愚か者と軋み合わない世の中 Vol.4
2020.09.17
VOL.04 社会不安と社会正義の実現 

 食品偽装・耐震偽装等、金儲けのためならば倫理観は不要とばかり、偽装大流行の時代となった。
 市場原理主義による負の遺産かもしれない。

 市場原理主義の行き着くところは、レツセフエール(自由放任)と思われるが、欲望の固まりである人間が皆でお行儀良く競争するとは思えない。
 古今東西、歴史が教えるとおり、ルールを厳格化しても楽をして儲けたいと考える人間は後を絶たない。
 市場原理主義で行くのなら、その前に人間の高度な倫理教育と厳格なルールが必要と考える。

 しかし、現在の状況下では望むべくもない。

 できることは、ルールの厳格化だけであるが、ルールを厳格化すると違反者が増加する。
 違反者を少なくするためには厳罰化が必要となる。

 昨今のように、事件報道が過熱するとルールの厳格化が声高に叫ばれ、社会正義実現のために厳罰化が求められる。

 しかし、人間は完全無欠ではない。

 自分の責任を棚に上げ、全て相手が悪いと非難しても解決しない。
 
 死刑制度廃止運動がある中での、一般市民による殺人事件の多発は止まらない。

 死刑制度が犯罪の抑止力になっていないとは、一体どういうことなのであろうか。

 死刑制度があっても無くても殺人事件が無くならないということは、厳罰化しても犯罪は無くならないということではないだろうか。

 とすれば、今必要なのはルールの厳格化や厳罰化ではなく、犯罪を誘発させる社会制度そのもののあり方を検討することではないかと考える。

 たとえが悪いが、害虫が発生するのは腐敗物質があるからである。
 殺虫剤を用意しても、害虫が発生する環境を変えなければ殺虫剤はいくらあっても足りないことになる。

 つまり、厳罰化でたとえ社会正義が一時的に実現したとしても、社会制度の根本を見直さない限り、次から次へと犯罪が起こり、収拾がつかないことになる。

 社会制度に対する不満は多様であるが、基本的には希望がないか、希望が見えないことによるものと考える。

 犯罪抑止を名目に個人情報の国家管理が進むと、戦前のように市民生活がコントロールされ、民主主義とは縁のない生活を強いられる可能性があるが、安全と安心のためにそれも止むなしということになるのだろうか。

2020.09.17 11:00 | 固定リンク | 鑑定雑感

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