不動産鑑定士と神の見えざる手 ― 市場は因果律で動く? ― Vol.2
2021.09.09
VOL.02 完全市場と市場の失敗
狭義の市場であれ、広義の市場であれ、その市場が完全であるとはいえない。
いやむしろ現実の市場は不完全であるのが常態である。
完全市場とは、一般的に次の条件が満たされている市場をいうとされている。
第一に、市場に参加する者は小規模かつ多数であること。
第二に、提供されるサービスや財が同質であること。
第三に、財やサービスに対する情報は、市場参加者全てが持っていること。
第四に、市場への参入・退出が自由であること。
以上の条件を満たして、初めて市場は完全に機能するとされている。
しかし、現実的には、このような条件を満たした市場は、狭義の市場にしても広義の市場にしても、存在はしていない。
それ故市場は常に不安定である。
安定しているということは、需要・供給が一定で、過不足が生じていないということであるから、市場価格は変動しないということである。
ということは、市場参加者の何人も超過利潤を得られないということである。
ビジネスは競争であるから、誰もが超過利潤を得られないのが常態であれば市場競争は無くなり、経済成長は望むべくもないことになる。
ところで、市場が理想どおりに機能するためには、完全競争・外部性の不存在・情報の完全性等が必要となるが、現実的には
①独占・寡占の発生
②外部経済・外部不経済の存在
③公共財
④情報の非対称性
⑤予想と現実のミスマッチ
⑥流動性選好による不均衡
等があるため、市場は不完全とならざるを得ない。
通信手段が発達し、インターネット時代の今日でさえ、これを全て排除することは困難である。
仮に排除できたら、市場は長期にわたって均衡するので、ゼロ成長社会が到来するが、誰もゼロ成長社会を望んではいない。
昨今、成長が全てに優先するとして市場原理主義が横行しているが、現実の市場が不完全市場である以上、市場競争の結果、所得格差は増大しても、減少することはない。
アメリカのようにやがて日本も1%の勝者と99%の敗者の世界が出現し、社会は大きく不安定化し、文明が崩壊するのかもしれない。
狭義の市場であれ、広義の市場であれ、その市場が完全であるとはいえない。
いやむしろ現実の市場は不完全であるのが常態である。
完全市場とは、一般的に次の条件が満たされている市場をいうとされている。
第一に、市場に参加する者は小規模かつ多数であること。
第二に、提供されるサービスや財が同質であること。
第三に、財やサービスに対する情報は、市場参加者全てが持っていること。
第四に、市場への参入・退出が自由であること。
以上の条件を満たして、初めて市場は完全に機能するとされている。
しかし、現実的には、このような条件を満たした市場は、狭義の市場にしても広義の市場にしても、存在はしていない。
それ故市場は常に不安定である。
安定しているということは、需要・供給が一定で、過不足が生じていないということであるから、市場価格は変動しないということである。
ということは、市場参加者の何人も超過利潤を得られないということである。
ビジネスは競争であるから、誰もが超過利潤を得られないのが常態であれば市場競争は無くなり、経済成長は望むべくもないことになる。
ところで、市場が理想どおりに機能するためには、完全競争・外部性の不存在・情報の完全性等が必要となるが、現実的には
①独占・寡占の発生
②外部経済・外部不経済の存在
③公共財
④情報の非対称性
⑤予想と現実のミスマッチ
⑥流動性選好による不均衡
等があるため、市場は不完全とならざるを得ない。
通信手段が発達し、インターネット時代の今日でさえ、これを全て排除することは困難である。
仮に排除できたら、市場は長期にわたって均衡するので、ゼロ成長社会が到来するが、誰もゼロ成長社会を望んではいない。
昨今、成長が全てに優先するとして市場原理主義が横行しているが、現実の市場が不完全市場である以上、市場競争の結果、所得格差は増大しても、減少することはない。
アメリカのようにやがて日本も1%の勝者と99%の敗者の世界が出現し、社会は大きく不安定化し、文明が崩壊するのかもしれない。
不動産鑑定士と神の見えざる手 ― 市場は因果律で動く? ― Vol.1
2021.09.02
VOL.01 市場とは何か
我々は特に意識することなく市場という言葉を使用して市場の解釈を行っているが、市場概念は幅広く、具体的な市場から抽象的な市場まで様々な市場が存在している。
ところで、広辞苑によれば、次のように説明されている。
①狭義には、売手と買手とが特定の商品を規則的に取引する場所をいうとし、具体的には、魚市場・青果市場・証券取引所等を例示している。
言葉をかえれば、特定のモノを取引する特定された場所ということである。
