愚か者と軋み合わない世の中 Vol.3
2020.09.10
VOL.03 情報管理社会とトレーサビリティ 

昨今、食品情報を中心にトレーサビリティが重視されている。

 つまり、トレーサビリティとはある食品等が何時・何処で・誰によって作られたかが追跡可能であることをいう。
 これからは人間も食品のようにトレーサビリティが可能となる日が近いものと思われる。

 つまり、生体埋め込み型のマイクロチップは既に開発され、利用可能な状態にあることから、人間に対するトレーサビリティが可能かどうかは国民的コンセンサスが得られるかどうかだけの問題となる。

 近未来を想像すると、人間は生まれたらすぐに個人情報を書き込まれたマイクロチップが体内に埋め込まれる。
 後は追加的に家族関係・金融・税・病歴・学歴等の個人にかかわる全ての情報がマイクロチップに記録される。
 その結果、国民は身分証明書・運転免許証・銀行通帳・パスポート等の所持が一切不要となる。
 更にマイクロチップにGPS機能が付加されると、辞書から行方不明という言葉が消えるかもしれない。
 このことによって迷宮入りの事件は激減し、振り込め詐欺等の見えにくい犯罪も大きく減少するものと思われ、犯罪抑止に絶大な威力を発揮することになる。
 安心・安全のために国民が個人のプライバシーの全てを国家権力に委ねるつもりなら、直ちに実行可能な方法であると思われる。

 今のところ、いくら不安な社会でもこのようなことを望む国民は少ないと思うが、社会が更に不安定化し、犯罪が増加或いは相互不信が増大するようであれば、国民の不安を取り除くために福田元総理風に言えば安心・安全な社会のために必要という流れになり、生体マイクロチップが体内に埋め込まれる日が来ないとも限らない。

 個人的には生体マイクロチップによって安心・安全な社会が来るという保証は必ずしもないと思うが、国家権力にとっては国民全てを監視下に置くことが出来ることから、こんな都合の良いことはない。

 ところで、一気に生体マイクロチップに行くことはないとしても、少なくとも車にGPS機能付のマイクロチップが搭載される日は近いものと思われる。
 車であれば個人情報とは直接的な関係は少ないので、生産時に搭載し、その後販売店で所有関係の情報を登録すれば後は交通管制センターで常時モニタリングできることになる。

 そうなると、盗難車輌の追跡や駐車違反・スピード違反の取り締りも街頭で行う必要性がなくなり、事故や犯罪等の抑止に絶大な力を発揮するものと思われる。

 案外、抵抗の少ないこのような情報から、国家管理が進むのかもしれない。

 国民は民主主義をマッカーサー(連合国)によりプレゼントされたため、本当の民主主義とは何か、またその有難さを理解することが十分にできていないと思われる。

 したがって、民主主義の根幹にかかわる情報統制・管理等の恐ろしさが理解できないでいる。

 戦前の情報統制の恐ろしさを知る人が少なくなり、安心・安全と引換えに情報統制・情報管理を受入れ、牧場の羊となる日が近いのかもしれない。
2020.09.10 16:12 | 固定リンク | 鑑定雑感
愚か者と軋み合わない世の中 Vol.2
2020.09.03
VOL.02 やがて来る総監視社会 

 自己の確立に乏しい国民は、社会不安は国の責任と転嫁し、自らの努力によって少しでも解決しようとする気持は少なく、体制の中で権力によって守られる心地良さに身を委ねることになる。

 その行き着く先は独裁国家であるが、グローバル化された国際協調の時代にはそこまで行くことはないと思われる。

 しかし、もっと始末が悪いのは、民主主義の名の下に巧妙に国民を監視し、一部の権力者に都合の良いシステムが作り上げられることである。

 幸い、個人情報保護法があるので国家権力にとって都合の悪い情報はトコトン隠そうとする。

 個人情報保護法は、国民のプライバシーを保護することを名目に作られたが、実は国家権力にとって都合の悪い情報を公開しないことを真の目的としているとしか思えないことがある。

