DCF法はアートな世界? Vol.8
2020.08.20
VOL.08 DCF法はアートかサイエンスか 
 前述したように、DCF法のプロセスの大半は恣意性の入る余地が大きく、また、依頼者と鑑定士の力関係が大きく作用するため、尚一層恣意性が拡大する傾向があるのは否定できない。

 私の尊敬する大阪のG先生はDCF法を評してこれはアートであると喝破したが、まさしくそのとおりと膝を打ったものである。

 赤字不動産を机上で黒字にしたり、利回りを操作して上げ下げ自在のDCF法による収益価格をどうやって検証したら良いのか、私には解らない。

 もっとも、検証の必要性がないのでこれらの評価が横行していると考える他はないのであるが。

 計算すれば価格は出てくるが、計算結果イコール評価とは言えまい。
 昨今はコンピュータの普及により計算上手な鑑定士が増えたが、評価というのは単なる計算とは異なると思っている。

 いずれにしても、データ万能主義になるとデータを握る者が評価を制することになる。
 特にDCF法に必要な各種データは、組織的・継続的に蓄積していくことが必要であるが、地価公示に依存した体制では、データの蓄積に無理があると考える。
 これらのデータは自分達で集め、分析するのではなく、外部の研究機関や調査会社に委託して行なう方が早道と考える。
 個人事務所では、データを収集する時間も費用も分析する時間もないのである。
 大手業者と個人零細は益々二極化し、格差の拡大に伴い大半の個人事務所は下請け・孫請け仕事に甘んじる他はなくなる。
 依頼者に力負けする業者は、依頼者の意向に添ってアートに邁進する他はなくなる。
 アートな評価書を見たいとは思わないが、アートな評価書が氾濫しつつあるのも事実のようである。

 しかしそれは人目につくことは少ないので、この流れを止めるのは難しい。
 結局はコップの中の嵐、アートな評価を社会が必要とし、それで皆がハッピーであればそう目くじらを立てる必要もないと腹をくくっていきたいが、これで良いのかと自問自答する日が続く。
 全て商売優先、依頼者が欲しいのは自分に都合の良い答え。

 ピッチャーから給料をもらっている審判が、厳しい判断をしてピッチャーを潰すことはできない。
 つまり、依頼者にお金をもらって仕事しているのに、依頼者の意向を無視することはできないということである。

 商売の基本はお客様第一主義であり、基本的には顧客満足度が全てである。

 公正・中立な判断が必要なら、依頼者から直接お金をもらってはいけないと思うが、どうであろうか。

 少なくとも他の商売では依頼者(消費者)に満足を与えることができなければ商売は成り立たない。

 したがって、現行の状況下では依頼者の満足を得なければ仕事はこないのであるから、アートなDCF法の世界は暫くの間続くものと考えざるを得ない。

(2008年5月 Evaluation no.29掲載)

2020.08.20 09:58 | 固定リンク | 鑑定雑感

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