恒産なくして恒心なし Vol.2
2020.04.02
VOL.02 規制緩和と職業倫理の相克
過剰な規制が経済の活性化を妨げ、高コスト体質になっているのは問題であるとして、規制改革本部は全ての面において規制緩和を行い、競争原理を導入し、合理化を進めようと提言し、そしてそれはかなりの部分で実現し、現在に至っている。
前述の耐震偽装問題もカネボウ粉飾決算問題も、このような流れの中で起るべくして起きたと言ったら言い過ぎであろうか。
世の中の仕事のほとんどは、お客様からお金を貰い、お客様の為に働いている。
それは専門職業家も同じである。
お客様にも色々な人がいて、無理難題をふっかけて来る人もいる。
物品販売や飲食業では、顧客第一主義を貫いていても非難されることはない。
しかし、専門職業家となると必ずしも顧客第一主義を守り通すことはできない。
特に、客観性・合理性等が求められる公認会計士・税理士・不動産鑑定士等は、顧客の要望全てに応えることはできない。
その点弁護士は、顧客第一主義を貫き易い。
つまり、依頼者に代理して法律知識を駆使し、依頼者の利益に適うように行動することが求められているからである。
だからと言って犯罪行為に手を貸す等と言うようなことはないのはもちろんである。
そうは言っても、明らかな重大犯罪でも必ず弁護士がつき、場合によっては被害者の感情を逆撫でするようなこともある。
それに対して公認会計士・税理士・不動産鑑定士等は、社会に対しての客観性・合理性を担保しなければならないという要請がある為、顧客の要望と客観性・合理性が相反するような場合やズレがあるような場合はその狭間で苦悩することになる。
つまり、これらの業務については客観性・合理性に絶対的基準がない為、グレーゾーンの対応に差が出てくるということである。
グレーという色は限りなく白に近いグレーもあれば、限りなく黒に近いグレーもある。
そこのところを見極めるのが専門職業家の腕の見せ所である。
お客様からお金を貰っている以上、限りなく黒に近いグレー、つまり社会的にはギリギリ許されるであろうと思われる危険ラインすれすれまでに近づかなければ仕事は来ないこともある。
誰が見ても安全ライン内での仕事であれば、別に高度の専門家に頼ることもない。
また、その程度の仕事であれば、高いお金を払ってまで仕事を依頼する人はいない。
客観性・合理性等を通じて社会的安定性等が強く求められる職業が市場競争にさらされるとすれば、目前の仕事に職業倫理は揺らがざるを得ない。
おカタいことを言えば、融通がきかない、柔軟に対応すれば、いい加減と叩かれる。
規制緩和による市場競争の激化の中で職業倫理を貫くのは容易なことではない。
古い話ではあるが、終戦直後の日本で配給制度を愚直に守った裁判官が餓死したという事実をどう考えれば良いのであろうか。
戦後の混乱期で価値観が混沌としていたとはいえ、配給制度を作った官僚やそれを取り締まった警察等の職員が餓死せず、また国民の多くも餓死しなかったということを考えると、複雑な気持ちになる。
過剰な規制が経済の活性化を妨げ、高コスト体質になっているのは問題であるとして、規制改革本部は全ての面において規制緩和を行い、競争原理を導入し、合理化を進めようと提言し、そしてそれはかなりの部分で実現し、現在に至っている。
前述の耐震偽装問題もカネボウ粉飾決算問題も、このような流れの中で起るべくして起きたと言ったら言い過ぎであろうか。
世の中の仕事のほとんどは、お客様からお金を貰い、お客様の為に働いている。
それは専門職業家も同じである。
お客様にも色々な人がいて、無理難題をふっかけて来る人もいる。
物品販売や飲食業では、顧客第一主義を貫いていても非難されることはない。
しかし、専門職業家となると必ずしも顧客第一主義を守り通すことはできない。
特に、客観性・合理性等が求められる公認会計士・税理士・不動産鑑定士等は、顧客の要望全てに応えることはできない。
その点弁護士は、顧客第一主義を貫き易い。
