コモディティ化する鑑定業務と特化型AIに駆逐される公的評価 ~ Vol.2
2023.11.30
VOL.02 コモディティ化する鑑定業務


鑑定評価の本質は、専門家の意見であり、判断であったはずである。

 故櫛田先生の『鑑定評価の基本的考察』においても、高度な知識と豊富な経験と的確な判断力とが有機的に統一されて、初めて的確な鑑定評価が可能となるのであるから、不断の勉強と研鑽とによってこれを体得し、鑑定評価の進歩改善に努めなければならないとしている。

 あれから40年、社会は変わり、新試験制度により、現場経験を十分に積むことなく、合格即独立という不動産鑑定士も増加している。

 このような中で、高度な知識と豊富な経験に裏打ちされた的確な判断力が醸成されることを暢気に待っていられないのか、鑑定評価のガイドラインが作成され、基本的にはこれに沿って鑑定評価を行なうことが要請されている。

 鑑定評価の本質的な潮流は、ヨーロッパが原理主義、アメリカがルール主義、日本は様式(形式)主義と言われているようであるが、ガイドラインはいわば様式主義の要請に近く、事実ガイドラインに沿った実務研修テキストを丸写しした(もっとも中の数字は物件によって変えているようであるが)鑑定評価書が主流を占めつつある。

 ガイドラインは、専門家?である鑑定士独自の意見・判断に一定の枠をはめ、方向・内容等が同質化するよう要請しているとも考えられる。

 言葉を換えれば、鑑定評価業務の機能性・品質・サービス内容・ブランド力を均一化することに他ならないので、結果として差別化特性を排除することになる。

 消費者にとっては、不動産鑑定評価書という商品の何が良いのか分別することはできない。

 まして、その内容がガイドラインによって一律的になれば、鑑定評価を依頼する基準は価格(報酬)そのものになる。

 コモディティ化とは、本来市場を通じてなされるが、鑑定評価書という商品については、その良し悪しを消費者が判断できないため、市場を通さずにコモディティ化されてしまったのではないかと思っている。
2023.11.30 14:55 | 固定リンク | 鑑定雑感
コモディティ化する鑑定業務と特化型AIに駆逐される公的評価 ~ Vol.1
2023.11.22
VOL.01 コモディティ化とは

ウィキペディアによれば、コモディティ化とは、マルクス経済の用語で、所定のカテゴリの中の商品において、製造会社や販売会社ごとの機能・品質などの属性と無関係に経済価値を同質化することをいうとしている。

 これだけでは抽象的過ぎて良くその意味を理解できないが、これを現代風に解釈すると、競合する商品やサービス同士の機能性・品質・ブランド力等の差別化特性が失われ、その結果、価格や買いやすさだけを理由に商品の選択が行なわれることと言えば理解できるのではないであろうか。

市場競争が激しくなった結果として、機能性や品質・デザイン・サービスの質等で大差のない商品・サービスが多く流通するようになると、消費者にとってはどこの会社の商品・サービスであろうが同じ状態となるため、価格だけが選択の基準となってしまうのである。

 つまり、消費者にとっては商品やサービスの選択の絶対的基準が価格のみとなるため、商品やサービスを供給する側、つまり生産者・販売者等は、商品価格を下げざるを得ない状況に追い込まれることになる。

その結果として同様の商品やサービス同士の間で価格競争が激化し、利益どころか原価割れさえも起すことになる。

市場はいわば共食い状態になり、体力のない生産者・販売者・サービス業務の提供者は、市場から淘汰されることになる。
2023.11.22 11:45 | 固定リンク | 鑑定雑感
日本人の問題対処の問題 ― 問われる日本人の品格 ― ~ Vol.6
2023.11.16
VOL.06 日本人に本質的な問題解決能力はあるのか

 クールジャパンがもてはやされ、世界でも特有の文化を育んできた日本と思われるが、元をただせば朝鮮や中国からの文化・技術によって日本文化の基礎が作られたのは紛れもない事実である。

