ネットサーフィン鑑定 ~ 鑑定評価書作成業(?)の行方 Vol.5
2021.05.06
VOL.05 鑑定評価書作成業の行方
物件の確認・確定等を行うための調査能力をあまり要しない一般鑑定評価は、鑑定評価書作成業としか言いようがないが、公共セクターが発注する鑑定評価は、物件の確定・確認に高度の調査能力を必要としないので、まさに鑑定評価書作成業の最たるものという他はなく、競争入札もやむを得ないのかもしれない。
まして、買収予定価格も暗黙のうちにある水準にまとまっていることが多いので、それに合わせて評価書をもっともらしく作成するだけである。
そこで問われるのは、専門職業家としての知識・経験ではない。
つまり、人格見識に優れた不動産鑑定士は必要とされてはいない。
ただ安く評価書を作成する不動産鑑定士だけが必要とされているだけである。
したがって、ネットサーフィンにより安直に評価書を作成する風潮は、今後増大しても減少することはないのかもしれない。
そのうちネットサービスにより評価書の作成を代行してくれる業者が出現するであろうと密かに期待している。
価格さえ決まれば、評価書の体裁だけであるから、評価書作成支援センター等の機関が出来れば、慣れない手つきで評価書のデザインや構成を考えるよりましである。
一括して代行作成してくれる機関ができれば、筆者も依頼したいと思っている。
そうなれば、鑑定事務所としての設備投資は最低限で済ませることができ、鑑定料のダンピングができるかもしれない。
仄聞するところによれば、ダイナミックDCFによる収益価格の計算をやってくれる業者がいるらしい。
ダイナミックDCFのソフトは、安くても60~80万円位はするので、個人事務所では対応できない。
計算業務が高度化すれば、鑑定の精度が向上したと錯覚する依頼者は多い。
鑑定評価が単なる計算業務なら、不動産鑑定士は不用である。
大学の数学科が最も相応しいことになる。
しかし、リアルな世界の不動産は、今のところ国土情報のインフラ整備の著しい遅れもあって、単なる計算だけではどうにもならないのも事実である。
今一度、故櫛田先生の言葉を噛みしめて、鑑定評価は専門家の意見であり判断であることを、声を大にして言うべき時であると考える。
それと同時に、不動産鑑定評価に関する基本的考察の倫理的要請が示すように、
「高度の知識と判断力が渾然とした有機的統一体を形成してこそ、適確な鑑定評価が可能となるのであるから、不断の勉強と鍛錬とによってこれを体得し、もって鑑定評価の進歩改善に努力すること」
という言葉の意味を重く受け止めたいと思うのである。
そして鍛錬とは、宮本武蔵の五輪書にあるとおり、『千日の稽古をもって鍛とし、万日の稽古をもって錬となす』という自己自身に対する厳しさを肝に銘じていたいと願っている。
物件の確認・確定等を行うための調査能力をあまり要しない一般鑑定評価は、鑑定評価書作成業としか言いようがないが、公共セクターが発注する鑑定評価は、物件の確定・確認に高度の調査能力を必要としないので、まさに鑑定評価書作成業の最たるものという他はなく、競争入札もやむを得ないのかもしれない。
まして、買収予定価格も暗黙のうちにある水準にまとまっていることが多いので、それに合わせて評価書をもっともらしく作成するだけである。
そこで問われるのは、専門職業家としての知識・経験ではない。
つまり、人格見識に優れた不動産鑑定士は必要とされてはいない。
ただ安く評価書を作成する不動産鑑定士だけが必要とされているだけである。
したがって、ネットサーフィンにより安直に評価書を作成する風潮は、今後増大しても減少することはないのかもしれない。
そのうちネットサービスにより評価書の作成を代行してくれる業者が出現するであろうと密かに期待している。
価格さえ決まれば、評価書の体裁だけであるから、評価書作成支援センター等の機関が出来れば、慣れない手つきで評価書のデザインや構成を考えるよりましである。
一括して代行作成してくれる機関ができれば、筆者も依頼したいと思っている。
そうなれば、鑑定事務所としての設備投資は最低限で済ませることができ、鑑定料のダンピングができるかもしれない。
仄聞するところによれば、ダイナミックDCFによる収益価格の計算をやってくれる業者がいるらしい。
ダイナミックDCFのソフトは、安くても60~80万円位はするので、個人事務所では対応できない。
計算業務が高度化すれば、鑑定の精度が向上したと錯覚する依頼者は多い。
鑑定評価が単なる計算業務なら、不動産鑑定士は不用である。
