日本人の問題対処の問題 ― 問われる日本人の品格 ― ~ Vol.1
2023.10.13
VOL.01 はじめに
鑑定雑感といいつつ不動産に関係のない話となったが、鑑定評価の本質は、ある意味不動産に関連する諸問題を、大所・高所から分析・判断する作業とも言える。
その意味で、日本人の問題対処方法について考えることも、あながち無意味とも言えないと思っている。
資格者としての品格は、つまるところ日本人としての品格でもあり、それが国家の品格となる。
問題対応のプロセスを概観しつつ、日本人の問題対応能力及び日本人としての品格について考えてみた。
鑑定雑感といいつつ不動産に関係のない話となったが、鑑定評価の本質は、ある意味不動産に関連する諸問題を、大所・高所から分析・判断する作業とも言える。
その意味で、日本人の問題対処方法について考えることも、あながち無意味とも言えないと思っている。
資格者としての品格は、つまるところ日本人としての品格でもあり、それが国家の品格となる。
問題対応のプロセスを概観しつつ、日本人の問題対応能力及び日本人としての品格について考えてみた。
疑似科学と反知性主義 ―鑑定評価の不都合な現実― ~ Vol.5
2023.10.05
VOL.05 反知性主義からの脱却
佐藤優氏の言葉が重く筆者の肩にのしかかってくるが、悲観的になり過ぎると世捨人になるしか方法がなくなるが、残された人生で少しでもいいから反知性主義から遠ざかってみたいものと思っている。
ところで、同書によれば、物事を理解するときに、二つのアプローチがあるとし、「現象論」と「存在論」に分けて説明している。
現象論の代表は、新聞・雑誌・TV・ネット等で報じられるニュースで、同じ事柄を扱っていても、それぞれの人(あるいはその人が属する集団)の利害・関心によって、かなり異なった認識が導かれるとしている。
人間社会で生起する現象で、純粋に客観的な認識というものはありえないので、そこからある事象を取り上げ、それ以外の大部分の事柄を無視し、理解可能な物語にするという編集作業が、必ず行われていると指摘している。
そして、面倒なのは、この編集が必ずしも意図して行われるものではないので、物語を構成した人も、自らの偏見についての認識が難しく、したがってその矯正はほぼ不可能だとしている。
少なくとも、筆者も同様に鑑定評価書において結論に至るストーリーを構成しているが、経験による慣れが無意識化を助長しているため、自分自身を矯正することは難しいということになる。
これを克服するためには、存在論的なアプローチが不可欠であるとし、目に見える現象の背後にある、目に見えないが確実に存在する何か(愛・友情・信頼等)を掴むことが必要であるとしている。
このことを存在論的アプローチとしているが、ある意味哲学的命題でもあり、凡人には手に余るが、何かを掴みたいと悪戦苦闘している。
とにもかくにも、知性を身につけるためには読書が必要であり、ネットに頼り切りになる態度は反知性主義となることに留意しなければならないと思っている。
ネットを捨て、書の世界に行く機会を増やさないと、今後ますます反知性主義が蔓延し、国家は存亡の危機に立たされるのではと、一人心配している。
詳しい内容は佐藤氏の「知性とは何か」に譲るとして、同書のあとがきから、自戒の意味をこめて復唱し、筆を置くこととする。
『反知性主義の罠にとらわれないようにするためには、知性を体得し、正しい事柄に対しては「然り」、間違えたことに対しては「否」という判断をきちんとすることである』とし、そのための三箇条を挙げている。
第一条:自らが置かれた社会的状況をできる限り客観的にとらえ、それを言語化する。
第二条:他人の気持ちになって考える訓練をする
第三条:「話し言葉」的な思考ではなく、自分の頭の中で考えた事柄を吟味して発信する「書き言葉」的思考を身につけること。
佐藤優氏の言葉が重く筆者の肩にのしかかってくるが、悲観的になり過ぎると世捨人になるしか方法がなくなるが、残された人生で少しでもいいから反知性主義から遠ざかってみたいものと思っている。
ところで、同書によれば、物事を理解するときに、二つのアプローチがあるとし、「現象論」と「存在論」に分けて説明している。
現象論の代表は、新聞・雑誌・TV・ネット等で報じられるニュースで、同じ事柄を扱っていても、それぞれの人(あるいはその人が属する集団)の利害・関心によって、かなり異なった認識が導かれるとしている。