この場合の市場は、リアル世界の市場であるから、誰でも市場に行ってモノの価格を確認したり動きを体感することができる。
これに対して、
②広義の市場概念としては、一定の場所・時間に関係なく相互に競合する無数の需要・供給間に存在する交換関係をいうとしている。
この場合の市場は、バーチャル世界で、誰もその市場に行って確認することはできない。
そうは言っても、同質的なモノが大量に取引されている場合は、何となく体感できるが、不動産のように同質かどうかに関係なく物件そのものが極めて少ない市場では、誰もが簡単に取引の状況を確認することはできない。
それ故に、我々不動産鑑定士がバーチャルな市場に成り代わってリアルな市場(?)を見せることが求められているのではと思うのである。
しかしながら、試験に合格しただけで、バーチャルな市場をリアルな市場に見せかける能力が身につくのであろうか。
前述のとおり、不動産市場は広義の市場概念に包含されるが、そうであるとすれば、一定の場所・時間に関係なく相互に競合する無数の需要と供給の間に存在する交換関係を、年齢・経験の有無・業務地(全国どこでも)に関係なく体現できると仮定すること自体に違和感を覚えるのである。
我々に本当にそのような能力があるのかと・・・・・・。
我々は特に意識することなく市場という言葉を使用して市場の解釈を行っているが、市場概念は幅広く、具体的な市場から抽象的な市場まで様々な市場が存在している。
ところで、広辞苑によれば、次のように説明されている。
①狭義には、売手と買手とが特定の商品を規則的に取引する場所をいうとし、具体的には、魚市場・青果市場・証券取引所等を例示している。
言葉をかえれば、特定のモノを取引する特定された場所ということである。
この場合の市場は、リアル世界の市場であるから、誰でも市場に行ってモノの価格を確認したり動きを体感することができる。
これに対して、
②広義の市場概念としては、一定の場所・時間に関係なく相互に競合する無数の需要・供給間に存在する交換関係をいうとしている。
この場合の市場は、バーチャル世界で、誰もその市場に行って確認することはできない。
そうは言っても、同質的なモノが大量に取引されている場合は、何となく体感できるが、不動産のように同質かどうかに関係なく物件そのものが極めて少ない市場では、誰もが簡単に取引の状況を確認することはできない。
それ故に、我々不動産鑑定士がバーチャルな市場に成り代わってリアルな市場(?)を見せることが求められているのではと思うのである。
しかしながら、試験に合格しただけで、バーチャルな市場をリアルな市場に見せかける能力が身につくのであろうか。
前述のとおり、不動産市場は広義の市場概念に包含されるが、そうであるとすれば、一定の場所・時間に関係なく相互に競合する無数の需要と供給の間に存在する交換関係を、年齢・経験の有無・業務地(全国どこでも)に関係なく体現できると仮定すること自体に違和感を覚えるのである。
我々に本当にそのような能力があるのかと・・・・・・。
取引事例比較法とウナギの蒲焼きパートⅡ ― 鑑定世界とSTAP細胞現象 ― Vol.4
2021.08.26
VOL.04 鑑定評価書の様式主義とSTAP細胞現象(事実と意見の混同)
ASA(米国鑑定士協会)の会員となって5年弱になるが、その間に、機械設備評価の養成講座を受講した。
その中で、ASAのインストラクターから再三言われたのが、評価に正解はないということであった。
評価者によって結果が異なるのは当然であり、大事なのは評価プロセスにおける評価者その人自身の論理的一貫性と、他の専門分野に属する事項についてはコメントしないということであった。
確かに評価は一定のルールを適用して計算するものではなく、まさに専門家の意見・判断が問われるものであるから、一定の様式の空欄を埋めれば良いというものではない。
ASAでは、そのような観点から、レポート様式を示してはいない。
筆者は、ASAの在米会員のレポートを見た訳ではないが、関係者(日本資産評価士協会)の話によれば、評価者がルールに則して(アメリカはルール主義)それぞれ腕をふるって記述しているということであった。
ひるがえって我が国の状況をみると、ASAとは対極の状態にある。
標準的な記載例が示されており、極端なケースでは、実務修習テキストを丸写しというのも見られる。
体裁・見映えは良いが、主体的な判断が反映されているかどうかは、残念ながら疑わしい。
更に問題なのは、自分で取引当事者に当たって収集した訳でもない取引事例、それも事例作成割当担当者の個人的判断が加えられて加工されたデータを、そのまま使うよう言われることである。
