疑似科学と反知性主義 ―鑑定評価の不都合な現実― ~ Vol.4
2023.09.28
VOL.04 鑑定評価と反知性主義
 これまで、鑑定評価のもつある意味胡散臭さは、科学性を粧った疑似科学性にあるのではと思ってきたが、それ以上に考えさせられたのが、佐藤優著「知性とは何か(祥伝社発行)」である。

 佐藤氏によれば、いま日本には「反知性主義」が蔓延しており、政治エリートに反知性主義者がいると、日本の国益を損なう恐れがあると警鐘を鳴らしている。

 筆者は、政治エリートでも何でもなく、一介の田舎の資格者にすぎないが、日々の実務を通じて、如何に反知性主義的に業務を行ってきたかを知らされ、愕然とさせられたのである。

 佐藤氏の言葉によれば、『反知性主義とは、実証性や客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲するように世界を理解する態度』であるとしている。前述したように、疑似科学的態度に終始している我が業界は、まさしく実証性や客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲するように鑑定業界を理解しているので、その意味においては、鑑定評価のプロセスそのものが反知性主義に染まっていると批判されても、弁解の余地がないように思われる。

 我々が普段接しているデータも、実証性があるかと問われれば、自信が無いのである。

 鑑定評価の結果にしても、評価者自らが客観的であると主張しても、そもそも客観的であるか否かは第三者の判断によって成立するものであって、評価行為の当事者がいくら客観的と主張しても、誰も信じてはくれない。

 舛添東京都知事が、仲間うちの弁護士を第三者として政治資金の検証をしたといっても、都民は納得しないのである。

 鑑定評価の結果を利用者が信じてくれたとしても、それは国家試験という国家の権威に寄り添っただけで、社会一般の審判を受けることになれば、どうなるのかは解らないのである。

 事実、訴訟鑑定の世界では、原告又は被告側の鑑定評価書は、全くと言っていい程信頼されていない。

 裁判所は、原告又は被告側が作成した鑑定評価は、私的鑑定とし、依頼者の意向が反映されているからと考え、採用することはほとんどなく、鑑定評価が必要となれば、裁判所が鑑定人を選任し、その者に鑑定させることが一般的である。

 鑑定世界がこういう世界になっているのは、評価そのものが疑似科学的であり、実証性や客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲する形で理解しているのではないかという批判に有効に対応できない、あるいはしないという、まさに反知性主義にドップリ漬かっていることにあるのかもしれないと考えられる。

 佐藤氏の言葉を借りれば、筆者は少なくとも反知性主義の一人であったと思わざるを得ないが、今頃気がついても遅いということかと考えさせられたのである。

 反知性主義者は、反知性主義であるが故に、実証性・客観性を軽視もしくは無視しているので、事実に基づいた反証を受け入れようとはしない。鑑定業界も、閉ざされた世界観の中で自己充足しているので、外部世界との接触が不十分で、接触があったとしても、特有の世界観で自分の欲する形でしか理解しようとしない。そのこと自体は社会からの認知度が、鑑定制度発足から50年も経つというのに、サッパリ上がっていないという事実で証明されている。
2023.09.28 12:01 | 固定リンク | 鑑定雑感

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