日本人の問題対処の問題 ― 問われる日本人の品格 ― ~ Vol.4
2023.11.02
VOL.04 問題対処のステージⅡ ― ウヤムヤ ―
問題が起きたらなるべく小さく報告し、バレたら情報を小出しにして時間を稼ぎ、先送りする。
その間に、いろいろな専門家と称する人間が沢山登場し、エビデンス(証拠)のない話をさも分かったような顔をしてまくし立てる。
ありとあらゆる立場の素人から専門家と称する人々が百家争鳴するため、問題は拡散し、その本質から離れていくが、差し迫った危険がないためか、誰も気にしない。
情報過疎は困るが、情報過多はもっと困ると知るべきである。
一般の人間にとって、情報が多すぎると、能力不足もあって情報の取捨選択ができなくなり、思考停止に陥る。
こういう状態になるとしめたもので、問題の当事者はそっちのけになり、本当は何が問題であったのかさえ忘れ去られることになる。
つまり、問題対処の第Ⅱステージに入ることになる。
ウヤムヤになるというか、ウヤムヤにさせられるというかは別にしても、『人の噂も七十五日』とは良く言ったもので、小さな事故・事件・問題等は、七十五日も経過しないうちにニュースバリューは無くなるので、国民の関心は薄くなり、興味すらなくなってしまう傾向がある。
終わったことは無かったことになるか、そもそも大したことではなかったかのように錯覚し、あれほど大騒ぎしたことが、夢のまた夢のように遠い過去へと追いやられてしまうのである。
もっとも、何時までも鮮明に覚えていたら、事件・事故等の痛手から立ち直ることができないことになり、それはそれで大変なことと思われる。
忘却によって新しい人生を歩むようにできているから生きられるのかもしれない。
忘れたいのは実のところ被害者その人自身かもしれないと思ったりもするが、そういう優しさが社会的責任をウヤムヤにするとしたら、日本人とは何と罪深い人種だろうか。
問題が起きたらなるべく小さく報告し、バレたら情報を小出しにして時間を稼ぎ、先送りする。
その間に、いろいろな専門家と称する人間が沢山登場し、エビデンス(証拠)のない話をさも分かったような顔をしてまくし立てる。
ありとあらゆる立場の素人から専門家と称する人々が百家争鳴するため、問題は拡散し、その本質から離れていくが、差し迫った危険がないためか、誰も気にしない。
情報過疎は困るが、情報過多はもっと困ると知るべきである。
一般の人間にとって、情報が多すぎると、能力不足もあって情報の取捨選択ができなくなり、思考停止に陥る。
こういう状態になるとしめたもので、問題の当事者はそっちのけになり、本当は何が問題であったのかさえ忘れ去られることになる。
つまり、問題対処の第Ⅱステージに入ることになる。
ウヤムヤになるというか、ウヤムヤにさせられるというかは別にしても、『人の噂も七十五日』とは良く言ったもので、小さな事故・事件・問題等は、七十五日も経過しないうちにニュースバリューは無くなるので、国民の関心は薄くなり、興味すらなくなってしまう傾向がある。
終わったことは無かったことになるか、そもそも大したことではなかったかのように錯覚し、あれほど大騒ぎしたことが、夢のまた夢のように遠い過去へと追いやられてしまうのである。
もっとも、何時までも鮮明に覚えていたら、事件・事故等の痛手から立ち直ることができないことになり、それはそれで大変なことと思われる。
忘却によって新しい人生を歩むようにできているから生きられるのかもしれない。
忘れたいのは実のところ被害者その人自身かもしれないと思ったりもするが、そういう優しさが社会的責任をウヤムヤにするとしたら、日本人とは何と罪深い人種だろうか。
日本人の問題対処の問題 ― 問われる日本人の品格 ― ~ Vol.3
2023.10.26
VOL.03 問題対処のステージI ― 先送り・スリ替え ―
この国では、事故や問題等が起きると、まず責任を逃れるために、問題を先送りする。
問題が大きければ小さく見せかけ、それもできなければ実体を表す言葉を避けて言い換え・スリ替えを行なって、何が本質的な問題であるかを分からなくしようとする。
戦前の例では、撤退を転進と言い換え、敗戦を終戦と言い換え、責任があるのか無いのか分からなくしてしまう天才的な言語能力を発揮している。
戦後は、まさかそのような事はないであろうと思っていたら、福島原発で事故の本質を紛らす言い換えが横行した。
事故であるのに事象と言い換えて責任逃れの説明をしていることに、ほとほと呆れてしまったのである。
結局、日本人は敗戦から何も学ばなかったと思わざるを得ない。
実際、学校で教育もされていないのであるから、無理からぬことかもしれない。
卑怯者の見本のような政治家や大企業の経営者が大きな顔をしている現状では、一般国民が卑怯者となるのもむべなるかなと思わざるを得ない。
福島原発の記者会見でも、メルトダウンしていると本当のことを言った担当者は飛ばされ、プライバシーまで暴露され、社会的に抹殺されてしまった。
これに荷担した原子力専門家は、自分の無責任発言を追求されることもなく、平常の生活に戻っていった。 国民は真実を知らされることもなく、名も無き弱者は置き去りにされて、マスコミもたまに思い出しては記事にするが、本質的な問題の追及はしない。
それにしても、福島からの転校生をバイ菌呼ばわりする等、学校教育の現場も地に落ちたようである。
日本人の本質的なイヤらしさは、なかなか無くならないようである。
