フラクタル現象とエレベーター相場 Vol.2
2020.11.26
VOL.02 エスカレーター相場とエレベーター相場
これまでの地価公示で、価格の先読みに大きな不安を感じなかったのは、地価水準が比較的連続的であったことと、バブル崩壊後、急激な地価下落に見舞われたが、取引はそれなりにあったことによるものと考えられる。
つまり、不動産業界は大変であったが、他の業種は比較的安泰で、実体経済全てが極端に悪くなかったからではないかと思われる。
それ故に、地価下落が大きくてもデータがあるため、ある程度自信を持って価格を決めることができたような気がするのである。
言葉を替えれば、これまでの地価相場はエスカレーター相場であり、昇りか下りかの別はあるけれども連続的であったため、先読みが出来ることになり、大きな不安はなかったというのが実感である。
しかし、不動産の流動化を促進するためにアメリカで流行した不動産の証券化が日本でも本格的に始まったことにより、地価水準の動きがやや不連続になったような気がする。
つまり、証券化するということは、株式市場の動きに限りなく近づくということではないかと思うのである。
個人的には、株式市場が企業の業績に関係なく上下を繰り返していることから、証券化された不動産も稼働実績に関係なく世界経済の中に呑み込まれ、地域経済とは無縁の世界の動きに翻弄されるのではないかと危惧していたものである。
講演を頼まれることも多いが、その席では証券化不動産の危うさについて話をしたが、それが現実となった。
実物経済の不動産は地域密着であり、購入者は良くも悪くも地域と密着しているため、逃げられないのである。
外国の不動産マーケットがどうあろうと、とりあえず地元とは直接的には関係しないため、不動産の動きはそれ程急激なものにはならなかったのである。
地域経済と関係なく相場が動き始めたのは、前回のバブル時である。
東京の地価水準から見れば地方都市の土地はタダみたいなものである。
地方都市を買占めることができると思うのも無理はない。
しかし、地元から見れば、地域経済が良くなった訳でもないのに何故地価が上がるのか不思議で仕方がなかった。
地価は地域経済の鏡であり、地域経済と関係なく地価が上下動することはあり得ないと思うのである。
ところが、そのあり得ないことが起きたのである。
地元の事情に関係なく地価水準が動き始めると、先読みは難しくなる。
つまり、東京の市場や外国の市場の動きにも注意する必要が出てくるからである。
それでもバブルの頃は東京市場と地方では1年位のタイムラグがあったので予測は比較的楽であったと記憶している。
しかし、昨今は長くて半年で短ければ3ヶ月位のタイムラグで、しかも世界のマーケットとのタイムラグも縮小しているため、不動産市場の先読みはより困難になっている。
これまでのようにトレンドが読めるエスカレーター相場から、瞬時に上下するエレベーター相場へと移行しつつあるため、地価公示のように1ヶ月位前から見込み価格を検討することはかなり困難な作業とならざるを得ない。
それでも何とか評価作業を終えたが、3月時点で振り返ってみた時にそれで良かったかどうかは神のみぞ知ることと思う他はない。
これまでの地価公示で、価格の先読みに大きな不安を感じなかったのは、地価水準が比較的連続的であったことと、バブル崩壊後、急激な地価下落に見舞われたが、取引はそれなりにあったことによるものと考えられる。
つまり、不動産業界は大変であったが、他の業種は比較的安泰で、実体経済全てが極端に悪くなかったからではないかと思われる。
それ故に、地価下落が大きくてもデータがあるため、ある程度自信を持って価格を決めることができたような気がするのである。
言葉を替えれば、これまでの地価相場はエスカレーター相場であり、昇りか下りかの別はあるけれども連続的であったため、先読みが出来ることになり、大きな不安はなかったというのが実感である。
しかし、不動産の流動化を促進するためにアメリカで流行した不動産の証券化が日本でも本格的に始まったことにより、地価水準の動きがやや不連続になったような気がする。
つまり、証券化するということは、株式市場の動きに限りなく近づくということではないかと思うのである。
個人的には、株式市場が企業の業績に関係なく上下を繰り返していることから、証券化された不動産も稼働実績に関係なく世界経済の中に呑み込まれ、地域経済とは無縁の世界の動きに翻弄されるのではないかと危惧していたものである。
講演を頼まれることも多いが、その席では証券化不動産の危うさについて話をしたが、それが現実となった。
実物経済の不動産は地域密着であり、購入者は良くも悪くも地域と密着しているため、逃げられないのである。
外国の不動産マーケットがどうあろうと、とりあえず地元とは直接的には関係しないため、不動産の動きはそれ程急激なものにはならなかったのである。
地域経済と関係なく相場が動き始めたのは、前回のバブル時である。
東京の地価水準から見れば地方都市の土地はタダみたいなものである。
地方都市を買占めることができると思うのも無理はない。
しかし、地元から見れば、地域経済が良くなった訳でもないのに何故地価が上がるのか不思議で仕方がなかった。