つまり、依頼者に代理して法律知識を駆使し、依頼者の利益に適うように行動することが求められているからである。
だからと言って犯罪行為に手を貸す等と言うようなことはないのはもちろんである。
そうは言っても、明らかな重大犯罪でも必ず弁護士がつき、場合によっては被害者の感情を逆撫でするようなこともある。
それに対して公認会計士・税理士・不動産鑑定士等は、社会に対しての客観性・合理性を担保しなければならないという要請がある為、顧客の要望と客観性・合理性が相反するような場合やズレがあるような場合はその狭間で苦悩することになる。
つまり、これらの業務については客観性・合理性に絶対的基準がない為、グレーゾーンの対応に差が出てくるということである。
グレーという色は限りなく白に近いグレーもあれば、限りなく黒に近いグレーもある。
そこのところを見極めるのが専門職業家の腕の見せ所である。
お客様からお金を貰っている以上、限りなく黒に近いグレー、つまり社会的にはギリギリ許されるであろうと思われる危険ラインすれすれまでに近づかなければ仕事は来ないこともある。
誰が見ても安全ライン内での仕事であれば、別に高度の専門家に頼ることもない。
また、その程度の仕事であれば、高いお金を払ってまで仕事を依頼する人はいない。
客観性・合理性等を通じて社会的安定性等が強く求められる職業が市場競争にさらされるとすれば、目前の仕事に職業倫理は揺らがざるを得ない。
おカタいことを言えば、融通がきかない、柔軟に対応すれば、いい加減と叩かれる。
規制緩和による市場競争の激化の中で職業倫理を貫くのは容易なことではない。
古い話ではあるが、終戦直後の日本で配給制度を愚直に守った裁判官が餓死したという事実をどう考えれば良いのであろうか。
戦後の混乱期で価値観が混沌としていたとはいえ、配給制度を作った官僚やそれを取り締まった警察等の職員が餓死せず、また国民の多くも餓死しなかったということを考えると、複雑な気持ちになる。
恒産なくして恒心なし Vol.1
2020.03.26
VOL.01 耐震偽装問題とカネボウ粉飾決算問題
最近はやたらと事件が多いので、姉歯問題もカネボウ粉飾決算問題も遠い昔の事件のような気がする。
世間はうつろいやすく、特にマスコミは本質的な議論なく次から次へとニュース性のある事件を追いかけ、国民もいつしかそれに慣らされ、あまり疑問も持たず深く考えようともしない。
クォリティペーパーと称される新聞社の記事がFF化(ゴシップ週刊誌)し、物事の本質を深く掘り下げ、あるいは国民に考えさせるような記事が少なく、インパクトのある事件ばかり追いかけているのは実に嘆かわしい。
個人的にはそんな記事は速報性のあるTVやラジオに任せれば良いと思うのだが。
前置きが長くなったが、耐震偽装もカネボウ粉飾決算問題も、その本質は専門家責任のあり方である。
前者は一級建築士、後者は公認会計士が関与し、いずれも逮捕・起訴され有罪となった。
個人的には気の毒と思うが、一般論としてはトンデモない悪いヤツと受け止められている。
確かに、表面的には専門家に課せられた高度の注意義務や職業倫理に反するのは明白であり、非難されても致し方ない。
しかし、そこに至る過程をみると、専門家と称する人種の大半がこのような事件に絶対に巻き込まれないという保証はないと考えざるを得ない。
専門職業家と言えども規制緩和の例外ではなく、資格者の大量増員によって仕事の受注をめぐる環境は厳しく、ご多分に漏れず競争は激化している。
最難関と言われる司法界も、極端な規制緩和から、開業は年々厳しくなっている。
灰聞するところによれば、司法試験合格者のうち優秀な人は金融界等の実業界に流れているとのことである。
もしそうだとすれば、由々しき問題である。
アメリカのように弁護士が増え過ぎると、日本でも尊敬の対象ではなく厄介者の対象となるような日が来るのではないかと心配される。
アメリカでは交通事故をおこしたら救急車より先に弁護士が来るという笑い話がある位である。
