パラサイト北海道「アジアの中の北海道」 ~ Vol.2
2023.03.02
VOL.01 自立できない事情
北海道経済をみると、完全な中央依存体質となっている。
歴史的な背景もあると思われるが、明治以降約140年を経て、パラサイト体質は極めて強くなっている。
遺伝的になったと言っては言い過ぎであろうか。
このような体質の源は、明治政府の開拓政策にあったのではないかと思われる。
未開地であった北海道は、これといった産業がなかったため、一次産業を主とせざるを得なかった。
そして、一次産業の基盤整備の費用は、資本の集積もない未開地であったから、必然的に中央に依存せざるを得ないことになる。
経済の勃興期には、北海道のみならず発展途上国以外の国々に経済援助を行なうことはやむを得ないことである。
自立できない間の経済援助は当然と考えるが、問題は援助の仕方である。
日本の対外経済援助であるODAの評判は、必ずしも高くない。
世界で一、二位を争う経済援助を行なっていながら、何故かくも外国の評判が悪いのであろうか。
ODAは、拝金主義者の集りで、金さえあれば何でも買えると思っているのであろうか。
北海道が自立意識を持てなかったのは、ODAと同じような問題をはらんでいるからと思われる。
つまり、ODAの評判が悪いのは、資本の移転と技術の移転がないか、もしくは十分ではなかったことに起因しているものと考えられる。
いくら経済援助を行なっても、資本の移転と技術の移転がなければ、発展途上国は何時まで経っても発展途上国のままである。
経済的に自立するためには、資本の蓄積と技術の移転は必要条件である。
資本の蓄積や技術がなければ、一国の産業を興すことはできない。
日本型の援助は、結局のところ援助額の大半が日本に還流するため、相手方にパラサイト意識を醸成させるだけであったと思われる。
日本はお金によって相手国を思うようにできると思っているが、相手方は援助に名を借りた海外における公共事業としか思っていない。
つまり、日本のための援助だからいくらお金を使ってもあまり感謝されないことになる。
このようなお金の使い方が、北海道にもあてはまるのではないかと思われる。
一例を挙げると、ある地方空港のジェット化の工事である。
空港整備事業のような技術度の高い工事は、道内や地元の企業は、資金も技術もないため受注したくてもできない。
受注できるのは本州のスーパーゼネコンであり、工事金額の約3割は本社経費として東京に還流される。
設備機器や機材の多くは本州で生産されたものであるから、これらの費用も本州資本に還流される。
地元に落ちるのは、せいぜい骨材の一部(砂利・生コン)と日雇い労務者、ダンプ業者等で、工事金額のせいぜい2~3割と思われる。
これ以外に地元に間違いなく落ちるのは、糞・小便とゴミである。
これだけは東京に還流することはない。
冗談が過ぎたが、北海道における大型の公共事業は、その全てがスーパーゼネコンの手によるものと言っても過言ではないものと思われる。
したがって、公共事業をいくらつぎ込んでも、資本の蓄積や技術の移転が進まない。
そのため、地元企業はなかなか育たず、地元に就職できない若者は都会に出ざるを得なくなる。
これが戦後も延々と続いているのである。
東京に予算陳上して得た公共事業予算は、結局東京に還流され、北海道には資本の蓄積や技術の集積が進まないことになる。
市町村は地元に十分な資本力を有する企業や技術を有する企業が育たないため、本州大手企業に発注し、その下請けとして地元企業を使ってもらう他はないことになる。
その結果、地元に資本の移転や技術の移転が進まず市町村にも地元企業にも自立意識が育たないことになる。
北海道は永遠の発展途上国もどきのままである。
本当の発展途上国なら、海外から経済援助を呼び込むことが可能であるが、残念ながらそれは期待できない。
スポンサーである中央政府は、お金が無いからこれからは経済援助はありません、自立して下さいと言ってはいるが、遺伝的体質となったパラサイト意識を捨てるのは容易なことではない。
北海道経済をみると、完全な中央依存体質となっている。