大学の数学科が最も相応しいことになる。
しかし、リアルな世界の不動産は、今のところ国土情報のインフラ整備の著しい遅れもあって、単なる計算だけではどうにもならないのも事実である。
今一度、故櫛田先生の言葉を噛みしめて、鑑定評価は専門家の意見であり判断であることを、声を大にして言うべき時であると考える。
それと同時に、不動産鑑定評価に関する基本的考察の倫理的要請が示すように、
「高度の知識と判断力が渾然とした有機的統一体を形成してこそ、適確な鑑定評価が可能となるのであるから、不断の勉強と鍛錬とによってこれを体得し、もって鑑定評価の進歩改善に努力すること」
という言葉の意味を重く受け止めたいと思うのである。
そして鍛錬とは、宮本武蔵の五輪書にあるとおり、『千日の稽古をもって鍛とし、万日の稽古をもって錬となす』という自己自身に対する厳しさを肝に銘じていたいと願っている。
(2010年5月 Evaluation no.37掲載/「ネットサーフィン鑑定-鑑定評価書作成業(?)の行方」)
ネットサーフィン鑑定 ~ 鑑定評価書作成業(?)の行方 Vol.4
2021.04.28
VOL.04 ネットサーフィン鑑定
インターネットの普及により、評価書を書くための情報収集は格段に便利になった。
現地さえ見たら、後はネットサーフィンで情報を集め、評価書を作成するだけである。
記載の仕方は実地演習で記載例が示されているので、そのとおりに書いておけば特に問題はない。
評価額は依頼者の方が詳しいので、依頼者の意向を十分に肘度するか、相評路線価と公示価格、基準地価格があれば計算はどうでもなる。
最近の評価書の見栄え・体裁は非常に良くなっているが、評価者の人格・見識が反映されていないのは寂しい。
横並び一線で誰が評価(個人的には評価というより計算しているとしか思えないのだが)しても同じでなければならないという風潮が支配的であるため、鑑定評価は不動産鑑定士の意見であり判断であるという基準の理念はどこかに吹き飛んでしまったようである。
もっとも、誰が評価しても同じ結果で、評価書の内容も同じであるなら、評価料は安いにこしたことはない。
したがって、役所が発注する鑑定業務はこの前提に立って一般競争入札になってしまった。
故櫛田光男先生がこの実態を見たら、きっと嘆くであろうと思われる。
役所が一般競争入札で鑑定士(鑑定業者)に求めているのは、故櫛田先生の言う鑑定評価ではなく、単なる鑑定評価書作成業務でしかない。
道路や建物のように仕様が決まっていて、誰がやっても同じモノができるのなら入札に馴染むが、鑑定評価は経験・知識に裏打ちされた人格・見識の表明である。
役所が良い仕事より安い仕事を求めているのなら、鑑定評価制度の使命は終わったとしか言いようがない。
ネットサーフィンによる安直な評価書作成業務が一世を風靡するのもむべなるかなである。
本当の実力が試されるのは、これからは競売不動産の調査・評価と訴訟鑑定だけになるであろうと思っている。
この二つについては、依頼者の意向を肘度することもない。
また、調査・確認・確定も自分の力でやるしかないからである。
しかも常に当事者・第三者からの批判にさらされるので、安請負いはできない。
国道敷地を誤認して売却した事実は真摯に受け止めなければならない。
この件で競落人が評価人を相手に民事損害賠償の申し立てをしたら、全く違った結果が出るものと確信している。
何故なら、同様のケースでは評価人の善管注意義務を厳しく認定しているからである。
依頼者が資料を用意してくれたり、現地案内をしてくれるような一般鑑定ばかりをやっていると、注意能力・調査能力は向上しない。
インターネットの普及により、評価書を書くための情報収集は格段に便利になった。
現地さえ見たら、後はネットサーフィンで情報を集め、評価書を作成するだけである。
記載の仕方は実地演習で記載例が示されているので、そのとおりに書いておけば特に問題はない。
評価額は依頼者の方が詳しいので、依頼者の意向を十分に肘度するか、相評路線価と公示価格、基準地価格があれば計算はどうでもなる。
最近の評価書の見栄え・体裁は非常に良くなっているが、評価者の人格・見識が反映されていないのは寂しい。
横並び一線で誰が評価(個人的には評価というより計算しているとしか思えないのだが)しても同じでなければならないという風潮が支配的であるため、鑑定評価は不動産鑑定士の意見であり判断であるという基準の理念はどこかに吹き飛んでしまったようである。
もっとも、誰が評価しても同じ結果で、評価書の内容も同じであるなら、評価料は安いにこしたことはない。
