日本人の問題対処の問題 ― 問われる日本人の品格 ― ~ Vol.2
2023.10.19
VOL.02 問題は繰り返される


 戦前・戦後を通して言えることであるが、日本人或いは日本の組織は、どうして同じような過ちを繰り返すのであろうか。
 事故等の問題が起きると、〇〇調査委員会等が設置され、各界の識者が集まって事故等の原因究明・検証・対策等について調査・検討し、公表しているが、そのことが次世代に活かされることは少なく、同じような事故・問題が繰り返されている。

 もっとも、これらの一部については、法令等の改正等により管理や罰則が厳しくなり、事故等の再発防止になにがしかの効力を発揮しているが、それも一時的で、喉元過ぎれば何とやらで、根本的に社会が変わることはない。

 その結果、同様の事故等が繰り返され、弱者は犠牲となるばかりである。

 第二次世界大戦で、民間人を含めて300万人余りが犠牲になったと言われているが、ポツダム宣言を受諾し、敗戦を終戦と言い換え、戦争は終わったのであるからとして、指導者達は自ら責任を取ることもなく、何事もなかったかのように、ある者は議員として、ある者は経営者として、またある者は公務員として特権を享受し、この世を去っている。

 我が国のリーダーが責任を取らないのは今に始まったことではないが、それにしても明治維新によって失われた武士道精神の大きさに、今更ながら驚くばかりである。

 昨今は、匿名による中傷が蔓延り、さながら卑怯者国家となってしまったような気がする。

 江戸時代ならば、卑怯者!名を名乗れ!と一喝されるケースであるが、昨今は卑怯者という考えも失くしたようである。

 戦前・戦後のリーダーが、自分より弱い者へは威圧・暴力により無理難題を強要し、都合が悪くなれば何食わぬ顔をして逃げ回る等、卑怯者の手本を十分に見せてくれたせいか、一般国民にも卑怯者という感性がなくなってしまったのかもしれない。

 いずれにしても、この国の病の源は、武士道精神の喪失なのかもしれないと思っている。
2023.10.19 09:03 | 固定リンク | 鑑定雑感
日本人の問題対処の問題 ― 問われる日本人の品格 ― ~ Vol.1
2023.10.13
VOL.01 はじめに

 鑑定雑感といいつつ不動産に関係のない話となったが、鑑定評価の本質は、ある意味不動産に関連する諸問題を、大所・高所から分析・判断する作業とも言える。

 その意味で、日本人の問題対処方法について考えることも、あながち無意味とも言えないと思っている。

 資格者としての品格は、つまるところ日本人としての品格でもあり、それが国家の品格となる。

 問題対応のプロセスを概観しつつ、日本人の問題対応能力及び日本人としての品格について考えてみた。

2023.10.13 13:00 | 固定リンク | 鑑定雑感
疑似科学と反知性主義 ―鑑定評価の不都合な現実― ~ Vol.5
2023.10.05
VOL.05 反知性主義からの脱却

 佐藤優氏の言葉が重く筆者の肩にのしかかってくるが、悲観的になり過ぎると世捨人になるしか方法がなくなるが、残された人生で少しでもいいから反知性主義から遠ざかってみたいものと思っている。

 ところで、同書によれば、物事を理解するときに、二つのアプローチがあるとし、「現象論」と「存在論」に分けて説明している。

 現象論の代表は、新聞・雑誌・TV・ネット等で報じられるニュースで、同じ事柄を扱っていても、それぞれの人(あるいはその人が属する集団)の利害・関心によって、かなり異なった認識が導かれるとしている。

 人間社会で生起する現象で、純粋に客観的な認識というものはありえないので、そこからある事象を取り上げ、それ以外の大部分の事柄を無視し、理解可能な物語にするという編集作業が、必ず行われていると指摘している。

 そして、面倒なのは、この編集が必ずしも意図して行われるものではないので、物語を構成した人も、自らの偏見についての認識が難しく、したがってその矯正はほぼ不可能だとしている。

