取引事例比較法を考える Vol.1
2020.10.08
VOL.01 価格形成要因の価格決定に寄与する度合いは、すべて同じか?

不動産鑑定評価基準においては価格形成要因の定性的分析はなされているが、その要因が価格決定にどのように関与しているかについては記述がない。
各要因は全て同列に扱われており、どの要因が主要な役割をはたしているかについては触れていない。
通常の鑑定評価作業では各要因の寄与の度合いが解らないため、いずれも同じと推定して比準作業を行っている。

しかし、田舎と都会では接近条件の果たす役割は大きく異なっており、街路条件+10と接近条件+10とは同じ10%でも価格決定に対して寄与する度合いが異なるように思われる。

仮に、価格全体に対する寄与の度合いを街路条件が全体30%、交通接近条件が40%、環境条件その他30%とすれば、街路条件で+10%ということは+3%、接近条件で+10%ということは+4%ということになり、トータルでは+20%ではなく+7%ということになる。

消費者物価指数の算出においては、耐久消費財と食料品その他では物価に対する寄与の度合いが異なるとして、各品目毎にウェイトづけがなされている。

価格形成要因についても同じ事が言えるのではないかと考えているが、いまだに先が見えないでいる。
2020.10.08 10:04 | 固定リンク | 鑑定雑感
愚か者と軋み合わない世の中 Vol.6
2020.10.01
VOL.06 軋み合う社会と谷崎潤一郎 

 谷崎潤一郎の「刺青」という小説の冒頭の一文を紹介する。



 「其れはまだ人々が「愚(おろか)」と云う貴い徳を持って居て、世の中が今のように激しく軋み合わない時分であった。」



 個人的には、不勉強のせいもあって、未だこの小説の全文を読んではいない。

 しかし、この一文の出だしには正直言って衝撃を受けたので、この言葉を机の上に書いて貼ってある。
 時々この文を読んでは、ああ真理とは時代を超えて通用するものだとつくづく感じるのである。
 
 この小説は、明治43年11月の雑誌「新思潮」に掲載された処女作ということらしいが、明治も終わろうとするこの時代にこのような考え方ができた小説家の偉大さに感銘を受けた。

 愚かさを徳と規定し、小賢しく正義を主張するよりも軋み合わない世界は、いわば日本古来の大人の世界である。

 愚かさを徳と考え、一歩譲ることによりお互いに角突き合わせることなく生きることの心地良さ。

 悪く言えば現実逃避と非難されるかもしれないが、社会の中で声高に社会正義を主張しなければならない騒々しい世界にも正直いってウンザリしている。

 昨今は、クレーマーと称する理屈にもならない理屈を並べて社会正義を主張する者が多いが、谷崎潤一郎が今の世を見たら何と言うのだろうか。

 一般市民もマスコミも小賢しい理屈を並べて社会正義を振りかざすことが多いが、谷崎潤一郎が言った言葉を良く噛みしめる必要があるのではないかとつくづく思う今日この頃である。

 ところで、各種の偽装事件や料理の使い回し等はまだまだ沢山あって、報道されたのはホンの氷山の一角と思われる。
 戦後の昭和レトロの時代を過ぎ、平成の時代に入ってから人間の品格は格段に落ちたのではないかと考え込まざるを得ない。
 グローバルスタンダードの名のもとに、実はアメリカの一方的なご都合主義であったのに軽々しくアメリカの言いなりになり、金儲け至上主義が蔓延り、その挙句が各種の偽装事件である。
 お金のあることは良いことだと持ち上げられ、選挙に出た若者もいたが、持ち上げた大人の見識を疑わざるを得ない。

 質素倹約に励み、謙虚さを大事にした古き良き日本人はいったい何処に行ったのであろうか。

 この騒々しい世の中を見るにつけ、ゆとりのあるホットくつろげる時代がはたして来るのか悩まずにはいられない。(年のせいか?)