歴史的な背景もあると思われるが、明治以降約140年を経て、パラサイト体質は極めて強くなっている。
遺伝的になったと言っては言い過ぎであろうか。
このような体質の源は、明治政府の開拓政策にあったのではないかと思われる。
未開地であった北海道は、これといった産業がなかったため、一次産業を主とせざるを得なかった。
そして、一次産業の基盤整備の費用は、資本の集積もない未開地であったから、必然的に中央に依存せざるを得ないことになる。
経済の勃興期には、北海道のみならず発展途上国以外の国々に経済援助を行なうことはやむを得ないことである。
自立できない間の経済援助は当然と考えるが、問題は援助の仕方である。
日本の対外経済援助であるODAの評判は、必ずしも高くない。
世界で一、二位を争う経済援助を行なっていながら、何故かくも外国の評判が悪いのであろうか。
ODAは、拝金主義者の集りで、金さえあれば何でも買えると思っているのであろうか。
北海道が自立意識を持てなかったのは、ODAと同じような問題をはらんでいるからと思われる。
つまり、ODAの評判が悪いのは、資本の移転と技術の移転がないか、もしくは十分ではなかったことに起因しているものと考えられる。
いくら経済援助を行なっても、資本の移転と技術の移転がなければ、発展途上国は何時まで経っても発展途上国のままである。
経済的に自立するためには、資本の蓄積と技術の移転は必要条件である。
資本の蓄積や技術がなければ、一国の産業を興すことはできない。
日本型の援助は、結局のところ援助額の大半が日本に還流するため、相手方にパラサイト意識を醸成させるだけであったと思われる。
日本はお金によって相手国を思うようにできると思っているが、相手方は援助に名を借りた海外における公共事業としか思っていない。
つまり、日本のための援助だからいくらお金を使ってもあまり感謝されないことになる。
このようなお金の使い方が、北海道にもあてはまるのではないかと思われる。
一例を挙げると、ある地方空港のジェット化の工事である。
空港整備事業のような技術度の高い工事は、道内や地元の企業は、資金も技術もないため受注したくてもできない。
受注できるのは本州のスーパーゼネコンであり、工事金額の約3割は本社経費として東京に還流される。
設備機器や機材の多くは本州で生産されたものであるから、これらの費用も本州資本に還流される。
地元に落ちるのは、せいぜい骨材の一部(砂利・生コン)と日雇い労務者、ダンプ業者等で、工事金額のせいぜい2~3割と思われる。
これ以外に地元に間違いなく落ちるのは、糞・小便とゴミである。
これだけは東京に還流することはない。
冗談が過ぎたが、北海道における大型の公共事業は、その全てがスーパーゼネコンの手によるものと言っても過言ではないものと思われる。
したがって、公共事業をいくらつぎ込んでも、資本の蓄積や技術の移転が進まない。
そのため、地元企業はなかなか育たず、地元に就職できない若者は都会に出ざるを得なくなる。
これが戦後も延々と続いているのである。
東京に予算陳上して得た公共事業予算は、結局東京に還流され、北海道には資本の蓄積や技術の集積が進まないことになる。
市町村は地元に十分な資本力を有する企業や技術を有する企業が育たないため、本州大手企業に発注し、その下請けとして地元企業を使ってもらう他はないことになる。
その結果、地元に資本の移転や技術の移転が進まず市町村にも地元企業にも自立意識が育たないことになる。
北海道は永遠の発展途上国もどきのままである。
本当の発展途上国なら、海外から経済援助を呼び込むことが可能であるが、残念ながらそれは期待できない。
スポンサーである中央政府は、お金が無いからこれからは経済援助はありません、自立して下さいと言ってはいるが、遺伝的体質となったパラサイト意識を捨てるのは容易なことではない。
パラサイト北海道「アジアの中の北海道」 ~ Vol.1
2023.02.22
VOL.01 自立への道
これまで述べてきたように、統計データだけを眺めていると、そこから見えてくるのはつらくて暗い困難な道だけである。