 聖徳太子以後、帰化人による技術移転等によって発展してきたが、その間も国内紛争が絶えたことはない。

 徳川の治世になって、やっと国内紛争がほとんど起きない時代となったが、それも300年で幕を閉じた。
 これは、徳川時代の政治システムが徐々に劣化したことも事実と思われるが、諸外国の干渉による、やむを得ない側面もあると考えられる。

 いずれにしても、文明国から見れば、辺境の地に自主独立した高度の文明国の存在に、大いに驚いたものと思われる。

 また、我々は先人のお陰で西洋人の植民地になることがなかったことを、大いに感謝すべきである。
 自国からみて後進国と考える、つまりキリスト教国以外の国は未開の国であるから、これらの国を侵略し、殺害・略奪することは、当時の西洋諸国のキリスト教的正義に適っていたのである。

 今も続いている中東の戦争は、ある意味キリスト教徒とイスラム教徒の価値観の衝突でもあるといえるのではないか。
 イスラム世界にキリスト教的価値観を押しつけようとしても上手くはいかないと思われ、また、歴史もそのことを証明している。

 グローバル化とは、ある意味キリスト教的価値観に基づく、武力を用いない経済侵略・経済的略奪とも言えるのではと考える。
 キリスト教の常識とイスラム教の常識と仏教の常識は一致しない。
 また、キリスト教世界の中でも、価値観は分かれている。
 それは、イスラム教世界でも、仏教世界でも同じである。
 問題に対する対応の仕方についても同様であると考える。
 何が問題かは、その国の文化・歴史・宗教により異なるのであるから、他国があれこれと口を差し挟むべきことではないように思われる。
 日本の問題は、日本人自身の手・思考によって解決されるべきものと考える。

 一方、日本独特の異文化に対する同化作用の強さから、日本人が江戸時代に培った武士社会を頂点とする価値観は、明治維新と敗戦により、悉く破壊され、キリスト教的価値観が広まったように感じられる。
 明治維新・敗戦を経験して、江戸時代の文化を否定しようとする一方、キリスト教的価値観が広まり(それが民主化というのなら西洋社会からみた優等生ということになるのかもしれないが)、問題への対応の仕方が複雑となってしまったような気がする。

 江戸時代なら、潔く首を差し出すか切腹によって責任を果たしたが、敗戦による民主化で、責任逃れや誤魔化しが横行し、衆を頼んで弱者を追いつめたり、権力の恣意的行使等は目に余るが、江戸時代のように権力を行使することの慎重さと責任の取り方は遠く追いやられ、権力者もその末端の者も、法に名を借りて自己に都合の良いように振る舞う姿は、見るに堪えない。

 これが民主主義というのならば、江戸時代のほうがまだ良かったのかもしれない。

 クールジャパンともてはやされている物事の大半は、江戸文化を継承したものが多いように見受けられる。日本人が長い歴史の中で培ってきた価値観を再認識し、日本人としての品格を取り戻すことができれば、あらゆる問題に毅然と対応し、権力に恋々とすることなく責任の所在を明らかにし、潔く身を処すということができるはずである。

 国家の品格とは、つまるところ人間の品格に他ならない。
 武士道精神を模範として日本人が自らその品格を取り戻した時、初めて本質的な問題解決能力を備えることができると確信する。

 問題解決能力とは、全人格をかけて対処する能力であり、決してマニュアル的に対応するものではないと考える。
 マニュアルは、過去事例に基づき作成されるため、予想外のことはそもそもマニュアルに書くことはできないので想定外となり、思考停止し、対応不能となる。

 歴史とは、ある意味想定外の出来事の連続であるから、想定外の事柄に対応できないのは、人間の根本精神が未熟ということでもある。
 知識偏重社会から脱皮できるような人間教育が望まれる。

 不動産は人間社会に不可欠なものであり、そのあり様も複雑多岐にわたる。

 不動産鑑定士は、このような不動産を評価する職責が与えられているが、マニュアル的に対応できることは少ない。

 不動産に対する価値観は多様かつ複雑であるからこそ、全人格的対応が求められている。
 日々の業務を通じ、何時の日か不動産鑑定士が日本人の品格を代表する代名詞となる日を望みたい。


