不動産を哲学する?―身の程知らずの哲学的迷走― ~ Vol.1
2023.07.27
VOL.01 物体と観念
 最近つくづく思うのは、ある物事を考えるとき、その前提条件となる言葉の意味のその背景にある観念を良く理解していないのではということである。 

 物体そのものとそれを認識する観念は表裏一体をなしているが、これまでその意味を深く考えることはなかったのである。

 つまり、ある物体が、誰にとっても同じと認識できるかどうかは、観念の世界である。

 よって、観念が異なれば、同じ物体と認識できるかどうかは疑わしいということになる。

 観念を形成するのは、その人が育った国・地域・文化・習慣・言語等と思われるので、これが異なれば観念も異なるのではと思われる。

 自然科学の世界では、物体(実体)と認識に大きな差異はないと思われるが、社会科学となると、極端に異なることがあることを我々はしばしば経験している。


 ところで、物体という言葉を広辞苑で調べると、「物体とは、長さ・幅・高さの三次元において空間をみたしていて、知覚の対象となりうる物質」と説明されている。

 つまり、物体とは知覚の対象となりうるのに対し、観念は知覚の対象にはならないということになる。


 それでは、知覚とは何か、ということになる。


 同書によれば、「知覚とは感覚器官を通じて外界の対象の性質・形態・関係および身体内部の状態を意識する作用及びその作用によって得られた表象(知覚表象)」と説明されている。

 言葉を換えれば、五感(視覚・触覚・嗅覚・聴覚・味覚)によって体感されたことが知覚ということになる。

 つまり物体とは、五感によって体感可能な物質であると再定義できることになる。

 とすれば、知覚できない物質は、物体とはいえないことになる。


 事実、これまでの長い歴史の中で、知覚できないが、観念上ある物体(物質)が存在すると認識(仮定)されていても、知覚できない以上、存在しないとされてきた物体は、相当数あるものと思われる。


 このような意味からか、一般的には知覚することができない観念ないし観念論は、机上の空論または絵空事の代名詞のように受け止められてきたのは、紛れもない事実である。

 筆者も、観念や観念論という言葉を、あまりいい意味で使ってこなかったと記憶している。

 ところで、これまで知覚できなかった現象や物体(物質)等も、科学技術の著しい進歩によって知覚可能となっている。

 更に科学技術が進歩すれば、これまでの未知の領域も知覚可能となり、やがては机上の空論・絵空事という言葉や観念は、辞書から追放される日がくるのかもしれないと思っている。
2023.07.27 13:38 | 固定リンク | 鑑定雑感

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