国も地方も、なんとかなると思って拡大均衡政策を続けてきたが、その結果国・地方合せて1000兆円にもなるという借金が残っただけである。
少子高齢化が本格化する中で、一体どのようにしたら借金を返せるというのだろうか。
道州制議論は終盤をむかえているが、北海道知事は北海道特例の廃止は納得できないとして、道州制には全面的には納得していない。
個人的な見解ではあるが、北海道特例があっても無くても、最早なんの意味もないと思っている。
つまり、北海道特例の中心は公共事業の補助率のカサ上げと思われるが、ある町では地元負担の100万円さえ用意できなくて補助事業を返上しているのである。
補助事業を100%消化できる体力がある市町村は、一体どの位あるというのであろうか。
一極集中、多極過疎が進行する中で、補助率をカサ上げしてもらったからといってどれ程の事業が実施できるかは疑問である。
いくら補助してもらっても、100%補助ではないのである。
地元負担分は、借金として積増しされ、財政硬直化はなお一層深刻化するだけである。
人口半減時代をむかえようとしているのに、これ以上のインフラが本当に必要なのであろうか。
都会の住民からみれば、10LDKの家で一人暮らしをしながら、仕事がないので増築してくれと言っているようなものである。
増築した後の部屋の使い道はなく、維持管理に要する費用の補助もないのである。
これまで述べてきたように、統計データだけを眺めていると、そこから見えてくるのはつらくて暗い困難な道だけである。
国も地方も、なんとかなると思って拡大均衡政策を続けてきたが、その結果国・地方合せて1000兆円にもなるという借金が残っただけである。
少子高齢化が本格化する中で、一体どのようにしたら借金を返せるというのだろうか。
道州制議論は終盤をむかえているが、北海道知事は北海道特例の廃止は納得できないとして、道州制には全面的には納得していない。
個人的な見解ではあるが、北海道特例があっても無くても、最早なんの意味もないと思っている。
つまり、北海道特例の中心は公共事業の補助率のカサ上げと思われるが、ある町では地元負担の100万円さえ用意できなくて補助事業を返上しているのである。
補助事業を100%消化できる体力がある市町村は、一体どの位あるというのであろうか。
一極集中、多極過疎が進行する中で、補助率をカサ上げしてもらったからといってどれ程の事業が実施できるかは疑問である。
いくら補助してもらっても、100%補助ではないのである。
地元負担分は、借金として積増しされ、財政硬直化はなお一層深刻化するだけである。
人口半減時代をむかえようとしているのに、これ以上のインフラが本当に必要なのであろうか。
都会の住民からみれば、10LDKの家で一人暮らしをしながら、仕事がないので増築してくれと言っているようなものである。
増築した後の部屋の使い道はなく、維持管理に要する費用の補助もないのである。
パラサイト北海道「過剰インフラの対応」 ~ Vol.1
2023.02.16
パラサイト北海道「過剰インフラの対応」 ~ Vol.1
VOL.01 運営から経営へ
先にみたように、過剰インフラは今後更に深刻化する。
北海道は東北6県より広く、人口密度も低いため、インフラの非効率性は宿命的である。
これまでは拡大均衡政策が続いていたため効率性は後回しになっていたが、これからはインフラの効率性を考えなければならない。
札幌市でさえ2100年には人口60万人時代になると予測する学者もいる。
これまで足りない費用は全て補てんされてきたため、インフラを作ることが全てであった。
しかし、使いきれないインフラの維持管理コストは我々の肩に重くのしかかってくる。
インフラは十分に使ってこそ、その価値がある。
ケインズ政策が有効であったのは、有効需要が十分に期待できた時代の話である。
公共事業により有効需要を創出しようと思っても、人口減少時代にあっては有効需要の創出には必ずしも寄与しない。
事実、道内においてバブル崩壊後も多額の公共事業予算が使われたが、バブル以前程の効果はみられず、北海道経済は未だ浮上しない。