 個人情報に対する過剰ともいえる反応や、通り魔事件の増加・各種の偽装事件、更には無駄遣いに対する感情的過ぎるともいえる反応等、世の中は軋みに軋んでいる。

 それはあたかも耐用年数が尽きつつある木造家屋のようである。

 風が吹けば軋み、廊下を歩いても軋み、何時壊れてもおかしくない老朽家屋のように今の日本は軋んでいる。

 単に景気の良し悪しで片付けられるような状況ではなく、大袈裟に言えば日本の文化の有り様そのものが問われているような気がするのである。

 杞憂と笑われるかもしれないが、日本の将来を案じるこの頃である。

 最後に、ジャーナリストの徳岡孝夫氏が言っていた言葉が妙に胸にひっかかっているので、ご紹介する。読者の皆様も噛みしめていただければ幸いである。


 「私は愚か者であるから正義が行なわれる世の中より軋み合わない世の中の方が暮しやすい。」



(2008年11月 Evaluation no.31掲載)

2020.10.01 16:27 | 固定リンク | 鑑定雑感
愚か者と軋み合わない世の中 Vol.5
2020.09.24
VOL.05 批判と非難 

 批判とは、相手方の欠点や良くないことを示すものであり、論理の世界である。

 他方、非難とは相手方を感情的に、一方的に責めたり咎めたりする情緒の世界であり、本来的には両者は明確に区別されるべきものと考える。

 しかしながら、現実的には批判を感情ムキ出しにして行うことが多いため、批判された方はしばしば非難されたと思い感情的に対応することになる。

 日本人はどちらかと言えば「沈黙は金」という諺が示すように、相手方にあまりものを言わないことが美徳とされ、欧米人のようにディベートすることには慣れていない。

 したがって、批判的に議論をしようと思っても、感情的な非難の応酬になり、まともな議論ができない。

 批判する方もされる方も、批判と非難の区別がつかないため、喧嘩腰となり、ついには顔を見るのも嫌になり、良好な人間関係を築くことができなくなる。

 本当に困ったものだと思うのだが、今のところどうしようもない。

 筆者も、良い社会とはどうあるべきかと考え、色々とモノを言ったり雑文を書いているが、一部の人間には気にくわないと思われているようである。

 個人的には、情緒的に非難する心算は毛頭ないのであるが、あの野郎は面白くない、無責任にモノを言っているだけだと決めつけて陰で色々と噂を流され、人づてに噂を聞くのは哀しいことである。

 非難されたと思われている以上はまともに議論はできない。

 同じ日本人として寂しい限りである。
 
 いずれにしても、言論の自由は貴重であるから、感情に流されずに議論したいと思うのだが、はたして理性的に議論が出来る日は来るのだろうか。
2020.09.24 16:25 | 固定リンク | 鑑定雑感
愚か者と軋み合わない世の中 Vol.4
2020.09.17
VOL.04 社会不安と社会正義の実現 

 食品偽装・耐震偽装等、金儲けのためならば倫理観は不要とばかり、偽装大流行の時代となった。
 市場原理主義による負の遺産かもしれない。

 市場原理主義の行き着くところは、レツセフエール(自由放任)と思われるが、欲望の固まりである人間が皆でお行儀良く競争するとは思えない。
 古今東西、歴史が教えるとおり、ルールを厳格化しても楽をして儲けたいと考える人間は後を絶たない。
 市場原理主義で行くのなら、その前に人間の高度な倫理教育と厳格なルールが必要と考える。

