七面鳥と不動産鑑定士 ― ガリレオとブラックスワンの世界 ― Vol.5
2012.04.04
VOL.05 千と一日目の七面鳥

 この見出しは、ブラックスワンの著者より拝借した。
 この本の著者のような数理学者に、我々はわかってないと言われたら、筆者なんぞは未開の原始人よりまだわかっていないと思わざるを得ない。

 この本の引用がしばらく続くがご容赦願いたい。
 ブラックスワンの第4章では、七面鳥を例に、次のとおり述べている。

 『七面鳥がいて、毎日エサをもらっている。エサをもらうたび、七面鳥は、人類の中でも親切な人たちがエサをくれるのだ、それが一般的に成り立つ日々の法則なのだと信じこんでいく。……感謝祭の前の水曜日の午後、思いもしなかったことが七面鳥に降りかかる。七面鳥の信念は覆されるだろう。』

 そう、予測可能と予測するのは不可能なのである。

 筆者も含めて、我々は予測という言葉を安易に使用しているが、それは今日という日が特に変わりなく明日も続くという暗黙の前提があってはじめて予測可能ということにすぎないと考える他はない。
 筆者の疑問は、鋭く胸を刻む。

 曰く、過去についてわかっていることから、どうすれば将来についてわかるだろう?

 曰く、一般的に有限のわかっていることに基づいて、無限のわからないことの性質がどうすればわかるのだろう?

 現実の鑑定評価の世界は、わからないことばかりである。
 とりあえず皆と歩調を合わせておけば、非難されることはないであろうと、思考停止に陥っている。
 そうしなければ、仕事はできないし、生きていけないからである。

 筆者も同じである。
 鑑定評価書を書きながら、私に一体何がわかっているのかと悩みつつ、わかったフリをして鑑定評価をしている。
 売買が成立した事実はわかっても、取引価格が真実かどうかは確かめようがない。
 地価変動についても、毎日変動しているのか、一定時間をかけて変動しているのかは確かめようがない。

 我々は(少なくとも筆者は)、七面鳥と同じで、毎日エサがあたると思っている。
 大きな変化はないという仮定条件に縋って生きている。
 先の著者の言葉を借りれば、『過去は典型的な未来を表現した一番信頼できる予測だなんて安直に思いこむからこそ、私たちには黒い白鳥が解らない。』

 そう、まさにそのとおりで、我々には黒い白鳥がわからない。
 ほとんどの人間がわからないから、我々は社会的に許容されている。
 地動説を唱えたガリレオの時代の、天動説を信じた一般市民のように…。
 感謝祭前夜の七面鳥のようにはなりたくはないが、凡庸な筆者には逃れる術もない。

 ノーベル経済学賞を受賞した二人の経済学者が経営していた、ロングターム・キャピタル・マネジメントというヘッジファンド会社は、一瞬のうちに破綻してしまった。
 天才的数学者ですら予測しえなかったのである。

 少なくとも筆者は、これからも感謝祭前夜の七面鳥のままでいるのであろうと思うほかはない。
 イヤ、七面鳥ならまだマシかもしれない。
 ヒョットしたら、ネギを背負って七輪を持って歩いている鴨なのかもしれない。
 専門家としてとてもエラそうなことは言えない。反省!!

 暑い夏の真っ最中というのに、ウットウシイ話になってしまった。またまた反省!!

(2010年8月 Evaluation no.38掲載)

2012.04.04 15:18 | 固定リンク | 鑑定雑感
七面鳥と不動産鑑定士 ― ガリレオとブラックスワンの世界 ― Vol.4
2012.03.03
VOL.04 予測可能と予測することは可能か

 鑑定評価基準には、予測の原則がある。

 基準に拠れば、「財の価格は、その財の将来の収益性等についての予測を反映して定まる」そして、「鑑定評価にあたっては、価格形成要因がどのように変化するかについて、的確に予測しなければならない。このためには、不動産鑑定士等は、常に価格形成要因の変動に注意を払って、その推移および動向を把握することが必要であり、これによって不動産のあり方および価格の水準ならびに鑑定評価の対象である不動産の価格が将来どのようなものとなるかを示すことができるのである」と解説している。

 今あらためて読み返すと、とても人間業とは思えないのである。
 自分の明日の運命さえわからないのに、不動産の価値の将来を示すことができるなんて、とてもじゃないが正気の沙汰とは思えない。

 バブルとその崩壊の前後にもずいぶん鑑定評価をしたが、バブル生成とその崩壊を的確に予測し、価値の将来を示すことができた不動産鑑定士が一体どれもどいたのであろうか。
 年間30%の地価上昇がバブルとも認識できず、崩壊したらしたで、あたかも事前にわかっていたような講釈をたれた経済学者は、枚挙に暇がない。

 今回のリーマンショックもそうである。
 ジョージ・ソロスは予測していたようであるが、筆者が『ソロスは警告する』という本を読んだのは、リーマンショックの後である。まったくドジを踏んだものである。
 それにしても、あらゆる財を証券化の対象にして、お金でお金を売買する業務が今もって健全な経済活動とは、とても思えないのある。
 もともと財の交換手段であった貨幣が、交換の手段ではなく、経済活動の主役になってしまったのである。
 人のお金で勝負し、勝ったらファンドマネージャーの取り放題、負けたら預けた人にツケ回しという経済活動が、本来の人間の経済活動ではあるはずがないし、あってはならないと思っている。
 生産活動がなくなって、紙切れにすぎない貨幣だけで生命をつなぐことはできないからである。

 話がずれたが、今回の金融不安や世界同時不況の原因は、あらゆる財を証券化の対象にし、金融工学によってリスクが最小となるように見せかけ(リスク隠しが本当であろう)、この壮大な仕掛けに世界中の余剰資金が躍ったというのが真実の姿であろう。