ところで、実際に聞いた話であるが、ある人が金銭問題のトラブルから弁護士を紹介してもらったが、その弁護士の生活が苦しく、結局自己破産・廃業そして生活保護生活に入った為、相談案件を投げ出されてしまったとのことであった。
仕方ないのでその弁護士に頼んで他の弁護士を紹介して貰ったが、その弁護士も和解調書を偽造して逮捕され、刑務所に入ってしまいやむなく別の弁護士に依頼したがまたまた運悪くその弁護士も依頼者の着手金の流用等の問題から自殺してしまったとのことであった。
地方のそう多くはない弁護士業界でさえこのような事例があるのであるから、これから今までの何倍もの弁護士が増えたら一体どのようなことが起きるのやらと不安の種は尽きない。
現在のところ一部の不心得者の出来事と対岸の火事を決め込んでいるが、果たしてそれで良いのであろうか。
最近はやたらと事件が多いので、姉歯問題もカネボウ粉飾決算問題も遠い昔の事件のような気がする。
世間はうつろいやすく、特にマスコミは本質的な議論なく次から次へとニュース性のある事件を追いかけ、国民もいつしかそれに慣らされ、あまり疑問も持たず深く考えようともしない。
クォリティペーパーと称される新聞社の記事がFF化(ゴシップ週刊誌)し、物事の本質を深く掘り下げ、あるいは国民に考えさせるような記事が少なく、インパクトのある事件ばかり追いかけているのは実に嘆かわしい。
個人的にはそんな記事は速報性のあるTVやラジオに任せれば良いと思うのだが。
前置きが長くなったが、耐震偽装もカネボウ粉飾決算問題も、その本質は専門家責任のあり方である。
前者は一級建築士、後者は公認会計士が関与し、いずれも逮捕・起訴され有罪となった。
個人的には気の毒と思うが、一般論としてはトンデモない悪いヤツと受け止められている。
確かに、表面的には専門家に課せられた高度の注意義務や職業倫理に反するのは明白であり、非難されても致し方ない。
しかし、そこに至る過程をみると、専門家と称する人種の大半がこのような事件に絶対に巻き込まれないという保証はないと考えざるを得ない。
専門職業家と言えども規制緩和の例外ではなく、資格者の大量増員によって仕事の受注をめぐる環境は厳しく、ご多分に漏れず競争は激化している。
最難関と言われる司法界も、極端な規制緩和から、開業は年々厳しくなっている。
灰聞するところによれば、司法試験合格者のうち優秀な人は金融界等の実業界に流れているとのことである。
もしそうだとすれば、由々しき問題である。
アメリカのように弁護士が増え過ぎると、日本でも尊敬の対象ではなく厄介者の対象となるような日が来るのではないかと心配される。
アメリカでは交通事故をおこしたら救急車より先に弁護士が来るという笑い話がある位である。
ところで、実際に聞いた話であるが、ある人が金銭問題のトラブルから弁護士を紹介してもらったが、その弁護士の生活が苦しく、結局自己破産・廃業そして生活保護生活に入った為、相談案件を投げ出されてしまったとのことであった。
仕方ないのでその弁護士に頼んで他の弁護士を紹介して貰ったが、その弁護士も和解調書を偽造して逮捕され、刑務所に入ってしまいやむなく別の弁護士に依頼したがまたまた運悪くその弁護士も依頼者の着手金の流用等の問題から自殺してしまったとのことであった。
地方のそう多くはない弁護士業界でさえこのような事例があるのであるから、これから今までの何倍もの弁護士が増えたら一体どのようなことが起きるのやらと不安の種は尽きない。
現在のところ一部の不心得者の出来事と対岸の火事を決め込んでいるが、果たしてそれで良いのであろうか。
鑑定評価は100%が仮説? Vol.4
2020.03.18
VOL.04 鑑定評価と仮説
個人的には、鑑定評価という行為は芸術競技のように測定するモノサシがないので、数学的に証明できるような時代は、少なくとも21世紀前半には来ないと思っている。
したがって、当面不動産鑑定士の大量失業時代を見ることはないものと期待しているが、だからといってこのままで良いとも考えられない。
ところで、科学的と言われている物理・化学の世界でも、その99.9%が仮説であるという本には些か驚いた。
