスの大半は恣意性の入る余地が大きく、また、依頼者と鑑定士の力関係が大きく作用するため、尚一層恣意性が拡大する傾向があるのは否定できない。

 私の尊敬する大阪のG先生はDCF法を評してこれはアートであると喝破したが、まさしくそのとおりと膝を打ったものである。

 赤字不動産を机上で黒字にしたり、利回りを操作して上げ下げ自在のDCF法による収益価格をどうやって検証したら良いのか、私には解らない。

 もっとも、検証の必要性がないのでこれらの評価が横行していると考える他はないのであるが。

 計算すれば価格は出てくるが、計算結果イコール評価とは言えまい。
 昨今はコンピュータの普及により計算上手な鑑定士が増えたが、評価というのは単なる計算とは異なると思っている。

 いずれにしても、データ万能主義になるとデータを握る者が評価を制することになる。
 特にDCF法に必要な各種データは、組織的・継続的に蓄積していくことが必要であるが、地価公示に依存した体制では、データの蓄積に無理があると考える。
 これらのデータは自分達で集め、分析するのではなく、外部の研究機関や調査会社に委託して行なう方が早道と考える。
 個人事務所では、データを収集する時間も費用も分析する時間もないのである。
 大手業者と個人零細は益々二極化し、格差の拡大に伴い大半の個人事務所は下請け・孫請け仕事に甘んじる他はなくなる。
 依頼者に力負けする業者は、依頼者の意向に添ってアートに邁進する他はなくなる。
 アートな評価書を見たいとは思わないが、アートな評価書が氾濫しつつあるのも事実のようである。

 しかしそれは人目につくことは少ないので、この流れを止めるのは難しい。
 結局はコップの中の嵐、アートな評価を社会が必要とし、それで皆がハッピーであればそう目くじらを立てる必要もないと腹をくくっていきたいが、これで良いのかと自問自答する日が続く。
 全て商売優先、依頼者が欲しいのは自分に都合の良い答え。

 ピッチャーから給料をもらっている審判が、厳しい判断をしてピッチャーを潰すことはできない。
 つまり、依頼者にお金をもらって仕事しているのに、依頼者の意向を無視することはできないということである。

 商売の基本はお客様第一主義であり、基本的には顧客満足度が全てである。

 公正・中立な判断が必要なら、依頼者から直接お金をもらってはいけないと思うが、どうであろうか。

 少なくとも他の商売では依頼者(消費者)に満足を与えることができなければ商売は成り立たない。

 したがって、現行の状況下では依頼者の満足を得なければ仕事はこないのであるから、アートなDCF法の世界は暫くの間続くものと考えざるを得ない。

(2008年5月 Evaluation no.29掲載)

2020.08.20 09:58 | 固定リンク | 鑑定雑感

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