データの信憑性を確認する手立てもなく、また、誰が加工したかも分からないデータ(特に担当者が配分法を適用して加工したデータ)をそのまま使うより仕方がないのに、データの取扱いについて何の意見表明もしていないことに、問題はないのであろうか。
蛇足ながら、担当者の判断によって加工されたデータは事実とはいえず、その人の意見であることに十分留意する必要があると考える。
(建物価格がゼロとされた建付地の事例にもかかわらず、立派な建物があって使用中というのはザラにある。)
したがって、ASA流に言えば、データの採用に当たっては、その真実性については確認していないと表明すべきであろうと思われる。
原データが間違っていたり、ウソの報告であったりする可能性もある他、加工データの意見を鵜呑みにすると、評価の信頼性は揺らぎかねない。
筆者は実際にそのようなケースに遭遇しているので、取引価格が登記事項にでもならない限り、データの信頼性に不安はつきまとうということになる。
いずれにしても、標準様式の中に調査やデータの信頼性に対するリスク表明がないか、あっても限定的であるため、テキストをコピペしてそのとおりに書いておけば、誰も文句は言えない。
ところで、話は戻るが、あるデータを採用して結論を出そうとしても、目標値に近づかなければデータの差し換え・データの再加工等をして比準することになるが、そのこと自体、誰も問題にはしない。
それは、不動産の取引データが偏在しており、しかもバラツキが非常に大きいからである。言葉を換えれば、要因・格差によって価格が決まるのではなく、需要と供給によって決まるであろう価格を予測し、それに合わせて都合の良いデータを取捨選択・加工をするということである。
結局のところ、公的評価に合わせてデータを加工・修正の上、比準作業を行うことになるのであるが、『赤信号皆で渡れば恐くない』と言うとおり、科学的に証明できないので、公的評価格に合うようにレポートを作る他はない。
不当鑑定と認定されたケースは、公的評価格がないか、あっても実情とかけ離れた価格しかないような地域、ないしはデータ不足によるものと思われる。
そのような状況下では、悪くいえばどのような価格(ストライクゾーンはあると思うが)でも評価可能となるが、後は評価者の良識・常識次第ということになる。
STAP細胞問題では、レポートのコピペ・データの差換え等が問題にされたが、鑑定評価書はコピペ・データの差換えのオンパレードといったら言い過ぎであろうか。
幸いにして、評価書を取巻く関係者が少ないので、コピペ・データの差換え等による結論への誘導等は、問題になることは少ない。
(もっとも、このこと自体、評価者の良識の問題で、第三者には知るよしもない。)
以上みたように、評価自体は評価者の意見(同じデータを使用しても、評価者が異なれば価格も異なることが多い)であって、事実の検証や証明ではない。
再現性がないのにあたかも再現性があるかのような誤解を与えたために、専門家の意見を入札で求めるという論評にも値しないことを蔓延させ、反省の動きもないことに、失望の念を禁じ得ない。
(さすがに裁判所鑑定ではこういう馬鹿なことはしていないが)
TPP加盟によって知的サービス分野の開放も迫られると思うが、我が国の評価書の作成方法や評価プロセスのあり方等について、再検討を迫られるかもしれないと思っている。
アメリカから移入した評価基準を日本流に焼き直しているが、我が国独特の進化(?)を遂げ、ガラパゴス化しているようにも思われる。
最後に、ドイツ証券が発表した「TPPが不動産セクターに与える影響について」の中で、『日本独自の資格である不動産鑑定士などの有名無実化』という指摘については、真摯に受け止める必要があるのではと考える。
以上、愚にも付かないことをくどくどと書いてしまったが、全てを見通すことができる神様のような期待される鑑定士になり損なった引退間近の年寄りのタワ言として、読者諸兄のご容赦を願うものである。
ASA(米国鑑定士協会)の会員となって5年弱になるが、その間に、機械設備評価の養成講座を受講した。
その中で、ASAのインストラクターから再三言われたのが、評価に正解はないということであった。
評価者によって結果が異なるのは当然であり、大事なのは評価プロセスにおける評価者その人自身の論理的一貫性と、他の専門分野に属する事項についてはコメントしないということであった。
確かに評価は一定のルールを適用して計算するものではなく、まさに専門家の意見・判断が問われるものであるから、一定の様式の空欄を埋めれば良いというものではない。
ASAでは、そのような観点から、レポート様式を示してはいない。
筆者は、ASAの在米会員のレポートを見た訳ではないが、関係者(日本資産評価士協会)の話によれば、評価者がルールに則して(アメリカはルール主義)それぞれ腕をふるって記述しているということであった。