したがって、役所が発注する鑑定業務はこの前提に立って一般競争入札になってしまった。
故櫛田光男先生がこの実態を見たら、きっと嘆くであろうと思われる。
役所が一般競争入札で鑑定士(鑑定業者)に求めているのは、故櫛田先生の言う鑑定評価ではなく、単なる鑑定評価書作成業務でしかない。
道路や建物のように仕様が決まっていて、誰がやっても同じモノができるのなら入札に馴染むが、鑑定評価は経験・知識に裏打ちされた人格・見識の表明である。
役所が良い仕事より安い仕事を求めているのなら、鑑定評価制度の使命は終わったとしか言いようがない。
ネットサーフィンによる安直な評価書作成業務が一世を風靡するのもむべなるかなである。
本当の実力が試されるのは、これからは競売不動産の調査・評価と訴訟鑑定だけになるであろうと思っている。
この二つについては、依頼者の意向を肘度することもない。
また、調査・確認・確定も自分の力でやるしかないからである。
しかも常に当事者・第三者からの批判にさらされるので、安請負いはできない。
国道敷地を誤認して売却した事実は真摯に受け止めなければならない。
この件で競落人が評価人を相手に民事損害賠償の申し立てをしたら、全く違った結果が出るものと確信している。
何故なら、同様のケースでは評価人の善管注意義務を厳しく認定しているからである。
依頼者が資料を用意してくれたり、現地案内をしてくれるような一般鑑定ばかりをやっていると、注意能力・調査能力は向上しない。
ネットサーフィン鑑定 ~ 鑑定評価書作成業(?)の行方 Vol.3
2021.04.22
VOL.03 劣化する不動産鑑定士の調査能力
一般鑑定においては、対象不動産に関する資料等は依頼者が用意してくれることが多いので、後は現地で対象不動産を眺めて帰って来ることが多い(外観調査はその最たるものであるが)。
今は飛行機が発達しているので、見知らぬ都市に行っても日帰りが可能となった。
事実、東京・名古屋からだと札幌へ日帰りで鑑定実査する人もいる。
当然現地には数時間しかいられないが、それでも何とかなっているのが今の業界の実情である。
ご当地に長く居住していてもなかなか市場の動向は良く解らないでいるが、世の中には優秀な人が多く、全国どこでもチラッと見れば評価できるようである。
田舎モンの私には逆立ちしたってこのような真似はできない。
時代は遠くなってしまったのかと一人愚痴っている。
そんな日々の中、ネット情報で不動産の調査に関してトンデモない事例を見つけたので紹介する。
それは「憤懣本舗」というブログである。詳細はこのブログを見て欲しい。
ところで、このブログで紹介されていたのが、競売不動産を落札したものの、実際は国道の敷地で使えないということである。
この物件は神戸地裁管内の物件で、落札した人が裁判所を相手に裁判の申し立てをしたらしいが、判決では競売不動産はハッキリしないモノも売っているので買った人の責任ということで申し立ては受け入れてもらえなかったということである。
関西ではこの件についてテレビでも放送されたらしい。
かつて先輩から競売不動産の調査・評価は道路の調査に始まり道路の調査で終わると聞かされた。
したがって、この競売物件について執行官はともかく、評価人は一体何をやっていたのかと思わざるを得ないのである。
国道は、少なくとも市町村道よりキチンと管理されており、又国道の管理台帳図もその精度は高く、信頼性はある。
したがって、基本的な調査を行ってさえいれば、国道の敷地かどうかは直ちに判明したはずである。
それができなかったのは、法務局の図面を鵜呑みにし、かつ現地での照合作業も不十分であったとしか思えない。
個人的感想を言えば、対象物件の確定・確認においては、何をさて置いても道路台帳図の確認をするべきである。
しかし残念ながら一部の役所では、道路台帳図の写しを交付してもらえないのも事実である。
道路法という法律で道路台帳の整備や道路台帳図の作成を義務づけているが、その整備水準・精度・内容・閲覧対応等はバラバラであるから、調査の苦労も解らない訳ではないが、今回のケースは国道である。
筆者の経験では、少なくとも国道についてはキチンと対応してくれている。
それは北海道だけの話と言われればそれまでであるが。
道路法では、道路の区域を決定し、供用の開始を行う場合は必要事項を公示し、かつこれを表示した図面を一般の縦覧に供しなければならないとしている。
これによって道路の官民間の境界が判るのである。