地価は地域経済の鏡であり、地域経済と関係なく地価が上下動することはあり得ないと思うのである。
ところが、そのあり得ないことが起きたのである。
地元の事情に関係なく地価水準が動き始めると、先読みは難しくなる。
つまり、東京の市場や外国の市場の動きにも注意する必要が出てくるからである。
それでもバブルの頃は東京市場と地方では1年位のタイムラグがあったので予測は比較的楽であったと記憶している。
しかし、昨今は長くて半年で短ければ3ヶ月位のタイムラグで、しかも世界のマーケットとのタイムラグも縮小しているため、不動産市場の先読みはより困難になっている。
これまでのようにトレンドが読めるエスカレーター相場から、瞬時に上下するエレベーター相場へと移行しつつあるため、地価公示のように1ヶ月位前から見込み価格を検討することはかなり困難な作業とならざるを得ない。
それでも何とか評価作業を終えたが、3月時点で振り返ってみた時にそれで良かったかどうかは神のみぞ知ることと思う他はない。
フラクタル現象とエレベーター相場 Vol.1
2020.11.19
VOL.01 リーマンショックと不動産市場
平成21年地価公示もなんとか完了した。
筆者も地価公示を担当して20数年になるが、今回位地価水準の把握に苦労したことはない。
サブプライムローン問題の表面化によると思われる地価水準下落の予感は、正直言って平成19年春頃から持っていた。
平成20年地価公示は前半の過熱相場の余熱があったせいか、下落を主張する鑑定士はいなかったような気がしている。
個人的には、平成20年地価公示にその動向を少しでも反映できればと思っていたが、余熱のため都市部では総じて上昇となった。
平成20年3月の地価公示の発表時には、不動産市況を反映していないのではないかというマスコミの論調もあったが、特に地価公示が問題と騒がれることもなく恒例の行事は終わった。
平成20年7月の地価調査時点では、流石に上昇はないだろうということで大半の都市部ではゼロか若干のマイナスということで落ち着いたというのが実感である。
しかし、不動産市場では下記の大型倒産が相次いだ。
(東京商工リサーチ調べ)
そしてこれらの大型倒産が引き金となって、更に川下の中小不動産業が倒産するものと思われる。
他方、実体経済にも大きな影響が出ていることから、不動産市場の不況はこれからが本番を迎えることになるものと思われる。
事実、リーマンショック以降、銀行の不動産融資に対する姿勢は厳しく、買いたい人がいても融資がつかないため、取引件数は激減している。
売り希望・買い希望の交錯する中で取引が成立しないため、いわゆる気配値だけは確実に、しかも大幅に下落しているが、データとして出てこないため、これらの事情を平成21年地価公示にどう反映させるかが課題であった。
しかし、データが揃わないのでどうしても及び腰にならざるを得なかったのも事実である。
結果として、公示価格は実体経済を反映していないと怒られそうであるが、気配値だけで価格を決める度胸もないというのが偽らざる本音である。
3月の地価公示発表時に、不動産市況がどうなっているのか予想だに出来ないが、あまり大きな変化がないことを望みたいものである。
平成21年地価公示もなんとか完了した。
筆者も地価公示を担当して20数年になるが、今回位地価水準の把握に苦労したことはない。
サブプライムローン問題の表面化によると思われる地価水準下落の予感は、正直言って平成19年春頃から持っていた。
平成20年地価公示は前半の過熱相場の余熱があったせいか、下落を主張する鑑定士はいなかったような気がしている。
個人的には、平成20年地価公示にその動向を少しでも反映できればと思っていたが、余熱のため都市部では総じて上昇となった。
平成20年3月の地価公示の発表時には、不動産市況を反映していないのではないかというマスコミの論調もあったが、特に地価公示が問題と騒がれることもなく恒例の行事は終わった。
平成20年7月の地価調査時点では、流石に上昇はないだろうということで大半の都市部ではゼロか若干のマイナスということで落ち着いたというのが実感である。
しかし、不動産市場では下記の大型倒産が相次いだ。
企業名 | 総負債額 | 備考 | |
アーバンコーポレーション | 2,558 | H20.8 | 民事再生 |
ケーアール不動産 | 1,677 | H20.4 | 特別精算 |
(株)モリモト | 1,615 | H20.11 | 民事再生 |
六本木開発 | 1,340 | H20.11 | 破産 |
ゼファー | 949 | H20.7 | 民事再生 |
協同興産 | 753 | H20.9 | 破産 |
セボン(株) | 621 | H20.8 | 民事再生 |
スルガコーポレーション | 620 | H20.6 | 民事再生 |
ダイナシティ | 520 | H20.10 | 民事再生 |
ノエル | 414 | H20.10 | 破産 |
創建ホームズ | 339 | H20.8 | 民事再生 |
近藤産業 | 322 | H20.5 | 破産 |
合計(億円) | 11,728 | - |
(東京商工リサーチ調べ)
そしてこれらの大型倒産が引き金となって、更に川下の中小不動産業が倒産するものと思われる。