 いずれにしても、個人情報保護法の内容を良く理解していないにも拘わらず個人名が記載されていたら全て同法の対象になると断言する役所の人間や市民にはウンザリする。

 一般市民や地方の役所の人間がこの程度のレベルであるから、国家権力にとってこの法律を恣意的に運用するのは朝飯前である。
 
 気がついたら個人情報を全て握られ、国家権力にとって都合の悪いことは一切できなくなる世の中が来るのかもしれない。

 イヤ、国家権力は本当にそうしたいと願っているのかもしれない。
2020.09.03 16:10 | 固定リンク | 鑑定雑感
愚か者と軋み合わない世の中 Vol.1
2020.08.27
VOL.01 事件の多発と社会不安

 昨今、通り魔的な事件がマスメディアを賑わせている。

 私も含めて、一般市民は殺人事件が急増していると思いがちであるが、実際のところ殺人件数は減少していることから、殺人事件に限れば、マスコミが騒ぐほど危険な世の中になってはいないことになる。

 ところで、何故かくも危険な世の中になったかのような錯覚に陥っているかと言えば、それはマスコミの過剰報道と、カーネマンの行動経済学的に言えばそれに帰因するヒューリスティクスのバイアス(代表性・利用可能性等の偏り)による市民の誤解によるものと考えられる。

 特にテレビの威力は絶大であり、大は国家レベルから、小は一般市民レベルまで大きな影響を受けている。
 報道の自由のもとに、時には基本的人権さえ超越する場合も見られ、困ったものである。

 意地悪い見方をすれば、事件報道を煽ることにより、国民の不安を増大させ、それを理由に国家が国民を厳重に監視することを容認させようとしているのではと考え込んでしまう。

 街中に監視カメラが氾濫し、電話もメールも全て監視されつつあるが、そのことが犯罪防止のためにだけ行なわれているという保証はどこにもない。
 国民の不安が増大すれば、ただでさえ自己の確立に乏しい一般市民にとっては、国家権力による監視体制は心地良いものに感じるのであろう。

 その結果どういう国になるのかは、歴史を見れば容易に察しがつこうというものである。
2020.08.27 16:08 | 固定リンク | 鑑定雑感
DCF法はアートな世界? Vol.8
2020.08.20
VOL.08 DCF法はアートかサイエンスか 
 前述したように、DCF法のプロセスの大半は恣意性の入る余地が大きく、また、依頼者と鑑定士の力関係が大きく作用するため、尚一層恣意性が拡大する傾向があるのは否定できない。

 私の尊敬する大阪のG先生はDCF法を評してこれはアートであると喝破したが、まさしくそのとおりと膝を打ったものである。

 赤字不動産を机上で黒字にしたり、利回りを操作して上げ下げ自在のDCF法による収益価格をどうやって検証したら良いのか、私には解らない。

 もっとも、検証の必要性がないのでこれらの評価が横行していると考える他はないのであるが。

 計算すれば価格は出てくるが、計算結果イコール評価とは言えまい。
 昨今はコンピュータの普及により計算上手な鑑定士が増えたが、評価というのは単なる計算とは異なると思っている。

 いずれにしても、データ万能主義になるとデータを握る者が評価を制することになる。
 特にDCF法に必要な各種データは、組織的・継続的に蓄積していくことが必要であるが、地価公示に依存した体制では、データの蓄積に無理があると考える。
 これらのデータは自分達で集め、分析するのではなく、外部の研究機関や調査会社に委託して行なう方が早道と考える。
 個人事務所では、データを収集する時間も費用も分析する時間もないのである。
 大手業者と個人零細は益々二極化し、格差の拡大に伴い大半の個人事務所は下請け・孫請け仕事に甘んじる他はなくなる。
 依頼者に力負けする業者は、依頼者の意向に添ってアートに邁進する他はなくなる。
 アートな評価書を見たいとは思わないが、アートな評価書が氾濫しつつあるのも事実のようである。

 しかしそれは人目につくことは少ないので、この流れを止めるのは難しい。
 結局はコップの中の嵐、アートな評価を社会が必要とし、それで皆がハッピーであればそう目くじらを立てる必要もないと腹をくくっていきたいが、これで良いのかと自問自答する日が続く。
 全て商売優先、依頼者が欲しいのは自分に都合の良い答え。