 少なくとも、筆者も同様に鑑定評価書において結論に至るストーリーを構成しているが、経験による慣れが無意識化を助長しているため、自分自身を矯正することは難しいということになる。

 これを克服するためには、存在論的なアプローチが不可欠であるとし、目に見える現象の背後にある、目に見えないが確実に存在する何か(愛・友情・信頼等)を掴むことが必要であるとしている。

 このことを存在論的アプローチとしているが、ある意味哲学的命題でもあり、凡人には手に余るが、何かを掴みたいと悪戦苦闘している。

 とにもかくにも、知性を身につけるためには読書が必要であり、ネットに頼り切りになる態度は反知性主義となることに留意しなければならないと思っている。

 ネットを捨て、書の世界に行く機会を増やさないと、今後ますます反知性主義が蔓延し、国家は存亡の危機に立たされるのではと、一人心配している。

 詳しい内容は佐藤氏の「知性とは何か」に譲るとして、同書のあとがきから、自戒の意味をこめて復唱し、筆を置くこととする。

 『反知性主義の罠にとらわれないようにするためには、知性を体得し、正しい事柄に対しては「然り」、間違えたことに対しては「否」という判断をきちんとすることである』とし、そのための三箇条を挙げている。

 第一条:自らが置かれた社会的状況をできる限り客観的にとらえ、それを言語化する。

 第二条:他人の気持ちになって考える訓練をする

 第三条:「話し言葉」的な思考ではなく、自分の頭の中で考えた事柄を吟味して発信する「書き言葉」的思考を身につけること。



(2016年10月 Evaluation No.62掲載/「疑似科学と反知性主義―鑑定評価の不都合な現実―」)

2023.10.05 09:36 | 固定リンク | 鑑定雑感
疑似科学と反知性主義 ―鑑定評価の不都合な現実― ~ Vol.4
2023.09.28
VOL.04 鑑定評価と反知性主義
 これまで、鑑定評価のもつある意味胡散臭さは、科学性を粧った疑似科学性にあるのではと思ってきたが、それ以上に考えさせられたのが、佐藤優著「知性とは何か(祥伝社発行)」である。

 佐藤氏によれば、いま日本には「反知性主義」が蔓延しており、政治エリートに反知性主義者がいると、日本の国益を損なう恐れがあると警鐘を鳴らしている。

 筆者は、政治エリートでも何でもなく、一介の田舎の資格者にすぎないが、日々の実務を通じて、如何に反知性主義的に業務を行ってきたかを知らされ、愕然とさせられたのである。

 佐藤氏の言葉によれば、『反知性主義とは、実証性や客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲するように世界を理解する態度』であるとしている。前述したように、疑似科学的態度に終始している我が業界は、まさしく実証性や客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲するように鑑定業界を理解しているので、その意味においては、鑑定評価のプロセスそのものが反知性主義に染まっていると批判されても、弁解の余地がないように思われる。

 我々が普段接しているデータも、実証性があるかと問われれば、自信が無いのである。

 鑑定評価の結果にしても、評価者自らが客観的であると主張しても、そもそも客観的であるか否かは第三者の判断によって成立するものであって、評価行為の当事者がいくら客観的と主張しても、誰も信じてはくれない。

 舛添東京都知事が、仲間うちの弁護士を第三者として政治資金の検証をしたといっても、都民は納得しないのである。

 鑑定評価の結果を利用者が信じてくれたとしても、それは国家試験という国家の権威に寄り添っただけで、社会一般の審判を受けることになれば、どうなるのかは解らないのである。

 事実、訴訟鑑定の世界では、原告又は被告側の鑑定評価書は、全くと言っていい程信頼されていない。

 裁判所は、原告又は被告側が作成した鑑定評価は、私的鑑定とし、依頼者の意向が反映されているからと考え、採用することはほとんどなく、鑑定評価が必要となれば、裁判所が鑑定人を選任し、その者に鑑定させることが一般的である。