公共事業の実施にあたっての需要予測が甘かったといえばそれまでだが、何より50年・100年先を見据えた街づくりの視点が欠けていたことの方が問題と考える。
量的拡大が先行し、国も地方も住民ももっと沢山、もっと沢山と言って公共事業予算を拡大してきたが、人口減少の後には使いきれないインフラが残り、地元住民を苦しめることになる。
予算が十分に使えるときは、効率性やコストを考えずに済む。
赤字になっても税金で面倒をみてくれるので、行政の仕事の大半は予算を使うことである。
間違っても予算を残してはいけないことになる。
余すと事業見通しが甘いと非難される。
役所仕事は、何時も予算が足りないのがちょうど良いとされる。
効率性やコスト・責任を考えなくてもいい仕事のやり方を運営という。
文字どおりただ動かすだけである。
これに対して経営とは、効率やコストを考え、失敗すれば責任を取るのが経営である。
特別会計予算で無駄な施設を全国あちらこちらに作り、挙句の果てに二束三文でタタキ売りし、その責任を誰も取っていないのは運営の最たるものである。
民間会社であれば、責任者は自己破産を免れないであろうし、職員も路頭に迷うことになる。
小泉改革は小さな政府、小さな行政を目指しており、官から民への流れは行政の効率化を促すものと考える。
これからの行政にとって必要なのは、運営感覚を捨て、経営意識を持つことであると考える。
効率性やコストを考えないと、地方自治体は存続できない。
話はややそれてしまったが、過剰インフラの対応方法は一筋縄ではいかないが、間違いなく言えることは広大な土地に散居することではなく、できるだけコンパクトな街を作り上げることである。
各市町村は縮小均衡の道をたどらざるを得ないのであるから、各市町村毎に実施可能な行政サービスの再点検を行う必要がある。
その結果、市町村間における行政サービス・料金の格差が生じ、市町村は二極化する可能性がある。
市町村の二極化は市町村間の行政サービス等の競争機運を生じさせ、行政サービスの格差から人口の社会移動は大きくなる。
市町村間の生き残り競争から現在残っている市町村全てがこれまでと同様に生き残れる保障はない。
過剰インフラの問題を克服し、行政サービスのレベルを維持するためには、情においては忍びないが、大胆な市町村等のリストラは避けて通れないものと思われる。
道民も、生き残りを願うなら行政サービスの低下もあえて我慢する必要がある。
国にも地方にも、これ以上使うお金はない。
終戦時の状況からみれば十分豊かな生活をしているのであるから、多少の我慢はやむを得ない。
非難の応酬や責任のなすり合いをしても何の解決にもならない。
負担と受益は良い悪いの問題ではなく、選択の問題である。
小泉首相の言葉を借りるならば、負担なくして受益なしである。
受益と負担をどうバランスさせるかは選択の問題である。
市町村長さんは選挙のたびにサンタクロースになってはいけないし、住民もプレゼントを期待してはいけない。
耳あたり、口あたりの良い話は心地良いが、タダほど高いものはない。
立派な庁舎・立派な図書館・立派な公民館・体育館・保育所・公営住宅・下水道等の公共インフラの維持管理費は、人口減少とともにやがては住民の負担となって重くのしかかるであろう。
うまい話はないのである。
暗い希望のない話が続いたが、次回最終回では、アジア有数の自然的条件を備えた北海道の可能性から自立への道を検討し、パラサイトへの決別の辞としたい。
VOL.01 運営から経営へ
先にみたように、過剰インフラは今後更に深刻化する。
北海道は東北6県より広く、人口密度も低いため、インフラの非効率性は宿命的である。
これまでは拡大均衡政策が続いていたため効率性は後回しになっていたが、これからはインフラの効率性を考えなければならない。
札幌市でさえ2100年には人口60万人時代になると予測する学者もいる。
これまで足りない費用は全て補てんされてきたため、インフラを作ることが全てであった。
