ホモ・エコノミクスとゴルゴ13 Vol.5
2013.06.20
VOL.05 経済は感情で動く

 マッテオ・モッテルリー著の『経済は感情で動く』(紀伊国屋書店)という本は必読である。

 この本は、近代経済学の落とし穴であるホモ・エコノミクスの限界を、現実の行動経済学の立場から解説しているが、思わず成程とうなってしまうほど面白い。

 現実世界は近代経済学では説明できないが、この原因は現実世界の人間は必ずしも合理的に行動できないということであり、そのことが色々な実験で検証されている。

 言葉を換えれば、人間は非合理的な生き物であるから人間だ、ということである。
 本書を引用すれば



 合理性の従来のモデルは大きな枝が三本ある木である。
 三本の枝はそれぞれの理論を表すが、一つの形式的な構造を共有している。
 つまり、比較的簡単でわかりやすい自明の理から、厳密な結論を引き出す。



 としている。

 具体例として「結論断定の誤り」を上げ、次のように説明している。

  ・サッカー選手ならリンゴが好きだ。

  ・ボボはリンゴが好きだ。

  ・だから、ボボはサッカー選手なのだ。

 「たとえ前提が二つとも真実でも、結果が誤りとなることがあるのが、このケースからすぐにわかる」としている。

 つまり、リンゴか好きだからといって、必ずしもサッカー選手とはいえないということである。

 すなわち、前提が真実でも、だからといって結論が真実であるとは必ずしも言えないということの例である。


 鑑定評価手法の適用の各段階で、似たようなことが行なわれている。

 つまり、取引事例比較法でいえば、取引事例が真実だとしても、結論が真実であるとは必ずしもいえないということである。
 取引事例という真実からスタートしても、各種の補正・要因比較の中身は仮説にすぎないことから、鑑定評価額という結論が真実であるという保証はない。
 そこにあるのは、「もっともらしい」ということにすぎない。

 この本に紹介されているダニエル・カーネマンという心理学者は2002年にノーベル経済学賞を受賞しているが、カーネマンの理論によれば、現実世界の人間は不確実性のもとでは必ずしも合理的な意思決定をしないということを指摘している。

 田舎モンの私にはこれまでの経済学は難解で理解できないことも多いが、カーネマンの現実世界の非合理的な意思決定を行なう人間の行動に着目し、多数の実験によってこれまでの伝統的な経済学の理論から「ある規則」によって外れることを実証し、これまでの理論に代わる「プロスペクト理論」を提唱した。

 同書の解説によれば「プロスペクト理論」とは、カーネマンとトヴェルスキーが提唱した実証的な意思決定理論である。

 標準的な経済学では「期待効用関数=効用×それが起こる確率」で計算するが、その時の確立には客観的な数値をあてる。

 これに対し、「プロスペクト理論」では、期待効用関数の代替理論として考察されたもので「価値関数」と「確立加重関数」からなる。
 価値関数は絶対的価値ではなく、評価の基準となる参照点からの変化で得られる。
 確立加重関数とは、確率に主観的な重みがあることをいう。

 この理論によれば、人間は一般的に利得の場合では危険回避型(確実性を好む)、損失の場合では危険追求型(賭けを好む)になり、利得・損失が小さい場合は変化に敏感で、大きくなると変化に鈍感になり、利益と損失が同額であれば利得獲得による満足度より、損失負担による悔しさの方が大きいと感じる(同書131ページ)。

 この説明を呼んで、つくづく本当にそうだと思う他ない。

 ところで、実験に用意された質問を見ると、目からウロコである。
 この本では人間が色々な経済行動を起こすとき、どのような非合理的な意思決定を行なうかを教訓として例示している。

 一例を挙げると、

  ①「お金の価値は一定」は幻想である。
   同じ一万円でも、人は状況と文脈によって違ったように考える。
   ギャンブルや宝くじで得たお金と、汗水流して稼いだお金は同じではない。(以下、省略)