(2017年6月 Evaluation掲載/「日本人の問題対処の問題―問われる日本人の品格」)

2023.11.16 09:28 | 固定リンク | 鑑定雑感
日本人の問題対処の問題 ― 問われる日本人の品格 ― ~ Vol.5
2023.11.09
VOL.05 問題対処の第Ⅲステージ ― なし崩し ―

 歴史的にみても、この国のリーダーと称する人々の責任の取り方は、ほとんど納得できないレベルにある。
 問題が起きたら取り敢えず先送りできるだけ先送りして時間を稼ぎ、ほとぼりが冷めるのをひたすら待ちわびる。
 その忍耐力は、驚異的でさえある。

 国民の関心や興味が薄くなると、問題の本質が何であったかは遠くに追いやられ、問題のすり替え等が巧妙に行なわれる。
 そうすると、大半のことがウヤムヤになり、問題は矮小化され、国民も何となくこれを受け入れるようになる。

 ここまで来ると、これまでの問題はあたかも無かったか、そもそも大したことではなかったかのように錯覚したり、させられたりして、元の木阿弥状態となる。

 もっとも、一気に元に戻すと抵抗も大きくなるので、小出しにしながら世間の反応を見て、着実に少しずつ元に戻そうとする。

 国民もその頃には記憶も遠くになり、そんなものかと諦め、受け入れるようになる。

 日本人は、中東の人々と異なり、抵抗線が崩れると呆気なくこれまでの考え方を放棄し、相手方の意向を受け入れる傾向が見られる。

 第二次世界大戦の敗戦前後の新聞記事が、その間の事情を良く表している。
 ポツダム宣言受諾前は鬼畜米英と叫び、一億総玉砕と煽り立てていたのが、ポツダム宣言受諾後は、民主主義万歳、アメリカ万歳である。

 個人的には、一晩でかくも大胆に変われる日本人に、ある種の恐れを覚えずにはいられない。

 同じ日本人同士なのに、立場や思想の違いを理由に新兵をいじめた古参兵も、戦争を危惧する者を特高警察を使って弾圧し、拷問等を平気でやった警察官僚も、それを命じた上司も、ポツダム宣言受諾後は皆知らぬ顔をして善人ぶって生きてきたのである。

 社会もそのこと自体を究明しようともしなかったのであるから、ある意味同罪である。

 世界の情勢を良く知らない大多数の国民も、敗戦直前まで戦争に反対する者を非国民と罵り、弾圧したのであるから、特高警察や戦争指導者を非難する権利はないのかもしれない。

 いずれにしても、何が真実で何が正義なのかは、誰にも分からないのである。

 故に、誰も責任を追及しないし、責任を取ることもない。

 悪かったのはそういう社会で、個人に責任はないのだと思っている。

 もちろん、日本人特有の美徳を否定はしないが、それにしても一瞬にして価値観をひっくり返す国民性に、唖然とする他はない。

 歴史に学ぼうとしない日本社会は、これからも反省を活かすことなく、価値観の大転換をする可能性があると思っている。

 一人一人きちんと自分自身や社会と向き合って、物事の本質を考えるようになってもらいたいが、生きているうちにこのような社会が来ることはないのかなとも思えるのである。

 個人情報保護法は匿名社会を到来させ、無責任情報を垂れ流し、かつ匿名をいいことにして、気にくわない人間を誹謗中傷する。

 その一方で、権力者は個人情報を掻き集め、監視しようとする。

 個人情報等は全てオープンにすれば、陰に隠れて他人を誹謗中傷することは難しくなる。

 個人情報の全てを権力者に握られてコントロールされるのを良しとするのであれば、いっそ生体マイクロチップを体内に埋め込み、GPSで一人一人を監視するようになれば、劇的に犯罪は減少するものと思われる。
 安心安全のためには、それも致し方ないことと思われるが、これらの問題は善悪の問題ではなく、選択の問題である。