ひるがえって我が国の状況をみると、ASAとは対極の状態にある。
標準的な記載例が示されており、極端なケースでは、実務修習テキストを丸写しというのも見られる。
体裁・見映えは良いが、主体的な判断が反映されているかどうかは、残念ながら疑わしい。
更に問題なのは、自分で取引当事者に当たって収集した訳でもない取引事例、それも事例作成割当担当者の個人的判断が加えられて加工されたデータを、そのまま使うよう言われることである。
データの信憑性を確認する手立てもなく、また、誰が加工したかも分からないデータ(特に担当者が配分法を適用して加工したデータ)をそのまま使うより仕方がないのに、データの取扱いについて何の意見表明もしていないことに、問題はないのであろうか。
蛇足ながら、担当者の判断によって加工されたデータは事実とはいえず、その人の意見であることに十分留意する必要があると考える。
(建物価格がゼロとされた建付地の事例にもかかわらず、立派な建物があって使用中というのはザラにある。)
したがって、ASA流に言えば、データの採用に当たっては、その真実性については確認していないと表明すべきであろうと思われる。
原データが間違っていたり、ウソの報告であったりする可能性もある他、加工データの意見を鵜呑みにすると、評価の信頼性は揺らぎかねない。
筆者は実際にそのようなケースに遭遇しているので、取引価格が登記事項にでもならない限り、データの信頼性に不安はつきまとうということになる。
いずれにしても、標準様式の中に調査やデータの信頼性に対するリスク表明がないか、あっても限定的であるため、テキストをコピペしてそのとおりに書いておけば、誰も文句は言えない。
ところで、話は戻るが、あるデータを採用して結論を出そうとしても、目標値に近づかなければデータの差し換え・データの再加工等をして比準することになるが、そのこと自体、誰も問題にはしない。
それは、不動産の取引データが偏在しており、しかもバラツキが非常に大きいからである。言葉を換えれば、要因・格差によって価格が決まるのではなく、需要と供給によって決まるであろう価格を予測し、それに合わせて都合の良いデータを取捨選択・加工をするということである。
結局のところ、公的評価に合わせてデータを加工・修正の上、比準作業を行うことになるのであるが、『赤信号皆で渡れば恐くない』と言うとおり、科学的に証明できないので、公的評価格に合うようにレポートを作る他はない。
不当鑑定と認定されたケースは、公的評価格がないか、あっても実情とかけ離れた価格しかないような地域、ないしはデータ不足によるものと思われる。
そのような状況下では、悪くいえばどのような価格(ストライクゾーンはあると思うが)でも評価可能となるが、後は評価者の良識・常識次第ということになる。
STAP細胞問題では、レポートのコピペ・データの差換え等が問題にされたが、鑑定評価書はコピペ・データの差換えのオンパレードといったら言い過ぎであろうか。
幸いにして、評価書を取巻く関係者が少ないので、コピペ・データの差換え等による結論への誘導等は、問題になることは少ない。
(もっとも、このこと自体、評価者の良識の問題で、第三者には知るよしもない。)
以上みたように、評価自体は評価者の意見(同じデータを使用しても、評価者が異なれば価格も異なることが多い)であって、事実の検証や証明ではない。
再現性がないのにあたかも再現性があるかのような誤解を与えたために、専門家の意見を入札で求めるという論評にも値しないことを蔓延させ、反省の動きもないことに、失望の念を禁じ得ない。
(さすがに裁判所鑑定ではこういう馬鹿なことはしていないが)
TPP加盟によって知的サービス分野の開放も迫られると思うが、我が国の評価書の作成方法や評価プロセスのあり方等について、再検討を迫られるかもしれないと思っている。
アメリカから移入した評価基準を日本流に焼き直しているが、我が国独特の進化(?)を遂げ、ガラパゴス化しているようにも思われる。
最後に、ドイツ証券が発表した「TPPが不動産セクターに与える影響について」の中で、『日本独自の資格である不動産鑑定士などの有名無実化』という指摘については、真摯に受け止める必要があるのではと考える。
以上、愚にも付かないことをくどくどと書いてしまったが、全てを見通すことができる神様のような期待される鑑定士になり損なった引退間近の年寄りのタワ言として、読者諸兄のご容赦を願うものである。
(2014年7月 Evaluation no.53掲載/「 取引事例比較法とウナギの蒲焼き ― 鑑定世界とSTAP細胞現象 ―」)
取引事例比較法とウナギの蒲焼きパートⅡ ― 鑑定世界とSTAP細胞現象 ― Vol.4
2021.08.26