  ②選択肢が一つなら迷わない。
   選択肢が増えるほど迷いは深くなる。

  ③選択する場合では、「肯定面より否定面」に目が行きやすい。

 以上の例を見てわかるように、一見合理的に考えて行動しているようでも、実は様々な場面で非合理的な行動をしていることがわかる。

 その他に特に注目された理論をいくつか紹介することとする。
 なお、詳しくは同書を是非書店で購入し、熟読していただきたい。


  ①選好の逆転
    標準的な経済学では人の嗜好や好みは一定で変化しないと捉えるが、
    「行動経済学」では状況や文脈で変化するものとみなす。

  ②保有効果
    自分が所有するものに高い価値を感じ、手放したくないと感じる現象。
    つまり、自分のものになると値(価値)が上がる。

  ③サンクコストの過大視
    先行投資額が巨大だと、損失回避の傾向から人は未来の予測をしばしば誤る。

  ④アンカリング効果
    最初に印象に残った数字や物が、その後の判断に影響を及ぼすこと。


 次に、意思決定や判断にあたって重要と思われるヒューリスティックについてみることにする。

 同書によれば、ヒューリスティックとは厳密な理論性を有するアルゴリズムとは対極にある、直感で解決方法を見出すことと定義しているが、日本語で一番近いのは、個人的には「目の子算」ないし「ヤマ勘」と思っている。

 人間は確かな手がかりのない不確実性の状況下ではヒューリスティックを取りがちだが、そのために時に非合理的な判断と意思決定をすることを実証した。
 カーネマン教授らによれば、これにより「完全合理性」の人間像を仮定した標準的な経済学の誤りを指摘したが、このことの意味は大きい。

 鑑定理論も完全合理性を前提とした部分が多く見られるが、カーネマンの行動経済学を見るまでもなく現実の不動産市場は不完全であり、不動産取引に関わる人間も案外非合理的な意思決定ないし選択をしている。

 したがって、鑑定理論も行動経済学の視点から再点検が必要と思われる。
2013.06.20 09:43 | 固定リンク | 鑑定雑感
ホモ・エコノミクスとゴルゴ13 Vol.4
2013.05.11
VOL.03 近代経済学とホモ・エコノミクス

 近代経済学では、自己の経済的利益を極大化することを唯一の行動基準として行動する人間をホモ・エコノミクスとして定義し、理論的分析を行なっている。
 これは、標準的な経済学の理論の前提となっているが、ホモ・エコノミクスの仮想世界の人間である。

 ところで、ホモ・エコノミクスの前提条件は一般的に次のような要件を備えているものとされている。


  ①自らの効用を最大化する行動を選択するため、あらゆる情報を駆使し、利用する能力がある。

  ②決定した経済行動は不変である。誘惑に負けることは絶対になく、意志は強固である。

  ③自己の利益のためにのみ行動する非常な人間である。
   ボランティアなんぞは論外と考える道徳・倫理とは無縁の世界の存在である。


 鑑定理論も、ホモ・エコノミクスを前提に構築されている。
 しかし、現実の不動産はある意味で極めて不合理な存在でもある。

 たとえば、最近のエコブームに見るように、自然環境は大事だと言いながら、自然環境の良い土地の経済的価値は低い。
 自然環境が良いとは、つまるところ都市的便益がないということであり、その意味で経済的価値は低いと考えるのが一般的である。

 現実の人間は極めて非合理的な生物である。

 都会にいながら自然環境を望み、田舎にいながら都会の便利さを求めたがる。
 混んでいる都会の電車も嫌だが、タマにしか来ないガラガラの田舎の電車も嫌というように、その我儘はキリがない。
 現実世界の人間は情報を十分に持ち合わせてはいないし、その情報を駆使する能力もない。
 経済行動も不変とは程遠く、その日のうちに変化する。

 上野の不忍池の矢鴨は可哀想だと大騒ぎする情緒的な側面がある一方、鴨鍋を食べに行こうとする非情な側面もあって、現実世界の人間行動は不可思議である。
2013.05.11 09:33 | 固定リンク | 鑑定雑感
ホモ・エコノミクスとゴルゴ13 Vol.3
2013.05.10
VOL.03 現実社会と標準的経済学の世界

 現実世界は、経済学が予定している調和点を見つけ出すことが出来ず、大きくダッチロールしている。

 金融工学が発展し、金融商品のリスク分析が可能(?)となったため、金融商品市場は大きく拡大した。
 リスク分析を基に、リスクヘッヂを行い、確実に安定的にリターンを手に入れることは可能と喧伝され、機関投資家も一般市民も金融商品市場に殺到した。

 つまり、プロもアマも金融商品市場は株式市場より安全と錯覚したのである。

 不動産の証券化商品も金融商品の一角を占め、DCF法による評価に基づいた証券化不動産であるから絶対安全と言っていた人がいるが、サブプラ イムローン問題の発覚を機に、その影響は世界に拡散した。
 日本市場は相対的に安全とされていたが、フタを開 ければ主要大手金融機関だけで1兆5千億円の損失が発生した。
 もっとも、いくら損をしても所詮国民の金であり、金融機関にとっては痛くも痒くもないのである。
 損をしたのは金融機関だけではなく、金融機関にお金を預 けていた国民であるのに、その自覚は国民にないのであるからお目出度いものである。

