不動産を哲学する?―身の程知らずの哲学的迷走― ~ Vol.3
2023.08.17
VOL.03 不動産の哲学的再定義


 以上の認識・観念からすると、不動産の概念とは、物体と観念からなる複合的概念と再定義できるのではと考える。

 不動産をこのように定義すると、不動産に関する問題が多いのは、物体としての不動産と観念としての不動産の認識のズレが大きいことによるものと考えることができる。

 つまり、実体としての不動産(土地・建物)は五感で知覚することが可能であり、当事者相互でその状況を共有し、体感できるのに対し、観念としての不動産は、前述のとおり、法律的・社会的・経済的行為等の体感できない領域を含むことから、相互にその状況を知覚することはできない。

 言葉を換えると、実体としての不動産は体感することができるが、観念としての不動産は体感することができないということになる。

 したがって、不動産という概念は、知覚可能な領域と知覚不可能な領域を含む複合的概念であるから、同じ不動産をみても異なる認識に至る可能性を否定することはできず、そのため問題が生じ、トラブルが発生することにもなる。

 観念そのものは、ある意味その人自身の全人格的認識の反映であるから、生まれも育ちも性別も異なる多様な人間相互の観念が、必ずしも一致するとは限らないということである。

 不動産という言葉を、特に意識することなく使用しているが、不動産とはこのような側面というか、内面性を持つ後天的に獲得した複合的概念ではないかということについて考えることも必要なのではと思っている。
2023.08.17 09:10 | 固定リンク | 鑑定雑感
不動産を哲学する?―身の程知らずの哲学的迷走― ~ Vol.2
2023.08.10
VOL.02 不動産とは何か?


 不動産とは、一般的には土地・建物のことと認識されている。

 広辞苑によれば「不動産とは物のうち容易にその所在を変え難いもの。民法上、土地及び建物・立木のような土地の定着物」と説明されている。

 ところで、民法には不動産という用語は出てこない。

 土地については、民法第207条で所有権の範囲に関連して出てくるが、建物についての条文はなく、不動産そのものの定義はない。

 民法に限らず、不動産に関連する法律は多いが、不動産とは何かを定義している法律は少ない。


 たとえば、不動産登記法という法律をみると、その第1条に「登記は、不動産の表示又は左に掲げたる不動産に関する権利・・・・・・以下略」としているだけで、不動産そのものについての定義はない。

 不動産鑑定評価に関する法律第2条では、「不動産の鑑定評価とは、土地若しくは建物又はこれらに関する所有権以外の権利の経済価値を判定し・・・以下略」としていることから、この法律では、不動産とは土地・建物の総称ということになる。

 不動産の表示に関する公正競争規約第4条では、珍しく「この規約においては「不動産」とは、土地及び建物をいう。」と定義している。

 全ての法律を調べた訳ではないが、不動産を包括的に扱う法律では、不動産の定義をしていないが、個別的・具体的に扱う法律では不動産を定義しているように見受けられる。

 つまり、不動産とは何かは自明であるから、ことさら定義する必要はないということであろうと思われる。 


 ところで、不動産イコール土地と建物とすることに異論はないが、同じ観念として扱うことには些か抵抗を感じるので、若干の考察を加えてみることとする。

 土地・建物という概念は、どちらかというと物体そのものを示すのではないかと思われる。

 つまり、土地・建物という概念と不動産という概念を一緒にはできないと思うのである。

 建物はさておいて、土地は人類が誕生する前から存在している物体である。

 これに対して、不動産とは、土地を人為的に区分し、それを個別的に占有・利用する等の行為を伴って、はじめて成立する概念ではないかと思うのである。

 言葉を換えれば、土地・建物とは、原始的な状態における物体としての認識を指し、不動産とは、認識された物体と法律的・社会的・経済的行為という観念が合体して認識された状態にある土地・建物と考えることができる。
2023.08.10 09:15 | 固定リンク | 鑑定雑感
不動産を哲学する?―身の程知らずの哲学的迷走― ~ Vol.1
2023.07.27
VOL.01 物体と観念
 最近つくづく思うのは、ある物事を考えるとき、その前提条件となる言葉の意味のその背景にある観念を良く理解していないのではということである。 

 物体そのものとそれを認識する観念は表裏一体をなしているが、これまでその意味を深く考えることはなかったのである。

 つまり、ある物体が、誰にとっても同じと認識できるかどうかは、観念の世界である。

 よって、観念が異なれば、同じ物体と認識できるかどうかは疑わしいということになる。

 観念を形成するのは、その人が育った国・地域・文化・習慣・言語等と思われるので、これが異なれば観念も異なるのではと思われる。

 自然科学の世界では、物体(実体)と認識に大きな差異はないと思われるが、社会科学となると、極端に異なることがあることを我々はしばしば経験している。


 ところで、物体という言葉を広辞苑で調べると、「物体とは、長さ・幅・高さの三次元において空間をみたしていて、知覚の対象となりうる物質」と説明されている。

 つまり、物体とは知覚の対象となりうるのに対し、観念は知覚の対象にはならないということになる。


 それでは、知覚とは何か、ということになる。


 同書によれば、「知覚とは感覚器官を通じて外界の対象の性質・形態・関係および身体内部の状態を意識する作用及びその作用によって得られた表象(知覚表象)」と説明されている。

 言葉を換えれば、五感(視覚・触覚・嗅覚・聴覚・味覚)によって体感されたことが知覚ということになる。

 つまり物体とは、五感によって体感可能な物質であると再定義できることになる。

 とすれば、知覚できない物質は、物体とはいえないことになる。


 事実、これまでの長い歴史の中で、知覚できないが、観念上ある物体(物質)が存在すると認識(仮定)されていても、知覚できない以上、存在しないとされてきた物体は、相当数あるものと思われる。


 このような意味からか、一般的には知覚することができない観念ないし観念論は、机上の空論または絵空事の代名詞のように受け止められてきたのは、紛れもない事実である。

 筆者も、観念や観念論という言葉を、あまりいい意味で使ってこなかったと記憶している。

 ところで、これまで知覚できなかった現象や物体(物質)等も、科学技術の著しい進歩によって知覚可能となっている。

 更に科学技術が進歩すれば、これまでの未知の領域も知覚可能となり、やがては机上の空論・絵空事という言葉や観念は、辞書から追放される日がくるのかもしれないと思っている。
2023.07.27 13:38 | 固定リンク | 鑑定雑感

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