疑似科学と反知性主義 ―鑑定評価の不都合な現実― ~ Vol.5
2023.10.05
VOL.05 反知性主義からの脱却

 佐藤優氏の言葉が重く筆者の肩にのしかかってくるが、悲観的になり過ぎると世捨人になるしか方法がなくなるが、残された人生で少しでもいいから反知性主義から遠ざかってみたいものと思っている。

 ところで、同書によれば、物事を理解するときに、二つのアプローチがあるとし、「現象論」と「存在論」に分けて説明している。

 現象論の代表は、新聞・雑誌・TV・ネット等で報じられるニュースで、同じ事柄を扱っていても、それぞれの人(あるいはその人が属する集団)の利害・関心によって、かなり異なった認識が導かれるとしている。

 人間社会で生起する現象で、純粋に客観的な認識というものはありえないので、そこからある事象を取り上げ、それ以外の大部分の事柄を無視し、理解可能な物語にするという編集作業が、必ず行われていると指摘している。

 そして、面倒なのは、この編集が必ずしも意図して行われるものではないので、物語を構成した人も、自らの偏見についての認識が難しく、したがってその矯正はほぼ不可能だとしている。

 少なくとも、筆者も同様に鑑定評価書において結論に至るストーリーを構成しているが、経験による慣れが無意識化を助長しているため、自分自身を矯正することは難しいということになる。

 これを克服するためには、存在論的なアプローチが不可欠であるとし、目に見える現象の背後にある、目に見えないが確実に存在する何か(愛・友情・信頼等)を掴むことが必要であるとしている。

 このことを存在論的アプローチとしているが、ある意味哲学的命題でもあり、凡人には手に余るが、何かを掴みたいと悪戦苦闘している。

 とにもかくにも、知性を身につけるためには読書が必要であり、ネットに頼り切りになる態度は反知性主義となることに留意しなければならないと思っている。

 ネットを捨て、書の世界に行く機会を増やさないと、今後ますます反知性主義が蔓延し、国家は存亡の危機に立たされるのではと、一人心配している。

 詳しい内容は佐藤氏の「知性とは何か」に譲るとして、同書のあとがきから、自戒の意味をこめて復唱し、筆を置くこととする。

 『反知性主義の罠にとらわれないようにするためには、知性を体得し、正しい事柄に対しては「然り」、間違えたことに対しては「否」という判断をきちんとすることである』とし、そのための三箇条を挙げている。

 第一条:自らが置かれた社会的状況をできる限り客観的にとらえ、それを言語化する。

 第二条:他人の気持ちになって考える訓練をする

 第三条:「話し言葉」的な思考ではなく、自分の頭の中で考えた事柄を吟味して発信する「書き言葉」的思考を身につけること。



(2016年10月 Evaluation No.62掲載/「疑似科学と反知性主義―鑑定評価の不都合な現実―」)

2023.10.05 09:36 | 固定リンク | 鑑定雑感

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