 しかし、現在の状況下では望むべくもない。

 できることは、ルールの厳格化だけであるが、ルールを厳格化すると違反者が増加する。
 違反者を少なくするためには厳罰化が必要となる。

 昨今のように、事件報道が過熱するとルールの厳格化が声高に叫ばれ、社会正義実現のために厳罰化が求められる。

 しかし、人間は完全無欠ではない。

 自分の責任を棚に上げ、全て相手が悪いと非難しても解決しない。
 
 死刑制度廃止運動がある中での、一般市民による殺人事件の多発は止まらない。

 死刑制度が犯罪の抑止力になっていないとは、一体どういうことなのであろうか。

 死刑制度があっても無くても殺人事件が無くならないということは、厳罰化しても犯罪は無くならないということではないだろうか。

 とすれば、今必要なのはルールの厳格化や厳罰化ではなく、犯罪を誘発させる社会制度そのもののあり方を検討することではないかと考える。

 たとえが悪いが、害虫が発生するのは腐敗物質があるからである。
 殺虫剤を用意しても、害虫が発生する環境を変えなければ殺虫剤はいくらあっても足りないことになる。

 つまり、厳罰化でたとえ社会正義が一時的に実現したとしても、社会制度の根本を見直さない限り、次から次へと犯罪が起こり、収拾がつかないことになる。

 社会制度に対する不満は多様であるが、基本的には希望がないか、希望が見えないことによるものと考える。

 犯罪抑止を名目に個人情報の国家管理が進むと、戦前のように市民生活がコントロールされ、民主主義とは縁のない生活を強いられる可能性があるが、安全と安心のためにそれも止むなしということになるのだろうか。

2020.09.17 11:00 | 固定リンク | 鑑定雑感
愚か者と軋み合わない世の中 Vol.3
2020.09.10
VOL.03 情報管理社会とトレーサビリティ 

昨今、食品情報を中心にトレーサビリティが重視されている。

 つまり、トレーサビリティとはある食品等が何時・何処で・誰によって作られたかが追跡可能であることをいう。
 これからは人間も食品のようにトレーサビリティが可能となる日が近いものと思われる。

 つまり、生体埋め込み型のマイクロチップは既に開発され、利用可能な状態にあることから、人間に対するトレーサビリティが可能かどうかは国民的コンセンサスが得られるかどうかだけの問題となる。

 近未来を想像すると、人間は生まれたらすぐに個人情報を書き込まれたマイクロチップが体内に埋め込まれる。
 後は追加的に家族関係・金融・税・病歴・学歴等の個人にかかわる全ての情報がマイクロチップに記録される。
 その結果、国民は身分証明書・運転免許証・銀行通帳・パスポート等の所持が一切不要となる。
 更にマイクロチップにGPS機能が付加されると、辞書から行方不明という言葉が消えるかもしれない。
 このことによって迷宮入りの事件は激減し、振り込め詐欺等の見えにくい犯罪も大きく減少するものと思われ、犯罪抑止に絶大な威力を発揮することになる。
 安心・安全のために国民が個人のプライバシーの全てを国家権力に委ねるつもりなら、直ちに実行可能な方法であると思われる。

 今のところ、いくら不安な社会でもこのようなことを望む国民は少ないと思うが、社会が更に不安定化し、犯罪が増加或いは相互不信が増大するようであれば、国民の不安を取り除くために福田元総理風に言えば安心・安全な社会のために必要という流れになり、生体マイクロチップが体内に埋め込まれる日が来ないとも限らない。

 個人的には生体マイクロチップによって安心・安全な社会が来るという保証は必ずしもないと思うが、国家権力にとっては国民全てを監視下に置くことが出来ることから、こんな都合の良いことはない。

 ところで、一気に生体マイクロチップに行くことはないとしても、少なくとも車にGPS機能付のマイクロチップが搭載される日は近いものと思われる。
 車であれば個人情報とは直接的な関係は少ないので、生産時に搭載し、その後販売店で所有関係の情報を登録すれば後は交通管制センターで常時モニタリングできることになる。

 そうなると、盗難車輌の追跡や駐車違反・スピード違反の取り締りも街頭で行う必要性がなくなり、事故や犯罪等の抑止に絶大な力を発揮するものと思われる。

 案外、抵抗の少ないこのような情報から、国家管理が進むのかもしれない。

 国民は民主主義をマッカーサー(連合国)によりプレゼントされたため、本当の民主主義とは何か、またその有難さを理解することが十分にできていないと思われる。

 したがって、民主主義の根幹にかかわる情報統制・管理等の恐ろしさが理解できないでいる。

 戦前の情報統制の恐ろしさを知る人が少なくなり、安心・安全と引換えに情報統制・情報管理を受入れ、牧場の羊となる日が近いのかもしれない。
2020.09.10 16:12 | 固定リンク | 鑑定雑感

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