 その結果が、現在の姿である。

 証券化は、ある意味で短期的にはリスクを分散させ、安全性の高い資金に化けさせることができたが、そう思ったにすぎない。
 その反面、不確実性が増大し、予測が極めて困難となってしまった。

 マネーゲームは、バクチと紙一重である。
 投資と投機の境目がわからない以上、人間が欲望のままに行動すれば、投資の一線を飛び越え、投機の世界に入ることは容易に察しが付くのである。
 そして、ファンドマネージャーの報酬が成功報酬となれば、より大きな利益を求めるのは当然であり、非難することはできない。
 その結果、市場のゆらぎは大きくなり、予測不可能となる。
 賃料収入に変化がなくても、期待収益率が変化すれば、不動産の価格は変動する。

 一方、期待収益率は国内事情とは無関係に変化する可能性がある。

 事実、リーマンショックによって国内の不動産市場も影響を受け、それまで地価上昇を続けていた主要都市の不動産価格は大幅に下落した。

 このような中で、予測の原則を働かせよと言われても、国内事情ですらよくわからないのに、世界の金融資本の動向等までも視野に入れて評価しなければならないとなると、もはやお手上げである。

 予測可能と予測することは不可能である。

 ブラックスワンの著者の話によれば「世の中の大きな動きは予測ができる領域の外側で展開する。」予測できれば、それに備えるので、大きな動きにはならない。我々は今日という日がずっと続くと仮定して生きてるにすぎない。
 予測の原則も、所詮世の中が大きく変化しないという仮定条件の中でしか使えない。
 ということは、予測していないことと同じである。
2012.03.03 15:10 | 固定リンク | 鑑定雑感
七面鳥と不動産鑑定士 ― ガリレオとブラックスワンの世界 ― Vol.3
2012.02.02
VOL.03 ブラックスワンの世界

 鑑定評価をしていると、ときどき嫌になることがある。
 いくら考えても、結局何もわかっていない自分に気づくからである。
 できることなら、別の、少なくとも自分が納得できる仕事に変わりたいと思ったことは、一度や二度ではない。

 鑑定評価の世界に入ってみたものの、経験すればするほど、悩みは尽きなくなっている。
 鑑定評価をする能力が本当に自分にはあるのだろうかと、自問自答の繰り返しである。
 どうせ誰にもわからないし、証明できないのだからという悪魔の囁きに負けて今日まで来てしまった。
 バブル時に書いた自分の鑑定評価書を10年以上後に見る機会があったが、恥ずかしいことこの上なかった。

 鑑定評価は価格時点が全てである。
 しかし一方で、予測の原則を働かせよと言われている。
 バブル崩壊とその後の不動産価格の長期下落の反省から鑑定評価基準が変更され、収益還元法の中にDCF法が位置づけられた。
 DCF法のキャッシュフローにおける収支予測は短くて3~5年、証券化不動産の評価では収支予測の期間が10~15年というのも見たことがある。
 1か月先のこともわからないのに、10~15年の予測期間である。ただ絶句する他はない。
 リーマンショック前の鑑定評価で、リーマンショックを予測した不動産鑑定士はいない。
 価格時点が全てだから、価格時点以降の収支予測が大幅にずれても、そんなことは大した問題ではない!! と言いたいが、世の中が変わらないという前提で計算した結果は、少なからず価格時点の価格に反映されているはずである。
 にもかかわらず、社会的にあまり問題にならないのは、誰にも予測できなかったのであるから責任はないということであろう。
 世の中は何時の時代でも、ある重大な事実を突きつけられない限り、なかなかその事実を認めようとはしないものである。

 誰でも知っている有名な話に、ガリレオの地動説がある。
 当時の市民感覚からすれば、到底理解できるものではなかったと思うのである。
 筆者もその時代に生きていたら、地動説を否定していたはずである。
 そのようなことを考えていたら、行動経済学に続くショッキングな本に出会ってしまった。
 『ブラックスワン』(望月衛訳)。上下2巻の大作である。筆者はマサチューセッツ大学で不確実性を研究している数理学者のナシーム・ニコラス・タレブである。
 この本の冒頭で、筆者は「オーストラリアが発見されるまでは、旧大陸の人は白鳥といえばすべて白いものだと信じて疑わなかった。経験的にも証拠は完璧に揃っているように思えたから、みんな覆しようがないくらい確信していた。はじめて黒い白鳥が発見されたとき、一部の鳥類学者は驚き、とても興味を持ったことだろう」とし、続いて、「大事なのは、人間が経験や観察から学べることはとても限られていること、それに人間の知識はとてももろい」ということを描き出している。
 また、「何千年にもわたって何百万羽も白い白鳥を観察してきた当たり前の話が、たった一つの観察結果で完全に覆されてしまった。そんなことを起こすのに必要なのは、黒い鳥がたった一羽それだけだ。」

 この冒頭の一文で、これまで胸にわだかまっていた数学に対する恐れが、ある意味で取り払われたような気がしたのである。
 数学も所詮人間の後知恵でもっともらしい講釈なのかもしれない。
 ブラックスワンの例で考えれば、鑑定世界の常識も案外脆いもので、ある日突然覆される日が来るのかもしれない。鑑定世界に現れる黒い白鳥がどんなものかは想像できない。
 しかし、天動説時代のガリレオの地動説や黒い白鳥の発見が、絶対にないとは言い切れないと思っている。

 我々は天動説時代の如く、与えられた予定調和の世界を前提に業務をこなしているが、はたしてそれで良いのであろうか?
2012.02.02 15:04 | 固定リンク | 鑑定雑感

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