 言葉を換えれば、自己責任として対応するか、社会的責任として対応するかの問題とも言えるのである。

 豊かさと便利さの追求の果てに総監視社会が来るのは、ある意味歴史の必然なのかもしれない。

 コンピュータの発達は、まさしくそのことを可能にしようとしている。

 監視する側に回るか、監視される側に回るかは、国民一人一人が決めることである。

 個人的には、監視される側に回る方が、気が楽である。

 とても他人のプライバシーを嗅ぎ回ることが生きがいになるとは思えないが、世の中には他人のプライバシーと他人の不幸が三度の飯より大好きな人が相当数いるので、戦前の日本やナチスドイツのように権力者に命令された一般国民を監視・弾圧・殺害するかもしれない。

 もっとも、平時の市民感覚からみて罪がないと思うだけで、非常時かつ不満が鬱積し、社会が不安定化すると、権利者からみて不都合な人間は、罪のある人間となるので、監視・弾圧することに国民の大半の良心は痛みを感じないのではと思われる。

 事実、旧チェコスロバキアや中東の国々では人種が違うといって弾圧したり殺し合っていたこと等からも明らかである。

 第三者から見ると、同じ宗教を信じ、見た目も区別がつかないのに、スンニ派かシーア派かの違いだけで殺し合っていることに呆れる他はないが、このこと自体は紛争当事者以外の者には、多分どうしても理解できないものと思われる。

 また、世界的に見れば、種族・思想・言語・文化等の相違から、有史以来争いは絶えたことがない。

 歴史的に見れば、武装闘争のない時代の方が少ないのであるから、武装闘争のない表面的に平和な時代の方が極めて珍しいと考えるべきなのかもしれない。

 日本も、戦後70年も武力を行使せず、表面的には平和な時代が続いてきたが、歴史的な時間軸でみれば、70年はホンの一瞬であるから、この先どうなるかは全く分からないというのが正しい認識と思うのである。
2023.11.09 09:22 | 固定リンク | 鑑定雑感
日本人の問題対処の問題 ― 問われる日本人の品格 ― ~ Vol.4
2023.11.02
VOL.04 問題対処のステージⅡ ― ウヤムヤ ―

 問題が起きたらなるべく小さく報告し、バレたら情報を小出しにして時間を稼ぎ、先送りする。
 その間に、いろいろな専門家と称する人間が沢山登場し、エビデンス(証拠)のない話をさも分かったような顔をしてまくし立てる。
 ありとあらゆる立場の素人から専門家と称する人々が百家争鳴するため、問題は拡散し、その本質から離れていくが、差し迫った危険がないためか、誰も気にしない。

 情報過疎は困るが、情報過多はもっと困ると知るべきである。

 一般の人間にとって、情報が多すぎると、能力不足もあって情報の取捨選択ができなくなり、思考停止に陥る。
 こういう状態になるとしめたもので、問題の当事者はそっちのけになり、本当は何が問題であったのかさえ忘れ去られることになる。

 つまり、問題対処の第Ⅱステージに入ることになる。

 ウヤムヤになるというか、ウヤムヤにさせられるというかは別にしても、『人の噂も七十五日』とは良く言ったもので、小さな事故・事件・問題等は、七十五日も経過しないうちにニュースバリューは無くなるので、国民の関心は薄くなり、興味すらなくなってしまう傾向がある。

 終わったことは無かったことになるか、そもそも大したことではなかったかのように錯覚し、あれほど大騒ぎしたことが、夢のまた夢のように遠い過去へと追いやられてしまうのである。

 もっとも、何時までも鮮明に覚えていたら、事件・事故等の痛手から立ち直ることができないことになり、それはそれで大変なことと思われる。

 忘却によって新しい人生を歩むようにできているから生きられるのかもしれない。
 忘れたいのは実のところ被害者その人自身かもしれないと思ったりもするが、そういう優しさが社会的責任をウヤムヤにするとしたら、日本人とは何と罪深い人種だろうか。
2023.11.02 11:50 | 固定リンク | 鑑定雑感

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