取引事例比較法を考える Vol.5
2020.11.12
VOL.05 事情補正と要因格差
事情補正の定義は理解できる。
しかし、これを数字に置き換えるのは容易ではない。
何故なら、正常な取引であるということが解るということは、正常な価格が解るという事になる。
つまり、我々は不断に三方式の通用を待つまでもなく、その地域のあるべき価格が推定できるが故に事情補正ができるということになる。
価格形成要因が的確に定性的にも定量的にも判断できるとすれば、地域のあるべき価格と符合しない部分は全て事情補正で処理されることになる。
つまり、価格形成要因を評価プロセスで絶えず検証することを要求される取引事例比較法においては、あるべき価格水準がわからないと適用できないことになる。
定性的理解ができても結論が見えないとデータの取捨選択すらできない。
ましてバラツキのあるデータを採用すると、得られた試算値もそれを反映してバラツクことになる。
試算値のバラツキが少ないのはあるべき結論が解っているからではないか。
つまり、想定ないし予想されるあるべき結論に見合うデータを採用するからこそ、各データから得られる結果は見事に結論に見合う形に収斂する(させているというべきか)のではないだろうか。
結論から仮説を立てて演繹的に推論しているだけで、例えて言えばウナギの蒲焼きを作ることに似ているのではないか。
ウナギの蒲焼きを作るときはます、ウナギの頭を千枚通しで固定し(結論)、その上で尻尾(データ)に向かって腹ないし背中から包丁を入れてさきおろす。
この反対に、もしウナギの尻尾を固定するとウナギは逃げようとして身をかわす為、うまくさばくことはできない。
つまり、結論にうまく到達できない。
取引事例比較法適用における比準作業はまさにウナギの蒲焼きを作る作業そのものではないか。
上手にできるかどうかはウナギ(データ)と料理人(鑑定士)次第ということになる。
我々は各料理人たるべきなのか、科学者(類似)たるべきなのか、はたまた料理の鉄人たる科学者であるべきなのか。
あれこれ考えるといつまでたっても寝不足の日々は解消されそうにもない。
事情補正の定義は理解できる。
しかし、これを数字に置き換えるのは容易ではない。
何故なら、正常な取引であるということが解るということは、正常な価格が解るという事になる。
つまり、我々は不断に三方式の通用を待つまでもなく、その地域のあるべき価格が推定できるが故に事情補正ができるということになる。
価格形成要因が的確に定性的にも定量的にも判断できるとすれば、地域のあるべき価格と符合しない部分は全て事情補正で処理されることになる。
つまり、価格形成要因を評価プロセスで絶えず検証することを要求される取引事例比較法においては、あるべき価格水準がわからないと適用できないことになる。
定性的理解ができても結論が見えないとデータの取捨選択すらできない。
ましてバラツキのあるデータを採用すると、得られた試算値もそれを反映してバラツクことになる。
試算値のバラツキが少ないのはあるべき結論が解っているからではないか。
つまり、想定ないし予想されるあるべき結論に見合うデータを採用するからこそ、各データから得られる結果は見事に結論に見合う形に収斂する(させているというべきか)のではないだろうか。
結論から仮説を立てて演繹的に推論しているだけで、例えて言えばウナギの蒲焼きを作ることに似ているのではないか。
ウナギの蒲焼きを作るときはます、ウナギの頭を千枚通しで固定し(結論)、その上で尻尾(データ)に向かって腹ないし背中から包丁を入れてさきおろす。
この反対に、もしウナギの尻尾を固定するとウナギは逃げようとして身をかわす為、うまくさばくことはできない。
つまり、結論にうまく到達できない。
取引事例比較法適用における比準作業はまさにウナギの蒲焼きを作る作業そのものではないか。
上手にできるかどうかはウナギ(データ)と料理人(鑑定士)次第ということになる。
我々は各料理人たるべきなのか、科学者(類似)たるべきなのか、はたまた料理の鉄人たる科学者であるべきなのか。
あれこれ考えるといつまでたっても寝不足の日々は解消されそうにもない。
(2001年2月 Evaluation no.2掲載/「取引事例比較法とウナギの蒲焼き」)
取引事例比較法を考える Vol.4
2020.10.29
VOL.04 変動率と要因格差
地価の下落幅は、一頃に比べると随分と小さくなった。
一時期は、20%・30%の下落率は珍しくはなかった。
この時期の評価をみると何時も考えさせられる。
変動率をマイナス20数パーセントと判定しつつ地域格差を3%とか判断していることに奇妙さを感じるからである。
数学的・論理的に考えるなら、地域格差率が3%しかないということは時点修正だけで価格のほとんどが決まり、あえて地域格差の判定をしなければならない程の数学的意味はないと思えるからである。
取引データは何がホントか解らないものが多く、試算値の相互のバラツキは相当大きなものになることがある。
予測される価格との開差は地域の格差なのか、取引事情によるものなのか、時点修正に抱合されるものなのか実は解ってはいない。
ということは、価格形成要因をいくら分解したところで価格は出てこないということになる。