他方、実体経済にも大きな影響が出ていることから、不動産市場の不況はこれからが本番を迎えることになるものと思われる。
事実、リーマンショック以降、銀行の不動産融資に対する姿勢は厳しく、買いたい人がいても融資がつかないため、取引件数は激減している。
売り希望・買い希望の交錯する中で取引が成立しないため、いわゆる気配値だけは確実に、しかも大幅に下落しているが、データとして出てこないため、これらの事情を平成21年地価公示にどう反映させるかが課題であった。
しかし、データが揃わないのでどうしても及び腰にならざるを得なかったのも事実である。
結果として、公示価格は実体経済を反映していないと怒られそうであるが、気配値だけで価格を決める度胸もないというのが偽らざる本音である。
3月の地価公示発表時に、不動産市況がどうなっているのか予想だに出来ないが、あまり大きな変化がないことを望みたいものである。
取引事例比較法を考える Vol.5
2020.11.12
VOL.05 事情補正と要因格差
事情補正の定義は理解できる。
しかし、これを数字に置き換えるのは容易ではない。
何故なら、正常な取引であるということが解るということは、正常な価格が解るという事になる。
つまり、我々は不断に三方式の通用を待つまでもなく、その地域のあるべき価格が推定できるが故に事情補正ができるということになる。
価格形成要因が的確に定性的にも定量的にも判断できるとすれば、地域のあるべき価格と符合しない部分は全て事情補正で処理されることになる。
つまり、価格形成要因を評価プロセスで絶えず検証することを要求される取引事例比較法においては、あるべき価格水準がわからないと適用できないことになる。
定性的理解ができても結論が見えないとデータの取捨選択すらできない。
ましてバラツキのあるデータを採用すると、得られた試算値もそれを反映してバラツクことになる。
試算値のバラツキが少ないのはあるべき結論が解っているからではないか。
つまり、想定ないし予想されるあるべき結論に見合うデータを採用するからこそ、各データから得られる結果は見事に結論に見合う形に収斂する(させているというべきか)のではないだろうか。
結論から仮説を立てて演繹的に推論しているだけで、例えて言えばウナギの蒲焼きを作ることに似ているのではないか。
ウナギの蒲焼きを作るときはます、ウナギの頭を千枚通しで固定し(結論)、その上で尻尾(データ)に向かって腹ないし背中から包丁を入れてさきおろす。
この反対に、もしウナギの尻尾を固定するとウナギは逃げようとして身をかわす為、うまくさばくことはできない。
つまり、結論にうまく到達できない。
取引事例比較法適用における比準作業はまさにウナギの蒲焼きを作る作業そのものではないか。
上手にできるかどうかはウナギ(データ)と料理人(鑑定士)次第ということになる。
我々は各料理人たるべきなのか、科学者(類似)たるべきなのか、はたまた料理の鉄人たる科学者であるべきなのか。
あれこれ考えるといつまでたっても寝不足の日々は解消されそうにもない。
事情補正の定義は理解できる。
しかし、これを数字に置き換えるのは容易ではない。
何故なら、正常な取引であるということが解るということは、正常な価格が解るという事になる。
つまり、我々は不断に三方式の通用を待つまでもなく、その地域のあるべき価格が推定できるが故に事情補正ができるということになる。
価格形成要因が的確に定性的にも定量的にも判断できるとすれば、地域のあるべき価格と符合しない部分は全て事情補正で処理されることになる。
つまり、価格形成要因を評価プロセスで絶えず検証することを要求される取引事例比較法においては、あるべき価格水準がわからないと適用できないことになる。
定性的理解ができても結論が見えないとデータの取捨選択すらできない。
ましてバラツキのあるデータを採用すると、得られた試算値もそれを反映してバラツクことになる。
試算値のバラツキが少ないのはあるべき結論が解っているからではないか。
つまり、想定ないし予想されるあるべき結論に見合うデータを採用するからこそ、各データから得られる結果は見事に結論に見合う形に収斂する(させているというべきか)のではないだろうか。
結論から仮説を立てて演繹的に推論しているだけで、例えて言えばウナギの蒲焼きを作ることに似ているのではないか。
ウナギの蒲焼きを作るときはます、ウナギの頭を千枚通しで固定し(結論)、その上で尻尾(データ)に向かって腹ないし背中から包丁を入れてさきおろす。
この反対に、もしウナギの尻尾を固定するとウナギは逃げようとして身をかわす為、うまくさばくことはできない。
つまり、結論にうまく到達できない。
取引事例比較法適用における比準作業はまさにウナギの蒲焼きを作る作業そのものではないか。
上手にできるかどうかはウナギ(データ)と料理人(鑑定士)次第ということになる。
我々は各料理人たるべきなのか、科学者(類似)たるべきなのか、はたまた料理の鉄人たる科学者であるべきなのか。
あれこれ考えるといつまでたっても寝不足の日々は解消されそうにもない。
(2001年2月 Evaluation no.2掲載/「取引事例比較法とウナギの蒲焼き」)