人間社会で生起する現象で、純粋に客観的な認識というものはありえないので、そこからある事象を取り上げ、それ以外の大部分の事柄を無視し、理解可能な物語にするという編集作業が、必ず行われていると指摘している。
そして、面倒なのは、この編集が必ずしも意図して行われるものではないので、物語を構成した人も、自らの偏見についての認識が難しく、したがってその矯正はほぼ不可能だとしている。
少なくとも、筆者も同様に鑑定評価書において結論に至るストーリーを構成しているが、経験による慣れが無意識化を助長しているため、自分自身を矯正することは難しいということになる。
これを克服するためには、存在論的なアプローチが不可欠であるとし、目に見える現象の背後にある、目に見えないが確実に存在する何か(愛・友情・信頼等)を掴むことが必要であるとしている。
このことを存在論的アプローチとしているが、ある意味哲学的命題でもあり、凡人には手に余るが、何かを掴みたいと悪戦苦闘している。
とにもかくにも、知性を身につけるためには読書が必要であり、ネットに頼り切りになる態度は反知性主義となることに留意しなければならないと思っている。
ネットを捨て、書の世界に行く機会を増やさないと、今後ますます反知性主義が蔓延し、国家は存亡の危機に立たされるのではと、一人心配している。
詳しい内容は佐藤氏の「知性とは何か」に譲るとして、同書のあとがきから、自戒の意味をこめて復唱し、筆を置くこととする。
『反知性主義の罠にとらわれないようにするためには、知性を体得し、正しい事柄に対しては「然り」、間違えたことに対しては「否」という判断をきちんとすることである』とし、そのための三箇条を挙げている。
第一条:自らが置かれた社会的状況をできる限り客観的にとらえ、それを言語化する。
第二条:他人の気持ちになって考える訓練をする
第三条:「話し言葉」的な思考ではなく、自分の頭の中で考えた事柄を吟味して発信する「書き言葉」的思考を身につけること。
(2016年10月 Evaluation No.62掲載/「疑似科学と反知性主義―鑑定評価の不都合な現実―」)
疑似科学と反知性主義 ―鑑定評価の不都合な現実― ~ Vol.4
2023.09.28
VOL.04 鑑定評価と反知性主義
これまで、鑑定評価のもつある意味胡散臭さは、科学性を粧った疑似科学性にあるのではと思ってきたが、それ以上に考えさせられたのが、佐藤優著「知性とは何か(祥伝社発行)」である。
佐藤氏によれば、いま日本には「反知性主義」が蔓延しており、政治エリートに反知性主義者がいると、日本の国益を損なう恐れがあると警鐘を鳴らしている。
筆者は、政治エリートでも何でもなく、一介の田舎の資格者にすぎないが、日々の実務を通じて、如何に反知性主義的に業務を行ってきたかを知らされ、愕然とさせられたのである。
佐藤氏の言葉によれば、『反知性主義とは、実証性や客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲するように世界を理解する態度』であるとしている。前述したように、疑似科学的態度に終始している我が業界は、まさしく実証性や客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲するように鑑定業界を理解しているので、その意味においては、鑑定評価のプロセスそのものが反知性主義に染まっていると批判されても、弁解の余地がないように思われる。
我々が普段接しているデータも、実証性があるかと問われれば、自信が無いのである。
鑑定評価の結果にしても、評価者自らが客観的であると主張しても、そもそも客観的であるか否かは第三者の判断によって成立するものであって、評価行為の当事者がいくら客観的と主張しても、誰も信じてはくれない。
舛添東京都知事が、仲間うちの弁護士を第三者として政治資金の検証をしたといっても、都民は納得しないのである。
鑑定評価の結果を利用者が信じてくれたとしても、それは国家試験という国家の権威に寄り添っただけで、社会一般の審判を受けることになれば、どうなるのかは解らないのである。
事実、訴訟鑑定の世界では、原告又は被告側の鑑定評価書は、全くと言っていい程信頼されていない。
裁判所は、原告又は被告側が作成した鑑定評価は、私的鑑定とし、依頼者の意向が反映されているからと考え、採用することはほとんどなく、鑑定評価が必要となれば、裁判所が鑑定人を選任し、その者に鑑定させることが一般的である。