ただ用地未処理のまま区域決定がされているのも事実であり、全国的にはこれら未処理の用地(今回競売になったケース)は相当数にのぼると聞いている。
いずれにしても、基本に忠実に調査していれば、国道敷地かどうかについて誤認することはまず無いと思われる。
今回、国道敷地を競売で売却したことは、評価人にも相当の注意義務違反があったと言わざるを得ない。
ところで、不動産鑑定士試験及び実地演習においては、調査能力を問われることもないし、訓練を受けることもない。
喩えは悪いかもしれないが、机上で水泳の勉強をしただけで、いきなりプールで泳ぐようなものである。
机上の勉強だけで泳げるのであれば、苦労はない。
理屈と実務は異なるのである。
新試験になってから、尚更この傾向が強くなってきたのは困った現象である。
理屈は高度化?したが、実地レベルについては問題山積である。
一般鑑定においては、対象不動産に関する資料等は依頼者が用意してくれることが多いので、後は現地で対象不動産を眺めて帰って来ることが多い(外観調査はその最たるものであるが)。
今は飛行機が発達しているので、見知らぬ都市に行っても日帰りが可能となった。
事実、東京・名古屋からだと札幌へ日帰りで鑑定実査する人もいる。
当然現地には数時間しかいられないが、それでも何とかなっているのが今の業界の実情である。
ご当地に長く居住していてもなかなか市場の動向は良く解らないでいるが、世の中には優秀な人が多く、全国どこでもチラッと見れば評価できるようである。
田舎モンの私には逆立ちしたってこのような真似はできない。
時代は遠くなってしまったのかと一人愚痴っている。
そんな日々の中、ネット情報で不動産の調査に関してトンデモない事例を見つけたので紹介する。
それは「憤懣本舗」というブログである。詳細はこのブログを見て欲しい。
ところで、このブログで紹介されていたのが、競売不動産を落札したものの、実際は国道の敷地で使えないということである。
この物件は神戸地裁管内の物件で、落札した人が裁判所を相手に裁判の申し立てをしたらしいが、判決では競売不動産はハッキリしないモノも売っているので買った人の責任ということで申し立ては受け入れてもらえなかったということである。
関西ではこの件についてテレビでも放送されたらしい。
かつて先輩から競売不動産の調査・評価は道路の調査に始まり道路の調査で終わると聞かされた。
したがって、この競売物件について執行官はともかく、評価人は一体何をやっていたのかと思わざるを得ないのである。
国道は、少なくとも市町村道よりキチンと管理されており、又国道の管理台帳図もその精度は高く、信頼性はある。
したがって、基本的な調査を行ってさえいれば、国道の敷地かどうかは直ちに判明したはずである。
それができなかったのは、法務局の図面を鵜呑みにし、かつ現地での照合作業も不十分であったとしか思えない。
個人的感想を言えば、対象物件の確定・確認においては、何をさて置いても道路台帳図の確認をするべきである。
しかし残念ながら一部の役所では、道路台帳図の写しを交付してもらえないのも事実である。
道路法という法律で道路台帳の整備や道路台帳図の作成を義務づけているが、その整備水準・精度・内容・閲覧対応等はバラバラであるから、調査の苦労も解らない訳ではないが、今回のケースは国道である。
筆者の経験では、少なくとも国道についてはキチンと対応してくれている。
それは北海道だけの話と言われればそれまでであるが。
道路法では、道路の区域を決定し、供用の開始を行う場合は必要事項を公示し、かつこれを表示した図面を一般の縦覧に供しなければならないとしている。
これによって道路の官民間の境界が判るのである。
ただ用地未処理のまま区域決定がされているのも事実であり、全国的にはこれら未処理の用地(今回競売になったケース)は相当数にのぼると聞いている。
いずれにしても、基本に忠実に調査していれば、国道敷地かどうかについて誤認することはまず無いと思われる。
今回、国道敷地を競売で売却したことは、評価人にも相当の注意義務違反があったと言わざるを得ない。
ところで、不動産鑑定士試験及び実地演習においては、調査能力を問われることもないし、訓練を受けることもない。
喩えは悪いかもしれないが、机上で水泳の勉強をしただけで、いきなりプールで泳ぐようなものである。
机上の勉強だけで泳げるのであれば、苦労はない。
理屈と実務は異なるのである。
新試験になってから、尚更この傾向が強くなってきたのは困った現象である。
理屈は高度化?したが、実地レベルについては問題山積である。