パラサイト北海道「北海道における2007年問題と2030年問題」 ~ Vol.2
2022.12.22
VOL.02 北海道の人口構造と市町村

北海道の人口は、2000年(平成12年)で約5,683,000人である。

北海道の人口は平成9年の約5,702,000人(国勢調査)をピークに、減少に転じている。

人口問題研究所の将来推計人口によれば、2030年の北海道の人口は約4,768,000人となっており、ピークに比較して100万人の人口減

少が予測されている。

一方、市町村数は212市町村(合併前)である。

札幌圏(札幌市・小樽市・江別市・千歳市・恵庭市・石狩市・北広島市)と苫小牧市・室蘭市・函館市・旭川市・帯広市・釧路市・北見

市の地方中核都市を合わせた14都市の人口約3,768,000人を除くと、残りの一市町村当たりの平均人口はわずか9,700人程度である。

2030年に100万人の人口が減少するものとすると、単純に言えば100市町村が消えて無くなることになる。
100万人の人口減少まで約24年である。

したがって、単純に言えば2006年以降、毎年約4市町村が消えてなくなる計算になる。

ところで、北海道の人口構造を見ると次のとおりであり、2030年までに年少人口・生産人口共に大きく減少するのに反し、65歳以上

の老齢人口は急速に増大する。





他方、北海道における2000年における公務員(地方・国家・教員等を含める)は約223,000人であり、その割合は北海道の総人口の約4%である。
これを生産年齢(15~65歳)人口比で見ると約6%弱となっているが、現役世代(20~60歳)の割合から見ると約7%である。

とすれば、2030年の北海道は推計人口約4,768,000人のうち、老齢人口が約33.6%・年少人口が約10.2%~合わせて43.8%、つまり約44%が扶養者になり、これに公務員が加わるとなんと人口の半分が税金ない

し現役世代の稼ぎで暮らすことになる。

人的な関係だけでみると、2030年の北海道はどう考えても経済的には成り立たないと考えざるを得ない。
2022.12.22 09:05 | 固定リンク | 鑑定雑感
パラサイト北海道「北海道における2007年問題と2030年問題」 ~ Vol.1
2022.12.15
VOL.01 2007年問題の背景

 2007年とは一言で言えば、団塊の世代の去就の問題である。

 ところで、日本の驚異的な経済成長とそれに裏打ちされた土地神話は、つまるところ日本の人口構造が作り出したものと考える。


敗戦の焦土に残ったのは、戦後生まれの子供達である。

 消耗品として扱われた人間が敗戦により消耗品ではなくなり、中国・満州からの帰還者が何もない国土に満ちあふれたのである。

 特に北海道は広大な未開地があった為、開拓と称して帰還者が全道各地に入植している。


この団塊の世代の成長によって旺盛な消費需要が発生し、これが生産を促し、その結果工場労働者の所得が増加して更なる消費が発生拡大した。

 これにより従来にも増して生産は拡大し、やがて国内で消費しきれない生産は海外に目を向け、とどまることのないと思われた高度成長を続けてきたのである。

しかし、人間に無限の成長がない以上、消費が無限に拡大するはずもなく、無限の経済成長はあり得ない事になる。

 経済活動の基本は人間であり、生産については生産設備をロボット化する等して人間が関与する工程を減らすことは出来ても、消費を機械化することは出来ない。

 したがって、経済成長にも限度があるのは自明の理である。

人為的な引き金によりバブル経済は崩壊し、経済は一転して低成長からマイナス成長に陥っているが(もっとも昨今は一部の地域で持ち直してはいるが)、考えてみれば日本の人口構造からすれば遅かれ早かれ、ゼロ成長・マイナス成長になるのはローマクラブの提言を待つまでもなく、既定の路線と言わなければならない。

