ヒラメと徒弟制度と実務修習 Vol.2
2013.10.27
VOL.02 法令遵守とマニュアル

 減点主義教育の弊害の最たるものが、法令遵守とマニュアルである。
 
 いずれも経済のグローバル化にともなって我が国においても盛んに使用されている。
 法令遵守とマニュアルが人の行動規範として強要され、それに従わないと罰せられるか排除される。

 法令遵守の目的はどうでもよいのである。
 
 どのような目的で作ったかは問題ではない。遵守することが目的となる。
 その結果、どのような不具合が生じても疑問を持ってはいけない。
 疑問を持ってよいのは、法令遵守を要求する人に傷がつかないときだけである。
 法令を作りその遵守を要求する人にいささかでも傷がつく恐れがある場合は、一切の疑問も批判も排除される。
 
 日本人の大半は、批判と非難の区別ができない。

 ある人に、疑問を投げかけたり論理的な検討をせまると、その人は自分の人格が否定されたと思い、感情的に対応する。
 その結果、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いということになり、親子・兄弟間でも骨肉の争いへと発展する。
 親しい者の間でもこうなのであるから、そうでなければ相手方を徹底的に排除する方向に行ってしまい、甚だしい場合には村八分ということになる。
 批判できる人は信念のある人と思うが、減点主義教育を受けた人は試験結果で人間を見るため、自分より上の者にはへつらい、下の者には尊大になる傾向がある。
 そのため、社会的弱者は批判もできず、ますます内向きになっていく。

 マニュアルについても同様の傾向がみられる。

 誰がやっても同じ結果になることが求められる場合に、マニュアルは威力を発揮する。
 マニュアルは欧米で発達し、日本に導入された。
 当初、家電製品の取扱説明書から始まったようであるが、今や家電製品のみならず、単純作業以外の業務も拡大し、日本はマニュアル大国となった。
 単なる作業マニュアルや取扱説明書なら、それに従ったからといって誰に迷惑をかけるわけでもないので、特に問題なることもない。

 しかし、他人との関係性が必要な業務がマニュアル化されると、ときに悲劇や喜劇が起こる。
 身近な例では、あるドーナツ販売店の店員の対応が思い出される。

 一人で店に行き、20個位のドーナツを注文したとき、『店内でお召し上がりですか、それともお持ち帰りですか』と訊かれたのである。
 いくら何でも、いい年をしたおじさんが一人で店で20ヶのドーナツを食べると思ったのであろうか。
 店員は、客の状態を見た上で質問したわけではないのである。
 とにかく、店に客が来たら、『店内でお召し上がりですか、それともお持ち帰りですか』と機械的に言うようにマニュアルで教育されているからにすぎない。
 マニュアルには相手を見て、人間愛に溢れた対応をしなさいとは書いていないし、また、書けないのである。
 店に来る客は、性別・年齢・職業等様々であるから、相手を見て対応しなさいなんてマニュアルに書くとすると、相手とはどんな人、客を見るということはどういうこと等と、書く内容が際限なく広がるのである。
 したがって、マニュアルとは、できる限り無機質で単純な方が良いことになる。

 昔聞いた話であるが、ホテルのフロント担当者は玄関付近のホールで人が倒れて危険な状況でも持ち場を離れないとか、荷物が無くなったと言っても相手にしてくれないとかいうとこであった。
 マニュアルに対応の仕方が書いていないからということで、一切かまってくれないということであった。
 マニュアルを作るのは管理者の仕事であり、それに書いていないことをやると業務違反ということでクビになるということである。

 もうこうなると、漫画である。
 そのときは、アメリカ人はバカだなと思っていたが、最近の日本もアメリカと同じようになりつつある。

 法令遵守とマニュアル化は、個人の思考プロセスから主体的判断や行動を排除しつつある。
 『国家の品格』の著書である藤原正彦教授ではないが、日本人から憶測の情を取ったら日本人ではなくなると思うのである。
 行き過ぎた法令遵守とマニュアルは、日本文化を破壊し、日本人のアイデンティティーを消滅させかねないと危惧している。
2013.10.27 10:19 | 固定リンク | 鑑定雑感
ヒラメと徒弟制度と実務修習 Vol.1
2013.09.28
VOL.01 減点主義の功罪