しかし、使いきれないインフラの維持管理コストは我々の肩に重くのしかかってくる。
インフラは十分に使ってこそ、その価値がある。
ケインズ政策が有効であったのは、有効需要が十分に期待できた時代の話である。
公共事業により有効需要を創出しようと思っても、人口減少時代にあっては有効需要の創出には必ずしも寄与しない。
事実、道内においてバブル崩壊後も多額の公共事業予算が使われたが、バブル以前程の効果はみられず、北海道経済は未だ浮上しない。
公共事業の実施にあたっての需要予測が甘かったといえばそれまでだが、何より50年・100年先を見据えた街づくりの視点が欠けていたことの方が問題と考える。
量的拡大が先行し、国も地方も住民ももっと沢山、もっと沢山と言って公共事業予算を拡大してきたが、人口減少の後には使いきれないインフラが残り、地元住民を苦しめることになる。
予算が十分に使えるときは、効率性やコストを考えずに済む。
赤字になっても税金で面倒をみてくれるので、行政の仕事の大半は予算を使うことである。
間違っても予算を残してはいけないことになる。
余すと事業見通しが甘いと非難される。
役所仕事は、何時も予算が足りないのがちょうど良いとされる。
効率性やコスト・責任を考えなくてもいい仕事のやり方を運営という。
文字どおりただ動かすだけである。
これに対して経営とは、効率やコストを考え、失敗すれば責任を取るのが経営である。
特別会計予算で無駄な施設を全国あちらこちらに作り、挙句の果てに二束三文でタタキ売りし、その責任を誰も取っていないのは運営の最たるものである。
民間会社であれば、責任者は自己破産を免れないであろうし、職員も路頭に迷うことになる。
小泉改革は小さな政府、小さな行政を目指しており、官から民への流れは行政の効率化を促すものと考える。
これからの行政にとって必要なのは、運営感覚を捨て、経営意識を持つことであると考える。
効率性やコストを考えないと、地方自治体は存続できない。
話はややそれてしまったが、過剰インフラの対応方法は一筋縄ではいかないが、間違いなく言えることは広大な土地に散居することではなく、できるだけコンパクトな街を作り上げることである。
各市町村は縮小均衡の道をたどらざるを得ないのであるから、各市町村毎に実施可能な行政サービスの再点検を行う必要がある。
その結果、市町村間における行政サービス・料金の格差が生じ、市町村は二極化する可能性がある。
市町村の二極化は市町村間の行政サービス等の競争機運を生じさせ、行政サービスの格差から人口の社会移動は大きくなる。
市町村間の生き残り競争から現在残っている市町村全てがこれまでと同様に生き残れる保障はない。
過剰インフラの問題を克服し、行政サービスのレベルを維持するためには、情においては忍びないが、大胆な市町村等のリストラは避けて通れないものと思われる。
道民も、生き残りを願うなら行政サービスの低下もあえて我慢する必要がある。
国にも地方にも、これ以上使うお金はない。
終戦時の状況からみれば十分豊かな生活をしているのであるから、多少の我慢はやむを得ない。
非難の応酬や責任のなすり合いをしても何の解決にもならない。
負担と受益は良い悪いの問題ではなく、選択の問題である。
小泉首相の言葉を借りるならば、負担なくして受益なしである。
受益と負担をどうバランスさせるかは選択の問題である。
市町村長さんは選挙のたびにサンタクロースになってはいけないし、住民もプレゼントを期待してはいけない。
耳あたり、口あたりの良い話は心地良いが、タダほど高いものはない。
立派な庁舎・立派な図書館・立派な公民館・体育館・保育所・公営住宅・下水道等の公共インフラの維持管理費は、人口減少とともにやがては住民の負担となって重くのしかかるであろう。
うまい話はないのである。
暗い希望のない話が続いたが、次回最終回では、アジア有数の自然的条件を備えた北海道の可能性から自立への道を検討し、パラサイトへの決別の辞としたい。
(2001年・2002年 グローバルヴィジョン/「パラサイト北海道」)
(2019年4・5・6月 北方ジャーナル掲載/「パラサイト北海道」)