 話がそれたが、サブプライムローンの問題は、国内不動産市場にも大きな影響を与えている。
 
 不動産鑑定士が社長を勤める大阪のプライベートファンド会社が、今年春に倒産した。
 その後、名古屋のファンド会社も倒産した。
 つい最近では、グローバンスというファンド会社が倒産している。

 いくら理屈を並べてみても、現実世界は必ずしも経済合理性に基づかないようである。
 
 その意味で、近代経済学は現実世界と遊離した仮想世界を分析の対象としているのではないかと考える他はない。

 鑑定理論も、その意味で限界があるのは否定できない。
2013.05.10 09:29 | 固定リンク | 鑑定雑感
ホモ・エコノミクスとゴルゴ13 Vol.2
2013.04.05
VOL.02 評価手法と経済分析の限界

 取引事例比較法・原価法・収益還元法のいずれも刻一刻と変化する市場の動向に対応できていない。
 もっとも、市場の変化が要因の変化を伴っているのかどうかさえわかっていないのであるから、結局は市場構造に変化はないという前提で考えるほかはない。

 評価基準の改正によって、比較的動的な分析が可能とされるDCF法であっても、結局は過去の延長上で分析する他はないので、静態的分析の域を出ていないことになる。
 人間の限られた能力では、刻々と変化する市場条件の無限とも考えられる組み合わせを1秒間に数万回も繰り返し計算し、アルゴリズム的に分析することは不可能である。

 一方、経済分析の大半は不動産市場よりはるかに単純な市場を相手にしているが、未だにその分析技術は確立していない。
 もっとも、経済分析が完璧であれば経済対策に困ることはないのであるから、市民はとっくに最大多数の最大幸福を実現し、平穏な生活を手に入れていなければならないことになる。

 ところが、現実の生活はこれと正反対であり、未だに最大多数の最大幸福を実現するに至っていない。

 つまり、比較的単純と思われる市場(株式・債券・為替市場等)でさえ静態論的にも動態論的にも分析はできていないのであるから、不完全極まりない不動産市場を科学的に分析・アプローチする方法がないのは至極当然である。

 したがって、鑑定評価論が完成されたものではないことは当然であり、それにしがみつくのはある意味で滑稽でもある。

 現実の不完全な不動産市場をダイナミックに分析し、より客観性を高めることは必要ではあるが、現実の状況下では現実不可能と思われるほどハードルは高い。
2013.04.05 09:27 | 固定リンク | 鑑定雑感
ホモ・エコノミクスとゴルゴ13 Vol.1
2013.04.04
VOL.01 鑑定理論と不動産取引の現場

 鑑定理論の基本的な考え方は、標準的な経済学を基礎としている。
 不動産は経済財であるから、その価格形成は市場原理に委ねられていることになる。
 市場における経済の動向を分析し、市場における行動心理を理論化したのが経済学であると私は理解している。

 標準的な経済学では、市場における人間の行動は完全に合理的であると仮定した上で複雑に絡み合う経済行動を抽象化して理論が組み立てられている。

 また、一般的に一定の条件の制約下における経済行動の分析が静態的分析、一定の条件が変動することを前提にした分析が動態的分析である。

 鑑定理論はどちらかというと、完全市場における市場条件が一定、つまりある条件下における経済合理性に基づく経済人の行動を前提に理論が構築されているものと理解される。
 つまり、静態的分析の上に理論が構築されているため、現実の市場に立ち向かうと違和感を覚えることになる。

 不動産取引の現場は極めて不完全でダイナミックに変動する市場であり、取引情報の非開示性や経済合理性に基づかない、すなわち主観的な事情に基づく取引が多く、静態論的経済学を基礎とする鑑定理論をもって現実の不動産市場を説明することは相当困難な作業となる。

 我々は不動産の完全市場を現実に見たことはない。
 したがって、現実の不完全市場が完全市場とどの程度遊離してるかということを身をもって感知することはできない。

 何時の日か仮想世界でもいいから不動産の完全市場がどういうものかを見たいものである。
2013.04.04 09:24 | 固定リンク | 鑑定雑感

- CafeLog -