ここでこの本の詳細な紹介はできないが、概要は次のとおりである。
本の題名は『99.9%は仮説』(竹内薫著・光文社新書)、副題として「思い込みで判断しないための考え方」としている。
主要な目次をみると、第1章~世界は仮説でできている、第2章~自分の頭の中の仮説に気づく、第3章~仮説は180度くつがえる等である。
そして、プロローグに、飛行機はなぜ飛ぶのか?実はよくわかっていないとし、これに対する疑問は最先端の科学(航空力学)でも完全には説明できない「難問」であるとしている。
鉄のかたまりが飛ぶ仕組みはとうの昔に解決済みと思っていたが、この本によると現在のアメリカではこれまでの飛行機が飛ぶ仕組みの説明はデタラメと批判され、真面目に論争されているらしい。
ひるがえって、鑑定評価の世界をみると、仮説のオンパレードとしか思えない。
例えば、取引事例比較法適用の取引事例について検討してみる。
取引事例の収集は、現在アンケート調査が主流であるが、以前は聞き込み取材が中心であった。
筆者の乏しい経験であるから、取引のどこまでが真実かわからないが、ある取引で買主に取材に行った時である。
雑談を交えながら取引の状況をたずねると、どの価格が知りたいのかと逆に聞かれた。
それはどういうことですかと聞くと、取引する場合、本当の売買契約書の他に、融資を受ける為に実際の取引価格より高い契約書(これは買主の要請)や逆に低い価格の契約書(これは税金の申告を誤魔化すため売主が要請)を作ることがあるとのことであった。
個人的には本当の価格が知りたかったが、表に出るとまずいということで、結局税務署用の契約価格を教えてもらったが、不動産取引の複雑な事情を垣間見たトラウマは、現在も引きずっている。
アンケート調査の限界は、相手方の顔が見えず、取材により取引の事情にさぐりを入れるということができないため、回答があってもそれが真実かどうか確認できないことである。
また、時点修正率についても、事前にどの位変動したのか解るのであれば評価不用ということになる。
更に、価格形成要因にしてもそれが本当に価格形成の要因なのかどうか解らないし、その実証的研究を踏まえた実務指針もない。
身近な例を挙げると、角地の加算率や方位の格差率でさえ、何故そうなのかの研究もない。
角地加算率を仮に5%と判定しても、それが4%や6%にならないという証明はできない。
取引事例比較法適用のプロセスをみると、取引事例の価格そのものから事情補正・時点修正・標準化補正・地域要因の比較・個別的要因の比較全てにわたって仮説の域を出ていないことになる。
つまり、もっと具体的に言えば、取引価格が真実であると仮定し、時点修正率は年間○○%と仮定し、標準化補正率○○%と仮定し、地域要因の格差率が○○%と仮定し、個別的要因の格差率が○○%と仮定すると○○であると仮定しているにすぎない。
モノサシがない以上、要因の判定は測定ではなく、評価そのものと言わざるを得ないが、そのプロセスで使用している数字は、そのほとんどが評価者の仮説に基づく数字である。
そして仮説のかたまりである評価額を第三者が証明・追試することはできない。
収益還元法や原価法適用の際の各数値も、仮説の域を出ないものが多いのは、取引事例比較法と同様である。
科学的といわれている分野でさえ99.9%が仮説にすぎないということであれば、鑑定評価は100%が仮説と言わざるを得ない。
客観的という字句をいくら並べても、自己満足の域を出ず、客観性を装うだけである。
また、第三者がこれに対していくら文句を言っても、せいぜい"らしさ"を競うだけで、相互に立証・反証することはできない。
我々は、仮説世界の甘い砂上の楼閣に巣喰う蟻なのか?もう一度評価の本質に戻って考え直すことが必要なのかもしれない。
個人的には、鑑定評価という行為は芸術競技のように測定するモノサシがないので、数学的に証明できるような時代は、少なくとも21世紀前半には来ないと思っている。