VOL.04 鑑定評価書の様式主義とSTAP細胞現象(事実と意見の混同)
ASA(米国鑑定士協会)の会員となって5年弱になるが、その間に、機械設備評価の養成講座を受講した。
その中で、ASAのインストラクターから再三言われたのが、評価に正解はないということであった。
評価者によって結果が異なるのは当然であり、大事なのは評価プロセスにおける評価者その人自身の論理的一貫性と、他の専門分野に属する事項についてはコメントしないということであった。
確かに評価は一定のルールを適用して計算するものではなく、まさに専門家の意見・判断が問われるものであるから、一定の様式の空欄を埋めれば良いというものではない。
ASAでは、そのような観点から、レポート様式を示してはいない。
筆者は、ASAの在米会員のレポートを見た訳ではないが、関係者(日本資産評価士協会)の話によれば、評価者がルールに則して(アメリカはルール主義)それぞれ腕をふるって記述しているということであった。
ひるがえって我が国の状況をみると、ASAとは対極の状態にある。
標準的な記載例が示されており、極端なケースでは、実務修習テキストを丸写しというのも見られる。
体裁・見映えは良いが、主体的な判断が反映されているかどうかは、残念ながら疑わしい。
更に問題なのは、自分で取引当事者に当たって収集した訳でもない取引事例、それも事例作成割当担当者の個人的判断が加えられて加工されたデータを、そのまま使うよう言われることである。
データの信憑性を確認する手立てもなく、また、誰が加工したかも分からないデータ(特に担当者が配分法を適用して加工したデータ)をそのまま使うより仕方がないのに、データの取扱いについて何の意見表明もしていないことに、問題はないのであろうか。
蛇足ながら、担当者の判断によって加工されたデータは事実とはいえず、その人の意見であることに十分留意する必要があると考える。
(建物価格がゼロとされた建付地の事例にもかかわらず、立派な建物があって使用中というのはザラにある。)
したがって、ASA流に言えば、データの採用に当たっては、その真実性については確認していないと表明すべきであろうと思われる。
原データが間違っていたり、ウソの報告であったりする可能性もある他、加工データの意見を鵜呑みにすると、評価の信頼性は揺らぎかねない。
筆者は実際にそのようなケースに遭遇しているので、取引価格が登記事項にでもならない限り、データの信頼性に不安はつきまとうということになる。
いずれにしても、標準様式の中に調査やデータの信頼性に対するリスク表明がないか、あっても限定的であるため、テキストをコピペしてそのとおりに書いておけば、誰も文句は言えない。
ところで、話は戻るが、あるデータを採用して結論を出そうとしても、目標値に近づかなければデータの差し換え・データの再加工等をして比準することになるが、そのこと自体、誰も問題にはしない。
それは、不動産の取引データが偏在しており、しかもバラツキが非常に大きいからである。言葉を換えれば、要因・格差によって価格が決まるのではなく、需要と供給によって決まるであろう価格を予測し、それに合わせて都合の良いデータを取捨選択・加工をするということである。
結局のところ、公的評価に合わせてデータを加工・修正の上、比準作業を行うことになるのであるが、『赤信号皆で渡れば恐くない』と言うとおり、科学的に証明できないので、公的評価格に合うようにレポートを作る他はない。
不当鑑定と認定されたケースは、公的評価格がないか、あっても実情とかけ離れた価格しかないような地域、ないしはデータ不足によるものと思われる。
そのような状況下では、悪くいえばどのような価格(ストライクゾーンはあると思うが)でも評価可能となるが、後は評価者の良識・常識次第ということになる。
STAP細胞問題では、レポートのコピペ・データの差換え等が問題にされたが、鑑定評価書はコピペ・データの差換えのオンパレードといったら言い過ぎであろうか。
幸いにして、評価書を取巻く関係者が少ないので、コピペ・データの差換え等による結論への誘導等は、問題になることは少ない。
(もっとも、このこと自体、評価者の良識の問題で、第三者には知るよしもない。)
以上みたように、評価自体は評価者の意見(同じデータを使用しても、評価者が異なれば価格も異なることが多い)であって、事実の検証や証明ではない。
再現性がないのにあたかも再現性があるかのような誤解を与えたために、専門家の意見を入札で求めるという論評にも値しないことを蔓延させ、反省の動きもないことに、失望の念を禁じ得ない。
(さすがに裁判所鑑定ではこういう馬鹿なことはしていないが)
TPP加盟によって知的サービス分野の開放も迫られると思うが、我が国の評価書の作成方法や評価プロセスのあり方等について、再検討を迫られるかもしれないと思っている。
