組織は最大犠牲点に向かう ― 本当は恐い日本人 ― Vol.3
2012.11.19
VOL.03 “村八分”という村の掟

 他者への目配りという日本人固有と思われる美徳も、集落における共同生活を乱す者には厳しい制裁が科され、美徳と対極の状態が出現する。

 集落における共同行為としては、

  ①成人式
  ②結婚式
  ③出産
  ④病気の世話
  ⑤新改築の手伝い
  ⑥水害時の世話
  ⑦年忌法要
  ⑧葬式
  ⑨消火活動

等が挙げられるが、そのうち放置すると他人に迷惑がかかる葬式と消火活動以外の交流を断絶するというのが“村八分”である、とされる。

 ところで、インターネットのフレッシュアイペディアによれば、「村落の中での掟や秩序は、どう法的・客観的で公明正大なものとは言えない。……こういった村八分行為は戦後になっても存続し、戦後で有名になった事件としては1952年静岡県富士郡上野村(現富士宮市)で起きた、参議院補欠選挙での村ぐるみの不正を告発した女子高生が一家共々村八分にされた事件がある」としている。

 当時筆者はまだ幼かったのでこの事件のことは知らない。
 しかし、根の深いところでは、団体構成員としての日本人の行動は民主主義とは相容れない、かなり怪しいものが見られるのである。

 前記の事件は戦後間もない頃なので、戦前の名残かもしれないと思っていたが、そういうわけではないようである。
 前記のフレッシュアイペディアによれば、「2004年に新潟県関川村沼集落に「おいて、お盆のイワナのつかみ取り大会の不参加をめぐって山菜採りやゴミ収集箱の使用禁じた村八分行為について、新潟地裁に提訴され、一審では村八分行為をした有力者に不法行為の禁止と220万円の損害賠償を命じている。有力者は東京高裁に控訴したが、2007年10月10日、東京高裁も地裁の判断を支持し、控訴を棄却している」とのことである。

 この村八分行為が全国紙の話題になったかどうか全く記憶がないが、よく考えてみると、この事件は日本人の倫理観・価値観に対する重大な警鐘であったと思わざるを得ない。
 マスコミはともすれば表面的・情緒的なことばかりを記事にしたがるが、日本人が本来持っているこのような危うい行動様式についてもっと掘り下げた記事を書いてほしいと願わざるを得ない。
 同和問題も案外これらの延長線上にあるのではないかと思っている。

 いずれにしても、東日本大震災において見せた日本人の美徳と思われる行動様式と、その対極にある村八分行為や同和問題に対する行動様式の相異は、一体何なのであろうか。
 一見穏やかで善良そうに見える日本人の心の奥底に、底知れぬ不気味さを感じるのは筆者一人なのであろうか。
2012.11.19 17:37 | 固定リンク | 鑑定雑感

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