ちなみに地価上昇の原因ないし説明手段として、かつてはインフラ整備や新駅の開設等があげられていた。
しかし、昨今の状況を見ると道路・下水・地下鉄等の社会的基盤整備が進展しつつあるにもかかわらず地価は下落を続けており、かつての説明と矛盾する。
つまり、インフラ整備と価格との間には何の相関関係もないということになりはしないか。
かつての上昇要因は一体何だったのか。
価格形成要因としてのインフラ整備は本当に価格形成要因なのであろうか。
最近は別の言い訳を探している。
地価の下落幅は、一頃に比べると随分と小さくなった。
一時期は、20%・30%の下落率は珍しくはなかった。
この時期の評価をみると何時も考えさせられる。
変動率をマイナス20数パーセントと判定しつつ地域格差を3%とか判断していることに奇妙さを感じるからである。
数学的・論理的に考えるなら、地域格差率が3%しかないということは時点修正だけで価格のほとんどが決まり、あえて地域格差の判定をしなければならない程の数学的意味はないと思えるからである。
取引データは何がホントか解らないものが多く、試算値の相互のバラツキは相当大きなものになることがある。
予測される価格との開差は地域の格差なのか、取引事情によるものなのか、時点修正に抱合されるものなのか実は解ってはいない。
ということは、価格形成要因をいくら分解したところで価格は出てこないということになる。
ちなみに地価上昇の原因ないし説明手段として、かつてはインフラ整備や新駅の開設等があげられていた。
しかし、昨今の状況を見ると道路・下水・地下鉄等の社会的基盤整備が進展しつつあるにもかかわらず地価は下落を続けており、かつての説明と矛盾する。
つまり、インフラ整備と価格との間には何の相関関係もないということになりはしないか。
かつての上昇要因は一体何だったのか。
価格形成要因としてのインフラ整備は本当に価格形成要因なのであろうか。
最近は別の言い訳を探している。
取引事例比較法を考える Vol.3
2020.10.23
VOL.03 誤差について考える
公共測量には公共測量作業規定があり、こと細かく作業内容が決められており、測量精度によって誤差の取り扱いにも差を設け、その処理の方法について規定している。
ところで、鑑定評価には誤差の入り込む余地はないのであろうか。
鑑定評価作業は判決のように定性的な判断の積み重ねというより、どちらかというと定量的作業の結果導き出された結果に対して定性的観点から判断を加える形となっている。
したがって、評価作業の途中は数字の処理が大半である。
道路条件や接近条件では幅員・距離に測定を伴う作業があり、必然的に測定誤差が入ることになる。
環境条件については、定性的には理解できても、定量的には何も解らないから、誤差概念が成立するかどうか解らない。
また、計算過程では有効数字の取り扱いにより結果が異なる。
評価作業の数字を処理する過程で誤差が入り込む危険性は高い。
にもかかわらず、我々がこれらの比準作業なり収益計算上、誤差について神経質になっていないのは、結果に合わせて作業しいるからに他ならないのではないか。
評価作業のプロセスは結果を形式的に補強しているだけで、化学実験のように誰も結果についての追試はできない。
数学的に考えると、評価作業は矛盾に満ち満ちている。
結果を予測して結論を出している以上、誤差の問題も仮説の実証という作業も意味を持たない。
故に、誰も問題にしない。
鑑定ムラの論理かはたまた独善か。
鑑定に仮説の実証は必要か、誤差論は必要か。
乏しい知識ではどうにもならない。
どうにもならないが鑑定をしなければメシが食えない。
一体私は何なのか?眠れぬ日々が続きそうだ。
公共測量には公共測量作業規定があり、こと細かく作業内容が決められており、測量精度によって誤差の取り扱いにも差を設け、その処理の方法について規定している。
ところで、鑑定評価には誤差の入り込む余地はないのであろうか。
鑑定評価作業は判決のように定性的な判断の積み重ねというより、どちらかというと定量的作業の結果導き出された結果に対して定性的観点から判断を加える形となっている。
したがって、評価作業の途中は数字の処理が大半である。
道路条件や接近条件では幅員・距離に測定を伴う作業があり、必然的に測定誤差が入ることになる。
環境条件については、定性的には理解できても、定量的には何も解らないから、誤差概念が成立するかどうか解らない。
また、計算過程では有効数字の取り扱いにより結果が異なる。
評価作業の数字を処理する過程で誤差が入り込む危険性は高い。
にもかかわらず、我々がこれらの比準作業なり収益計算上、誤差について神経質になっていないのは、結果に合わせて作業しいるからに他ならないのではないか。
評価作業のプロセスは結果を形式的に補強しているだけで、化学実験のように誰も結果についての追試はできない。
数学的に考えると、評価作業は矛盾に満ち満ちている。
結果を予測して結論を出している以上、誤差の問題も仮説の実証という作業も意味を持たない。
故に、誰も問題にしない。
鑑定ムラの論理かはたまた独善か。
鑑定に仮説の実証は必要か、誤差論は必要か。
乏しい知識ではどうにもならない。
どうにもならないが鑑定をしなければメシが食えない。
一体私は何なのか?眠れぬ日々が続きそうだ。