したがって、当面不動産鑑定士の大量失業時代を見ることはないものと期待しているが、だからといってこのままで良いとも考えられない。
ところで、科学的と言われている物理・化学の世界でも、その99.9%が仮説であるという本には些か驚いた。
ここでこの本の詳細な紹介はできないが、概要は次のとおりである。
本の題名は『99.9%は仮説』(竹内薫著・光文社新書)、副題として「思い込みで判断しないための考え方」としている。
主要な目次をみると、第1章~世界は仮説でできている、第2章~自分の頭の中の仮説に気づく、第3章~仮説は180度くつがえる等である。
そして、プロローグに、飛行機はなぜ飛ぶのか?実はよくわかっていないとし、これに対する疑問は最先端の科学(航空力学)でも完全には説明できない「難問」であるとしている。
鉄のかたまりが飛ぶ仕組みはとうの昔に解決済みと思っていたが、この本によると現在のアメリカではこれまでの飛行機が飛ぶ仕組みの説明はデタラメと批判され、真面目に論争されているらしい。
ひるがえって、鑑定評価の世界をみると、仮説のオンパレードとしか思えない。
例えば、取引事例比較法適用の取引事例について検討してみる。
取引事例の収集は、現在アンケート調査が主流であるが、以前は聞き込み取材が中心であった。
筆者の乏しい経験であるから、取引のどこまでが真実かわからないが、ある取引で買主に取材に行った時である。
雑談を交えながら取引の状況をたずねると、どの価格が知りたいのかと逆に聞かれた。
それはどういうことですかと聞くと、取引する場合、本当の売買契約書の他に、融資を受ける為に実際の取引価格より高い契約書(これは買主の要請)や逆に低い価格の契約書(これは税金の申告を誤魔化すため売主が要請)を作ることがあるとのことであった。
個人的には本当の価格が知りたかったが、表に出るとまずいということで、結局税務署用の契約価格を教えてもらったが、不動産取引の複雑な事情を垣間見たトラウマは、現在も引きずっている。
アンケート調査の限界は、相手方の顔が見えず、取材により取引の事情にさぐりを入れるということができないため、回答があってもそれが真実かどうか確認できないことである。
また、時点修正率についても、事前にどの位変動したのか解るのであれば評価不用ということになる。
更に、価格形成要因にしてもそれが本当に価格形成の要因なのかどうか解らないし、その実証的研究を踏まえた実務指針もない。
身近な例を挙げると、角地の加算率や方位の格差率でさえ、何故そうなのかの研究もない。
角地加算率を仮に5%と判定しても、それが4%や6%にならないという証明はできない。
取引事例比較法適用のプロセスをみると、取引事例の価格そのものから事情補正・時点修正・標準化補正・地域要因の比較・個別的要因の比較全てにわたって仮説の域を出ていないことになる。
つまり、もっと具体的に言えば、取引価格が真実であると仮定し、時点修正率は年間○○%と仮定し、標準化補正率○○%と仮定し、地域要因の格差率が○○%と仮定し、個別的要因の格差率が○○%と仮定すると○○であると仮定しているにすぎない。
モノサシがない以上、要因の判定は測定ではなく、評価そのものと言わざるを得ないが、そのプロセスで使用している数字は、そのほとんどが評価者の仮説に基づく数字である。
そして仮説のかたまりである評価額を第三者が証明・追試することはできない。
収益還元法や原価法適用の際の各数値も、仮説の域を出ないものが多いのは、取引事例比較法と同様である。
科学的といわれている分野でさえ99.9%が仮説にすぎないということであれば、鑑定評価は100%が仮説と言わざるを得ない。
客観的という字句をいくら並べても、自己満足の域を出ず、客観性を装うだけである。
また、第三者がこれに対していくら文句を言っても、せいぜい"らしさ"を競うだけで、相互に立証・反証することはできない。
我々は、仮説世界の甘い砂上の楼閣に巣喰う蟻なのか?もう一度評価の本質に戻って考え直すことが必要なのかもしれない。
(2007年5月 Evaluation no.25掲載)