 ピッチャーから給料をもらっている審判が、厳しい判断をしてピッチャーを潰すことはできない。
 つまり、依頼者にお金をもらって仕事しているのに、依頼者の意向を無視することはできないということである。

 商売の基本はお客様第一主義であり、基本的には顧客満足度が全てである。

 公正・中立な判断が必要なら、依頼者から直接お金をもらってはいけないと思うが、どうであろうか。

 少なくとも他の商売では依頼者(消費者)に満足を与えることができなければ商売は成り立たない。

 したがって、現行の状況下では依頼者の満足を得なければ仕事はこないのであるから、アートなDCF法の世界は暫くの間続くものと考えざるを得ない。

(2008年5月 Evaluation no.29掲載)

2020.08.20 09:58 | 固定リンク | 鑑定雑感
DCF法はアートな世界? Vol.7
2020.08.13
VOL.07 DCF法と利回り 

 DCF法による収益価格が恣意的に操作しやすいのは、キャッシュフローばかりではなく利回りの求め方にもよる。

 教科書的にいくら力説してみても、立証・検証可能な利回りを求める方法はない。
 利回りを少し操作するだけで価格は大きく変動する。

 まして、採用した利回りを第三者が批判しようとしても立証できないのであるから、どうにもこうにも止まらない。

 個人的には、第三者機関、できれば大学等の研究機関に数年の期間と億単位の費用を投じて本格な研究をしてもらい、その成果を利用させてもらうのが一番と考えている。

 鑑定協会は、本来鑑定士個人の手に余るこのようなケースについて外部の研究機関の力を借りてオーソライズすれば自ずと評価は定まり、会員の協会に対する帰属意識の高揚に役立つかもしれない。
 現在のように個人個人の鑑定士の力量や鑑定業者の資本力が大きく異なる中で、適正かつ公正な評価を期待することは無理と考える。
 
 一説によれば、Jリート物件の評価は業界大手の上位数社、厳しくいえば3~5社程度が独占し、個人事務所がこれらの評価をする機会はないと思われる。

 しかし、同じくDCF法を活用するプライベートファンドの評価においては小さな物件もあるので、個人事務所も依頼を受けることがある。
 しかしその場合にはファンド側に思惑があるため、清く正しい評価を貫くことは難しい。
 依頼者の意に添わなければ仕事はキャンセルされる。
 依頼者に都合の良い鑑定士はいくらでもいるのである。

 このような中で孤高を保ち、信念を貫くのは並大抵のことではない。
 営業する時間のない個人事務所では特にそうである。
 今日、明日の飯の前に良心がぐらつくことを非難することはできない。

 またまた話が逸れたが、利回りを求めるのは非常に困難である。

 あるプライベートファンドに係る評価で著名な先生の評価書を見たことがある。

 利回りに関する著作をものにしている先生なので、さぞかし説得力のある科学的な方法で利回りを求めているのではないかとワクワクしながら評価書を読ませてもらった。

 結果は、ガッカリである。

 まず評価書本文の約半分が、役所の統計書のコピーである。
 そして利回りの決定は著作を引用し、だから適切・妥当としているが、本当かなと首を傾げざるを得なかった。
 著作のない人はどうするのかとツッコミたくなったが、利回りを求めるプロセスを抽象的に語ることはできても、それを具体的に、しかも説得力ある方法で求めることは至難の業である。
 本当に客観的・科学的に求める方法があるのなら、ノーベル賞ものだと思うのだが。

 我が業界は、抽象的な議論は好きだが具体論になるとトント話が進まないのは何故なのであろうか。

 個人的には、これらの問題を内部で解決しようとする傾向が強いからではないかと思っている。
 もっと外部の研究機関の力を借りて、抽象論ではなく具体的な方法を研究・開発してもらっても良いのではないかと思っている。
2020.08.13 09:57 | 固定リンク | 鑑定雑感

- CafeLog -