アメリカから移入した評価基準を日本流に焼き直しているが、我が国独特の進化(?)を遂げ、ガラパゴス化しているようにも思われる。
最後に、ドイツ証券が発表した「TPPが不動産セクターに与える影響について」の中で、『日本独自の資格である不動産鑑定士などの有名無実化』という指摘については、真摯に受け止める必要があるのではと考える。
以上、愚にも付かないことをくどくどと書いてしまったが、全てを見通すことができる神様のような期待される鑑定士になり損なった引退間近の年寄りのタワ言として、読者諸兄のご容赦を願うものである。
ASA(米国鑑定士協会)の会員となって5年弱になるが、その間に、機械設備評価の養成講座を受講した。
その中で、ASAのインストラクターから再三言われたのが、評価に正解はないということであった。
評価者によって結果が異なるのは当然であり、大事なのは評価プロセスにおける評価者その人自身の論理的一貫性と、他の専門分野に属する事項についてはコメントしないということであった。
確かに評価は一定のルールを適用して計算するものではなく、まさに専門家の意見・判断が問われるものであるから、一定の様式の空欄を埋めれば良いというものではない。
ASAでは、そのような観点から、レポート様式を示してはいない。
筆者は、ASAの在米会員のレポートを見た訳ではないが、関係者(日本資産評価士協会)の話によれば、評価者がルールに則して(アメリカはルール主義)それぞれ腕をふるって記述しているということであった。
ひるがえって我が国の状況をみると、ASAとは対極の状態にある。
標準的な記載例が示されており、極端なケースでは、実務修習テキストを丸写しというのも見られる。
体裁・見映えは良いが、主体的な判断が反映されているかどうかは、残念ながら疑わしい。
更に問題なのは、自分で取引当事者に当たって収集した訳でもない取引事例、それも事例作成割当担当者の個人的判断が加えられて加工されたデータを、そのまま使うよう言われることである。
データの信憑性を確認する手立てもなく、また、誰が加工したかも分からないデータ(特に担当者が配分法を適用して加工したデータ)をそのまま使うより仕方がないのに、データの取扱いについて何の意見表明もしていないことに、問題はないのであろうか。
蛇足ながら、担当者の判断によって加工されたデータは事実とはいえず、その人の意見であることに十分留意する必要があると考える。
(建物価格がゼロとされた建付地の事例にもかかわらず、立派な建物があって使用中というのはザラにある。)
したがって、ASA流に言えば、データの採用に当たっては、その真実性については確認していないと表明すべきであろうと思われる。
原データが間違っていたり、ウソの報告であったりする可能性もある他、加工データの意見を鵜呑みにすると、評価の信頼性は揺らぎかねない。
筆者は実際にそのようなケースに遭遇しているので、取引価格が登記事項にでもならない限り、データの信頼性に不安はつきまとうということになる。
いずれにしても、標準様式の中に調査やデータの信頼性に対するリスク表明がないか、あっても限定的であるため、テキストをコピペしてそのとおりに書いておけば、誰も文句は言えない。
ところで、話は戻るが、あるデータを採用して結論を出そうとしても、目標値に近づかなければデータの差し換え・データの再加工等をして比準することになるが、そのこと自体、誰も問題にはしない。
それは、不動産の取引データが偏在しており、しかもバラツキが非常に大きいからである。言葉を換えれば、要因・格差によって価格が決まるのではなく、需要と供給によって決まるであろう価格を予測し、それに合わせて都合の良いデータを取捨選択・加工をするということである。
結局のところ、公的評価に合わせてデータを加工・修正の上、比準作業を行うことになるのであるが、『赤信号皆で渡れば恐くない』と言うとおり、科学的に証明できないので、公的評価格に合うようにレポートを作る他はない。
不当鑑定と認定されたケースは、公的評価格がないか、あっても実情とかけ離れた価格しかないような地域、ないしはデータ不足によるものと思われる。
そのような状況下では、悪くいえばどのような価格(ストライクゾーンはあると思うが)でも評価可能となるが、後は評価者の良識・常識次第ということになる。
STAP細胞問題では、レポートのコピペ・データの差換え等が問題にされたが、鑑定評価書はコピペ・データの差換えのオンパレードといったら言い過ぎであろうか。
幸いにして、評価書を取巻く関係者が少ないので、コピペ・データの差換え等による結論への誘導等は、問題になることは少ない。
(もっとも、このこと自体、評価者の良識の問題で、第三者には知るよしもない。)