経済成長を支えた団塊の世代も老境にさしかかり、これ以上消費するにも消費出来ない状況にある。

 若い時と同じように暴飲暴食し、朝方まで遊び、ファッションに金をつぎ込んだりして、これまで以上に消費を支えることは出来ない。

 まして、企業のリストラ等による所得の減少、増税による可処分所得の減少、年金・医療問題等をかかえる中で、景気の地域格差から大量の失業に悩まされるに至っては、消費を節約しても消費を拡大することなど、逆立ちしたって無理というものである。
2022.12.15 16:00 | 固定リンク | 鑑定雑感
相互信頼社会から相互不信社会へ ~ Vol.3
2022.12.08
VOL.03 匿名社会と相互不信

 それ以外にもネット社会における個人攻撃がある。

匿名社会の本格的な到来により、共同体や特定された個人への激しい攻撃には正直ウンザリしている。

 江戸時代ならば「卑怯者!!名を名乗れ!」と手打ちにされかねないが、ネット社会の卑怯者は、名を名乗らずに一方的に攻撃を仕掛けるのである。

 道徳教育では、少なくとも名を名乗らずに相手方を攻撃するようなことはしてはいけないと教えるべきである。

 卑怯者は自分の存在を知られることが少ないので、無責任放題となる。

 このような人間を同じ日本人と認めたくはないが、グローバル化や外国人労働者の大量流入により、これまでの日本的価値観が失われ、日本人のアイデンティティーは失われるのではないかと思っている。

 これもある意味ではグローバル化や都市化の代償であり、仕方がないのかもしれないが・・・。


 ところで、このような現象が国民一般のみならず、高度の資格試験に合格した者の世界にも広がっていることに、危機感を覚える。

 グローバル化や技術の進歩によって相互信頼の社会が破壊され、本格的な相互不信社会に突入したのではと思わざるを得ない。

 相互信頼社会は、文化・価値観・習慣・言語等の同質性を前提としているから成立しているのであって、昨今のように異文化間・異なる価値観・習慣・言語の人間の間に相互信頼社会を築くのは、困難と思わざるを得ないが、それにしても、同質性の高い資格社会であっても例外ではないとは、何ということであろうか。

日本の将来が異文化や異なる習慣・言語の人達に左右される可能性があるとすれば、相互不信を前提としたシステムに変更しなければいけないのかもしれないが、個人情報保護法や特定秘密法等等のように日本人の文化的特性を分断し、匿名社会を歓迎させるような法律が日本人の特性に合っているとは思えない。


そうはいっても、匿名社会の犠牲者を出さないようにするためには仕方がないのかもしれない。

しかし、その代償として安心・安全と引き換えに、国家による本格的な総監視社会に移行することを受け入れる覚悟が必要になると考える。


どちらにしても、相互不信を前提としたシステムに切り替わろうとしている時代は、筆者にとって息苦しさしか感じられない。

我が業界もかつては相互信頼に包まれ、互恵の精神に溢れていたが、昨今は会員同士で誹謗中傷する有様で、このような状況を見るにつけ、残念至極というほかはない。
 
 豊かであればこのような事は少ないのかもしれないが、縮小均衡時代には競争が激化するので、正直相互不信の解消は無理なのかもしれないと思っている。

特に、公的評価を中心とする限られた業務の受注合戦により、会員間の不平等は拡大しても、縮小する可能性は低い。

 この不平等の拡大が相互不信を更に拡大させることになりはしないか。

これまで、結果の平等はともかく、機会の平等は何とか確保されていたようであるが、業務量の減少から、それらしい参入制限の口実を設け、機会の平等が毀損されようとしている。

 仮に機会の平等を放棄し、結果の平等を求めれば、自立性は損なわれ、全体主義とならざるを得ない。


いずれにしても、このような状態が長く続くと、会員の平等原則や自立性が損なわれ、内部抗争が激化し、組織は自己崩壊する可能性が高くなる。

願わくば、相互不信の解消は無理としても、せめて縮小が図れるよう、会員それぞれがよくよく考えてもらえたらと思っている。


投稿最後のお願いとして、会員の叡智に期待したい。


(2019年x月 傍目八目掲載/「相互信頼社会から相互不信社会へ」)

2022.12.08 09:00 | 固定リンク | 鑑定雑感

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