この国では、事故や問題等が起きると、まず責任を逃れるために、問題を先送りする。
問題が大きければ小さく見せかけ、それもできなければ実体を表す言葉を避けて言い換え・スリ替えを行なって、何が本質的な問題であるかを分からなくしようとする。
戦前の例では、撤退を転進と言い換え、敗戦を終戦と言い換え、責任があるのか無いのか分からなくしてしまう天才的な言語能力を発揮している。
戦後は、まさかそのような事はないであろうと思っていたら、福島原発で事故の本質を紛らす言い換えが横行した。
事故であるのに事象と言い換えて責任逃れの説明をしていることに、ほとほと呆れてしまったのである。
結局、日本人は敗戦から何も学ばなかったと思わざるを得ない。
実際、学校で教育もされていないのであるから、無理からぬことかもしれない。
卑怯者の見本のような政治家や大企業の経営者が大きな顔をしている現状では、一般国民が卑怯者となるのもむべなるかなと思わざるを得ない。
福島原発の記者会見でも、メルトダウンしていると本当のことを言った担当者は飛ばされ、プライバシーまで暴露され、社会的に抹殺されてしまった。
これに荷担した原子力専門家は、自分の無責任発言を追求されることもなく、平常の生活に戻っていった。 国民は真実を知らされることもなく、名も無き弱者は置き去りにされて、マスコミもたまに思い出しては記事にするが、本質的な問題の追及はしない。
それにしても、福島からの転校生をバイ菌呼ばわりする等、学校教育の現場も地に落ちたようである。
日本人の本質的なイヤらしさは、なかなか無くならないようである。
日本人の問題対処の問題 ― 問われる日本人の品格 ― ~ Vol.2
2023.10.19
VOL.02 問題は繰り返される
戦前・戦後を通して言えることであるが、日本人或いは日本の組織は、どうして同じような過ちを繰り返すのであろうか。
事故等の問題が起きると、〇〇調査委員会等が設置され、各界の識者が集まって事故等の原因究明・検証・対策等について調査・検討し、公表しているが、そのことが次世代に活かされることは少なく、同じような事故・問題が繰り返されている。
もっとも、これらの一部については、法令等の改正等により管理や罰則が厳しくなり、事故等の再発防止になにがしかの効力を発揮しているが、それも一時的で、喉元過ぎれば何とやらで、根本的に社会が変わることはない。
その結果、同様の事故等が繰り返され、弱者は犠牲となるばかりである。
第二次世界大戦で、民間人を含めて300万人余りが犠牲になったと言われているが、ポツダム宣言を受諾し、敗戦を終戦と言い換え、戦争は終わったのであるからとして、指導者達は自ら責任を取ることもなく、何事もなかったかのように、ある者は議員として、ある者は経営者として、またある者は公務員として特権を享受し、この世を去っている。
我が国のリーダーが責任を取らないのは今に始まったことではないが、それにしても明治維新によって失われた武士道精神の大きさに、今更ながら驚くばかりである。
昨今は、匿名による中傷が蔓延り、さながら卑怯者国家となってしまったような気がする。
江戸時代ならば、卑怯者!名を名乗れ!と一喝されるケースであるが、昨今は卑怯者という考えも失くしたようである。
戦前・戦後のリーダーが、自分より弱い者へは威圧・暴力により無理難題を強要し、都合が悪くなれば何食わぬ顔をして逃げ回る等、卑怯者の手本を十分に見せてくれたせいか、一般国民にも卑怯者という感性がなくなってしまったのかもしれない。
いずれにしても、この国の病の源は、武士道精神の喪失なのかもしれないと思っている。
戦前・戦後を通して言えることであるが、日本人或いは日本の組織は、どうして同じような過ちを繰り返すのであろうか。
事故等の問題が起きると、〇〇調査委員会等が設置され、各界の識者が集まって事故等の原因究明・検証・対策等について調査・検討し、公表しているが、そのことが次世代に活かされることは少なく、同じような事故・問題が繰り返されている。
もっとも、これらの一部については、法令等の改正等により管理や罰則が厳しくなり、事故等の再発防止になにがしかの効力を発揮しているが、それも一時的で、喉元過ぎれば何とやらで、根本的に社会が変わることはない。
その結果、同様の事故等が繰り返され、弱者は犠牲となるばかりである。
第二次世界大戦で、民間人を含めて300万人余りが犠牲になったと言われているが、ポツダム宣言を受諾し、敗戦を終戦と言い換え、戦争は終わったのであるからとして、指導者達は自ら責任を取ることもなく、何事もなかったかのように、ある者は議員として、ある者は経営者として、またある者は公務員として特権を享受し、この世を去っている。
我が国のリーダーが責任を取らないのは今に始まったことではないが、それにしても明治維新によって失われた武士道精神の大きさに、今更ながら驚くばかりである。
昨今は、匿名による中傷が蔓延り、さながら卑怯者国家となってしまったような気がする。
江戸時代ならば、卑怯者!名を名乗れ!と一喝されるケースであるが、昨今は卑怯者という考えも失くしたようである。
戦前・戦後のリーダーが、自分より弱い者へは威圧・暴力により無理難題を強要し、都合が悪くなれば何食わぬ顔をして逃げ回る等、卑怯者の手本を十分に見せてくれたせいか、一般国民にも卑怯者という感性がなくなってしまったのかもしれない。
いずれにしても、この国の病の源は、武士道精神の喪失なのかもしれないと思っている。