以上みたように、評価自体は評価者の意見(同じデータを使用しても、評価者が異なれば価格も異なることが多い)であって、事実の検証や証明ではない。
再現性がないのにあたかも再現性があるかのような誤解を与えたために、専門家の意見を入札で求めるという論評にも値しないことを蔓延させ、反省の動きもないことに、失望の念を禁じ得ない。
(さすがに裁判所鑑定ではこういう馬鹿なことはしていないが)
TPP加盟によって知的サービス分野の開放も迫られると思うが、我が国の評価書の作成方法や評価プロセスのあり方等について、再検討を迫られるかもしれないと思っている。
アメリカから移入した評価基準を日本流に焼き直しているが、我が国独特の進化(?)を遂げ、ガラパゴス化しているようにも思われる。
最後に、ドイツ証券が発表した「TPPが不動産セクターに与える影響について」の中で、『日本独自の資格である不動産鑑定士などの有名無実化』という指摘については、真摯に受け止める必要があるのではと考える。
以上、愚にも付かないことをくどくどと書いてしまったが、全てを見通すことができる神様のような期待される鑑定士になり損なった引退間近の年寄りのタワ言として、読者諸兄のご容赦を願うものである。
(2014年7月 Evaluation no.53掲載/「 取引事例比較法とウナギの蒲焼き ― 鑑定世界とSTAP細胞現象 ―」)
取引事例比較法とウナギの蒲焼きパートⅡ ― 鑑定世界とSTAP細胞現象 ― Vol.3
2021.08.19
VOL.03 データの測定基準と誤差
比準作業に当たって特に問題なのは、データの測定とその取扱いである。
例えば、幅員データ(誰が測定しても同じと証明できると仮定)を基準とした場合、幅員ランクに応じて格差をつけているが、仮に幅員8mを基準に幅員10mの場合は+2%とすると、9.9mの幅員の場合は±0なのか、限りなく10mに近いのであるから+2%とするかは、結局のところ評価者の考え方次第となる。
しかし、これが9.5mならばどうするのか、9mならどうするのか等と考えると、どうにもならないのである。
もし、幅員の測定自体に誤差があれば、そもそも比準自体が間違いということになる。
更に、距離による優劣の判断をする場合に、直線距離にすべきか、道路距離にすべきかも科学的な結着はついていない。
道路距離の場合、車が通れる道路にするのか、歩行者しか通れない道路も含めるのか、それともタダ単に公道・私道構わず通れる道路全てを使って最短距離を計測するのかすら議論されていない。
また、距離計測上の誤差は幅員計測の誤差より大きいが、誤差処理の概念すら存在しないのは摩訶不思議である。
昨今、GISの発展から、固定資産税における路線価付設に当たって、距離計測をコンピューターを利用してネットワーク計測を行っているが、軒下道路を通ったり、一方通行道路を逆走したり、あるいは右折左折禁止を無視したりと、社会通念上の距離感と相容れない計測結果を使用して路線価を付設しているケースが多い。
もっとも、接近条件とは歩行時間の長短、という証明があれば話は別だが・・・。
更に問題なのは、測定誤差もさることながら、測点の起終点がハッキリしないことである。
例えば、駅接近といっても、起点を駅舎の入口にするのか、改札口にするのか、それともホームの中央にするのかも判然としない。
小学校も同じで、正門にするのか、通用門にするのか、それとも校舎玄関にするのか。
敷地が広いので、数百メートルの差異は普通である。
それぞれの評価者が適当に起点を決めて測定しているといったら、語弊があるのであろうか。
バス停にしても同じである。
上り・下りのバス停が向かい合わせにあるのならともかく、一街区ずれていたり、降車専用・乗用専用のバス停はどうするのか等、悩みは尽きない。
比準表による比準作業以前のデータそのものの起終点の判定基準の作成すらままならないのである。
地価公示地においても、距離の捉え方が評価者によって異なり、6年前は駅まで1㎞と表示してあったのに、平成26年公示では、近道ができたわけでもないのに800mと、200mも短くなっている。(どのルートを通るかで、距離は変わる)10年間位のスパンでみれば、幅員や距離が変化(?)しているのが良く分かるのである。
このことは、とりもなおさず幅員・距離等の比較的確認しやすいデータでさえ測定の仕方によって変化するのであるから、環境要因のようにある意味主観的な要因は、評価者によって変わるのは当然というべきである。
それでも評価格がある一定の水準に収まっているのは、結論が先にあって、それに合わせて要因を調整しているからに他ならない。
言葉を換えれば、鑑定評価とは科学を粧って、データを使って結論を後付けする作業ということになる。(反省!!)
