疑似科学と反知性主義 ―鑑定評価の不都合な現実― ~ Vol.3
2023.09.21
VOL.03 疑似科学とは
 『科学的方法とは、経験される規則的なパターンから法則を見出して、社会で活用することである。
  不確実なパターンがデータの収集・分析によって確実な法則になり、それらが組み合わさって理論になる。』(前書138頁より引用)としている。

 鑑定評価理論もそうであって欲しいと願っているが、行動経済学的にいえば、人間の主観的感情が大きく反映されやすい不動産市場においては、更に遠い道のりということになるのではと思っている。

 大半の不動産は商品として仕入れている訳ではないし、年代・経済力・地域・利用目的・法人か個人かによっても不動産に対する考え方が変化する。

 更に厄介なのは、不動産を売買する動機が多種多様であって、法則性を見出すことは困難と考える。

 実際の取引データを見ても、隣同士・向かい同士で倍違う取引もあり、取引当事者の影の事情も垣間見えたりして、一筋縄ではいかないのである。

 この生データに評価者が手を入れ、自分の都合の良いストーリーに仕立てあげるのが評価の腕の見せ所となっているが、生データ一つ一つの信憑性を検証していたら、いくら時間があっても足りない。

 評価報酬は入札により、派遣労働者並になっているご時世に、膨大な時間と費用をかけて分析する時間的・経済的余裕なんかどこにもありはしないのに、あたかも科学的に分析・検証をしたかのような体裁を整えるため、世間はますます誤解するが、そのうち公表された公的評価と大差がないと解ると、鑑定評価の有難みは薄れ、仕事は消滅する。

 事実、低料金で一世を風靡した簡易鑑定と称する低料金鑑定も減少し、生活に苦労する鑑定士も増加しつつある。

 それでも何とか制度が保たれているのは、税金にパラサイトした公的評価という棚ボタ仕事があるからである。


 話がズレてしまったが、時間軸も地理的軸も取引当事者軸も極端に異なる不動産市場で生起する取引は、取引当事者にとって人生1回限りのことが多い。

 現場における実感からすると、1回限りの取引が多数あっても、説明が困難な程バラツキが大きく、因果関係の法則性を見出すことはできないと思っている。

 法則性があるのなら、我々はとっくに失業しているはずであるが、まだどうにか失業しないでいられるということは、法則性を見出すことができていないという証拠でもある。

 いずれにしても、生データに直接手を入れ、都合の良いシナリオに仕立て上げ、結果として説明はできるかもしれないが検証はできないので、評価者の数だけ異なる価格が提示される。

 にもかかわらず、安い費用で評価する者を選定する入札方式は、つまるところ発注者側で既に必要とする価格が解っているから、評価をチェックすることができるので、安い費用で評価書という書類を書いてもらえばいいということではないかと考える。

 言葉を換えれば、責任逃れのために必要ということであって、価格が解らないから依頼するということではないことになる。

 いくらもっともらしく計算してみても、売れない・買えない価格が適正価格ということにはならない。

 市場で受け入れられない価格でも適正だというのなら、市場で成立する価格は一体何の価格なのであろうか。

 良く考える必要があるのではないかと思っている。

 鑑定評価そのものは科学的に見えるかもしれないが、検証可能性がなく、立証・反証ができないので、疑似科学が入りやすく、科学との識別が難しくなっている。

 科学は予測と検証のサイクルから成立しているが、鑑定評価そのものは1回限りであることがほとんどであるから、予測と検証のサイクルは確立しているとはいえず、疑似科学に近いということになる。

 鑑定評価という疑似科学をもっともらしく見せるための制度、言葉を換えれば権威づけるのが資格制度といったら言い過ぎであろうか。

 ところで、同書によれば、疑似科学には次の三つのタイプがあり、このタイプごとに疑似科学への対処方法を考えることができるとしている。

 ①第一種疑似科学:占いや心霊主義など、精神世界に端を発したものが、物質世界とかかわり科学的装いをまとったもの。
 ②第二種疑似科学:サプリメントや性格診断のように、根拠のない「科学的効果」をもとにビジネスをするもの。
 ③第三種疑似科学:異常気象や地震予知、政策の効果や経済変動など、複雑であるがゆえに科学的に究明しにくい現象を、あたかも原因がしっかりしているかのように自説を展開するもの。

 以上の分類に従えば、鑑定評価は第三種疑似科学に分類されるものと考えられるが、第三種疑似科学に対応するには、科学の進展段階に応じて「科学的成果」が変わりうるものであると認識するのが良いとしている。

 また、科学であることの条件として、次の四つの条件が表示されている。

 ①理論が満たすべき条件
 ②データが満たすべき条件
 ③理論とデータの相互作用や満たすべき条件
 ④社会的な営みのうえで満たすべき条件

そして、①理論が満たすべき条件として、イ.論理性 ロ.体系性 ハ.普遍性が必要とし、②データが満たすべき条件として、イ.再現性 ロ.客観性が必要としている。

 不動産の取引価格は、前述のように再現性がないか、再現性に乏しく、収集された取引価格は、アンケートや聞き取りによるもので、事実かどうか確かめようがないので、データの客観性には疑問符がつく。

 特に土地・建物一体としての取引を担当者が配分法によって区分したものは、データではなくその担当者の意見であって、これを客観的データとして取扱うことには、違和感を覚えるのである。

 データに他の人が手を入れて作り変えたならば、最早データとはいえないということを肝に銘じるべきであろう。

 このようなことについて、きちんと議論をしない鑑定業界の闇は深い。

 せめてもう少し地に足の着いた科学的態度がとれないのかと思うのであるが、歯止めが効かない現実に、茫然自失するより他はない。

 次に、③として、理論とデータの相互作用の満たすべき条件として、イ.妥当性 ロ.予測性が挙げられているが、鑑定評価における予測性については、予測可能な理論がないので、データによって検証できないため、鑑定評価は科学としての条件を満たしていないことになる。

 最後に、④として、社会的な営みのうえで満たすべき条件として、イ.公共性 ロ.歴史性 ハ.応用性が挙げられている。

 公共性については、データの収集や測定方法が明瞭にされているか、理論やデータを評価するための社会的にオープンな仕組みが設けられているか、理論の前提やデータの収集方法を無批判に信じる構図はないか、などで評価されるとしているが、この定義に従えば、我が業界は残念ながら公共性に乏しいと言わざるを得ないことになる。

 以上、苦言に満ちた内容になっているが、心ある人は、せめて石川幹人先生の著書である「なぜ疑似科学が社会を動かすのか」を一読して欲しいと願わざるを得ない。
2023.09.21 15:33 | 固定リンク | 鑑定雑感

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