 日本を取り巻く環境は、かつてないほど厳しい状況にある。

 ひるがえってみると、ゼロ成長時代に近かった江戸時代を経て、その末期には財政的に行き詰まり、中央(江戸)と地方の対立が激化し、明治維新を迎えた。
 その後は西洋列強に追いつくべく富国強兵を国家目標とした。
 アジアの辺境にあった国が明治・大正・昭和前期と目覚しく発展し、名実共に西洋列強に肩を並べた。
 その後は周知のとおり西洋列強と激しく対立し、それが第二次世界大戦の端緒となり、甚大な人的・物的被害を残し敗戦を迎えた。
 戦後は連合国側の敗戦処理や援助のお陰もあって奇跡的な経済復興を成し遂げ、世界の注目を集めた。
 『ジャパンアズナンバーワン』という本が発行され、有頂天になったことも懐かしく思い出される。

 しかしこれも長くは続かず、バブル崩壊を経て日本経済は長期低迷にあえいでいる。

 とはいえ、明治以降日本がかくも短期的に復興・発展できたのは、教育制度にあると認識している。
 日本の教育システムの特徴は、大量かつ均質的な人材を養成することにある。
 幸い(?)というべきか、日本はほぼ単一民族に近い国家である。
 そのため、モノカルチャー的な教育に国民の抵抗は少ない。
 国家の教育方針はほぼ成功し、大多数の国民はその恩恵を受け、豊かさを享受してきたのである。
 これまでの教育システムは、かかる意味において十分にその役割を果たしてきたと思っている。

 ところで、大量かつ均質的な人材を育成する目的は、大量生産に対応する人材を確保することにある。

 そのためには、創造的・独創的な人間より、組織に適合しやすい、型にはまった人間が好まれる。
 その教育方法が減点主義である。

 100点以上を取る人間は不要である。
 かといって、50点以下の人間も必要とされない。
 また、他の人と違うことは許されない。
 団体行動を取れない人間は、社会から排除される。
 戦前・戦後の教育基本法の本質は、創造的・独創的人間を育成することではない。
 個性尊重は建前にすぎない。
 戦後日本の教育基本法の思想は、大量生産向きの人間を育成するという意味で、どこかナチス時代のドイツの国民教育法に近いと聞いたことがある(誰か教えてくれるとありがたい)。

 話が少し逸れたが、減点主義教育の本質は、独創性・創造性の排除である。
 
 独創性・創造性は採点が出来ないうえに、上限が分からない。
 教育を受ける者の学習到達点が分からないと、教育の目標を定められず、結果として習熟度の測定もできないので、減点主義を採るしかないのである。

 減点主義教育の始まりは古いが、日本のお手本は中国の科挙である。
 これはまさに現在の公務員試験と同じである。
 そこで試されるのは、過去の記憶である。
 テキストは過去の塊であり、未来の記述はない。
 そして一番問題なのは、テキストに記載された過去は常に正しいという前提に立っているということである。
2013.09.28 10:11 | 固定リンク | 鑑定雑感
ホモ・エコノミクスとゴルゴ13 Vol.8
2013.08.15
VOL.08 ホモ・エコノミクスとゴルゴ13

 前述したように、標準的な経済学がその分析の基礎としている人間は、完全なる合理性を備えていることを前提としている。

 しかしながら、現実的には完全なる合理性を有するホモ・エコノミクスは存在しない。
 それは、あたかもゴルゴ13のように冷酷・非常で、かつあらゆる知識・技能・運動神経を持つスナイパーが存在すると仮定することと同じである。
 ゴルゴ13は仮想の劇画世界の人間であるから、不可能を可能とする人間離れした彼の活躍を安心して見ていられるが、実在する人物としたらこれほど恐ろしいことはない。

 標準的な経済学が想像したホモ・エコノミクスは、現実には存在しない。

 したがって、実在しない人間の仮想行動をもって現実の世界を説明しようとしてもうまくいかないのは、考えてみればあたり前の話である。

 鑑定理論はホモ・エコノミクスを前提としてる。
 しかし、いくら経験を重ね、勉強し、努力を重ねても、不動産鑑定士はゴルゴ13のようなホモ・エコノミクスにはなれない。

 不動産鑑定士が市場に成り代わって経済価値を判断するといっても、現実の市場で行動する人間はホモ・エコノミクスではない。

 前述したように、市場で行動する人間も、市場を外から分析する人間も、しばしば非合理的な判断や選択をする。
 行動経済学が教えるように、我々はこのことを十分に胸に刻むことが必要と思われる。
 「ヒューリスティクスによるバイアス」にみたように、実際の仕事にあたってこのようなことを考えることはなかったが、これまで漠然と抱いていた標準的経済学やこれを基礎とする鑑定理論の限界がかなり整理されたような気がした。

 今さらいかなる努力をしようとも、ゴルゴ13のようなホモ・エコノミクスになれないことは間違いない。
 したがって、常に非合理的な判断や選択をするリスクはつきまとうことになる。