つまり、取引事例比較法による比準価格は、想定ないし予想される、あるべき価格に見合うデータを採用するからこそ各データから得られる結果は見事に結論に見合う形で収斂する(させているというべきか、お見事!!)。
以上のように、比準作業は結論から仮説を立てて演繹的に推論しているだけで、たとえて言えば、ウナギの蒲焼きを作ることに似ている。
ウナギの蒲焼きを作るときは、まずウナギの頭を千枚通しで固定し(結論)、その上で尻尾(データ)に向かって腹ないし背中から包丁を入れてさきおろす。
この反対に、もしウナギの尻尾を固定すると、ウナギは逃げようとして身をかわすため、うまくさばくことはできない。
つまり、結論にうまく到達できない。
取引事例比較法の適用における比準作業は、まさにウナギの蒲焼きを作る作業そのものではないか。
上手にできるかどうかは、ウナギ(データ)と料理人(不動産鑑定士)次第ということになる。
我々は名料理人たるべきなのか、科学者(もどき)たるべきなのか、はたまた料理の鉄人たる科学者であるべきなのか。
あれこれ考えると、いつまでたっても寝不足の日々は解消されそうにもないが、気がついたら終活の日々が近づいてしまった。
比準作業に当たって特に問題なのは、データの測定とその取扱いである。
例えば、幅員データ(誰が測定しても同じと証明できると仮定)を基準とした場合、幅員ランクに応じて格差をつけているが、仮に幅員8mを基準に幅員10mの場合は+2%とすると、9.9mの幅員の場合は±0なのか、限りなく10mに近いのであるから+2%とするかは、結局のところ評価者の考え方次第となる。
しかし、これが9.5mならばどうするのか、9mならどうするのか等と考えると、どうにもならないのである。
もし、幅員の測定自体に誤差があれば、そもそも比準自体が間違いということになる。
更に、距離による優劣の判断をする場合に、直線距離にすべきか、道路距離にすべきかも科学的な結着はついていない。
道路距離の場合、車が通れる道路にするのか、歩行者しか通れない道路も含めるのか、それともタダ単に公道・私道構わず通れる道路全てを使って最短距離を計測するのかすら議論されていない。
また、距離計測上の誤差は幅員計測の誤差より大きいが、誤差処理の概念すら存在しないのは摩訶不思議である。
昨今、GISの発展から、固定資産税における路線価付設に当たって、距離計測をコンピューターを利用してネットワーク計測を行っているが、軒下道路を通ったり、一方通行道路を逆走したり、あるいは右折左折禁止を無視したりと、社会通念上の距離感と相容れない計測結果を使用して路線価を付設しているケースが多い。
もっとも、接近条件とは歩行時間の長短、という証明があれば話は別だが・・・。
更に問題なのは、測定誤差もさることながら、測点の起終点がハッキリしないことである。
例えば、駅接近といっても、起点を駅舎の入口にするのか、改札口にするのか、それともホームの中央にするのかも判然としない。
小学校も同じで、正門にするのか、通用門にするのか、それとも校舎玄関にするのか。
敷地が広いので、数百メートルの差異は普通である。
それぞれの評価者が適当に起点を決めて測定しているといったら、語弊があるのであろうか。
バス停にしても同じである。
上り・下りのバス停が向かい合わせにあるのならともかく、一街区ずれていたり、降車専用・乗用専用のバス停はどうするのか等、悩みは尽きない。
比準表による比準作業以前のデータそのものの起終点の判定基準の作成すらままならないのである。
地価公示地においても、距離の捉え方が評価者によって異なり、6年前は駅まで1㎞と表示してあったのに、平成26年公示では、近道ができたわけでもないのに800mと、200mも短くなっている。(どのルートを通るかで、距離は変わる)10年間位のスパンでみれば、幅員や距離が変化(?)しているのが良く分かるのである。
このことは、とりもなおさず幅員・距離等の比較的確認しやすいデータでさえ測定の仕方によって変化するのであるから、環境要因のようにある意味主観的な要因は、評価者によって変わるのは当然というべきである。
それでも評価格がある一定の水準に収まっているのは、結論が先にあって、それに合わせて要因を調整しているからに他ならない。
言葉を換えれば、鑑定評価とは科学を粧って、データを使って結論を後付けする作業ということになる。(反省!!)
つまり、取引事例比較法による比準価格は、想定ないし予想される、あるべき価格に見合うデータを採用するからこそ各データから得られる結果は見事に結論に見合う形で収斂する(させているというべきか、お見事!!)。
以上のように、比準作業は結論から仮説を立てて演繹的に推論しているだけで、たとえて言えば、ウナギの蒲焼きを作ることに似ている。
ウナギの蒲焼きを作るときは、まずウナギの頭を千枚通しで固定し(結論)、その上で尻尾(データ)に向かって腹ないし背中から包丁を入れてさきおろす。
この反対に、もしウナギの尻尾を固定すると、ウナギは逃げようとして身をかわすため、うまくさばくことはできない。
つまり、結論にうまく到達できない。
取引事例比較法の適用における比準作業は、まさにウナギの蒲焼きを作る作業そのものではないか。
上手にできるかどうかは、ウナギ(データ)と料理人(不動産鑑定士)次第ということになる。
我々は名料理人たるべきなのか、科学者(もどき)たるべきなのか、はたまた料理の鉄人たる科学者であるべきなのか。
あれこれ考えると、いつまでたっても寝不足の日々は解消されそうにもないが、気がついたら終活の日々が近づいてしまった。