 鑑定世界がこういう世界になっているのは、評価そのものが疑似科学的であり、実証性や客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲する形で理解しているのではないかという批判に有効に対応できない、あるいはしないという、まさに反知性主義にドップリ漬かっていることにあるのかもしれないと考えられる。

 佐藤氏の言葉を借りれば、筆者は少なくとも反知性主義の一人であったと思わざるを得ないが、今頃気がついても遅いということかと考えさせられたのである。

 反知性主義者は、反知性主義であるが故に、実証性・客観性を軽視もしくは無視しているので、事実に基づいた反証を受け入れようとはしない。鑑定業界も、閉ざされた世界観の中で自己充足しているので、外部世界との接触が不十分で、接触があったとしても、特有の世界観で自分の欲する形でしか理解しようとしない。そのこと自体は社会からの認知度が、鑑定制度発足から50年も経つというのに、サッパリ上がっていないという事実で証明されている。
2023.09.28 12:01 | 固定リンク | 鑑定雑感
疑似科学と反知性主義 ―鑑定評価の不都合な現実― ~ Vol.3
2023.09.21
VOL.03 疑似科学とは
 『科学的方法とは、経験される規則的なパターンから法則を見出して、社会で活用することである。
  不確実なパターンがデータの収集・分析によって確実な法則になり、それらが組み合わさって理論になる。』(前書138頁より引用)としている。

 鑑定評価理論もそうであって欲しいと願っているが、行動経済学的にいえば、人間の主観的感情が大きく反映されやすい不動産市場においては、更に遠い道のりということになるのではと思っている。

 大半の不動産は商品として仕入れている訳ではないし、年代・経済力・地域・利用目的・法人か個人かによっても不動産に対する考え方が変化する。

 更に厄介なのは、不動産を売買する動機が多種多様であって、法則性を見出すことは困難と考える。

 実際の取引データを見ても、隣同士・向かい同士で倍違う取引もあり、取引当事者の影の事情も垣間見えたりして、一筋縄ではいかないのである。

 この生データに評価者が手を入れ、自分の都合の良いストーリーに仕立てあげるのが評価の腕の見せ所となっているが、生データ一つ一つの信憑性を検証していたら、いくら時間があっても足りない。

 評価報酬は入札により、派遣労働者並になっているご時世に、膨大な時間と費用をかけて分析する時間的・経済的余裕なんかどこにもありはしないのに、あたかも科学的に分析・検証をしたかのような体裁を整えるため、世間はますます誤解するが、そのうち公表された公的評価と大差がないと解ると、鑑定評価の有難みは薄れ、仕事は消滅する。

 事実、低料金で一世を風靡した簡易鑑定と称する低料金鑑定も減少し、生活に苦労する鑑定士も増加しつつある。

 それでも何とか制度が保たれているのは、税金にパラサイトした公的評価という棚ボタ仕事があるからである。


 話がズレてしまったが、時間軸も地理的軸も取引当事者軸も極端に異なる不動産市場で生起する取引は、取引当事者にとって人生1回限りのことが多い。

 現場における実感からすると、1回限りの取引が多数あっても、説明が困難な程バラツキが大きく、因果関係の法則性を見出すことはできないと思っている。

 法則性があるのなら、我々はとっくに失業しているはずであるが、まだどうにか失業しないでいられるということは、法則性を見出すことができていないという証拠でもある。

 いずれにしても、生データに直接手を入れ、都合の良いシナリオに仕立て上げ、結果として説明はできるかもしれないが検証はできないので、評価者の数だけ異なる価格が提示される。

 にもかかわらず、安い費用で評価する者を選定する入札方式は、つまるところ発注者側で既に必要とする価格が解っているから、評価をチェックすることができるので、安い費用で評価書という書類を書いてもらえばいいということではないかと考える。