 しかし、行動経済学は不完全な人間を前提として考えることにより、客観的な判断が可能となることを示唆している。
 ゴルゴ13になることは諦めて、遅ればせながら行動経済学を多少なりとも勉強し、「ヒューリスティクスによるバイアス」に陥らぬよう、そして少しでも客観的な判断や選択が出来るようにしたいものである。

(2008年8月 Evaluation no.30掲載)

2013.08.15 10:05 | 固定リンク | 鑑定雑感
ホモ・エコノミクスとゴルゴ13 Vol.7
2013.07.16
VOL.07 プロになるほど過信する

 この見出しも、同書より拝借したものである。

 不動産鑑定士もプロの端くれである。
 
 個人的には過信できるほど能力はないので過信することはないと思っている。
 しかし、こう考えること自体が既に大きな誤りがあることを、この本は教えてくれる。
 人間はそれほど完全ではないということである。

 つまり、データの出し方・見せ方一つで判断が変わるのである。
 生存率10%と死亡率90%の治療法のどちらかを選べと言われれば、普通の人は間違いなく生存率10%の治療を選ぶであろう。
 しかし、客観的に見れば、どちらの治療法も生存率は10%で、死亡率は90%で変わりないのである。

 ところで、同書によれば「大方のところ適切な判断を下す人は極めて少なく、一番多いのは自分の仮説の信憑性を常に過大評価するということである」と言っている。
 そしてプロ(エキスパート)の判断は、ときに深刻な問題になることがあるとして、次の例を挙げている。


 例えば、金融界では経験豊かな人ほど過大評価を抑えるどころかさらに高めてしまう。
 真のエキスパートほど慎重な判断をするものだが、自分の職業的能力の高さについてはプロほど過大評価する傾向がある。



 この指摘の説得力は、極めて高い。

 何故なら、あれほど安全・確実と言われた住宅ローンを証券化した金融商品が、実は危険性の高いサブプライムローンを主に組み込んだものであることが判明したからだ。
 そしてブームは呆気なく崩壊し、世界同時不況の引金となったからである。
 
 サブプライムローン問題が表面化するまでは、投資適格性はトリプルAであった。
 格付会社の専門家はプロである。
 証券化不動産はDCF法による収益価格で信頼性は高いと言っていた人がいるが、本当か?
 事実は冷酷である。

 評価のプロである不動産鑑定士も、よほど注意深く自分を見つめていないと、金融プレイヤーと同じ過ちに陥る可能性は高い。
 他山の石として肝に銘じたいものである。
2013.07.16 09:58 | 固定リンク | 鑑定雑感
ホモ・エコノミクスとゴルゴ13 Vol.6
2013.07.16
VOL.06 ヒューリスティクスによるバイアス

 前述のとおり、ある判断や選択に際して人間はヒューリスティクスを取りがちである。

 そして、ヒューリスティクスを取る際に気をつけなければならないのは、「ヒューリスティクスによるバイアス」があることだと指摘している。
 同書の引用が長くなるが、詳しく紹介してみたい。



 「ヒューリスティクスによるバイアス」の第一の要因は、「代表性」であると指摘している。
 そして「代表性」とは、「典型的と思われるものを判断の基準ないし答として転用すること」と定義し、「代表性ヒューリスティクス」にはいくつもの種類があるとし、下記の例を挙げている。

  ①妥当性の錯覚

  ②ランダムな事象に規則性を見つけようとする錯誤

  ③標本の大きさの無視

  ④平均値への回帰の誤った理解

  ⑤事前確率の無視等

 次に、第二の要因として、「利用可能性」を挙げている。

 利用可能性とは、思い浮かびやすさ、つまりある事象が起きる確率や頻度を考える際に、最近の事例やかつての顕著な事例と特徴を思い出すことで評価することとしている。



 実際に我々は、テレビや新聞等のメディアで大きく取り上げられると重大事件だと思ったり、高い確率で事件が起きたりすると勘違いする傾向があるが、これがまさに「利用可能性」によるヒューリスティクスのバイアスである。

 毒入りギョーザ事件が発生すると、ギョーザの売れ行きは激減した。
 確率は極めて低いのに。

 BSE問題はアメリカ牛の輸入規制問題に発展し、吉野家の牛丼が一時期店頭から消えたことは記憶に新しい。

 確率的には自動車事故の方がはるかに危険度が高いのに、自動車が生産禁止になることはない。
 冷静な分析より情緒的、センセーショナルなほうが説得力が高いのは哀しいことである。
 がしかし、それに振り回されている自分に気がつかないのはもっと哀しい。
2013.07.16 09:54 | 固定リンク | 鑑定雑感

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