鑑定世界がこういう世界になっているのは、評価そのものが疑似科学的であり、実証性や客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲する形で理解しているのではないかという批判に有効に対応できない、あるいはしないという、まさに反知性主義にドップリ漬かっていることにあるのかもしれないと考えられる。
佐藤氏の言葉を借りれば、筆者は少なくとも反知性主義の一人であったと思わざるを得ないが、今頃気がついても遅いということかと考えさせられたのである。
反知性主義者は、反知性主義であるが故に、実証性・客観性を軽視もしくは無視しているので、事実に基づいた反証を受け入れようとはしない。鑑定業界も、閉ざされた世界観の中で自己充足しているので、外部世界との接触が不十分で、接触があったとしても、特有の世界観で自分の欲する形でしか理解しようとしない。そのこと自体は社会からの認知度が、鑑定制度発足から50年も経つというのに、サッパリ上がっていないという事実で証明されている。
これまで、鑑定評価のもつある意味胡散臭さは、科学性を粧った疑似科学性にあるのではと思ってきたが、それ以上に考えさせられたのが、佐藤優著「知性とは何か(祥伝社発行)」である。
佐藤氏によれば、いま日本には「反知性主義」が蔓延しており、政治エリートに反知性主義者がいると、日本の国益を損なう恐れがあると警鐘を鳴らしている。
筆者は、政治エリートでも何でもなく、一介の田舎の資格者にすぎないが、日々の実務を通じて、如何に反知性主義的に業務を行ってきたかを知らされ、愕然とさせられたのである。
佐藤氏の言葉によれば、『反知性主義とは、実証性や客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲するように世界を理解する態度』であるとしている。前述したように、疑似科学的態度に終始している我が業界は、まさしく実証性や客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲するように鑑定業界を理解しているので、その意味においては、鑑定評価のプロセスそのものが反知性主義に染まっていると批判されても、弁解の余地がないように思われる。
我々が普段接しているデータも、実証性があるかと問われれば、自信が無いのである。
鑑定評価の結果にしても、評価者自らが客観的であると主張しても、そもそも客観的であるか否かは第三者の判断によって成立するものであって、評価行為の当事者がいくら客観的と主張しても、誰も信じてはくれない。
舛添東京都知事が、仲間うちの弁護士を第三者として政治資金の検証をしたといっても、都民は納得しないのである。
鑑定評価の結果を利用者が信じてくれたとしても、それは国家試験という国家の権威に寄り添っただけで、社会一般の審判を受けることになれば、どうなるのかは解らないのである。
事実、訴訟鑑定の世界では、原告又は被告側の鑑定評価書は、全くと言っていい程信頼されていない。
裁判所は、原告又は被告側が作成した鑑定評価は、私的鑑定とし、依頼者の意向が反映されているからと考え、採用することはほとんどなく、鑑定評価が必要となれば、裁判所が鑑定人を選任し、その者に鑑定させることが一般的である。
鑑定世界がこういう世界になっているのは、評価そのものが疑似科学的であり、実証性や客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲する形で理解しているのではないかという批判に有効に対応できない、あるいはしないという、まさに反知性主義にドップリ漬かっていることにあるのかもしれないと考えられる。
佐藤氏の言葉を借りれば、筆者は少なくとも反知性主義の一人であったと思わざるを得ないが、今頃気がついても遅いということかと考えさせられたのである。
反知性主義者は、反知性主義であるが故に、実証性・客観性を軽視もしくは無視しているので、事実に基づいた反証を受け入れようとはしない。鑑定業界も、閉ざされた世界観の中で自己充足しているので、外部世界との接触が不十分で、接触があったとしても、特有の世界観で自分の欲する形でしか理解しようとしない。そのこと自体は社会からの認知度が、鑑定制度発足から50年も経つというのに、サッパリ上がっていないという事実で証明されている。