 言葉を換えれば、責任逃れのために必要ということであって、価格が解らないから依頼するということではないことになる。

 いくらもっともらしく計算してみても、売れない・買えない価格が適正価格ということにはならない。

 市場で受け入れられない価格でも適正だというのなら、市場で成立する価格は一体何の価格なのであろうか。

 良く考える必要があるのではないかと思っている。

 鑑定評価そのものは科学的に見えるかもしれないが、検証可能性がなく、立証・反証ができないので、疑似科学が入りやすく、科学との識別が難しくなっている。

 科学は予測と検証のサイクルから成立しているが、鑑定評価そのものは1回限りであることがほとんどであるから、予測と検証のサイクルは確立しているとはいえず、疑似科学に近いということになる。

 鑑定評価という疑似科学をもっともらしく見せるための制度、言葉を換えれば権威づけるのが資格制度といったら言い過ぎであろうか。

 ところで、同書によれば、疑似科学には次の三つのタイプがあり、このタイプごとに疑似科学への対処方法を考えることができるとしている。

 ①第一種疑似科学:占いや心霊主義など、精神世界に端を発したものが、物質世界とかかわり科学的装いをまとったもの。
 ②第二種疑似科学:サプリメントや性格診断のように、根拠のない「科学的効果」をもとにビジネスをするもの。
 ③第三種疑似科学:異常気象や地震予知、政策の効果や経済変動など、複雑であるがゆえに科学的に究明しにくい現象を、あたかも原因がしっかりしているかのように自説を展開するもの。

 以上の分類に従えば、鑑定評価は第三種疑似科学に分類されるものと考えられるが、第三種疑似科学に対応するには、科学の進展段階に応じて「科学的成果」が変わりうるものであると認識するのが良いとしている。

 また、科学であることの条件として、次の四つの条件が表示されている。

 ①理論が満たすべき条件
 ②データが満たすべき条件
 ③理論とデータの相互作用や満たすべき条件
 ④社会的な営みのうえで満たすべき条件

そして、①理論が満たすべき条件として、イ.論理性 ロ.体系性 ハ.普遍性が必要とし、②データが満たすべき条件として、イ.再現性 ロ.客観性が必要としている。

 不動産の取引価格は、前述のように再現性がないか、再現性に乏しく、収集された取引価格は、アンケートや聞き取りによるもので、事実かどうか確かめようがないので、データの客観性には疑問符がつく。

 特に土地・建物一体としての取引を担当者が配分法によって区分したものは、データではなくその担当者の意見であって、これを客観的データとして取扱うことには、違和感を覚えるのである。

 データに他の人が手を入れて作り変えたならば、最早データとはいえないということを肝に銘じるべきであろう。

 このようなことについて、きちんと議論をしない鑑定業界の闇は深い。

 せめてもう少し地に足の着いた科学的態度がとれないのかと思うのであるが、歯止めが効かない現実に、茫然自失するより他はない。

 次に、③として、理論とデータの相互作用の満たすべき条件として、イ.妥当性 ロ.予測性が挙げられているが、鑑定評価における予測性については、予測可能な理論がないので、データによって検証できないため、鑑定評価は科学としての条件を満たしていないことになる。

 最後に、④として、社会的な営みのうえで満たすべき条件として、イ.公共性 ロ.歴史性 ハ.応用性が挙げられている。

 公共性については、データの収集や測定方法が明瞭にされているか、理論やデータを評価するための社会的にオープンな仕組みが設けられているか、理論の前提やデータの収集方法を無批判に信じる構図はないか、などで評価されるとしているが、この定義に従えば、我が業界は残念ながら公共性に乏しいと言わざるを得ないことになる。

 以上、苦言に満ちた内容になっているが、心ある人は、せめて石川幹人先生の著書である「なぜ疑似科学が社会を動かすのか」を一読して欲しいと願わざるを得ない。
2023.09.21 15:33 | 固定リンク | 鑑定雑感

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